銀座出版社版(ひらがな・口語体) |
創元社版(カタカナ・文語体) |
軍艦大和 吉田滿 一 昭和二十年四月、少尉として乘組んでゐた。配置は電測士乙(副電測士)甲は大森中尉。 二日、大和は、呉軍港の碇泊地最外廓に打たれた二十六番ブイに繋留中。ドツクの整備を待つてたゞちに入渠し、出動に備へて、艦内外部の修理と兵器の増備を行ふ豫定であつた。 早朝、突如、艦内スピーカー。「〇八一五(八時十五分)ヨリ出港準備作業ヲ行フ 出港ハ一〇〇〇(十時)」 かくも不時の出港は前例がない。されば待望のときか。 通信士からは緊迫した信號の動きを傳へてくる。われわれを待つものは出撃のほかにない。 入渠整備の豫定と稱しての碇泊も、眞實は發動の僞裝であつた。 あゝいかにこの時を、この時をのみ、期して待つたことか。 出撃こそその好機。 また出撃は、晝夜の別も寛嚴のけじめもない猛訓練を一擧に終止させ、そこからわれわれを解き放つてくれる。 ☆ 待望の時。 米軍が沖繩の一角に上陸してから十日を經ぬころである。作戰はその方面に向ふものに相違ない。 噂がさゝやかれる――關門海峽を通過し、佐世保か釜山で重油を補給して一路南に向ふか。或ひは、豐後水道を堂々直進するか。――さゝやきはたかまり、ひろがつてゆく――作戰海面はどこか。 大和に從ふ僚艦は何々。艦隊編成如何。南海に決戰場を求め一擧に雌雄を決するのか。――喧々囂々 その聲を壓して艦内スピーカーが凛とひゞく。 「各分隊、可燃物ヲ上甲板ニ出セ」 「各自ハ身ノ廻リ整理ヲナセ、終レバ私物ヲ水線下ニ格納セヨ」 「艦内警戒閉鎖トナセ」(浸水および火災防止のため通路のハツチも各室の扉蓋も嚴重に閉鎖する) 「陸上ヘノ最終便(連絡艇)ハ〇八三〇(八時半)ニ出ス」 「艦内閉鎖ハ各分隊長點檢セヨ」 命令號令が亂れとぶ。 時が追ひ拔くやうに流れ去る。 陸上への最終便の短艇指揮を指命され、第一波止場に向ふ。 全天、薄雲に蔽はれ、海面は煙り、睡るやうな軍港街は全く平生とかはらぬ姿である。 波止場に着き、所用を達したのち、三度上陸場附近を點呼して、未乘艦者の殘留してゐないことを確かめた。出撃に際して出港におくれゝば銃殺が例である。 これが俺の足の踏むさいごの土か、ふとそんなことを思ひ浮かべる。 歸艦後即刻とりこめるため、短艇揚收準備を急がせながら返路を大和に向ふ。微風がこゝろよい。 大和は外舷をくまなく銀灰色に塗粧した直後で、四周を壓して磐石の如く横たはつてゐる。 大和に近く投錨した矢矧(新型巡洋艦)から、「出撃準備ヲ完了シ……」と發光信號を點滅させてゐるのがよめる。生氣を匂はすやうにそれは閃いて見えた。 ひそかに歡聲が湧きあがつてくる。 すべてたゞこの機に備えて來た、まさにその時。快哉―― 歸艦してもいま更ら身の廻り整理の要もない。そのまゝ出港準備作業にとりかゝる。 十時、大和はしずかに前進をはじめた。出港は呉軍港内に大和一艦のみ。ひそかな、しかし悠容たる出陣。 碇泊する僚艦からは、千萬のまなこが無言の歡呼をこめて注視してゐる。それが痛く胸を射る。 われらこそかれらの輿望を切に擔ふもの。 一兵にいたるまでも誇らかに胸を張つて甲板に整列する。 想へば巨艦の、往つてふたたび還らぬ最後の出撃であつた。 各電探兵器の作動良好を確かめ、分隊長に屆ける。 つねのごとく途次、訓練を反覆しつゝ周防難に向ふ。 艦長は幕僚と、艦橋で作戰討議をたゝかはせてをられる。海圖臺のわきには、赤表紙の分厚な書册が置かれ、背文字は太く「天一號作戰關係綴」と讀まれる。 「天」號作戰とは、回生の天機といふ意味でもあらうか。 海圖臺には、沖繩本島周邊のもつとも詳密な海圖數枚が用意され、その上に、大和主砲の射程、四十粁(十里)の縮尺目盛に合はせたコンパスが、米軍の上陸地點を中心に弧を描く。かはされる言葉は少いが、コンパスを握る指の爪は、こもる力に白く濁つてゐる。 薄暮のころ入港して、三田尻沖に假泊する。大和の通過できぬ狹水道を經て先廻りした驅逐艦が、すでに數隻入港してゐた。 この錨地に結集し一時投錨して、陸上との交通を絶つたまゝ出動の命を待つ。 僚艦がそれぞれ別個に呉を出港してきたのは、機密保持のためである。 こゝに戰備を整へつゝ機の熟するのを待つあひだ、しばしの休息に回天の英氣を養ひ、白日の心境に必死の鬪魂を磨かうとする。 總員集合、令達。戰鬪服裝に身を固めた三千の乘組員は、無氣味な靜肅をたゝえて密に整列する。 艦長は、本作戰の目的、大和の使命を述べられ、總員の奮起を切望された。 米機動部隊が近接し、明早朝來襲の算大、との情報が入る。身うちがひきしまる。 戰鬪服裝のまゝ寢につく。心ははやるが、思ひ切り熟睡する。 三日、早朝、豫期したごとく米機來襲の報。配置に就く。 急速出港、第二警戒航行序列に散開する。(警戒航行序列は、各艦の位置を、警戒および防禦に適するごとく定めて航行する對勢をいふ。第一序列はそのうちの防空對勢)。 スクリユーを廻はす機關は停止させてあるが、不時の來襲に即應するため、機械も鑵も煖めて、ただちに機動出來るごとく待機しつゝ漂泊せねばならぬ。 出動は米機動部隊の避退後であらう。焦つてはならない。「時」をこそ捉へねばならぬ。 午前、B29一機が盲爆をおこなつた。中型爆彈一箇を投じたが、損害はない。 だが寫眞偵察を敢行したのではないか。本艦隊の動向すでに蔽ひ切れぬのか。 午後、内地の各地が猛烈な空襲にさらされてゐると、情報がしきりに入る。(しばらく待つてくれ、もうすこし……われわれが出撃さへすれば……)心のうちに叫びつゞける。 日の落ちるのを待つて、昨夜投錨したその同じ錨地に假泊する。 この非常のときに、數日前卒業したばかりの新候補生五十餘名が、大和乘組の光榮に頬を紅潮させ、大發(木造艇)を横付けに乘艦してきた。そして直ちにいく組かに分れて艦内見學をはじめた。 かれらが眞の戰力となるのはいつの頃か。 通信科の敵信班が、米機間の緊急電報をぬすみ、即刻飜譯して、「機動部隊ハ明日一日各地ヲ空襲ノ上、東方ニ避退セン」と情報を屆けてくる。 いよいよ出撃も近い。 夜食がなんとうまいのか。 快的に熟睡する。 四日、早朝、米機來襲の報。配置につき、出港して漂泊をはじめる。 年前午後、前日と同樣、滿を持して警戒する。 驅逐艦「響」が、漂泊中觸雷した。ひそかに米機から投下されてあつた機雷の、作動圈内に入つたものであらう。被害は比較的輕微であるが、鑵に損傷を受けたため航行不能に陷つた。驅逐艦「初霜」が曳航して呉に回航することにきまる。 艦長から「士氣をいかに振作するかについてはかられる。 呉を出港してからほとんど緊急配備のため、傳統の猛訓練は止むを得ず中絶されてゐた。三日間の休養により兵員の體力はやゝ恢復したが、あの積日の過勞はなほ挽回されるに至つてゐない。だが訓敵中絶による氣力の弛緩をこそ戒しめねばならぬ。 艦長は結論を出された。「明日ヨリ警戒配備ノマヽ綜合訓練ヲ強行セン」 米機動部隊がわが出動を牽制してくるとき、最善をつくしてこれに對さねばならぬ。訓練再開による士氣昂揚。 夕食後巡洋艦「矢矧」から、第二水雷戰隊司令官が來艦され、司令長官と要談される。作戰の詳細な檢討か。 艦内、きはめて平穩。 通信參謀から、「艦隊各艦アテ書類アルユエ二一〇〇(九時)短艇用意セヨ」と命達され、艇指揮の指命を受ける。 艦橋にのぼると、星なき暗夜に、本日の空襲により炎上中らしい微光が二點みとめられる。遠からぬ陸岸か。 用命を圓滑に達するため、各艦の假泊隊形、風向風速、潮、海圖を確かめ、手帳にしるして舷門におりた。豫想所要時、二時間半。 使用艇はなじみの一號大發、艇長は手練の椙本兵曹。 まさに絶好の夜間短艇達着訓練といふべきか。乘艦當初、今日に備へて連日の黎明達着訓練が。重ねられたことを想ひうかべ、感無量。 艇長も艇員も終始默々として一語を發する者もない。 散開して假泊する各艦を一順すると、いづれも暗黒の洋上に、動かぬもののごとく鎭坐してゐる。そこに、つゝしみ睡る無數の毅魂。 歸還して、任務完了を通信參謀に屆ける。十一時半を過ぎてゐた。 すでに一點の微光もない。眞の暗夜。 寢室の机に向つて、一日の電測訓練記録を整理する。終つて瞑目、少時。 やがて春陽も近い。 わが迎へる春はいづこの春か。 五日、午前、砲術長から、電測時訓練に關して照會がある。電探大標的を、「矢矧」に曳航させるとき、射距離、曳索長をいかにすべきか、と。 昨日の決定に基き、艦内各部の訓練が再開され、綜合應急訓練は熾烈を極める。艦長は徹底的に缺陷を指摘し、反覆訓練をつゞけられる。 錬度いまだ充分でなく、完全なものは何一つない。艦橋は痛烈な叱聲であふれ、殺氣がみなぎつた。 午後、米機動部隊避退、の報がとゞく。 沖繩の戰況に關し大本營發表がある。刻々に切迫の度を加へてゐる。 胸中に火が走る。 訓練の合間、艦橋で休憩中「櫻、櫻」と叫ぶ聲。見れば三番見張員が、見張用の眼鏡を陸岸に向け目を當てたまゝ片手をあげてゐる。 早咲きの花か。 先を爭つてその眼鏡にとりつき、こまやかな花瓣のひとひらひとひらをまな底に灼きつけようと、瞳をこらした。霞む眼鏡の視界のなかで、この見收めの内地の櫻は、誘ふやうに絶え間なく搖れてゐた。 二 一次室(青年士官室)で、戰艦對航空機論がたゝかはされる。戰艦必勝論、絶無。 夜、五時半頃、突如として艦内スピーカーが、 「候補生退艦用意」 「各分隊、酒ヲ受取レ」 「酒保開ケ」 と矢つぎ早やに令達する。いよいよ出動準備か。 候補生の退艦用意はきはめて迅速。完了をまつて一次室に招き別盃をかはす。 航海士鈴木少尉が乾盃しようとして、盃を手からすべらし、床にくだけ散らした。顏色を失ひ、一瞬悄然とうなだれた。 不吉な兆しだといふのか、この期に及んで、凶兆におびえるとはどうしたことか、そんな輕悔の視線がしたゝかにそゝがれた。 だが蔑視する者、貴樣らは何を恃むのか。何に依つて、平靜を保つのか。 たゞおのれの死に、何か一片の特殊をねがつてゐるに過ぎぬのではないか。異常なものを空に描き、その異常の故の亢奮に縋つてゐるのではないのか。 われを迎へるものは、まさしく死。あの唯一の、しかもあやまつことのない死にほかならぬ。 この平凡極まる死を、よく受け入れる用意があるといふのか。 鈴火少尉とそむしろ眞率に、死の正體に眼覺めたといふべきではないか。 直觀せねばならぬ。おのれを詐つてはならぬ。 誰の盃もひとしく微塵にくだけてゐる。たゞこのしばらくを、もろ手に支へてゐるに過ぎない。 死はも早や眞近に明かにあり、さへぎるものも、のがれるすべもない。 死に面接し、死を捉へぬばならぬ。死こそ眞實に堪へるもの、いな、眞實を強要するもの。も早や僞る餘地はない。 いまにして、耳目を掩つて死にむかはうと、酒氣を招かねばならぬとは。 この俺に缺けたものは何か。この弱さは何なのか。 甲板士官江口少尉が、出動前夜の最後の無禮講を控へて、なほ精神棒をふるひ、兵の入室態度を叱正してゐる。 老兵が一人怒聲で叩かれ、眸を殺して魯鈍な動作をくり返してゐる。 苦痛の表情さへ失つたあの老兵も、一日後のわがいのちを知らぬわけはない。そのことを思ひ浮かべても見ないのか。考へつきて惱み呆けたのか。 おそらく彼の息子にも年の近い若輩の江口少尉、その氣負つた面貌にあふれるものを、覇氣とよび、軍規ととなへるべきか。 一次室から、所屬分隊の居住地へ遠征。痛飮快飮を重ねる。 出撃。斗酒なほ辭せず。 乘員三千、すべて戰友、一心同體。 廊下で少年兵に遭ふ。一面識もないが、童顏に、微醺のせいか、紅く稚氣をたゝへてゐる。 きびしく答禮を返し、身をかはさうとすると、閃めくもの――俺たちの墓場はお互ひに遠くはないのだ。俺たちは、ひとつのむくろ――肩をかゝへて、「お前」と叫んでやりたい衝動を辛うじてこらへる。 十一時、副長がみづからスピーカーを通じて、「今日ハ皆愉快ニヤツテ大イニヨロシイ。コレデ止メヨ」と親しく、つよく命達された。 血の氣が顏からひき、肩から腕が痙攣する。叱聲、怒聲がとび散り、ひろがつて壁にひゞく。 この胸のうちに、疼いてゐたあの心は、はたとまなこをとぢた。 六日、○時、驅逐艦一隻づつを兩舷に横付けさせ、全力をもつて、急速燃料搭載、不要物件卸し方の夜間作業を行ふ。 月明の夜、出撃の氣は艦内に漲る。 一時頃、B29一機、大和の眞上を通過。「作業ソノマヽ、對空戰鬪配置ニツケ」の命令。しかし高々度のため發砲せず。 大和偵察の執拗さに齒ぎしりする。 二時頃、驅逐艦に移乘して、候補生たちは退艦して行つた。なほゆたかな春秋に富む龍駒を、この決死行に拉致するには忍びない。 大和乘組はかれら宿年の夢想であつたらう。いま出撃といふこの時に、果たしかけた夢を、なげうたねばならぬかれらの心中を想ひやつた。前途よ、洋々たれ。 最近に、他の艦船に轉勤の命令を受けてゐたものは、この機會に退艦する。渡された横木の上を驅逐艦に移乘してゆくかれらのまなじりには、さいごの時に戰友と訣れねばならぬ無念さもうかゞはれるが、それを見送る甲板上の眸に浮く羨望の色もかくしがたい。 こちらは死におもむくもの、かれらはともかく安きに身をかはす者である。 戰鬪に堪へぬ重患者も退艦をゆるされた。足手まとひである。 四十を過ぎる程の老兵は如何にすべきか。いくさの用には立たず、その家族の上なども思ひ合はせて、この際死出の旅から免れさせることをわれわれ青年士官は艦長に具申したが、幹部協議の末、一部の退艦がゆるされた。 かれらを見送る頃、不要物件卸し方の作業も終了する。 大和は刻々に身を固め、戰ひの裝ひをとゝのへる。 未明、熱料塔載作業終了と同時に、兩側の驅逐艦の横付けを離す。 矮小な驅逐艦の重油搭載量はいか程のものか。しかもその提供を受けて、辛うじて大和の巨躯が油でふくらんだ。 恐らくは艦隊保有量の底をはたいての補給であらう。明日からは驅逐艦の鑵は干あがるか。それらを米機は高空から仔細に偵察してゐる。 朝、スピーカーは舟出の氣勢をこめて、「出港ハ一六〇〇(四時)、總員集合ヲ一八〇〇(六時)ニ行フ、前甲板」とつたへる。艦内の閉鎖状況が重ねて點檢される。 異常な緊迫を目前に控へた、一種氣づまりな無聊にいつか落ちこむ。と、「郵便物ノ締切ハ一〇〇〇(十時)」スピーカーが流れる。 郵便物の締切、何の締切か、俺のこの手で書く文字の終止符。 氣が進まぬが、皆はげまし合つて家にしたゝめようとする。これが遺筆だと知りつくしてゐては筆が走らぬ。だがこの俺の手の一文字をも心待つ人たち。その心に報いねばなるまい。しかし――母の悲しみをどうしたらいいのか。ひたぶるに、はてもなく悲しんでくれる母。さうにきまつてゐる。この歎きを、先立つ俺が少しでも慰めてあげるすべがあらうか。いささかでも、この身に代つて背負ふすべもあるといふのか。 ない。ないのだ。ないとすれば、何一つお返しもせずに先立つて死に果てるとの俺の不幸を、どうして詫びたらよいのだ。いかにして報いたらよいのだ。 ――いな、おもてをあげよ。涙をぬぐへ。俺はも早やたゞ出陣の戰士。すでにあるは戰のみ。母を想ふな。打ち伏すおくれ毛を想ふな。 たぐひなく勁い肉親の愛は尊からう。がそれにつきない。より大いなるもののために斷ち切るとき、いやまさる眷戀の情は、さらに尊ぶに値しよう―― わが身を鼓舞しつゝやうやく筆を進める。「私のものはすべて處分して下さい。皆樣ますますおげんきで、どこまでも生き拔いて行つて下さい。そのことをのみ念じます」これ以上、書くことばもない。 ――あゝ、これをよむ人、母上、そこひもない嘆き。泣かれもしよう、喚かれもしよう。私は、默つて、俯して、死んでまいります。いまはこの死が、實りゆたかなものであることを、願ふのみです。幸ひ私の死がそのやうにめぐまれたものであつたら、どうかよろこんで下さい。祝つてやつて下さい。私はたゞ、ひたすらに死の途を歩みます。 讀む人の心の肌にふれる思ひで、よみ返すことができず、郵便箱に押し入れると、私室をのがれ出た。 これで、あの親しい人たちと俺とを、うつし世に結ぶ一切のものは失はれてしまつた。俺はいまそのことを知つてゐる。あの人たちは知らない。 だがいつの日かは知られるだらう。 知り給ふ日、この身はすでに亡いとすれば、も早や再び、あの人たちと心ふれ、魂を合はすことは出來ぬのか。 一次室に集合し、恩賜の煙草、酒保の支給を受ける。 哨戒直や航海科の當直員にあたつてゐて、いち早く配置に就く者がある。かれらはいづれも純白の風呂敷に清裝一揃へを包み、軍刀をひつさげて閾に立ち、踵を揃へて默禮すると、身をひるがへして去つてゆく。 見送る戰友の口から、「げんきでやれよ」「貴樣らしく死ね」、と餞けのことばが飛ぶ。怒つたかれらの肩は、この荒つぽい別辭を浴びて消えていつた。 血肉をわけ合つたほどに交りの濃い戰友たち、その訣れにも、肩を叩いたり手を握つたりする者はない。一見固いこの一瞬の底にこそ、かけがいのない者との訣別にふさはしい、何かが流れてゐるのであつた。 前後二回、B29一機づつの高々度偵察。 三 午後、出港準備作業。ゆくてに入港を約束せぬ出港である。 身の廻り品を、定められた配置、前檣(前部のマスト)頂上に近い上部電探室に置く。これよりいかなることがあつても、配置を下ることはない。 兵器の作動、極めて良好。 大軍艦旗は翩翻とひるがへつてゐる。 大和はほゞ戰鬪準備を完了した。 四時、出港、旗艦「大和」第二艦隊司令長官坐乘。これに從ふもの、九、「矢矧」「冬月」「涼月」「雪風」「霞」「磯風」「濱風」「初霜」「朝潮」 日本海軍最後の艦隊出撃であらう。選ばれた十隻。 哨戒直に立つ。艦橋(艦の心臟且頭腦)に勤務して、艦内各部の見張員を掌握し、その報告を取捨選擇して、艦長以下の各幹部に復誦し直結するのを任務とする。 左に司令長官(中將)、右に參謀長(少將)、新參の學徒兵として、この身の幸運を想ふ。 原速(十二ノツト)で悠々豐後水道を直進する。 矢は弦を放たれた。 六時、總員集合。最後の總員集合であらう。 散れば二度と會することはない。たゞ渾然の氣魄に結ばれるのみ。 大和は舷側に横波を蹴立ててひたすらに進む。左右の僚艦の艦尾を噛んで白波が數條耀く。いまこそわれらを貫くひとすじのものが、この潮流をおかして驀進する。その途はわが生の有終を飾るべき場、また必定の死につらなる場でもある。 作戰がすでに發動したため、艦長は指揮所、艦橋を離れられることがない。副長が代つて、聯合艦隊司令長官から艦隊に宛てた壯行の詞を達せられる。本作戰をして戰勢挽回の天機となさん、と。 君が代奉唱。軍歌。萬歳三唱。 清明な月光、遙かに仰ぎ見る前檣頭、いまさら何をいふことがあらうか。 解散して、一番主砲右舷のハツチを下りようとすると、前方の錨甲板に佇む士官をみとめた。月に冴えた頬に、濃く影を落とした太い眉、森少尉である。闊達な人柄と艦内隨一の酒量できこえ、またその美しいいひなづけを以て鳴る彼。 暗い波間に投げてゐた眸をこちらに返すと、耳元に口を近づけて怒つたやうに言ふ。「俺は死ぬからいゝ。死んでゆく奴は仕合はせだ。俺はいゝ。だがあ奴はどうするのか、あ奴はどうしたら仕合はせになつてくれるのか。……きつと俺よりもいゝ奴があらわれて、あ奴と結婚して、そしてもつとすばらしい仕合せを與へてくれるだろう。きつとさうだ。……俺と結ばれたあ奴の仕合はせはもう終つた。俺はこれから死にに行く。だからそれ以上の仕合はせをつかんでもらうんだ。もつといい奴と結婚するんだ。その仕合はせを心から受ける氣特になつて欲しいんだ。 俺は眞底悲しんでくれるものを殘して死ぬ。俺は果報者だ。だが殘された奴はどうなるのだ。いい結婚をして仕合はせになる。俺はそれが、それだけが望みだ。あ奴が仕合はせになつてくれたとき、俺はあ奴のなかに生きる。生きるんだ。だがこの俺の願ひをどうしてつたへたらいゝのか。別れてくるとき、自分の口からもくり返し言つた。それからも、何度となく手紙で書いてきた。俺を超えて、仕合はせを得てくれ、それだけがさいごの望みだと。……しかしそれをどうして確かめるのだ。あ奴が必らずそうしてくれると、何が保證してくれるんだ。祈るのか。祈らずにをれない、この俺の氣持は本當なのか。たしかなのか。そして、たゞ祈るだけでいゝのか。自分を投げ出して祈ればそれでいゝのか。どうかあ奴にまできこえてくれと、腹の底から叫ぶしかないのか」 あらいその聲に涙はない。涙のゆとりはない。彼は切願のあまり、眞實怒りにせきこんでゐる。 怒りを吐きつゞける彼、うなづきつゝことばもない自分、この二人を蔽ふものは、これが見收めの澄んだ月空。二人の足を支へるものは、今夜かぎり二度と踏むことのない、堅い大地のやうな最上甲板の觸感。 いひなづけの方、あなたはこよなき愛を獲られた。 彼の全心こめた祈りは、きゝいれられるだらうか。ききいれて下さるにちがひない。 彼は怒つたまゝ口を結び、凝然と波頭にみ入つてゐる。漆黒の波間に、はかなく、またたくましくくだける銀白の波頭。 この目に涙が滲んできて、顏をそむけた。風が頬の涙をつめたく吹き過ぎる。 好漢森少尉、あすは貴樣も天晴れのはたらきに散り果てるか。 立ちつくす彼の肩を突き放すと、「ハツチ」に走りより、ラツタルを駈けおりた。 も早やすべては定まつてゐる。いかにせんすべもない。かれは祈り、ひたすらに祈るだらう。そして散華する。その人が祈りにこたへる。そのやうにしかならぬ。ほかに途はない―― なにか憤ろしく、床さへ踏み拔きたいもどかしさで走りつづけた。 たゞちに配置に就く。 艦橋で作戰談をきく。本作戰は、沖繩の米上陸地點にたいするわが特攻機の攻撃と不離一體の作戰である。過量の炸藥を裝備した鈍重な特攻機にとり、優秀な米戰鬪機の邀撃はまさに致命的である。だが尋常ならばその猛反撃は必至であり、特攻機攻撃は挫折する確率が大きい。そこでその間米迎撃機群を吸收して、その方面を手隙にするための囮が他に必要となる。それは多くを吸收するための魅力と、長く吸收するための對空防禦力を備へたものでなければならぬ。大和こそ最適の囮とみとめられ、その壽命を長引かせるために、九隻の護衞艦が選ばれたのであつた。 沖繩海面は一應の目標に過ぎず、眞に目指すところは、米精鋭機動部隊の集中攻撃の標的であつた。したがつて全艦とも燃料塔載量は辛うじて往路をみたすのみで、いかにして歸還するかはまつたくかへりみられてゐない。敵地に向けて發進するふねが往きの然料しか持たぬ、これは勇敢といふよりは無暴であり、むしろ自暴自棄である。 だが萬一沖繩上陸地點に到達しえた場合の積極作戰も、もちろんもくろまれてゐた。大和の主砲による上陸軍の攻撃である。砲彈最大限が滿載され、そのうち徹甲彈(通常艦船撃沈のために用いられ貫徹力大)をもつて輸送船團の潰滅、三式對空彈(航空機撃墜用のもの、彈片はいちじるしく細分しくまなく四散する)をもつて人員の殺傷が期せられた。 すなはち、まづ全艦突入の對勢により、身をもつて米海空勢力を吸收し、特攻機奏功のみちをひらく。命脈あれば、さらにたゞ突進、敵の眞只中にのしあげ、全員火となり風となり全彈打ちつくす。もしなほ餘力あれば、一躍して陸兵となり、つひに黄土と化する。 世界海戰史上、空前絶後の特攻作戰であらう。 はたしてその成否如何。 士官のあひだにはげしい論戰。わが航空兵力はどれだけあるのか。恐らく零に近いものではあるまいか。 必敗論が壓倒した。 大和の出動が當然豫期される諸條件の符合、米軍のこれまでの愼重極まる偵察振り、情報にあるごとく沖繩周邊に待機する優秀かつ大量の機動部隊群、皆無にもひとしいわが制空力、提灯をさげて暗夜をゆくにも劣る情勢といふべきか。 まづ豐後水道で潜水艦魚雷に傷付くか。あるひは途半ばに航空魚雷に斃れるか。(青年士官のほゞ一致した結論となつたこの豫測は、あまりにも鮮やかに的中した。) 必敗を根據づけようとする痛烈な作戰討議をかたはらに、哨戒長臼淵大尉は、薄暮の洋上に眼鏡を向けたまゝ低く囁くやうに言ふ。 「進歩のないものは決して勝たない。負けて目ざめることが最上の途だ。日本は進歩を輕蔑してきた。わたくし的な潔癖や徳義にこだはつて、眞の進歩を忘れてゐた。敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救はれるか。いま目ざめずしていつ救はれるか。俺たちはその先導になるのだ。新生にさきがけて散るのだ。」彼、臼淵大尉の持論である。 何故日本は負けねばならぬのか、何故俺たちはこのやうにして死なねばならぬのか、この問ひは若い士官たちのあひだに毎夜のやうに持ち出され、時には夜を徹してつきつめた口論が沸騰することもあつた。 第一線に來て見れば、艦隊の敗戰の状はすでに蔽ひ難く、決定的な敗北は單なる時間の問題に過ぎず、大和に乘組むおのれのいのちもまた旦夕に迫つてゐることは疑ひ得ない。何がもたらす敗北か。何の故の出陣の死か。この敗戰、死は何をあがなひ、いかに報いられるのか。これは執拗に解決を迫る設問であつた。 敗戰の救ひへの先導、臼淵大尉のこの結論には、それを裏付ける論據と實踐が用意されてゐた。彼は大和きつての勇猛な指揮官であり、總員の士氣をほゞその掌中に握り、かつもつとも俊敏、もつとも進歩的な砲術士官であつた。 艦隊の先鋒はやうやく水道の半ばを過ぎた。これより敵地に入る。 潜水艦に對する電波哨戒を始める。徹宵哨戒とならう。 電探室は、兵器の熱源に蒸せかへり、人いきれに息苦しい。當直には非番の兵四名が、暗い一隅に折重なつて眠つてゐる。 かれらの肉體はなほどれだけのいのちを保たうといふのか。數時間か、また十數時間か。 泥のやうに朽ち果てて、そのことも知らぬげに無心に睡り呆けてゐる。すでに疲勞があまりに重いか 當直員四名は、愼重緊密な探信を行つてゐる。平靜で、訓練時と何ら變らぬ。 かれらの一擧一動はいま刻々に艦隊を率いつゝある。その運命を導きつゝある。あの終りもないかに思はれた至烈の訓練の成果を示すのはたゞこの時。 その躯間に漲る生氣、眉間にほとばしる嬉々とした自負、胸中は、傲りを知らぬ集注に充ちみちてゐるのであらう。めぐまれたかれら。 逆探が潜水艦らしいものを探知した。電探を同方向にむけるとやはり微感度がある。(米艦の輻射した電波をまづ逆探によつて捕捉し、その方向に間歇的にわが電探を指向してこれを確かめる。はじめに電波を輻射してわが所在の探知されるのを防ぎつゝ、米軍の動向を逸早く捕捉するためである)。 潜水艦は一乃至三方向から終始觸接してくるごとくである。魚雷發射を覺悟せねばならぬ。 もとより夜間のため視覺兵器は無用。同方向に水中聽音機を指向し、魚雷發射音に備へる。發射音をきけば、音高、音速、音向にしたがつて魚雷をかはす。 通信科の敵信班が、サイパン宛敵緊急電話を傍受した。暗號文でなく平文で、「大和以下十隻、基準針路何々、速力何ノツト……」 わが足跡を詳細に報告しつゞけてゐる。豫期したところではあつたが、すでに周到極まる觸接が開始されてゐる。 十一時四十五分、艦橋勤務立直の十五分前、艦橋當直に立てば、電測士甲、大森中尉と交代し電測距離を報告する。 電探室の張り詰めたカーテンを押しひらき、烈風に吹きつけられるまゝ、一歩一歩ラツタルをのぼる。 暗雲が月を蔽ひ、いよいよ濃密を加へた視界に一點の光源もなく、無際限の闇黒あるのみ。 この身は飜弄されて紙のやうにラツタルに纏ひつく。 ――待て。こゝでさいごの家郷禮拜をしよう。絶好の機會だ。この機を失したならば二度とその機會はあるまい。一人でも目にふれる人があると、神聖をけがすやうで氣が進まぬからだ。あす、日がのぼつてからではおそい――よく氣がついた。ありがたい。 針路から家郷の方向を推定して正對し、手摺をにぎりしめ頭を垂れた。手摺の鋲の肌が掌に密着してつめたいが、掌のうちはやゝ汗ばんで温い。 父、母、姉、そして一年前陣沒して今は亡き兄、はつきりとわがみ前に立ち給ふ。 數々の瞳、面差しが、網膜をよぎつて消える。短いわが生涯に、忘れがたい人たち。 それらすべての姿は、眼界を蔽ひ、身近くまのあたりに拜せられた。「ありがたうございました」唇が思はず呟きをくり返す。唇は間歇して痙攣を刻んでゐる。 この我がまゝな幼い自分を、よくもゆるして交はつてくれた方たち。身にあまる御厚意と庇護、そして鞭撻―― 私はいま死んで參ります。たやすい死の途をめぐまれました。死ぬ者は安樂におもむく者です。だがあなた方は、あすからの日々を、いかに耐へいかに忍ばれるでせうか。その艱苦、私などのはかり知るところではありません。 しかしそこに、ひとすじの光りを希ふことを私にもおゆるし下さい。忍苦の途からひとりのがれてゆく私はまことにふさはしくないけれど、なほ一掬の祈りを汲ませて下さい。あなた方のゆく手には歡びこそ、新生のさちこそありますやうにと―― いつまでこのやうな陶醉にひたることがゆるされよう。あゝわが知り得た、浴しえた、至幸のとき。 吹きつのる突風が、片々のこの身を艦橋に吹き入れた。 艦橋は、鈍い無明のうちに殺氣をはらんでゐる。人の動きはほとんどなく、それぞれのかすかなかたちが影繪のごとく固着してゐる。二十名にあまる士官、下士官、傳令兵が、所要の位置に根を据えてみづからの任務に沒入してゐる。その充實感があふれて息苦しい。 夜間の識別の便のため、艦内帽の後部に、長官は「シチ」、艦長は「カ」、副長は「フ」と小型の螢光板をつけてをられる。その淡光があたりを領してたのもしいが、わづかに動くと、夢幻のなかの文字のやうに美しく、むしろ微笑ましい。 あすこそは戰ひの日。ひたすらに、悔いなき戰ひを戰はう。 いまや虎穴に入らうとしてゐる。 つひに魚雷發射音をきかぬまゝ、接岸航行に移つた。のちに一擧に航空魚雷を以て屠ることを期してか、潜水艦は偵察を行つたのみで、これまで魚雷攻撃を控へてくれた。意想外のことである。 水道はやうやく陸岸も高く海邊も深い箇所にさしかゝり、この場合夜間潜水艦にたいしもつとも安全な接岸航行がとられた。 暗夜のため視界はきはめて狹く、坐礁の危險を防いで陸岸までの距離を愼重に電測しつゝ、極力接岸をはかつて進む。(大和裝備の電測兵器によれば測距の誤差は五十米を出ない)。 突入完了まではすべてこのやうに細心周密でなければならぬ。大事の身である。 大和はもとより攻守の中心勢力。陸測距離を逐一艦橋で報告しながら、この身の重責を思ひ、息をひそめてたかぶりを抑へる。 四 七日「黎明、大隅海峽を通過し、西南進をつづける。 大和は、塔載してきた〇式水上偵察機一機をカタパルトで射出し、鹿兒島基地に避退させ、むざ/\海底行きの道伴れとなることを防いだ。 艦隊上空に一機の味方直衞機もない。水上特攻艦隊は一切の空軍援助から見放された。その後二度と味方機を見ることはなかつた。 だがよし、なけなしの三百や五百の戰鬪機群が出動してゐたとしても、延べ三千機の壓倒的猛襲を前にしては、空拳のあはれさをのこすにとどまつたであらう。 日の出と同時に潜水艦は電探の感度から消え去り、交替に、マーチン偵察機が觸接をはじめた。艦隊對空砲火の射距離限度附近を巧みに旋回しつゝ追躡をつづける。折を見て發砲すると鮮やかにこれをかはし、ふたたびやゝ近接して追躡をつづけてくる。 對空用の電探が活躍をはじめた。觸接機の程度の距離のものは、もちろん一機ものがさず、刻々に測距、測角を報じてくる。雲高が低く視界は極端に不良で、對勢は全く不利であるが、觸接機の動靜は手にとるやうに知られる。 だがその觸接の何と巧妙なことか。天候を利して雲間に隱顯しつゝ追躡をつづける。 編隊右翼の「初霜」が落伍しはじめた。「ワレ機關故障」の旗旒信號が掲げられる。艦影は次第に遠ざかり、無電は急速修理中の旨をつたへてくる。 脱落か。凄慘な豫感が背筋をはしる。 幕僚の動きや、信號の授受はやゝ活溌だが、艦橋はいつたいに極めて平靜、嵐の前の靜けさといふのがこれか。 朝食。電探室前のラツタルを攀ぢのぼり、電波輻射用ラツパの臺上に出て、顏を潮風にふかれながら握り飯を頬張る。さいごの朝食であるだけに、なにか大空にじかに包まれながらたべて見たい氣特に誘はれたのであつた。 電探名測手の片平兵曹をよび、膝を接してたべはじめる。母の乳をはなれて朝めしというものをたべはじめてから、けふまでそれを何度重ねただらうかなどゝ、こころ愉しく數へて見たりする。朝飯といふものとももう縁がなくなる、そのことがおかしいことでもあるやうに、笑ひがこみあげてくる。 だが片平兵曹は、默々と急いでたべおはり、するどく會釋して臺を下りて行つた。こめかみからひたひにかけて、孤獨になりたい焦燥の色がありありとうかんでゐた。 彼には郷里に懷姙中の妻がある。しかも待ちこがれた初ひ子である。彼はつひにわが子にひとめふれることもなく散り果てるであらう。そのことはも早やうごかしがたく定まつてゐる。 しかしひとを避けるのはなにゆえか。――士官は手紙の檢閲を通じて部下の下士官の懷情をくま/″\まで熟知してゐる。自分より年下のしかも獨身の士官の口から、萬一慰藉のことばでもきかされはせぬかと、それをおそれたのではあるまいか。 陰性潔辟な彼らしい。だがその偏狹な苦辱の眸のまゝに朽ちるとき、妻のうちによみがへることもかなはぬことを彼は知らぬのか。 一方わが死を悲しみくれるものは骨肉のみ。彼のごとくに、死にぎわに心を閉ぢさせるほど斷ちがたい糸もない。愛戀の火の燃えるものもない。 これは幸ひといふべきか、不幸といふべきか。 散つてうづく嘆きをのこす苦しみと、ただ骨肉の嘆きに送られる安らひと、いづれが生甲斐に價するものか。 思ひふけりつゝうつろにひらいた瞼は、眠りを求めて熱を含んでゐる。涼風が痛い。 朝の日がにぶく黄光を波頭に照り返して眩ゆく、それがまたこころよい。まばゆさに吸はれてまなこをとぢると、涙が滲んでくる 海はあくまで青く、重い波が舷側を打つ。 九州の最南端の陸岸はすでに艦尾方向に消えた。ふたたび内地を肉眼に見ることはないであらう。刻々に離れて、ただひたすらに離れゆくのみ。 一點の島影もない。基準進路二百五十度。 日本の船團と遭遇する。數隻の小輸送船團。どこから還つてきたのか。 内地ももう間近い。霞む船影、疲れ果てた船あしに、かれらの傷ましい勞苦を想ふ。こゝに辿り着くまで、どれほどの犧牲が拂はれたことか。 大和に向ひ、「御成功祈ル」と發信してくる。微笑が艦橋に溢れた。 辛うじていのち永らへ老人が、死裝束の血氣の若者に送る餞けのことば。だがその期待に、われわれはそうことができようか。 「初霜」がいよ/\視界外に遠ざかりつゝある。單獨で脱落すれば米機の集中は必至。これを拾ひあげるため、やがて豫定の變針點に達したとき、反轉して「初霜」の位置まで逆行し、編隊に組入れ、のちふたゝび豫定針路に變針することに一決した。 九時頃、上部電探(對艦船用)室にゆく。大和は、たま/\艦隊の當直は非番。(十隻を二直に分け、交互に當直に立つて電波哨戒を行ふ)兵たちは勤務から解かれて、默々と配置に坐つてゐる。 老兵は背を曲げた姿勢で、ぶざまに蹲り、青黒い顏に苦澁をたゝへてゐる。太て/″\しく死によりかゝつた投げやりとも見え、また死に打ちひしがれた困憊とも見える。 數々の悦樂がすべてわが身に喪はれることをかこつてゐるのか。あすから妻子に訪れる難澁の日々を歎いてゐるのか。――叱る氣持も起らぬ。 恩賜の煙草をくばる。ポケット、ウイスキーをのみ廻はす。 班長宮澤兵曹は、顏もあげず、「兵器の調子は完璧です」といふ。彼は、結婚四日目にはからずも出撃を迎へたのだ。 ひとのいいのろけ振りでよく笑はせた彼。 だが出港以來その精勵さはますます加はり、度を過してすさまじい。少憩中も兵器の調整を怠らぬ。 勤務をゆるめてふとわれに返る一瞬の空漠が、堪へがたいのだらう。 傳令が嬉々として、「吉田少尉、今日の夜食は汁粉です」といふ。主計科の兵隊にでもきいたものか。かわいゝ糸切齒を見せて、いさゝか手柄顏。 彼には班長のことばに出ぬたゝかひも、老兵の心痛も全く意中にない。たださいごの夜食がもつとも人氣のある夜食であることが、そしてそれを誰にでも知らせてよろこばせてやることだけが、重大關心事である。そしてその先にある死は忘れ去られてゐる。――だが突入は今夜半の豫定。夜食まで無事ならば作戰の成功は疑ひない。そのときの汁粉はどんな味がするか。 九時四十五分、哨戒當直に立つ。自分が大和最後の哨戒直とならうとは、思ひも設けぬこと。 暗雲はいよ/\低く驟雨がある。視界は局限され、哨戒至難、當直の任務もつとも重大である。 頬が引きつれる。緊張のあまりか。 艦橋中央の羅針儀臺に突つ立ち、眼鏡を握りしめる。各部と通ずる傳聲管の蛇口や、夥しい電話機の巣にかこまれ、蹠の痛むまでゆかの格子を踏む。 對潜哨戒を嚴にする。眼鏡による捕捉は不可能に近い。 變針して、南進をつづける。沖繩海面に向ふことを隱蔽するため、當初はむしろ西進し、やゝ迂回して南下するコースが選ばれた。その南下直進の針路に入つたわけである。 晝食は戰鬪配食。片手に皿、壁に倚りかゝつて氣ぜはしい食事。 最後の飯の味か、(夕食時までこの餘裕が保てるとは思はれぬ)誰もそんな豫感に刺されつゝも、心のこもつた首途のこの銀飯(白米飯)をくふ。さつぱりとしてうまい。 湯呑になみ/\とつがれた熱い紅茶をすゝる。それはあたゝかく身うちにふれて腹に泌みた。胸のおくに疼くもの。 食後、艦長を中心に和氣藹々、歡談がかはされる。突然艦長が、「電測士」とよばれる。 艦長「貴樣は一人息子だつたな」 「さうであります」 「後顧の憂ひなしか、どうだ」(出港數日前、この擧を豫期して家庭の状況を全員に問はれた。後顧の憂ひなし、と私は答申した。) 「ありません」 「本當にないか] うなづくも打ち消すもならず、ただ炯々の眼光に一閃たゝへた悲愁の色を直視した。 勇猛と技倆を以つてうたはれた名艦長が、士官の末輩に至るまで、その身上をいかに知悉してをられたか。いまにして初めて知つた。――「本當にないか」と念を押す、その聲音、こちらが答へられぬと見て、ひときはしみ入る眼光。 鋭氣俊敏の參謀たちのまなざしも、柔和の光りがうかがはれた。ただ滿腹の倦怠と安堵だけではない。數歩をへだてずに死にゆくわれら弟たちに寄せる、肉親にも近いいたはりのかげであつた。 五 十二時、征途の半ばに達した。 長官は左右を顧み珍らしく破顏一笑「午前中はどうやら無事にすんだな」 十二時二十分、電探が大編隊らしいもの三目標を探知する。後部對空電探室から、室長長谷川兵曹のいつも變らぬしづかな濁み聲が流れるやうに測距測角を報じてくる。 いまゝで無數にくり返された訓練目標射撃に、これと同じ状況、同じ對勢、同じ調子の探信がどれだけ行はれたか分らぬ。今のこの事態こそ、これこそ紛れもない實戰なのだと、自分に承知させるのに骨が折れる。 目標發見。ただちに艦隊各艦に緊急信號が發せられる。 スピーカーがその旨を達しをはると、艦内はさらに靜肅の度を加へた。じーんと重い緊張。 對空戰鬪迫る。探知方向にたいし各部の見張を集中する。 十二時三十二分、二番見張員の蠻聲「グラマン二機、左二十五度(方向角)、高角八度、四〇(距離四千)、右ニ進ム」 肉眼捕捉 ときに雲高は千乃至千五百米、機影發見は至近に過ぎ、照準至難、最惡の對勢。 「今ノ目標ハ五機……十機以上……三十機以上」雲の切れ間から大編隊が現はれ、大きく右に旋回。 「敵機は百機以上、突込んでくる」叫ぶ聲は航海長か。 「射撃始メ」艦長下命。 高角砲二十四門、機銃百五十門、一瞬砲火を開く。護衞驅逐艦の主砲も一齊に閃光を放つ。 戰鬪開始。招死の血戰は火蓋を切つた。 われは初陣。 肩の肉が盛りあがり躍り出さうとするのを抑へつゝ膝にかゝる重量をはかり、この身は昂奮にたぎりつゝみづからのたかぶりを眺め、奧齒を噛みならしつゝ微笑みをひたひにたゝへる。 壓倒する騷音のうちに、身近かの兵が彈片にたをれその頭骨が壁を叩くのをきゝ分け、瀰漫する硝煙のうちにその血の匂ひをさぐる。 「敵は電爆混合」甲高い聲。 編隊の左外輪「濱風」がたちまち赤腹を出す。艦尾を上にして逆立つ。轟沈まで數十砂を出ない。ただ一面に白泡をのこすのみ。 雷跡が水面に白く針を引くごとくしづかに交叉して迫つてくる。その目測距離と測角を回避盤に睨みながら、艦を魚雷方向と平行に持つていつてぎり/\にかはす。要は見張と計算と決斷だ。 艦長は最高部の防空指揮所、航海長は艦橋、二者一體の操艦。 艦長の號令が傳聲管を貫いてわが耳を聾するばかり、語尾がわれて凄まじい怒聲だ。 爆彈、機銃彈が艦橋に集中する。 大和は最大戰速(二十六ノット)を振りしぼり、左右に舵一杯をとりつゝ必死に回避をつづける。さすがに艦内の動搖震動は甚しい。 あはや寸前に魚雷をかはすこと數本。つひに前部左舷に一本をゆるした。 敵來襲の第一波が去つた。 傾斜はほとんどないが、後部副砲射撃指揮所附近に直撃彈二發。 米機はすべてF6F及びTBF。爆彈は二十五番か。(二百五十キロ) 雷跡は相當顯著だが雷速は從來に比しやゝ速いか。(航海長) 襲撃はきはめて巧妙、避彈の巧緻、照準の不敵、恐らく全米軍切つての精鋭に相異ない。(參謀長) 長官は默然と腕を組み微動もせず、參謀長は温顏をほころばせ、虚心に敵をたゝへる。 航海長、左右をかへりみて莞爾「たうとう一本當てちやつたね。」こたへて笑ふものもない。 擔架が死體三箇を艦橋から盜むごとく運び去る。機銃彈の彈瘡によるもの。 それをまたぬすみ見るわが失態を愧ぢ憤りつゝ、一抹の憫情がおのれをあはれむごとく湧きかへるのをどうすることもできぬ。 測的分隊長傳令、「後部電探室被彈、直チニ被害ヲシラベ報告セヨ」 後部電探室被彈か。たま/\哨戒直に當つてゐなければ俺は當然そこに配置してゐたのだ。同室勤務の童顏大森中尉、温厚長谷川兵曹、そして部下の誰かれの顏がさつとまな底にうかぶ。 艦橋後部のラツタルを驅けおりようとすると、手摺右の鐵壁に喰ひ入る肉一片。肱で彈いてゆき過ぎる。 信號科の下士官が旗甲板から「雷測士、そとは機銃彈でとてもいかんです」と叫ぶ。その叱聲が彈雨の間にち切れて耳を刺す。 犬死するぞ、と氣づかつてくれたのだ。 ありがたう。おもてを向け手をかざして、「了解」の意をあらはす。だがそれに反應した動作に移る餘裕はない。 俺には任務がある。いな。わが身に代つて戰友のあまたが果てたかも知れぬ。危急に驅せる責務があるのだ。 ラッタルを滑り落ち、硝煙が鼻を衝くうちを走る。手摺にひどく擦りつけた掌の、皮のはげたところが燃えて痛い。 すぐそばの機銃指揮塔に胸から上をあらはして立つた士官がたま/\振り向く。こちらは走りながら視線がぶつかる。同期の高田少尉。鐵兜をま深くかぶり、淺黒い顏をほころばせて、「げんきでやれや」と喚きながら鞭を振つてくれる。 「オウ」突嗟にこたへて走り過ぎたが、これが大阪ものの、あの善良な高田少尉の見收めとならうとは。 煙突の下部附近を驅け拔けようとして、助田少尉に遭ふ。白鉢卷から血糊二本をしたゝらし、杖にすがり辛うじて歩いてくる。彼の配置は後部副砲射撃指揮所、直撃彈二發の中でいかにして爆死を免れたのか。唯一の生存者か。 日頃人なつこく柔和な彼も、鋭い一瞥を投げたのみ。小柄の、雨衣も裂け散つてゆがんだ肩の、うしろ姿が痛々しい。思はず默禮してたゝずみ、氣をとり直して急ぐ。 電探室前に走り寄つたが、ラツタルの跡形もない。止むなくロープを下ろして滑りおりる。 堅牢安固の電探室が、眞二つに裂け、上半分は吹き飛んでない。整備に整備を重ねてけふの決戰に備へて來た兵器は、四散して殘骸もみとめられぬ。部品の殘滓さへない。 朽ちた壁に叩きつけられた、ひとかゝへ大の紅い肉塊。手足や首などの、突出物をもがれた胴體。――あたりにはじかれた四個の肉塊をかゝへて來て前に並べる。 他の八名は全く飛散して屍臭さへ漂はぬ。何といふ空漠。 焦げた爛肉に點々と軍裝の被布らしいカーキ色の屑がはりついてゐる。脂臭が芬々と鼻をつく。首や四肢の附け根の位置を確かめ得ぬどころか、四箇の死屍のあひだに何らの判別の手がゝりさへ見出せぬ。ただ芯が燒けて手ざはりも粗い赤肌を撫でまはすのみだ。 これがあの戰友部下の若い肉體と同じものか。この肉塊はただ、その時を經て變り果てた姿に過ぎぬのか。――信じられぬ。訝しい。 悲憤でもない。恐怖でもない。ただ堪へ切れぬ不審感。 ときに脛に無氣味にひびきながら、艦尾方向から押しつぶすやうな音波が押し寄せてきた。顏をあげれば左後方から第二波の來襲。 俺には艦橋勤務がある。俺の死場所はこゝではない。 すでに被爆の衝撃もある。やがて彈雲が蔽ひ包むのだ。 頭を下げ片手を手摺にふれながら狂氣して走る。一切は眼中にない。 前檣直下のラツタルに躍りあがらうとする瞬時、網膜の周邊が緊張すると、あの機銃指揮塔が片影もない。煮湯を呑む思ひで首を曲げ、まなこをくりあけてみつめたが、深くえぐられたあとには、ただ濛々と白煙が逆卷くのみ。 一瞬に、彼も部下も塔も根こそぎ奪はれた。 高田少尉、ゆるしてくれ。あのとき俺は貴樣の激勵のことばにこたへなかつた。激勵を返さずに走り去つてしまつた。 番頭のやうに篤實で、酌のうまかつた奴。 目をとぢてラツタルを馳せのぼる。俺の通過がもう數十砂早かつたら、見事貴樣と同體に散華してゐたものを。 ひるむおのれを鞭打ち敵愾心をかき立て、「總員戰死、兵器全壞、使用不能」と、分隊長に屈ける報告を聲高に繰返しながら、ラツタルを突きのぼる。機銃彈がキン/\と背を叩き、風壓は振り落とさんばかり縱横に煽り立てる。 ただちに分隊長に報告。 空戰の利刄、對空電探はかくて緒戰に粉粹された。暗天のもと、蔽ひ迫る米機、ただ肉眼を以て對するのみ。 耳底に低くさゝやく聲が、消えようとして消えぬ。電測士甲、大森中尉の聲。三時間前、哨戒直に立つ直前に、電話を流れて耳底に殘つた、あのさいごの聲。 「吉田少尉、貴樣には面倒なことばかりさせて、苦勞をかけたなあ……すまんかつたなあ」――さうではない……ちがひます。私こそ怠慢でした。私こそ氣まゝでした。…… 「貴樣には……」「貴樣には……」聲が絶えない。ときには笑みを含み、ときには愁ひを含んでこのいのちに觸れ、いのちを責めてさゝやく。 彼もすでに亡い。彼を死なせて、何をこたへたらよいのか。いかに報いたらよいのか。 米機の突入はすべて緩降下對勢による。 日本機のごとく過長の距離を直進することなく、左右に稻妻型に反轉しつゝ突込んでくる。直進してくる目標は、對勢の變化が上下方向だけだが、反轉横向すると左右變化が大かつ速やかとなり、機銃のごとき單純な兵器の照準能力を全く超絶する。 投雷投彈のためには照準する間、或る距離の直行は不可缺だが、米機はこの不利な對勢をわづかにたもつのみで、たちまち飛燕の肉迫コースに移る。 機銃彈の彈着状況は頗る不良とならざるを得ぬ。 かゝる襲撃法はその投雷の優秀、照準の巧捷によるのは勿論だが、雲高が低く主砲の彈幕もうすく、高角砲また屏息して、近接が比較的容易なためでもある。 さらに機銃員が敵機の過量かつ急撃に眩惑された點も蔽ひがたい。 吹流しや風船の假設目標にたいする訓練射撃の成果に、一喜一憂してきた機銃員、かれらの目にはまさに一つの驚異、一つの眩覺。間斷もない炸裂の殺到、ゆるみない光、音、衝迫の集中だ。 五發の發砲ごとに一發づゝ赤色の曳踉彈を發射して、その彈着状況(赤い尾が目標をかすめるのが確認される)により修正を行はうとするが、對勢變化が急激なため容易に捕捉できぬ。 いたづらに追從するのみ。 二十五粍機銃彈の速力は、米機のそれのわづか數倍に過ぎぬ。それで曳踉射撃は無理か。 第二波も、ふたゝび百機以上、左後方。雷撃機が多いか。 大和に向ふもの、約二十本。左舷に三本をゆるした。後檣附近。 量の壓倒的優勢は、大和の性能を以てしても、避雷を全く絶望とした。 まさに天空四周より閃々迫りくる火の槍ぶすま。 わが海軍に比絶する大和の彈幕は、少からぬ脅威を與へはしたが、米編隊は一部の犧牲をあらかじめ計量して、ことさら迂遠な回避方法をとらず、まつしぐらに照準のベスト・コースをなだれ込む。そしてその間投雷投彈のため素早く直進を行ふや、横向快走して砲火を避けつゝ銃撃を敢行する。 銃撃はさいごの反轉後直線的に艦橋に迫りつゝ概ね二齊射。硝煙、唸り、火柱が、かれらの息吹きのやうに艦橋の窓めがけて吹きこむ。 紅潮した米搭乘員の顏がいづれも至近に押し迫つて、面詰されるやうな錯覺を起こす。 砲火に仕とめられゝば一瞬火を吐き海中に沒するが、必らず投雷投彈を終了してゐる。戰鬪終止までつひに、進んで體當りする輕擧に出るものは一機もなかつたが、任務未了のまゝ撃墜されたものも極く少かつたに相異ない。 正確緻密沈着なそのコースの反覆は、むしろ端正なスポーツマンシツプの香を放ち、未知の底知れぬ強靱さを祕めて迫つてくる。 いまやたゞ被害を局限し戰鬪力を温存して相手の消粍を待つほかない。 二十五粍機銃の三聯裝砲塔(六疊間大)が直撃をくらひ、つぎつぎに空中に數回轉して落下する。機銃員の死傷もおびたゞしい。 各砲塔の銃口は、指揮塔から電氣誘導により操縱されるためたゞ發射のみを行ふのが常態だが、電波はやがて斷絶して、指揮系統も滅裂、止むなく各個に銃測照準にすがりはじめる。照準はいよいよ不正確を極める。 萎縮、動搖のきぎしあきらか。 飛行甲板から白煙が上る。 艦の左右、前方に至近彈集中、いく層もの大水柱内に突入する。豪雨に數倍する水量が窓からほとばしつて吹きこむ。 海圖臺は慘憺と水びたしになる。水をぬぐひながら血涙を呑む。 首筋から胸、腹へと潮水が流れてなまあたゝかく、肌着がすけばぞくぞくする。全身にくまなくしたゝる。あたりの散亂は手がつけられぬ。 顎紐が顎に喰ひ入つてくる。ぬれた眉は微風にさはやか。 六 第二波が去ると、踵を接して第三波の來襲。左正横から百數十機。驟雨の去來のごとし。 直撃彈多數、煙突附近に集中命中。臼淵大尉が直撃彈に斃れた。 死を以て新生への目ざめを切望したあの智勇兼備の若武者は、散つて一片の肉一滴の血ものこさぬ。眞の建設を夢見、その故にこそ敢鬪をさゝげた若者の骨肉は、虚空にあまねく飛散した。 塚越中尉、井學中尉、關原中尉、七里少尉、……機銃指揮官戰死の報はあとを絶たぬ。 魚雷、すべて左舷に五本。傾斜計の指度がわづかに上昇しはじめる。 連續被害のため、應急員の死傷多く、防水遮防作業はほとんど不可能となる。 ――魚雷命中すれば、防水區劃の一部に浸水する。區劃は細分されてゐて浸水を局限するが、やがて水壓は非浸水區劃との境界の鐵壁をしなはせ、これを潰滅させて浸水を擴大する。そこで非浸水區劃の内側から太い圓材(丸太)を以て鐵壁を支へ、決潰を遮防せねばならぬ。――應急員の任務。 だが被雷は間斷なく繼起し、浸水は跳梁を重ね、一切を覆滅し去る勢ひ。たゞ兵員の救出に汲々とするのみ。 すなはち、遮防作業中、附近に被雷が相ついで起る。たちまち水攻めにさらされ、ラツタルをつたつて上方へ、内部へと脱出せねばならぬ。鐵壁に切られた丸窓をくぐり拔け、足元のハツチの留め金をガツキリ締めてそこで浸水を押しとどめる。そしてその壁を遮防線とする。 だがそのためには、われにつゞいてラッタルを突きあがる戰友の頭を蹴落として、ハツチを閉じる間隙を作らねばならぬ。 いかに至難のことか。血の出る猛訓練もよく達し得ぬ異常の應急作業。 いたづらに開かれがちなハッチを拔けて、浸水は奔騰しつゝなだれ込む。傾斜の進行は意想外に速い。すでに五體に不安感がある。 傾斜が五度に達すれば、戰鬪力は半減する。彈藥の運搬に支障をきたし、重心の喪失感は士氣をそこなふ。猶豫はできぬ。 浸水した防水區劃とまさに對稱をなす反對舷の區劃に注水し、傾斜復舊をはからぬばならぬ。そのための吃水線の沈下は。――速力の低下は。――萬止むを得ぬ。 この注水は、注排水管制所の所掌。ランプの指示する片舷の浸水區域を見て、所要の對稱區域に、ボタン一つでたちどころに海水をみたす機能。――この注水の敏捷適確こそ、大和の特技の尤なるもの、しかもそれもはかない希望に過ぎなかつたか。 後部奧深く位置した注排水管制所が、魚雷二本、直撃彈數發の集中を浴びて、脆くも機能を失つた。 天われにくみせざるか。 魚雷及び爆彈の連續集中は最も苦手。あたかもこの要衝の位置を知悉して狙撃したごとき執拗精確な攻撃だ。 管制所の破壞は、つひに右舷區劃の注水を全く不可能とした。訓練時の想定にはかつてない最惡の不可測の事態。かくも遺憾悲運をきはめた事態が、それのみが唯一の現實とならうとは。 米軍はよく渾身の膂力を、連續強襲、魚雷片舷集中の二點にそゝいだか。 艦長が數度「傾斜復舊ヲ急ゲ」と、スピーカーも裂けんばかりにくり返し令達される。 だが防水區劃の注水はすでに不能となつた。いまや、右舷の防水區劃以外の各室に海水を注入するほか方策もない。 敵は脚下に迫り傾覆をはかつてゐる。あやふし。いかなる犧牲をも甘んじてこれを恢復せねばならぬ。 全力運轉中の右舷機械室、罐室に無斷注水する。「急ゲ」と私は電話一本で指揮所を督促した。 兩室は、海水ポンプで注水可能の、最大最低位の部屋。傾斜復舊に最大の效果が期待されるのだ。 機關科員數百名が、海水奔流の瞬間、その飛沫の一滴となつてくだけ散つた。奔入する潮のうち、何も見ず何もきかず、人肉はすべて一塊となつて溶け渦流となつて四散したか。沸き立つ水壓の暴威。 かれらこそこれまで、炎熱、噪音とたゝかひ、默々と艦を走らせてきた機關科員。もつとも勞苦の重い勤務に、汗と油にまみれてひたすら精進してきた兵員なのだ。 かれらの生命はからくも艦の傾斜をあがなつた。だが走力はむなしく隻脚を強ひられ、速度計の指針は折れたやうに振れてかたむいた。 第四波、左前方より飛來。百五十機以上。 魚雷數本、左舷の、各部。直撃彈十發以上、後檣後甲板。 艦橋は、機銃彈による被害が續出する。目の高さに横にくり拔かれた狹い見張窓から、彈片は削りそがれて無軌道に戯れるやうに噴きこむ。 彈道がどこからどう貫くのか、皆目見當もつかぬ。避けるすべもない。裸身をつぶてにさらすのみ。 一瞬、前後、左の三方から落ちこむやうな重壓が來る。後方の兵とは背と胸を接し、左方の士官とは肩を觸れてゐたが、それがそのまゝ倒れてきたのだ。 振りほどくやうにこの身をぬけ出すと、もたれ合つた三本の背柱は、よじれながら崩れ落ちた。 前の兵もうしろの兵もぬぎ捨てた服のやうにうごかぬ。即死。 左方、西尾少尉は、唐突に起きあがり、左膝を立てた姿勢で、右腿部を縛らうと懸命だ。ほとばしる鮮血を吸つて手拭ひが眞紅にふくれあがる。たちまち血の氣が顏面からひく。かなりのふかで――衞生兵をよび、擔架を敷かせる。 その上にうつ伏すと、顏をあをむけ、何かを見上げるやうにして、かすかに笑みをうかべた。われ悔いなし、の平安か。そのまゝ意識を失ふ。 眉目秀麗な彼、その散華のさまはあまりに鮮やかで、いまはの微笑がしばらくは瞼から消えぬ。 三人の肉塊は、尺にみたぬへだたりで、彈道から俺をさへぎつたのだ。 電探傳令岸本上水(十八歳)が唇をふるはす。纏ひつく肉片や血しぶきに脅えたのだ。しかもつたへる報告にみちた、戰友の悲運。 一發顎を張りとばして氣合ひを入れてやる。さつと童顏が紅潮する。可愛い。 降下する一團の飛霰がたび重なるにつれて、艦橋員の損傷はやうやくあらはれてきた。まき散らされた肉片は處理できたが、血痕は痣になつてのこつた。 すでに人員は半減していちじるしく行動が樂になつたことを感じながら、誰が消えたかをかへりみるゆとりはない。 上部電探室にゆく。兵器は動搖逸脱して全く使用に堪へぬ。連續被害および本艦發砲の衝撃のためだ。 至錬の本兵器も、つ心に爲すところなくして止むか。 きはめて狹い室内に、兵らは重なり合ひ、動搖震動にたへてゐる。これが、日本海軍至寶の電探兵。 機銃彈々片が側壁を盲貫して闖入してくる。さらに動く者もない。硝煙と火花を吹きつけ森水長の首を掠めてゆかに落下した。耳の下から太く赤い火ぶくれになつた。 縱順で有能な電探測者森水長。 うつむいたまゝ差し出すのを取れば、拇指頭大の鋭い一片。手にこゝろよいぬく味がのこる。 火傷のあとをさすりながら彼はひつそりと笑ひつゞける。 その後つひに沈沒まで、再びこゝにおりてかれらを脱出させる機會がなかつた。かれらはその姿勢のまゝ、總員、艦と運命を共にしたといふ。妻子ある兵も少くなく、紅顏の少年兵がまた多かつた。 ただ一人の生存者青山兵曹の言によれば、のち沈沒の寸前、轟々たる爆發音、相つぐ衝撃のうちに、かれらは折重なつて斃れ、默然と死相をさらし、かれが晩出しようとして「行くぞ」と叫んでも、數人の者がたゞわづかに瞳をあげただけだといふ。 戰鬪中自分の任務を持たぬものには、かゝる例もすくなくない。状況不明のまゝに、ショツク、停電、横轉、被彈、に重圍されると、「今死ぬか、いま死ぬか」の切迫感に堪へ切れず、先づ舌がしびれてくる。次には手足の自由がうばはれ、つひには瞳孔がひらき切る。 肉體はなほぬくみを保つてゐるが、實はあはれにも死を待ちこがれたむくろに過ぎぬ。 だが、かれらにまさつて精勵な兵があらうか。この兵らにしてなほ死神に屈せぬばならぬのか。 魚雷集中。防水の完璧を誇る送受信室が、つひに浸水についえた。通信長以下通信科員の過半をこゝに失つた。 艦隊旗艦大和に通信機能なし。たゞ發光と旗旒によるのみ。巨人がその耳口を失つて、なほ何をなしうるか。 傾斜計指度、十七度。實速力、十餘ノツト。 右舷の注水區域を擴大し、傾斜復舊を急ぐ。 爆彈集中のため、應急中樞の第二應急部指揮所が潰滅し去つた。内務長以下の應急幹部の根幹、全滅。副長(副艦長、兼、應急防禦最高指揮官)は、たまたま第一應急部指揮所にあつて無事。 忽忙の間、第五波、前方から急襲。百機以上。 ときに「矢矧」が、大和の前方三千米に全く停止し、「磯風」を横付けさせようとしてゐる。 「矢矧」に座乘の水雷戰隊司令官が、沈汲寸前の「矢矧」を捨てゝ、「磯風」に移乘されるのか。(司令官の戰死は、作戰の遂行にたいし甚大な支障となる。) この状況を見て、大和に突込まうとする米機の一部が、反轉して二艦に向つた。――「矢矧」は魚雷十數本の巣と化し、たゞうす黒い飛沫となづて四散。「磯風」は停止し、黒煙を吐きつゝある。 右に「冬月」、左に「雪風」が、水柱の幕帶を突破しつゝ大和あてに發信してくる。「ワレ異常ナシ」 屈強二艦躍の、その名を賭けての力鬪。 護衞に任ぜられた九隻のうち、その任を果たしつゝ、あるのは、この二艦のみ。他の或るものは姿を沒し、或るものは停り、傾いた。 二艦の、兵一員にいたるまでの鬪魂と錬度を、思ひみよ。 落伍した「初霜」は全く消息を絶つた。すでに米機の重圍下、惡戰苦鬪の末、相果てたものか。 直上に敵機なし。緒戰以來はじめての空隙。 大和は「もとより少からぬ彈雨を浴びたが、状況すでに不明。艦内の通信機關はまさに寸斷された。指揮統率は尋常でない。 止むなく無傷の兵を探し出し、肩を叩いて傳令に走らすが、目をはなさぬうちに、ことごとく機銃彈に狙はれてころげ落ちる。巨體の細胞は切りはなされ、脈絡を絶たれ、それぞれ死滅してゆく。 後甲板、消火にうごめく影。 機銃砲塔の全壞多く、甲板はたゞ一面荒涼として、鐵塊の龜裂をのこすのみ。 等身大の細身の人肉が、高く測距儀の袖から垂れさがつて搖れやまぬ。 漆黒に塗粧した露天甲板は、いたるところくり拔かれ、一面の變色だ。露出した兵器はことごとく損傷し、空中線はその片鱗さへない。 傾斜過度のため高角砲以上は全く沈默し(運彈不能)、機銃のみ掉尾の血戰。 艦橋下部に被彈多く、臨時治療室の軍醫官は總員戰死。その他數なき死傷も傳へるにすべなく、さいごのさまを知るものもない。 すでに多數集積した士官の戰死報告も、やがて中絶するまゝ記憶より脱してゆく。 艦橋に降りそゝいだ機銃彈はその數を知らぬ。人員消粍ますます甚しい。 爆彈また眞向からきそひ落ち、吹きつけるつぶてとなつて、ことごとくひたひぎわをかすめ去る。しかも艦橋幹部に一人の死傷者もない。 初彈以來すでにいくばくの時を經過したのか。瞬時の閃芒か。しからずか。 胸裡、ひそかに歡心が湧く。いさゝかの疲勞もない。 空腹をおぼえ、傾斜計をにらみつゝ菓子をくふ。うまい。雨着の兩ポケツトに詰まつた菓子。 第六、第七、第八波、相ついで來襲。各百機内外、いづれも後方。 敵はつひにわが鈍足に乘じて舵をくだくか。豫感が背筋を冷やす。 たがいにせんすべもない。雷跡の綾なす糸をぬけるには、も早や機動力がか細い。 汗ばむ掌をにぎり合はせ、艦尾の衝撃に神經をとぐ。 はたして後部に魚雷集中し、艦尾はしばし宙に浮き火柱水柱に包まれる。 副舵が取舵(左旋回)一杯のまゝ、舵取室を浸水に奪はれる。主舵を面舵(右旋回)一杯としても、固定した副舵が抵抗となりわづかに右旋回をなすのみ。 一切の行動は左旋回の範圍内に限られる。半身不髓。 しかも主舵舵取室もまた浸水に瀕しつゝある。 米軍の來襲作戰は次のごとしか。――量的壓倒による彈幕突破、天候を利しての緩降下雷撃、魚雷片舷集中、傾斜急増による速力激減、鈍速にたいしての必中爆撃、對空兵力の覆滅、後方よりの雷撃による舵の破碎、再び雷爆集中、致命の追撃。 巨艦、こゝに進退を失ふか。 直撃彈が、爆彈、ロケツト彈、燒夷爆彈をまじへて降りそゝぎその數を知らぬ。煙突附近より黒煙がのぼる。 傾斜急増、殘速七ノツト、わづかに左旋回を行ふ。 「霞」が右前方から、「ワレ舵故障」の旗旒を掲げて盲進してくる。おなじく舵をもがれたものか。 われまた避けるすべもない。不髓のこの身がいら立たしい。 膽をくだきつゝ辛うじてこれをかはす。 主舵操舵長(中尉)からの電話が、妙に濕つたひゞきで耳に沁みる。隣室までの浸水をつたへつゝ、その間刻々の操舵を復誦してくる。 やがてさすがに切迫した聲が、「浸水マ近シ、浸水マ近シ」とくり返す……一瞬の破壞音をのこして、消息を絶つ。 「ワレ舵故障」の旗がするするとのぼる。この旗旒が大和にはためくのも、これが最初、かつ最後。 不沈の巨艦も、いまや水面をのたうち廻る絶好の爆撃目標に過ぎぬか。 七 傾斜三十五度 米主力は雲間に集結待機しつゝあるのか。數機ないし十數機づつとどめを刺さんと殺到する。弱體の目標にたいし、效率攻撃。 われ避彈不能、全彈命中、ゆかに俯して被害の衝撃に堪へる。必中の被彈は、この肌に刺されるにもひとしくむごくこたへる。 艦長「シツカリ頑張レ」數回繰返される。この聲を聞いたものは何人あつたか。 電源が斷たれ、令達器は使用不能。肉聲のとゞくかぎりのものがこの聲にわづかに肩を引きしめたのみ。 中部左舷に大水柱上る。足元をすくはれた薄氷感。 航海長より艦長へ「いまの雷跡は見えませんでしたか」 艦長「見えなかつた。」 航海長「見えませんでしたか」 この魚雷こそつひに致命傷となつたか。或ひは潜水艦がひそかに近接し集中發射したものではないか。威力絶大。 傾斜計の指度が目に見えて顯著となる。 わづかに疲勞をおぼえ、ゆかに肱をつけでよりかゝる。身をなゝめ横たへるのに絶好の傾斜。こゝろも輕い。 肩で息を吐きながら菓子を頬張りサイダーを呑む。炭酸がのどをはじけて、うまい。自分が喰つてゐるのか。ただ食慾が滿たされてゐるのか。 ふと、あばらの下から、なにびとかの聲、「お前、死に瀕したもの、死の豫感をたのしめ、死を抱擁しろ。さて死神の顏色はどうだ。……いゝか、お前が生涯をかけて果たしたものは何なのだ。あるのか。あれば示せ。あればうたへ」 こぶしを胸に合はせ、身を悶えつゝ「俺の一生は短いのだ、あまりに短く、あまりに幼かつた……ゆるしてくれ。放せ。胸を衝くな。いつてくれ。えぐるな。消えろ」なんと弱い呟き。 周圍の人の氣配は變らぬ。もの憂く見かはして、互ひに生きのこつたことを確かめ合ふ。活動したあとのこの身の熱氣が感應し合ふのみで、それ以上には何もない。 しばしの虚脱、敵襲も小休止。 たゝかつた。――濁りない回想。 あたりはしづか。まことに閑か。 傾斜計の指度が、この靜寂のなかを、滑るやうに進む。 副長から艦長に「傾斜復舊ノ見込ナシ」すき透る副長の聲。 聲高に艦橋一杯にこれを復誦する。 傾斜復舊不能――沈沒確實――作戰挫折――そして目前の死、――想ひは瞬間に結論をつかむ。だがうろたへるまでもない。みな、引きつれたやうに身を固くしたまゝだ。 その中を長官の周圍に匍ひ寄るのは參謀たちか。さいごの協議か。 やがて、いや、一瞬ののちかも知れぬ、長官がつと身を起こす。參謀長が左手を羅針儀に支へつゝ、長官ににじり寄るやうにして敬禮。永い沈默。目が互ひの目を射る。 長官は答禮を返ししづかに左右をかへりみ、幕僚の一人一人と念入りの握手、一瞬微笑まれたやうに思へたが、長身をひるがへして、艦橋の長官私室へ。(沈沒まで、この部屋の扉は開かれず、また絶え間ない破壞音の故か、自決の銃聲もきかれず、携帶拳銃をすて、身を以て艦の最期を味ははれたか。第二艦隊司令長官伊藤整一中將の御最期。長官はこの作戰に終始反對し、とくに發進時期の遲延をおそれ、しばしば中央に具申したが、つひにいれられす。半日の遲延、これがさいごの痛痕事となつた。その故か、初彈以來、長官は窓ぎわの椅子に腕組みしたまゝ、彈雨血霰のなかを、石のごとく寡默を押し通し、組まれた腕は、この答禮のときはじめて解けたのだ。) 長官が艦橋をよぎると、副官(少佐)が、終始長官に侍從する任にあるため、死をも共にすべく、身がるにあとを追つた。參謀長が一躍してうしろからがつきとこれを捉へる。ラツタルを二三段駈けおりた副官、そのバンドにむんづと片手をかけ、片手に手摺を握りしめつゝ齒を噛み鳴らす參謀長。 兩者無言。滿面朱をそゝぎ、氣合ひを應じ合ふこと數秒、つひに副官が顏をそむけつゝゆづる。 參謀長はこれを艦橋に引きあげてはげしく突き放す。 艦隊はこゝに首上を、やがて主城を失ふか。 松本少尉と艦橋後部で遭ふ。顏面蒼白、指をあげて、「俺たちも時間の問題だからな」とさゝやきかける。 指さすととろは艦の後部、乾舷とよばれる最上甲板に、水がひたひたと寄せあがつてゐる。浮城のごとしといはれたあの乾舷。乾舷に波がかゝれば顛覆は確實。 こゝろやさしき詩人、松本少尉、すでにみづからの過情に斃れたか。 この時なほ大和の終焉を夢想する氣持さへ湧かぬ。緊張のゆえか。巨艦の雄渾に魅了されたのか。 艦橋の生存者は十名を出ない。倉皇として脱出しようとする者がある。 配置を去つてどこに行くか。他に死處でもあるといふのか。 去るものは去るべきだ。たゞこの得難い寸秒の間、かれらの心中、いさゝかの悔恨もないか。 このとき、幸ひに泰んじ得られたおのれを何に謝すべきか。 あたりはいよいよひそやか。もとより戰ひの終結を急ぐ破壞音は止まぬが、このわが耳朶にふれるは優しいしゞまのみ。 目にうつるものすべてに白光が射し、すきとほり、まなこは、初めて見ることを知つたごとき愕き。瞳孔も、その底までも澄み切つたか。 ふたゝび胸奧の聲、「お前、憐れむべきもの、つひにむなしく死の軍門に降るか。死にゆくお前を力づける何ものもないか。かへりみてみづからにとるべきもの一片とてないか。」 「待て。待つてくれ。俺の半生はむしろ惠まれたもの。……あたゝかい肉親。すぐれた師友。こゝろよい環境、ゆたかな希望、乏しからぬ資質……」 聲「そのどれに眞のお前があるか。それらすべてが、死にゆくお前に加へるものは何なのだ」 「いや、それだけじやない。さらにかがやくもの。……消えぬもの」 聲「何だ」 「あの數々の想ひ出……美しく、こゝろひらけ、悔いなき……」 聲「眞實か」 「……どうしたんだ、この不安は、なぜ俺はこんなに、いら立つんだ」 聲「さて……。お前は謙虚といふことを知つてゐるか。お前は頭を垂れたことがあるか。」 「……あゝ、謙虚……俺。不遜のやから……ゆるしてくれ、辛うじて謙讓といひ得る行爲のたつた一つあつたと、答へさせてくれ」 聲「そのとき、眞に謙讓だつたか。何にたいして……いかに……」 「もうやめろ。詰問するな。俺は自分で自分をさばく。」 聲「は、は、みづからをさばくか。愚かもの。死臭にまかれつゝなほみづからを欺くか」 「このわづかの安逸を奪つてくれるな。恐ろしい。殺してくれ。懼れから救つてくれ。殺せ」 艦長「御眞影はどうか」 責任者九分隊長から、私室に御眞影を奉持してすでに内側から扉に鍵した旨の應信がある。身を以て護られることは疑ひをゆるさぬ。 見れば航海長、掌航海長(操艦航行の責任者およびその補佐)が、ロープでからだを羅針儀に縛りつけようとしてゐる。もとより萬一浮上するごとき恥辱を、あらかじめ防ぐためだ。 とつさにこれにならはうとし、かねて用意のロープをまさぐつた。 「何をするか。若いものは泳がんか」參謀長の怒聲が、鐵拳をまじへて降つてくる。からだごとぶつかつてきて、はしから毆りつけられる。 意をひるがへし、齒をかみくだく思ひで繩を投げ捨てる。止むなく命にしたがつたが、憤懣は消えぬ。今に至つて脱出するとは、何のための特攻出撃か。 眞實は、數分前、長官をかこむさいごの協議に、作戰中止、人員救濟の上歸投の決定が、爲されたのだ。われわれだけが、それを知らされてゐなかつた。 僚艦にはすでに、その旨の信號が發せられ、大和の前檣頂の應急燈は、このとき兩側の驅逐艦に、必死に「チカヨレ、チカヨレ」を連發してゐたのだ。(驅逐艦は、沈沒の渦流或ひは誘爆の衝撃をおそれて、敢て近接せず。賢明の策だつた) さきに脱出した參謀たちは、一點射しきたる生還の光明を見たのだ。歸投の決定に參加し、身を處して生せながらへる途をさぐつたのだ。 われわれもそれを關知してゐたらどうだつたか。よく泰んじてこの身の顛倒に堪へ得たか。 いのちあると知るものは蒼ざめ、いのちなしと氣負ふものはきほひ立つ。 死出の同志はその半ばを失つていまや必死行に成算もなく、征途また半ばに達して燃料はわづかに歸路をみたすに足りる。――さいごの機會に下された伊藤長官の獨斷、作戟拾收命令。 狹い視界内を水平線が縱にふれながら壓迫してくる。どす黒い波形がたてにあふれるやうに押しひろがる。傾斜八十度。 暗號士から、暗號書の處置終了を傳聲管でとゞけてくる。おのれの腕に軍機書類をことごとく抱き、艦橋暗號室に入り内からこれをとざした、と。 鉛板を表紙に打つて沈降に萬全を期し敵の手中に落ちることを極力防止し、さらに潮水に消えるインキで印刷しかつ文字と異る紙型を重ねて刻印した暗號書、しかもなほ身を持つて機密を保持せねばならぬ。、 艦長「總員上甲板」さいごの下命。艦長傳令から口傳へで各部に傳へる。 寥々たる生存者。すでに時期を失したことは明らかだが、たゞ一人でも多く救はうとされたのだ。 あゝこの時この命令を、「總員退去」の意に解した者、一兵とてあつたか。 かつてない特攻葬送作戰の、征途半ばに展開した惡戰苦鬪の末に、誰か一縷の生還を期するものがあらう。まして殘存僚艦が、すでに作戰任務を解かれたと知るべきよしもない。 「總員死に方用意」、ひとしく待ち設けたもの、たゞこれのみ。 大和の最後が數刻おそくとも、燃料は歸還を保するに足りず、殘黨以て突入のほかなかつたのだ。 どこからか落下してきた暗號書二册を、無意識に海圖臺内に收める。 艦橋たちまち人影を見ぬ。 去るべきか、配置。無二の死所、艦橋。 そこで俺のすることはもうないのか。 刹那、不覺の焦燥、ゆかの椅子に指をかけ見張臺から脱出する。 さきの奴のかゝとにしたゝかに蹴落とされ、一度艦橋の底にころげこんだが、「やれやれ」とのどでぼやきながら匍ひ出す。 うしろに明るい聲、「よし、庵がしんがりだ」通信士、渡邊少尉。(彼は腹まで窓のそとに乘り出したとき、艦もろともに海に呑まれた。氣壓か、水壓か、窓から打ち出されるやうに撥ねて、水中に投じたといふ)窓をよじり出て、さいごにふりむけば、いとしい艦橋が、なにかほの暗く、横轉してひどく狹く見える。 航海長、掌航海長は、再三の脱出のすゝめもきかず、肩を引く腕もはらひのけ、互ひに身三箇所づつを固縛し合つて、膝をつきあはせてゐる。肩が一つのやうに組み合つてゐる。 操艦の責めはそれほど重いものか。 ともにかつと目玉をみひらき、迫りくる海面を睨み据えたまゝ、茂木中佐、花田中尉御最後。 艦長附森少尉の、沈沒の瞬時まで叫びつゞけた「頭張レ」の聲、兵の肩をどやしつゞけた姿が、いまも髣髴とする。鐵兜、防彈チヨツキをつひに捨てず、敢鬪をつくした彼、こゝろ憎き覺悟。(われわれは艦橋内部の配置ゆえに、かゝる重武裝を持たなかつた。) 屹立する艦體、露出した艦底、巨鯨などいふも愚か。 ふと身近に戰友あまたをみとめた。 彼の眉があまりに濃く、彼の耳があまりに青い。誰も幼い表情、いな、無表情といふべきか。 誰もが恍惚と、――彼らしいまな差しにふけつてゐる。俺も恐らくさうだらう。 何にみいつてゐるのか。 視界を蔽ふ渦、敷きつめた波の沸騰、巨艦を支へる氷かとみまがふその純白と透明。――しかも耳を聾する濤音が一そうの放心脱魂にさそふ。 見るは一面の白。きくはたゞ地鳴りする渦流。 「沈むか」はじめて、灼くがごとく身に問ひたゞす。 水が甲板を侵しはじめる。だが、人影がただ波に吸はれてゆくものか。 打ち出す彈丸のやうに、湧きあがる水壓が人體をはじきとばすのだ。それも思ひ思ひの方向に。 かるがると彈ねる。樂さうに――と見る間に、五十米の距離を一瞬に渦流はよぎつた。早くも足元に飛沫がせりあがり、いびつな鏡のやうないく面もの水が、(十面もそれ以上も)別々に躍りながら鼻先にきらめく。それぞれがなかに人間を浸し、人間は跳ねてゐるものも、逆立ちするものも―― この精巧な硝子模樣が、莊麗な泡沫の生地をいろどる。 しかもその泡にうかべた眞青の縞の、この美しさ、やさしさ、と思ふ瞬間、渦流に逸し去られてゐた。無意識に息を吸ひこんでゐた。 吹きあげられ、投げ出され叩きのめされるまゝ、八つ裂きの責め苦のうちに思ふ――さいごにちらと見た裟婆よ、ゆがみ顛倒しつゝも、たへなりしその色。――息を詰めた胸に、この色の慰めが明るい。 事前に遠く泳ぎ得て、この渦流を免れた者は皆無。かゝる大艦の脱出には、三百米の、渦流中心からの距離を要するといふ。救出決定はおそきに過ぎた。 總員戰死、これこそさだめであつたのだ。 ときに大和の傾斜はまさに九十度(かゝる例稀有、一般艦船は三十度で沈むのを常とする)、主砲々彈が、彈庫内で横轉し、細い尖端の方向に滑つて、天井に激突、誘爆を若起。 未曾有の例のため、この椿事を夢想する者もない。 艦すでに全く水中、身もまた渦中、 一發一艦必轟沈の徹甲彈、一發一編隊必墜の三式彈、計二千發を下らぬ。 先づ前部主砲彈庫が誘爆した。沈沒後約二十秒か。 沈沒前ならば、爆風直截のため、人肉はすべて彈片と化して四散しただらう。水流がわれわれを弄びつゝよく風壓を減殺してくれたのだ。誘爆なかりせば、もとより渦流のうち、急轉海底に沈降するほかない。 あなや覆らうとして赤腹をあらはし、水中に沒するとたちまち、一大閃光を噴き火の巨柱を暗天ま深く突き上げ、砲塔も砲身も、全艦の細片がことごとく舞ひ散つた。 さらに底から湧きのぼる暗褐の濃煙が、しばしすべてを噛みすべてを蔽ひつくす。 火柱は實に六千米(驅逐艦航海士の觀測) 八 鹿兒島よりよく望見しえたといふ(のち新聞紙にも報道)先端を傘のごとく開き、その中に米機多數を屠つた。 前部彈庫一方の誘爆のみでは、吹き起こす力が濁流に及ばなかつたのか。渦の中を引きまはされつゝ、やがて全身に異常なシヨツクを感じ(このとき爆風が吹き過ぎた)反對方向に逆卷かれると、頭上にうごめく厚い障壁に突きあたつた。――これこそすでに浮上して火雨の洗禮にさらされつゝある戰友のむくろだつたのだ。かれらは、身を以て、火箭から守つてくれたのだ。 そのうちふたゝび水面近くから引きもどされた。 約二十秒後、さらに後部彈庫の誘爆。爆風はこの身を水面に押し流した。 だが艦體の蔭にあつたわれら少數のものを除き、すべて身を彈巣となしたらう。またわれわれのみが水中爆傷をかはすことを得た。 艦橋上部の構造物に密着した者こそもつとも安全にいく重にも守られ、先に脱出しながら甲板に近付いたものは、近付くに從つて風壓に暴露したのだ。 しかもわれわれとて身にいさゝかの彈瘡を帶びぬものはない。傷あさきもののみがよくその後の苦鬪に堪へ得たのだ。 俺もつむじの左に長い裂傷と火傷とを受けた。のち軍醫官の診斷によれば、破片は相當大きく、たゞ頭部に切線方向に接觸したため致命傷を免れたといふ。 接觸時にはわが身もまた疾風のごとく吹き廻されつゝあつたが、それと彈丸とが切線方向にふれる確率はどれ程のものか。 人と生れて切線なるもののお蔭を蒙らうとは。笑ふべきか。 煙突に呑まれたものも極めて多い。恐るべきその吸引力(五歩右にあれば私も危かつた。歸還後、全生還者について、入水のときの位置をしらべたが、煙突の周圍は廣範圍の空隙をなしてゐた。) 火柱が逆落とした吹き落ち、赤熱の鐵片木塊が沖天に飛散し轟々落下して、辛うじていち早く浮きあがつた多くの戰友を殺傷した。 渦中迂回の末さいごに浮上したわれわれはその灼熱の空を見ず、たゞ濛々たる硝煙を仰いだ。 煤煙はやがて潮に斷たれて晴れ渡り、一面に泡立つ重油のうねりをのこすのみ。 渦に卷かれながらの、この身の責め苦にひきくらべ、何と他愛もない想ひが浮き立つてゐたことか――サイダーが十センチほど殘つてた……菓子も五袋はあつた……沈沒場所の水深、四百三十米は海圖でたしかめたが、この勢ひで落ちてゆけばどの位かゝるものか。……四百三十米の距離感…… だが呼吸が、つまつてきた。二度目のシヨツク後間もなく、つひに衝きあがる胸苦しさが口元までこみあげ、ガバと水を呑みはじめ――鼻と口から、ふいごで吹きこむやうに海水が入る。その顎のうごきを無意識にかぞへる……七……十……十五……十七……この分じや、からだじゆうが水であふれるまで、死ねんのだらう。まだか……まだだめか……殺せ、殺してくれ……目のふちがうす明るく、瞼の裏が黄色く、鼻孔のきな臭さが苦悶をぼかすやうで、足元もかるく、何もかも夢心地にかすみはじめ――ぼかつと、水面に出た。 誘爆が五砂おそくても敢へなかつただらう。 落下する火柱にあたらぬほどに迂回し、しかも呼吸の極限までに浮上したもののみが救はれたのだ。 「薄明るくなつたので、やれやれ冥途かとホツとしたよ」と渡邊大尉。「ナムアミダブツと、二度言つたやうな氣がする。念佛のことなんか考へたこともなかつたが」と迫候補生。 かく重疊した僥倖の、どの一つを缺いても、ふたたび日を見ることはできなかつたものを。 「大和轟沈 一四二〇(二時二十分)」敵味方同時に飛電を發する。間斷なき對空戰鬪二時間、ここに終止。 重油がしみてまづ目が開かぬ。息を吐きながらこじあけ、耳をぬぐひ、漂ふこと數分――なんだ、まだ裟婆か、冥途じやなかつたのか、浮きあがつためか。また生きるんだな、畜生―― 細雨降りしきる洋上に、重油、寒冷、機銃掃射、出血、鰭とたゝかふ。 ま近に見れば、灰色に光る波、うねりも荒く、重油を纏ひ密にねばる外洋の波。泥糊のごとき重油層。一面の氣泡、漂ふ無殘の木片。 放歌してみづからはげますもの。この身の重さに喘ぐもの。哀れ發狂して沈みゆくものもある。(重油の吸收は生理に異常をきたす) 重油の黒一色のため流血は見えぬが、深傷の者は苦しみ方がせはしい。 元氣過ぎて餘り跳ねるものは鱶の餌食となるのか、瞬間に吸ひこまれる。 若い兵の多くは、母を戀ふらしい斷末の聲をひき、力つきて沈んでゆく。天をつかむやうにさし上げたもろ手が、むなしくぬけ落ちる。それに笑ひ狂つた唱聲がまじる。 聲がわたる。「准士官以上は姓名申告。附近の兵をにぎれ」叫ぶあの頭から耳へのかたちは副砲長か。 ――さうだ、俺は士官だつた、兵隊をにぎる、一人でも多く收拾して次の行動を待つ。――俺はいま何を放心してゐたのか。 聲をからして、眼鼻もわかちがたい兵を集め、抑へ、しづかに、何ものかを待たせる。 脚絆をといて筏を組み、重傷者を拾ひあげねばならぬが、木塊はことごとく四裂して、筏に堪える長さのものがない。 重油に刺された目は、うねりをこえて波間に何を求めるか。―― 大和の艦影。鼠色の鐵塊。立泳ぎで伸びをしながら、憑かれたやうにさがし求める。 ある筈もない。無情な波のかなたに、あるのは泡、泡。 この足の踏まえてゐたものが消え失せるとは、何と想像もつかぬ寂莫なのか。 機銃掃射。心地よげな機影。海面を流れ過ぎる彈あしの帶。恐怖はない。――俺をよけてゆくのが不思議だ。 醜怪な漆黒の頭、顏面、その飄逸さにふつふつと笑がこみあげつゝも、舌端は無念の火を吐き舌打ちをつゞけ、絶えずあたりを睥睨する。 肌着までとつぷり水びたしになる。齒の根を鳴らし、こぶしを固めてかち合はせつゝ寒さに呻く。わけのわからぬ無念と、どうにもならぬ寒さと。 後生大事にまたがつてゐた椅子の切片がしきりに沈み、したゝかに水を呑まされる。苦澁のあまり手を離して見ると、忽ちひとりで沈んでいつた。クツシヨンの藁に海水が沁みこんで重くなつたものだらう。わざわざおもりをかゝえてゐたにもひとしい。 「御苦勞樣」聲に出して自分を慰めてやらうとしたが、聲がのどにつまり笑ひはひたひにかたまつて、こめかみがわづかに顫へただけだ。 あたらしい木片を求めようと身を轉ずると、身近かの兵の視線に遭ふ。魚のやうな臆病小心の眸。「安心しろ。お前なんかいぢめんから」さう呟きつゝよけて泳いで、やうやく細片數個を捉へる。 兩脇にはさんでから振れ向けば、その兵は體をひねつたまゝこちらをすかして見てなほ憎々しげだ。よく見れば、通信料の少年兵だ。少年。 何がこれ程までに、彼の血相を變へさせるのか。それはもうどうすることもできぬのか。 何ものかが胸をつき、立泳ぎの足先をじりじりと曲げて、これに堪へる。 凍死は睡るごとく深く安らかだといふ。このまゝ睡魔のおとづれを待てばよい。 だがむらがる兵の、重油に濁る目、喘ぐ口、この執念をいかにすべきか。 望むべくは、時を得てたゞ死を潔くすることのみ。ひたすらにかくみづからを鞭打つ。 ふと思ふ。この貴重の時。眞の音樂をきくのは今を措いて他にあらうか。 聽かう。心さへ直ければきける。一瞬を得るのだ。 自らの音樂を持たなかつたのか。すべては僞りだつたのか。 ――待て、今きこえてきたもの、たしかに、バッハの主題だ。 ――ちがふ。作爲だ。眩覺じやないか。 いな、思ふな。構へるな。 あゝこの時、わが身の救はれることを思ひ知つてゐたら、果してよく晏如を保ち得たらうか。 見よ、俺に向つて笑みかける顏。童顏の、あの少女のやうな野呂水長。 直接の部下ではなく、たゞ艦橋で數度傳令に使つたことがあるのみ。利發謹直、拔群の模範兵、彼。 丸顏の頬のかたはらに浮沈みする黒い木片。ほころぶ口元にかすかに齒の白さ。 俺が濁流からぬけ出したことを喜んでくれてゐるのだ。この眸、無私無心の笑ひよ。反射的に釣りこまれて笑ふ。 ふと涙ぐみ、涙あふれ、やむなく鼻を重油に漬けて顏をそむけた。――も早やともに死の手中にある俺たちが、こんなにゆたかな生をたのしむのはふさはない。――こらへるべきか。 この笑は、この涙は、いかなる心情か。 九 驅逐艦(月型)が全速で直進してくる。餘りにまともに艦首を向けてくる。救はれやうもないくせに、今更ら回避するのもおかしいが、兵をつれてわづかながら針路から遠ざかる。 至近まで來て面舵一杯をとり、艦尾を大きく左に振る――漂流者の間を縫い、逞しい波をかき立てて滑り去つた。 俺たちはその降り斜面の半ばに漂つてゐた。ここから數メートルふねに近くその波の頂きより向ふに出たものは、スクリユーに根こそぎ吸ひこまれた。 信號兵を總動員して、五箇の手旗が、「シバラク待テ」を發信してゐる。信號兵が旗をふりながら機銃彈でころげ落ちるのがよく見える。「シバラク待テ」――勇躍(俺たちを救ひ、戰鬪員を補充して突入するか) 軍歌をやめさせ、兵をはげまし、きたるべきものを待たせる。おのれのいのちに沒してゐる兵たちの目には手旗信號のうつるゆとりもない。 驅逐艦停止。空爆下決死。 泳ぎ着かねばならぬ。目測二百メートル。 はやる兵を抑へ、木ぎれを押し合つて泳ぎ進む。あせるのは禁物。餘力を盡瘁して、ゆきつくと力つきるのは分り切つてゐる。長い戰鬪と漂流、肉體はも早や極限にある。 雨着の裾、編上靴の重み、脚絆の煩はしさ、重油。飴の中を歩くにもひとしい。 二百メートルを泳ぎ切る永さ。漂流の全時間にもまさるか。 漂流時間――渦に落ちてから、事實はすでに三時間近くを經てゐたのだ。 だが實感では、せいぜい二十分足らすだ。この忌まはしい時間を、かくも逆に短くうけとるのは何ゆえか。――徹底した空虚の故。全き虚無的消耗の故だ。 命の綱を前にして、赤裸の人間を見る。 重油いよいよ濃く、波艦體に打ち返り、惡感が背筋を走つてやまぬ。 人を求め、聲を求めて見上げれば、焦慮たゞ堪へがたい。つれなくそゝり立ち、蔽ひかぶさる艦體。 眼底灼け、下肢はすでに麻痺感がある。 泥油にちぬられた綱、掌、群がりひしめく力。綱も掌も重油にしたゝつてゐる。 先頭切つてゆき着いた兵二人は、綱にとびつき、ずるつとそのまゝ、姿を沒した。――(助かつた)といふ氣のゆるみ。二どと浮きあがることはあり得ぬ。 三人目をうしろからかゝへ、右手首に噛りついて齒のかどで油をそぎ落とす。皮ごと剥ぐかも知れぬ。血のにじむほど綱を捲きつけてやり「あげーえ」と甲板に叫ぶ。一本の手首が辛うじて一人の體重を支へる。しづかに綱が引かれる。 と、その足首にしがみつく奴。靴は綱よりもすがり易い。引きあげられる奴の靴底を見のがし得ぬのだ。一本の手首は、二人の體重を支へ切れぬ。どうとはづれて、そのまゝ。 次からは、一人をあげさせると、下に構へてゐて、まとひつく腕をなぐり返す。 綱を見上げる目の執着の光り。かれらのこの生きんとするちから。尊いか、みにくいか。思ふな。一人でも多くの兵を救ふんだ。 生きんとするかれらは必死、生かさうとするわれも必死。格鬪。 ふと氣付くと、兵の影がない。いく名救へたか、わづか四名か。――過半數はむなしく水中に沒し去つた。 「急げ、急げ」と叫ぶ聲。甲板からだ。艦はしづかに前進をはじめた。 目の前に繩梯子一つ。ゆがんで垂れさがり、位置は艦尾にもつとも近く、スクリユーの渦はすぐ身近かだ。さいごの、ぎりぎりの機會。 のめるやうにくひさがる。兩手六本の指の第二關節が、わづかにかゝる。下半身を波が洗ふ。 ほしいまゝに浪費を重ね、ひとをなぐりつゞけてきた膂力が、いよいよおのれを支へるとき、このか細さはどうしたことか。衰へ、つきんとし、生へのわが執着を試みるかに、ぬけ去る。死力をつくして、この身とたゝかふ。 放してやれ、まゝよ、この指先きを、たゞわづかにゆるめただけで、それだけで――樂になるんだ。樂になりたい。樂になれ。死んでやれ――あゝ死のいかに甘く、いかに安易なことか。 「がんばれ、がんばれ」甲板から、耳を突き刺す兵の聲。兵ともつれ合つた俺の振舞ひも目撃してゐたのだ。眞情に生きたこの激勵。 「生きろ、生きろ、こゝまできて死んで相すむか。死んでゆるされるか」身うちに叫ぶ聲。 初めて、眞に初めて、生を求める意地がカツとひらく。 生きたい希ひじやない。生きねばならぬ責務だ。 肉體が消えて、魂魄がやうやくに燃え、すべてを奪はれたとき、眞のおのれが殘つた。 血と油にまみれ、繩にからまれた俺にあるものは、あの消えることのない火、止まぬ傾きのみ。 いまこそ死ぬべきとき、死をゆるされるとき。故にこそまた、生きるとき、生きねばならぬとき。 たゝかつて生きるか、くじけて死に果てるか、長い苦鬪の果て――二名の兵が兩手にとりつき、繩からもぎとつて甲板に投げ出す。倒れたまゝ顏をあげる力もない。たゞもうこの身を支へねばならぬことからまぬかれたのだと、とけるやうに全身に感ずる。 俺は、生きるべくさだめられたものか。 兵が軍裝をぬがせてくれ、のどに指を入れて重油を吐かせ、「貴重品はございませんか」ときく。貴重品どころか。その持ち合はせもない。毛布をまとはせてくれる。 「頭を怪我してをられます。治療室へ」と注意され、片手をあげると、指が二本きづの中に入る。痛みもない。氣もつかなかつた。 治療室を求めてゆくと、死屍壘々。いく度もつまづき倒れる。奮戰隨一の「冬月」だ。 倒れてゐると、突きとばすやうにしてゆく士官の横顏。「田邊少尉」なつかしい學友。さうだ、かれは「冬月」の航海士だつた。 全身重油まみれのこの姿を眺めまはして、「何だそのざまは」と哄笑する。だが彼こそ狹い廓下を膝で歩いてゆくじやないか。恐らく自分では氣付いてゐまい。數十時間、重要勤務に頑張りつゞけたのだ。足が立たず、膝をひきづつてゐる。 そのくせ人を笑ふとは。 治療室で、傷を縫合して貰ふ。軍醫官二名、しめた鉢卷が血しぶきに染まつてゐる。部屋の一隅は、天井から坂をなして死體の山。目藥を刺す。 艦内は、血なまぐさいなどと生やさしいものじやない。青臭く、のどがむせる。 作戰變更をきく。突入にあらす、歸投と。聲もなく唇をかむ。 發熱、相當。過勞と重油吸收のためか。惡感が止まぬ。 士官寢室に辿りつき、倒れるごとく折重なつて寢る。 「大和の乘員きけ、元氣なものは本艦の作業を手傳へ」怒鳴りこんでくる山森中尉、自分も辛うじて壁によりかゝつて立つてゐる。無念の形相だ。誰もからだがいふことをきかぬ。 夜通し、「配置ニ就ケ」の緊急ブザー、「對潜戰鬪」の號令をきゝつゞける。「雷跡右四本」などとつたへる聲、惡夢のやうにきく。――もう泳ぐのはたくさんだ。こんどこそ死んでやる。 ――終夜の潜水艦攻撃をからくも切り拔けた。被雷二本はいづれも不發でことなきを得た。 艦隊中殘存艦は「冬月」「涼月」「雪風」「朝潮」の四艦。「冬月」は「霞」を「雪風」は「磯風」をそれぞれ處分する。 「霞」「磯風」は停止のため、放置して敵に捕獲され、機密の洩れるのを防ぎ、敢へて撃沈するめだ。 横付けは五分間、かけられた二本の横木の上を、士官はすべて軍帽をつけ軍刀を提げ、公用書類を手に移乘してくる。五分を經過すれば殘員の有無にかゝはらず横木を叩き落とし、儀禮的に一周ののち、手練の魚雷一閃、處分を了る。 「涼月」、准士官以上總員、死傷、しかも機械、罐故障、「冬月」あてに、「ワレ後進シテ鹿兒島ニ向フ」と發信してきた(のち修理に成功、佐世保に變更。) 「冬月」「雪風」、八日朝佐世保に入港、「朝潮」同日晝、「涼月」薄暮、炎上のまゝ沈みつゝ入港し、たゞちにドツクに入る。 副長、「雪風」の短艇に救助された。あの痩躯で、しかも下部の配置から、いかにして脱出されたのか。 特攻作戰ゆえに、艦長の戰死は必至だ。戰鬪經過報告(きはめて貴重)および艦一切の殘務整理等、すべての責任は副長にある。これらはすべて充分豫期してゐたのだ。 やうやく救助艇に達したが、力つきて、まさに沈まんとするのを引きあげると、すでに困憊その極に達し、全く意識なく、やむなく毆打をつづけつゝ艦に急いだといふ。ひたひから後頭にかけて、長い彈瘡。 艦長附森少尉を洋上に目撃した兵がある。彼は濁流をのがれながらも、つひに還らなかつたのか。死をねがつて、過たずゆき着いたか。 瘡が深かつたか。武裝が重かつたか。 或ひは舷側で兵は救はうとし、鼓舞叱咤、その職に斃れ、その任に殉じたか。 いかに彼、死に挑み、正對し、たゝかひ、それをかち得、かくして生をつくし生を全うしたことか。 大和最後尾の機銃群指揮官、兵器が被彈して作動停止するや、部下の全員を砲塔下に集め、菓子を分け恩賜の煙草一本をのみまはしたが、何か心殘りあるかに思ひ、尿意だと氣付せ、一列にならび一齊に放尿した。そして總員肩をそろへ波濤の上に倒れた。だがかれのみ兵のさいごを見とゞけんと二、三歩おくれたためか、寸秒の間、ひとり微速に回轉するスクリユーに捲きあげられ、兵すべてを捲き落としつゝ、はからずも渦中から掬はれた。 「世にも恐ろしい巨大なものが眼前に迫つて、ハツト俺は氣を失つてゐた」と彼はいう。右肩から左脇腹に袈裟掛けに裂かれたが、武裝に守られて瘡も淺く、化膿を免れたのだ。 「朝潮」救助艇艇指揮「船べりに手をかけてどうしても離れん奴がゐるから引上げてやつたが、えらい苦勞した。」漂泊生還、數度におよぶ測的分隊長だ。しかも及ばす、治療室に運ばれたとき、すでに呼吸なし。人口呼吸二時間。 よく蘇生はしたが、苦悶の状、なほ見るに堪へなかつたといふ。水中爆傷による胸腔壓迫だ。 彼、半年前、驅逐艦先任將校として南海に轉戰したとき、集中爆撃を受けて撃沈されたが、甲板上にあらかじめ用意した筏を以てその乘員の大半を救出し、漂泊しつゝ僚艦を待つた。逃走中の海防艦に遭遇するや、これを横付けさせ、總員移乘してたゞちに戰鬪配置につき、みづからは艦橋にのぼり操艦および砲戰指揮を行ひ、氣魄と錬度とを以てよく危機を脱し歸投したといふ。剛睫氣鋭の彼、一觸人を斬り肺腑に迫る。 八日、朝、一夜を睡つて體力は全く恢復したが、目が痛い。甲板に出て顏を洗ふ。陽光がしみる。 内地の山の美しさに思はず嘆息をあげる。「やつぱり生きるのもいゝなあ」 だがこの春陽の明色は、數なき死のかたはらになほ保たれたわがいのちを愧ぢさせるほど、かがやかしくはればれしい。 大和の乘員總員集合。言ひ放つ副砲長。「貴樣らにはひと仕事したといふやうな色が見える。そんなことでどうするか。いまこそいよ/\貴樣ら古強者を必要とするのだ。すぐにでも俺について突つ込んでゆく。いゝか。」 同夜から佐世保軍港外の病院分院に入り、傷の治療をうける。 白衣の身、波近き病棟、花匂ふ夜、思ふこと多し。何か不甲斐なさに堪えず、病院長に願ひ出てとくにゆるされ、治療の途中から呉に赴き、新任地を求める。 副長「より以上の死に場所を得る。それで何をいふことがあるか」。 素志を達して、ふたたび特攻隊配屬となる。 休暇を賜はり、電報を打つて故郷に旅立つ。――父上、母上、諦めてをられるかも知れぬ。よろこびの心構へをしていただかねばならぬ。 家に着く。父、「まあ、一杯やれ」。母は――状差しに私からの電報を見つけた。文字が形をなさぬまでに涙ににじんだその一葉の紙。こんなに自分の死を悲しんでくれる魂のあることを、俺は少し忘れかけてゐはしなかつたか。一場の戰鬪に傲りかけてはゐなかつたか。頭の傷を、誇つてはゐなかつたか。内地の人の堪へてゐる生活の眞實を、少しでも汲まうとしてゐたのか。 あの數日の體驗、この乏しい感懷が、死線を超えた實感なのか。 さうじやない。 俺たちは萬に一の生をも期することはゆるされなかつた。みづから死を撰んだんじやなく、死に捉へられたのだ。 精神の死といはんよりは肉體の死。人間の死といはんよりは動物の死。 これほど安易な死はあるまい。 一瞬とて死に直面したことがあつたか。出港以來みづからを凝硯したことがあつたか。その間に、一刻の生甲斐をも感じ得られたか。 俺を死との對決から救つたものは、戰鬪の異常感だ。また去りゆく者の悲懷、あきらかな祖國の悲運だ。 ひるがへつて、あの報いられぬ無數の戰災の死を思ひ見たことがあるか。 自分の周圍にあのとき、父が、母がゐたとしたらどうか。脱出の機會、生還の餘地があつたとしたらどうだつたか。 悲慘な生活のうちに果てるとしたならどうだ。ただ値もない犧牲となると想へばどうだ。 あの俺の位置に立つて、俺のごとくに振舞はぬものはあるまい。婦女子といへどももとよりしかり。 必死の途はきはめて容易だ。死自體は平凡かつ必然だ。死の尊ふべきは、ただその自然さによる。大地自然が尊ばれるごとくに。 しかり。死の體驗の故に俺たちを問ふな。あれは死じやない。いかに職責を全うしたかを、その行ひのみを問ふてくれ。 俺は果たして分をつくしたか。分に立つて死に直面したか。いな、唯々諾々と死神に屈したのではなかつたか。特攻の美名にかくれて、死の掌中に陶醉したのではなかつたか。 ほかでもない、薄行の故だ。 俺は日常の勤務に精勵だつたか。一擧手一投足に至誠をつくしたか。一刻一刻に全力を傾けたか。 しかしこの試錬を賜はつたのは何ゆえか。 一たび死の與へられた幸運を謝すべきか。或ひはついに死を奪はれた僥倖を謝すべきか。 間髮、幽明の岐路、暗鬪のうちに逆行すればどうだつたのか。俺を迎へたものは死か。あの忌まはしく貧しきものが死か。死か。 思ふな。死はも早やお前にかゝはりはない。この時を、不斷眞摯への轉機となせ。 死は身に近ければむしろわれより遠ざかり、生が完きとき初めて死に直面する。 眞摯の生、それのみが死に對する正道。虚心。眞摯。――徳之島西方二十哩の海底に、埋積する三千のむくろ。かれら終焉の胸中はたしていかん。 底本:「軍艦大和」銀座出版社 1949(昭和24)年8月10日発行 |
戰艦大和ノ最期 吉田滿 碇泊 昭和十九年末ヨリワレ少尉(副電測士)トシテ「大和」ニ勤務ス 二十年四月「大和」ハ呉軍港二十六番浮標(ブイ)ニ繋留中 港灣ノ最モ外延ニ位置スル大浮標ナリ 來ルベキ出撃ニ備ヘ、艦内各部ノ修理ト兵器(ロケット砲、電探等)増備ノタメ、急遽「ドック」ニ入渠ノ豫定ナリ 二日早朝、突如艦内スピーカー「〇八一五(午前八時十五分)ヨリ出港準備作業ヲ行フ 出港ハ一〇〇〇(十時)」 カヽル不時ノ出港、前例ナシ サレバ出撃カ 通信士ヨリ無電オヨビ信號ノ動キ激シ、トノ情報トドク ワレヲ待ツモノ出撃ニホカナラズ 入渠準備ト稱シテノ碇泊モ、眞實ハ出動ノ僞裝ナラン 我ラ如何ニコノ時ヲ期シテ待チシカ 我ラ國家ノ干城トシテ大イナル榮譽ヲ與ヘラレタリ イツノ日カ、ソノ證シヲ立テザルベカラズ 我ラ前線ノ將士トシテ過分ノ衣食ヲ賜ハリタリ イツノ日カ、ソノ知遇ニ報イザルベカラズ 出撃コソソノ好機ナリ マタ日夜ノ別ナキ猛訓練モコヽニ終止シ、過勞ト不眠ノ累積ヨリ遂ニ我ラヲ解放セン 時ニ米軍沖繩本島上陸後、僅カニ十日ナリ 作戰ハ恐ラク同方面ニ發動セン 風評シキサニ艦内ニ流ル 關門海峽ヲ通過、佐世保ニテ裝備補給、釜山ニテ給油ノ上南ニ向フ、ト 或ヒハ豐後水道ヨリ堂々直進セン、ト 作戰海面|何處《イヅコ》 「大和」ニ從フ僚艦ハ何 艦隊編成如何 進ンデ決戰ヲ求メ、米艦隊ト雌雄ヲ決セン ソノ囁キヲ壓シ、凛タル艦内スピーカー相次イデ令達ス 「各分隊、可燃物ヲ上甲板ニ出セ」 「各自ハ身ノ廻リ整理、終レバ私物ヲ吃水線下ニ格納セヨ」 「艦内警戒閉鎖トナセ」(火災オヨビ浸水豫防ノタメ、通路ノ「ハッチ」、各室ノ鐵扉鐵蓋ヲスベテ閉鎖ス) 「陸上ヘノ最終便(連絡艇)ハ〇八三○(八時半)ニ出ス」 「艦内閉鎖状況、直チニ各分隊長點檢」 命令號令亂レ飛ブ 流レ去ル時ノ速サ 陸上ヘノ最終便ノ短艇指揮ヲ指命サレ、第一内火艇ニヨリ第一波止場ニ向フ 薄雲全天ヲ蔽ヒ、海面煙リ、睡ルゴトキ軍港街常ト變ラズ 朝凪ノタユタヒ 全速ニ直航スル艇 波止場ニ着キ用命ヲ達シテ、三度ビ未乘艦者ナキヤヲ確カム(出撃ニ際シ出港ニ遲ルレバ銃殺ノ定メナリ) モトヨリ未乘艦者、殘留者ナシ コレガ俺ノ足ノ踏ム最後ノ、祖國ノ土カ、フト思フ 全速返路ヲ「大和」ニ向フ 微風快シ 外舷ヲ銀白一色ニ塗裝セル「大和」、四周ヲ壓シテ不動磐石ノ姿ナリ 「大和」ニ近ク碇泊セル「矢矧」(新鋭巡洋艦)ヨリ發光信號「ワレ出撃準備ヲ完了シ……」 生氣ヲ孕ンデ點滅ス 歸艦 身ノ廻リ整理ノ必要ナシ 直チニ出港準備作業ニ就ク 出港 一〇〇〇(十時)「大和」出港 艦靜カニ前進ヲ始ム 出港ハ港内ニ本艦一艦ノミ 祕カニシテ悠容タル出陣 碇泊中ノ僚艦ヨリ、千萬ノ眼《マナコ》無言ノ歡呼ヲコメテ我ラニ注グ ワレコソ彼ラガ輿望ヲ擔フモノ 一兵マデモ誇ラカニ胸張ツテ甲板ニ整列ス 想ヘバ、巨艦往ツテ再ビ還ラザル最後ノ出港ナリキ 忽チ廣島灣ヲ過ギ水道ニカヽル 各電探兵器ノ作戰良好ナルヲ確カメ分隊長ニ報告 平常ノ如ク航行時ノ態勢變化ヲ利シテ、對空、對艦訓練ヲ開始ス 艦内スピーカー「入港ハ一七〇〇(午後五時)頃ノ豫定、入港後直チニ總員集合ヲ行フ」 出撃命令下達ノ總員集合ナルベシ 訓練ノタメノ旋囘、反轉ヲ繰返シツヽ針路ハ周防灘ニ向フ 艦長、幕僚(艦隊參謀)ト作戰討議ヲタヽカハス 海圖臺上ニ赤表紙、分厚ナル書類アリ 背文字ハ太ク「天一號作戰鬪係綴」 「天」號作戰トハ「囘生ノ天機」ノ意味ナランカ 海圖ハ沖繩本島周邊ノ詳細圖數枚ヲ重ネタリ 「コンパス」ヲ「大和」主砲ノ射程四十粁、十里(縮尺目盛)ニ合ハセ、米軍上陸地點ヲ中心ニ海圖上ニ弧ヲ描ク 上陸地點砲撃時ノ、本艦ノ豫定針路ナルベシ 「コンパス」ヲ握ル參謀ノ爪、力コモツテ白ク濁ル 押殺セル聲ノ應酬續ク 艦隊編成、針路、掩護機、發進時期等、難問題重疊セルゴトシ 待機 薄暮、三田尻沖ニ假泊ス 近路ノ狹水道ヲ通過シテ直行セル驅逐艦、ワレニ先ンジテスデニ數隻入港シアリ 機密保持ノタメ夫々別個ニ出港シ來リテ本錨地ニ假泊シ、陸上トノ交通ヲ絶チタルマヽ最後ノ出動命令ヲ待ツ ソノ間、數日ノ休息ニ囘天ノ英氣ヲ養ヒ、無我ノ心境ニ必死ノ鬪魂ヲ磨カントス 總員集合 戰鬪略裝ノマヽ總員上甲板ニ整列 管制下ノ暗夜、鎭マル三千名ノ呼氣 艦長、本作戰ノ目的――(米沖繩上陸軍ノ迎撃)、本艦ノ使命――(ソノ全キ根幹)ヲ述ベラレ、總員ノ奮起ヲ切望セラル 副長「神風大和ヲシテ眞ニ神風タラシメヨ」 米機動部隊近接、明早朝來襲ノ公算大ナリトノ報アリ 我ラガ出足ヲ挫カントスルカ 戰鬪服裝ノマヽ眠ル 心逸ルモ熟睡ス 三日早朝、米軍來襲ノ報 配置ニ就ク 急速出港、第一警戒航行序列ニ散開ス(各艦ノ位置ヲ哨戒及ビ防禦ニ適スル如ク散開シテ航行ス 第一序列ハ防空、第二ハ砲戰對勢ナリ) 不時ノ來襲ニ即應スベク内燃機關ヲ暖メテ待機ス(通常ノ冷却状態ヨリ「スクリュー」ノ作動マデニハ二十四時間ヲ要ス) 潮ノマニマニ漂泊 出動ハ米機動部隊ノ避退後ナルベシ 焦ルベカラズ 午前、B29一機直上ヲ通過、高空ヨリ盲爆ヲ行フ 投彈中型一箇 ワレニ損害ナシ サレド寫眞偵察ヲ行ヘルカ本艦隊ノ動向スデニ蔽ヒ難キカ 午後、ラヂオ情報頻リニ入ル 本土ノ各地、熾烈ナル空襲ヲ受ケツヽアリト 「シバラク待テ」 心ニ叫ビテ止マズ 我ラガ出撃奏功セバ、銃後ノ慘禍ヲ些カナリトモ輕減シ得ベキモノヲ 日ノ落ツルヲ待チ、昨夜投錨セシ錨地ニ再ビ假泊ス カヽル非常ノ時、數日前兵學校ヲ卒業セシ新候補生五十餘名、大發(木造艇)ヲ横附ケテ乘艦シキタル 「大和」乘組ノ光榮ノ故カ、紅顏、夜目ニモ鮮ヤカナリ 數組ニ分レ直チニ艦内見學ヲ始ム 艦内ニ清新ノ氣香ル 彼ラガ眞ニ戰力トナルハイツノ日カ 通信科所屬ノ敵信班、米機間ノ緊急信號ヲ傍受シ、即刻飜譯シテ艦橋ニ報告シキタル 「米機勤部隊ハ明日一日各地ヲ空襲ノ上、東方ニ避退セン」トノ情報ヲ確認 避退ニ追尾シテノワガ出動カ 出撃迫ル 夜食ウマシ 通信士中谷少尉「ハンモック」ニ俯シ、聲ヲ忍ンデ嗚咽ス 肩ヲ搖スレバ一葉ノ紙片ヲ差出ス(彼、「キャリフォルニヤ」出身ノ二世ナリ 慶應大學ニ遊學中、學徒兵トシテ召サレタルモ、弟二人ハ米陸軍ノ下士官トシテ目下歐洲戰線ニ活躍中トイフ 醇朴ノ好青年ニシテ、勤務精勵、特ニ米軍緊急信號ノ飜譯ハ彼ガ獨擅場ナリ サレド彼ガ二世出身ノ故ヲ以テ、少壯ノ現役士官ヨリ白眼視サレ、衆人環視ノウチニ罵倒サレシコトモ一再ナラズ 深夜、當直巡囘中、甲板上ニ佇ム人影ヲ見シハカヽル折ナり) 一葉ノ便箋ニタド/\シキ文字ニテ誌ス 「オ元氣デスカ 私タチモ元氣デ過シテイマス タダ職務ニベストヲ盡シテ下サイ ソシテ、一シヨニ、平和ノ日ヲ祈リマシヨウ」 待望ノ、母上ノ手紙ナルベシ 家族ヨリノ便リヲ手ニシバ/\欣喜雀躍スル戰友ノウチニ、タダ獨リカツテ遂ニコノ歡ビヲ知ラザリシ彼 故郷ヲ敵國ニ持チタル者ノ不運トシテ諦メ居タル彼 タダ中立國「スイス」ヲ通ジテ僅カニ通信ノ途殘サレタルモ、最後ニ、死ノ出撃ノ寸前ニ、コノ機會ノ到來シタルカ 字數ノ制限ノ故カ、文面アマリニ簡潔アマリニ直截 「一シヨニ、平和ノ日ヲ祈リマシヨウ」萬感籠メタルコノ一句ハ、今シモ米語ノ暗號解讀ヨリ解放サレシバカリノ彼ガ肺腑ヲ、完膚ナキマデニ貫キタルベシ 母上ガ心遣リノ、痛キマデニ眞實ナルヨ ワレ言葉モナク「ハンモック」ニ上ル 四日早朝、米機來襲ノ報、配置ニ就ク 年前午後、前日ト同樣滿ヲ持シテ漂泊警戒ス 驅逐艦「響」漂泊中、浮游セル機雷ニ觸レ水煙ヲ上グ 被害ハ比較的輕微ナルモ、汽罐ニ損傷ヲ受ケ航行不能ニ陷ル 止ムナク僚艦「初霜」ノ曳航ニヨリ、呉ニ囘航ト決定 遠ザカル艦影 見送ル殘存艦ノ甲板上ニ、羨望ノ眸、悔恨ノ嘆息 一五一五(三時十五分)ヨリ一九一五(七時十五分)マデ副直將校ニ立ツ 警戒中ノタメ通常ノ舷門勤務ニ非ズ、艦橋勤務ナリ 艦内ノ綱紀萬般ヲ掌握スル副直將校 乘艦當初、弱冠、シカモ學徒出身士官ノコノ身ニ、四時間當直ノ勤務ノ如何ニ苛烈ナリシカ 一瞬ノ隙ナク艦ノ四周ヲ警戒シ、碇泊艦ノ動向ニ留意シ、更ニ艦内日課ヲ計畫、實施、點檢セザルベカラズ 副直將校ハ當時駈足ニシテ歩行ヲ許サレズ 艦長、士氣振作ノ方策ニ關シ所見ヲ述ベラル 「明日ヨリ警戒配備ノマヽ、綜合訓練及ビ體育別課行ハン」ト 呉出港以來、連日ノ緊急配備ノタメ、傳統ノ猛訓練ハ中絶ノ止ム無キニアリ 二日間ノ休養ニ兵員ノ體力ヤヽ挽囘セルモ、ナホ積日ノ過勞ヲ挽囘スルニ至ラズ サレド氣力ノ弛緩ヲコソ戒ムベシ 訓練再開ハ士氣振興ノ妙策ナラン 米機動部隊ワガ出動ヲ牽制セバ、ワレマタ最善ヲ盡シテコレニ對セン 夕食後、「矢矧」ヨリ第二水雷戰隊司令官來艦、「大和」坐乘ノ第二艦隊司令長官ト要談サル 作戰細目ノ檢討ナラン ノチ明ラカニサレタルモ、九州鹿屋基地ニアル豐田聯合艦隊司令長官∃リ逐一令達サレツヽアル「天號」作戰ニ對シ、第二艦隊長官伊藤中將ハ、當初ヨリ強硬ナル反對ヲ表明シ來レルモノノ如シ 反對論據ノ第一ハ、ワガ空軍掩護機ノ皆無(鹿屋ヨリノ作戰命令ニヨレバ一機ノ友軍機ナシ) 第二、ワガ海上兵力ノ劣勢(ワガ方ハ驅逐艦八ヲ含ム十隻、敵ハ少ク共數十隻ヲ下ラズ) 第三、發進時期ノ遲延(下命ハ米機動部隊避退ノ半日後ナリ コレヲ半日繰上ゲ避退軍ニ全ク膚接シテ進攻スルヲ可トス) 少クトキ發進時期ノ最終的決定ハ現地指揮官ニ一任スベキガ當然ナリト、伊藤長官ハ切齒扼腕セリトイフ 艦内極メテ平穩ナリ 通信參謀ヨリ、艦隊各艦宛書類送附ノ短艇指揮ヲ下命サル 暗號關係緊急書類ナルベシ 艦橋ニ上レバ、星ナキ暗夜、遙カノ陸岸ニ本日ノ空襲ニヨリ炎上中ラシキ微光二點ヲ認ム 二一〇〇(九時)、用命ノ完全ナル達成ヲ期シテ、各艦ノ假泊位置、風向風速、潮流、海圖ヲ確カメ、手帳ニ誌シテ舷門ニ急グ 豫想所要時間二時間半 使用艇ハ馴染ミノ一號大發(木造艇)艇長ハ手練ノ椙本兵曹 一面漆ヲ流シタルゴトキ背景ノウチニ艦影ヲ捉ヘ、マサグリツヽ舷門ニ近附ク マサニ絶好ノ夜間短艇達着訓練トイフベキカ 乘艦當初、連日朝食前ノ一時間ヲ、黎明達着訓練ニ捧ゲタルヲ想フ スベテ今日ニ備ヘタリ 艇長オヨビ艇員二名、終始默々トシテ着艦、離艦作業ニ從フ 僚艦九隻、暗黒ノ洋上ニ坐シテ動カズ ソコニ今ツヽシミ眠ル、五千ノ將兵 散開シテ假泊セル全艦ヲ一巡、「大和」ニ急グ フト水面ニ、薄緑ニ妖シク映ユルモノ 艇尾波ニ漂フ夜光蟲ナリ 燐光ノ潮《ウシホ》ノ如シ 歸艦、任務完了ヲ通信參謀ニ報告 二三三五(十一時三十五分) 艦橋ニ上レバスデニ一點ノ微光ヲ認メズ サキニ炎上中ノ陸岸モ鎭火シタルベシ 寢室ニテ電測訓練記録ヲ整埋 梁ニワタセル「ハンモック」ニ殆ンド蔽ハレタル机ニ、匍フゴトク向フ 終ツテ瞑目スルコトシバシ 春暖遠カラズ ワガ迎ヘンハ何處《イヅコ》ノ春ナルカ 「ハンモック」ニ入リ本ヲヒラク 平常ハ訓練ニ次グ訓練ノタメ、讀書ノ餘暇ハ皆無ナルモ、出撃セバ多少ノ閑暇アラント期待シテ、ソノ直前艦底圖書庫ヨリヤウヤクニ探シ來レル一册、哲人「スピノザ」ガ傳記ナリ 明日ヨリ訓練再開セバマタ寸暇ヲモ奪ハレン 僅カニ數頁ヲ讀ミタルノミナレバ、突入マデニ讀了ノ見込ナシ ソレモマタヨカラント思ヒツヽ讀ミ耽ル 柔ラカキ小説體ノ行文、蜜ノゴトク心ヲ包ム 入隊後ノ一ヶ月、ホトンド連夜、本屋ヲサ迷ヒ血マナコニ背文字ヲ追ヒ求メ居ル惡夢ニ惱ミシヲ想フ 五日午前、砲術長ヲリ電探射撃訓練ノ實施細目ニ關シ照會アリ 曳的艦「矢矧」トシテ、大標的ニ對スル射距離、曳索長ハ何米ヲ妥當トスルヤト(超短波ニ感度良キ金網ノ標的ヲ「矢矧」ニ曳航セシメ、コレヲ電測兵器及ビ通常ノ測距儀、射撃盤ニヨリ同時ニ觀測シ、測距離、測角度ヲ對比シツヽ電探ノ精度ヲ錬磨ス) 前日ノ艦長下命ニ基キ、艦内各部ノ訓練再開 綜合應急訓練熾烈ヲ極ム 艦長、徹底的ニ缺陷ヲ指摘、反覆訓練ヲ續ケラル 將兵ノ錬度未ダ十分ナラズ 艦橋、痛烈ノ叱聲ニ殺氣漲ル 最期ニ及ンデ、ナホ切磋琢磨ヲ要セントハ シカラバ、ワレ未熟ナリトノ自覺ト、必勝ノ信念トノ相剋ヲ如何ニセン 必勝ノ信念トハ、ソモ/\何ゾヤ 惑フナカレ 得難キ試煉ナルベシ タダ突入ノ機ニ全能ヲ發揮センノミ 午後、豫期ノゴトク米機動部隊避退トノ報ニ接ス 機イヨ/\熟セルカ 沖繩本島ノ戰況ニ關シ大本營發表アリ 上陸米軍ハ着々戰果ヲ擴大シツヽアルモノノゴトシ コノマヽニ推移セバ、最後ノ血壘ト頼ム沖繩本島モ、失陷ハタダ時間ノ問題ナリ 沖繩喪失ハスナハチ本土決戰ナリ 現兵力ヲ以テ本土決戰ヲ呼號スルモ成算全クナシ 我ラヲ待ツモノ、タダ必敗ノミカ 胸中火ノゴトキモノアリ 本作戰ノ使命、ソノ重責ヤ加何ニ 訓練休憩中、「櫻、櫻」ト叫ブ聲 見レバ三番見張員ナリ 見張用ノ定置雙眼鏡ヲ陸岸ニ向ケ、目ヲ當テシマヽ手ヲ上ゲタリ 早咲キノ花ナラム 先ヲ爭ツテソノ雙眼鏡ニ取附キ、コマヤカナル花瓣ノ、一ヒラ/\ヲ眼底ニ灼キツケントス 櫻、内地ノ櫻、サヤウナラ 霞ム「グラス」ノ視野一杯ニ絶エ間ナク搖レ、ワレヲ誘フゴトキ櫻 一次室(通稱「ガンルーム」、中尉少尉ノ居室)ニテ、戰艦對航空機ノ優劣ヲ激論ス 戰艦必勝論ヲ主張スルモノナシ 「『プリンスオブウエールズ』ヲヤツツケテ、航空機ノ威力ヲ天下ニ示シタモノハ誰ダ」皮肉ル聲アリ 設計當時、スナハチ十年ノ昔、無敵ヲ誇りタル防禦力モ、躍進セル雷撃爆撃ノ技術ト壓倒的教量ノ前ニ、ヨク優位ヲ保チ得ル道理ナシ タダ最精鋭ノ錬度ト、必殺ノ鬪魂トニ依リ頼ムノミ 出撃前夜 一七三〇(午後五時半)頃、突如艦内スピーカー 「候補生總員退艦用意」 「各分隊酒ヲ受取レ」 「酒保開ケ」(無禮講開始ノ下命ナリ) 出動準備ノ第一段階カ 候補生ノ退艦用意極メテ迅速 終ツテ一次室ニ招ジ入レ別レノ盃ヲカハス 氣負ツテ赴任シ來りシヨリ僅カニ二日ナルモ、彼ラナホ春秋ニ富ム 決死行ニ拉致スルニ忍ビズ マタ新乘艦者五十名ノ戰鬪參加ハ、ムシロ戰力ヲ減殺セン コノ際退艦ハ止ムナシ 「大和」乘組ハ彼ラ多年ノ宿願タリシモノヲ 「シツカリヤツテ下サイ 私達ノ分マデドウカオ願ヒシマス」口々ニ叫ビツヽ酒ヲ注グ 何ヲ以テコノ懇願ニ應ヘンヤ 航海士鈴木少尉(學徒出身)、乾盃セントシテ盃ヲ手ヨリ滑ラシ床《ユカ》ニ落セバ、微塵ニ摧ケ散ル 首途ノ盃ヲ毀ツハモツトモ不吉ナリトイフ 彼、色ヲ失ヒ、悄然トシテ爲ストコロナシ 侮蔑ノ眸一齊ニ彼ニ注グ――コノ期《ゴ》ニ及ンデ凶兆ナンゾ恐ルヽニ足ラン サレド蔑視スル者ヨ、自ラハ恃ムニ何ヲ以テスルカ 何ニヨツテ平靜ヲ保ツカ 彼ラ眞實ハ己レノ死ニ、選バレタル者ノ光榮ヲ妄想セルニ非ズヤ 絢爛タル特攻ノ死ヲ假想シ、異常ノ故ノ興奮ニ縋レルニ非ズヤ 或ヒハ更ニ、萬死ノガルヽ餘地ナキ征途ニアツテ、己レノミハハカナキ生還ノ夢ニ陶醉セルニ非ザルカ 彼ラミヅカラヲ僞レルナリ 彼ラヲ迎フルモノ、マサシク死ナリ カノ唯一ニシテ、紛フコトナキ死ナリ 如何ニソノ裝ヒハ華麗ナラントモ、死ハ死ニホカナラズ 彼ラコノ色褪セタル死ヲ受ケ容ルヽ用意アリヤ 鈴木少尉ヒトリ虚心ニシテ、己レガ死ニ目覺メタルナリ 直視セヨ ミヅカラヲ詐ルナカレ 何ビトノ盃モ、ヒトシク摧カレタルナリ タダコノシバラクヲ、辛ウジテ雙手ニ支ヘ居ルニ過ギズ 死ハスデニ眞近シ 遮ルモノナシ 死ニ面接セヨ 死ヲ捉ヘヨ 死、眞實ニ堪フルモノ イナ眞實ヲノミ求ムルモノ コノ時ヲ逸シテ、己レガ半生、二十二年ノ生涯ヲ總決算スベキ折ナシ アヽワガ怯懦ナルヨ 今ニシテ酒氣ヲ招キ、以テ耳目ヲ掩ハントハ 蠻勇ト衒氣ニカクレ、死ニ怯エタル戰友ヲ嘲笑セントハ 甲板士官(軍紀オヨビ作業關係ヲ主掌)江口少尉、食後ノ無禮講ヲ控ヘ、ナホ精神棒ヲ揮ツテ兵ノ入室態度ヲ叱責シ居り 足ノ動キ、敬禮、言辭、順序、スベテニ難點ヲ指摘シテ際限ナシ サレバ一次室ヘノ入室ハ、カネテ兵ノモツトモ忌避スルトコロナリ 老兵一名、ソノ怒聲ニ叩カレ、魯鈍ナル動作ヲ繰返ス 眸乾キテホトンド勤カズ 彼、一日後ノ己レガ運命ヲ知リタレバ、心中全ク空虚ナルカ、擧動アマリニ節度ナシ 精神棒唸ツテ臀ヲ打ツ 鈍キ打撲音 横ザマニ倒レ、青黒キ頬、床《ユカ》ヲ撫デ廻ル 年齡恐ラクハ彼ガ息子ニモ近キ弱冠、江口少尉 ソノ氣負ヒタル面貌ニ溢ルヽモノ、覇氣カ、ムシロ稚氣カ 「イヽ加減ニ止メロ、江口少尉」叫ブハ加藤(豫備)中尉 江口少尉、滿面ニ朱ヲ注ギ、棒ヲヒツサゲテソノ前ニ立チフサガル 室長臼淵大尉、席ヲ立チ(食事終了、解散ノ合圖ナリ)歩ミ寄ツテイフ「江口、野暮ナコトヲスルナ ソノ兵隊ヲ引張ツテ貴樣ノ分隊ニ歸ツテ、一シヨニ大イニ呑メ 今夜限リヂヤナイカ オ互ヒ樣ダ 今頃ニナツテ締メタツテ役ニ立タン 兵隊ハツイテ來ナイゾ」 彼、兵學校七十一期出身ノ俊秀ナリ 艦内切ツテノ剛勇、總員ノ士氣ヲヨク掌握セルモ、反面人情味厚ク人生談義ヲ好ム ワレ乘艦當初、臼淵大尉ニ鐵拳ヲ見舞ハレシコトアリ 一夜、夜間訓練ヲ終ヘ廊下ヲ寢室ニ急グ折、一名ノ兵、ワガ十數米前ヨリ左折シテ、左舷ノ通路ニ消ユ サレド少クトモ數秒間、ワレト目ヲ合セシハ疑ヒナシ 明ラカニ缺禮ナリ 通常鐵拳五發ニ値スル不埒ナリ 「待テ」ト一喝シ、踵ヲ返シテ走リ寄ルヲ見レバ、少年ノ通信兵ナリ 制裁ニ怯ヘ、肩フルハシ、シキリニ顏色ヲ窺フ 「貴樣ハ今ソコヲ曲ル前ニ、俺ヲ見タ筈ダ」 「見マシタ」 「ソレヂヤ何故敬禮シナインダ」 必死ニ瞳ヲ凝ラシ、唇ヲ噛ム 「缺禮シタト自分デ知リナガラ廊下ヲ曲ツテシマフ 必ラズアトニ、イヤナ氣持ガ殘ルダラウ ドウダ」 「ハイ」訝シゲニ見返ス 「ソレハ自分ヲ僞ルカラダ 敬禮ナンテイフモノハ、一擧手一投足トイツテ、アラユル動作ノ中デ一番簡單ナモノナンダ ソレヲヤリ惜ンデ、イヤナ後味ヲ殘ス コンナ詰ランコトハナイヂヤナイカ」 「ハイ」 「コレカラハ、上官ノ後姿ヲ見テモ、イヽカラ敬禮ヲシテミロ 大シタ努力ハ要《イ》ラン ソシテ氣持ガイツモ樂ダゾ」 「ハイ、ハイ」片頬ニ皺ヲ浮ベ、相好ユガム 「分ツタラ、ソコデ思ヒ切リ敬禮シテ見ロ」 數囘、力一杯ニ拳手ノ禮ヲ繰返シ、小躍リシテ走リ去ル 「待テ」振リ向ケバ臼淵大尉ナリ、ト思フ刹那、鐵拳ワガ左頬ニ一閃 虚ヲツカレテヨロメク 「不正ラ見テモナグレンヤウナ、ソンナ士官ガアルカ」ムシロ蒼ザメテ間近ニ立ツ「スツカリ見テ居ツタ 貴樣ノ言フコトモ一應ハ分ル 恐ラク自分ノ場合カラ考ヘテ、コノ際ハナグリツケルヨリモ、説教ノ方ガ效キ目ガアルト考ヘタンダラウ」 「サウデス 自分ノ場合ダケデナク、兵隊ニ對シテモ正シイト思ヒマシタ」 「貴樣ハドコニ居ルンダ 今娑婆ニ居ルノカ」 「軍艦デス」 「戰場デハ、ドンナニ立派ナ、物ノ分ツタ士官デアツテモ役ニ立タン 強クナクチヤイカンノダ」 「私ハサウハ思ヒマセン」 シバシ睨ミ合フ 「貴樣ニモ一理ハアル ソレハ分ツテル――ダカラヤツテ見ヨウヂヤナイカ 砲彈ノ中デ、俺ノ兵隊ガ強イカ、貴樣ノ兵隊ガ強イカ アノ上官ハイヽ人ダ、ダカラマサカコノ彈《タマ》ノ雨ノ中ヲ、突ツ走レナドトハイフマイ、ト貴樣ノ兵隊ガナメテカヽランカドウカ 軍人ノ眞價ハ戰場デシカ分ランノダ イイカ」 散會後、各所屬分隊ノ居住區ニ遠征 痛飮マタ快飮 「デッキ」ニ「マット」ヲ敷キ詰メ、車座ニ腰ヲ下シテ端ヨリ餘興ヲ出ス 多クハ本調子ノ俚謠民謠ナリ 冷酒ヲ一合四勺入リノ湯呑ミニドク/\ト注ギ、一氣ニ呑ミホス 直屬ノ部下十六名、一人々々ニ注ギ廻ル 出撃ナリ 斗酒ヲモナホ辭スベキヤ 乘員三千 スベテミナ戰友、一心同體ナリ 廊下ニテ二水、(二等水兵)ニ遭フ 他分隊ノ兵ナレバ面識ナシ 微醺ノ故カ、紅顏サラニ輝キテ可愛シ 酩酊ノ身トシテ能フカギリ激シキ答禮ヲ返シ、行キ過ギントスルヤ、閃メクモノアリ――我ラノ墓場、互ヒニ遠カラズ ムシロワレト君トハ、一ツノムクロナリ 肩ヲ抱ヘテ、「オ前」ト呼ビカケタキ衝動湧クモ、辛ウジテコラフ 一次室ニ戻リ鯨飮ヲ重ネツヽアレバ、艦長、副長ト共ニ一升瓶ヲ兩手ニ提ゲテ現ハル コレヲ圍ンデ五十名ノ中、少尉、放歌亂舞、トドマルトコロヲ知ラズ 見事ナル艦長ノ禿頭ヲ撫デサスリ、果テハ叩ク者アリ 副長、「スクラム」ニ揉マレテ上衣ヲ裂ク フト二人ヲ見失フ ヤガテ二三〇〇(十一時)頃 副長自ラ艦内スピーカーニヨリ全艦ニ令達「今日ハ皆愉快ニヤツテ、大イニヨロシイ コレデ止メヨ」異例ノ親愛ナル語調ナリ 血ノ氣、顏ヨリ引キ、肩、腕ニ痙攣ハゲシ 叱聲、怒聲、飛ビ散リ擴ガツテ壁ニ響ク 醉ヒ癡レテ、ワガ胸ニ何カ疼キ居シ心、ハタト脈動ヲトドム 六日、〇〇〇〇(〇時)頃、驅逐艦一隻ヅヽヲ左右兩舷ニ横附、急速燃料搭載作業開始 機關科全員ヲアゲテノ敢鬪ナリ 併セテ、不要物件卸シ方續行 月明ノ夜、出撃ノ氣全艦ニ漲ル 〇一〇〇(一時)頃、B29一機、「大和」直上ヲ通過ス 「作業ソノマヽ、對空戰鬪配置ニ就ケ」 餘リニ高々度ノタメ發砲セズ 本艦偵察ノ執拗サニ齒ギシリス 連日「大和」ノ動向把握ニ盡瘁シ來リシ米偵察部隊ハ、ツヒニ出動用燃料搭載中ノ好機ヲモ逸セズ 〇二〇〇(二時)頃、候補生イヨ/\退艦 横附ケノ驅逐艦ニ移乘ヲ完了 横木ヲ走リ拔ケ、振リ向クヤ、聳立スル「大和」ノ艦橋ヲ仰ギ擧手ノ禮ヲ捧グルコトシバシ カネテノ夢想タリシ「大和」乘組、シカモ出撃ノ寸前ニ斷念セザルベカラズ 最近他ノ部署ヘノ轉勤辭令ヲ受領セル者二十數名、同ジク横木ヲ渡ツテ移乘 「出撃ヲ前ニシテ退艦スルノハ、マコトニ殘念デアリマス」 マナ尻ハ無念ゲニ翳リタルモ、ソノ口吻ニ、危フク虎口ヲ脱セシ安堵窺ハル 戰鬪部署ニ勤務困難ノ重患者十數名、醫務科員ニ附添ハレテ退艦 四十歳ヲ過ギタル老兵ノ處置ヲ如何ニセンカ 戰鬪上殆ンド無力ナルハ明ラカナリ マタソノ戰死ノ、遺族ニ甚大ナル打撃ヲ與フル者多シ 青年士官相ハカリ、右二點ヲ論據トシテ彼ラノ退艦ヲ艦長ニ具申シ、各分隊毎ニ適格者ヲ摘出、名簿ヲ提出ス 幹部協議ノ上、一部ノ退艦ヲ許サレタリ 不要物件卸シ方終了「大和」ノ戰裝着々ト整備 未明、燃料搭載作業終了トトモニ兩側ノ驅逐艦ノ横附ケヲ離ス 驅逐艦ノ重油搭載量モトヨリ論ズルニ足ラズ シカモソノ提供ニヨリ辛ウジテ「大和」ノ所要搭載量ヲ充セリ 恐ラクハ艦隊保有總量ヲ傾ケテノ補給ナルベシ 明日ヨリ驅逐艦ノ罐ハ干上ルカ B29三機コノ時直上ヲ通過、燃料搭載終了ヲ確認セルナラン 出撃ノ朝 早朝、艦内スピーカー「出港ハ一六〇〇(四時)」「一八〇〇(六時)、前甲板ニ總員集合」當直將校ノ蠻聲、氣負ツテ擴聲器ニ透ル 出撃ノ日キタル 艦内閉鎖状況ヲ重ネテ點檢 準備作業殆ンド完了 艦内昂リユク緊迫ノウチニ平靜ヲ保ツ 氣重キ無聊ニ苦シム 艦内スピーカー「郵便物ノ締切ハ一〇〇〇(十時)」 氣進マザルモ、皆勵マシ合ヒ、家ニシタヽメントス 遺書ノ筆ノ進ミ難キヨ サレドワガ書ク一文字ヲモ待チ給フ人アリ ソノ心ニ報イザルベカラズ アヽ、母ガ歎キヲ如何ニスベキ 先立チテ散ル不孝ノワレニ、今 母ガ悲シミヲ慰ムル途アリヤ 母ガ歎キヲワガ身ニ代ツテ負フベキ途殘サレタルヤ 更ニワガ生涯ノ一切ハ、母ガ愛ノ賜物ナリトノ感謝ヲ傳フベキ途モナシ イナ、面《オモテ》ヲ上ゲヨ 涙ヲ拭ヘ ワレニアルハタダ戰ヒノミ ワレハタダ出陣ノ戰士タルノミ 蒼ザメシ母ガ、頬ヲ打チ伏スオクレ毛ヲ想フ勿レ カクミヅカラヲ鼓舞シツヽヤウヤクニ認ム 「私ノモノハスベテ處分シテ下サイ 皆樣マス/\オ元氣デ、ドコマデモ生キ拔イテ行ツテ下サイ ソノコトヲノミ念ジマス」 更ニ何ヲカ言ヒ加フベキ 文面ニ訣別ノ思ヒ明ラカナレバ、哭キ給ヒ歎キ給フベシ ワレニ言葉ナシ ワレタダニ俯シテ死センノミ ワガ死ノ、豐カナル實リアランコトヲ希フノミ ワレ幸ヒニ悔イナキ死ヲカチ得タラバ、喜ビ給ヘ 祝福シ給ヘ 讀ム人ノ心ノ肌ニ觸ルヽ思ヒニ、讀ミ返ス能ハズ 郵便箱ニ急ギ押シ入レ、私室ヲノガレ出ヅ カクシテ、ワレト骨肉トヲ結ブ一切ノ絆絶タレタリ カヽル折ニモ、父ガ愁ヒヲ顧ミルコト極メテ簿キハ如何ナル心カ 晩酌ノ一獻ヲ傾クル後姿ノ、ヤヽ淋シゲナルヲ一瞬腦裡ニ描キシノミ 世話好キノ佐々木少尉、戰友一人々々ニ、「貴樣モウ遺書ヲ書イタカ」 面《オモテ》ヲソムクル者アレバ、「何ダマダ書カンノカ オ前ニハオフクロガヰナイノカ 一字デモイヽカラ書イテヤレヨ」促シツヽペンヲ握ラス 中、少尉ハ一次室ニ集合、恩賜ノ煙草、酒保品ヲ支給サル 菓子、ポケット・ウィスキー、サイダー等豐富ナリ 辛ウジテ軍裝ノ兩ポケット内ニ收ム 哨戒直オヨビ航海科ノ當直員ニシテ、逸早ク各配置ニ就クベキ者數名アリ 何レモ純白ノ風呂敷ニ最後ノ清裝一式ヲ包ム 軍刀ヲ提ゲテ閾ニ立チ、踵ヲ揃ヘテ默禮スルヤ身ヲ飜シテ去ル コレ見收メナリ 「元氣デヤレ」「貫樣ラシク死ネヨ」 見送ル戰友ノ餞《ハナム》ケノ言葉ナリ 彼ラガ怒レル肩、コノ猛キ別辭ヲ浴ビテサラニ怒ル 骨肉ニモヒトシク交ハリ濃キ戰友ノ訣別ナルモ、肩ヲ打チ手ヲ握ル者ナシ 淡々タル默禮ノミ コノ一瞬ノ默禮ノ底ニ流ルヽモノ、モツトモ沈痛ナル別離ヲ全ウスルニ足ル 兵員室ニ行ク 最後ノ通信ヲシタヽメ居ル者多シ 直屬部下ノ橋本一水(一等水兵)、「キャンバス」ヨリ立上ツテ敬禮ス 足下ヲ見レバ、鉛筆書キノ便箋數葉ノ上ニ遺髮一掴ミヲ載ス 彼、四十歳、四人ノ子持ニシテ裟婆ノ職業ハ八百屋ナリ 好人物ナルモ成績ハ芳シカラズ ノチ下士官ノ談ニヨレバ、彼出撃ニ先立チテ、私物ノ一切ヲ(紙一枚マデ)取纏メ故郷ニ郵送セリトイフ 老兵ニハカヽル例少カラズ 前後二囘、B29各一機ノ高高度偵察アリ 米軍ノ關心ハスデニ出動時刻ノ豫測ニアルカ 作戰發動 午後、出港準備作業 再ビ入港ヲ約束セザル出港ナリ 身ノ廻リ品ヲ定メラレタル戰鬪配置ニ置ク 前檣頂ニ近ク艦橋直下ノ上部電探室、水面ヨリ四十五米ノ高サナリ コレヨリ如何ナルコトアルモ配置ヲ下ラザルベシ 電探兵器ノ作動極メテ良好 大軍艦旗、前檣頂ニ翩翻タリ 「大和」ハコヽニ戰鬪準備ヲ完了ス 一六〇〇(四時)出港 旗艦「大和」 第二艦隊司令長官伊藤整一中將坐乘 コレニ從フモノ九隻 巡洋艦「矢矧」以下驅逐艦「冬月」「涼月」「雪風」「霞」「磯風」「濱風」「初霜」「朝霜」悉ク百戰錬磨ノ精鋭ナリ 日本海軍最後ノ艦隊出撃ナルベシ 選バレタル精強十隻 直チニ「大和」中心ノ輪型陣ヲ布キ、原速(十二ノット)ニテ悠々豐後水道ヲ直進ス 夜氣ノウチ、精氣ヲ祕メテ、眞白キ波濤ヲ噛ム驅逐艦 矢ハ弦ヲ放タレタリ 交代シテ哨戒直ニ立ツ 哨戒當直ノ將校ナリ 艦橋(艦ノ心臟且頭腦)中央ニ勤務シテ、艦内各部ノ見張員ヲ掌握シ、ソノ報告ヲ取捨選擇シテ、艦長以下ノ各幹部ニ復誦直結スルヲ任務トス 警戒航行中モツトモ重要ナル當直ナリ 右二米ニ長官(中將)左一米ニ參謀長(少將)新參ノ學徒兵トシテ、コノ身ノ幸運ヲ想フ 一八〇〇(六時)總員集合 清裝 最後ノ總員集合ナラン 解散セバヤガテ戰鬪配備ニ就キ、再ビ集合ノ機會ナシ タダ各配置ニアツテ、渾然一體ノ戰力發揮ヲ期スルノミ 「大和」、舷側ニ横波ヲ蹴立テヽヒタスラニ進ム 艦體構造ノ無類ノ耐波性ニヨリ動搖全クナク、艦橋ニアレバサナガラ大地ニ立ツ如キ錯覺ヲ起ス 今ゾ我ラ十隻ヲ貫ク一筋ノモノ、コノ潮流ヲ冐シテ驀進ス スデニ作戰發動セルタメ、艦長、艦橋ヲ離ルヽ能ハズ 副長代ツテ、聯合艦隊司令長官ヨリ艦隊宛ノ壯行ノ詞ヲ達セラル 「本作戰ヲシテ戰勢挽囘ノ天機トナサン」ト 君ガ代奉唱 軍歌 各艦相呼應シテコダマノゴトシ 萬歳三唱 清明ナル月光、仰ギ見ル前檣頂、我ラ何ヲカ言ハン 解散シテ一番主砲右舷ノ「ハッチ」ヲ下リントスレバ、前方錨甲板ニ佇ム士官ヲ認ム 太キ眉ノ影、月ニ冴エシ頬ニ落チタル横顏ハ森少尉ナリ 艦内隨一ノ酒量、闊達ノ氣風ヲ以テ聞エ、マタソノ美シキ許婚者ヲ以テ鳴ル彼 常ニソノ身ヲ離サザル寫眞ノソノ美貌ト、シバシバ屆ク便リノ水莖ノ鮮ヤカサトハ、カネテ一次室全員ノ羨望ノ的ナリ 暗キ波間ニ投ゲシ眸ヲワレニ返シ、耳元ニ怒ルゴトク言フ 「俺ハ死ヌカライヽ 死ヌ者ハ仕合セダ 俺ハイヽ ダガア奴《イツ》ハドウスルノカ ア奴ハドウシタラ仕合セニテツテクレルノカ キツト俺ヨリモイヽ奴ガアラハレテ、ア奴ト結婚シテ、ソシテモツト素晴シイ仕合セヲ與ヘテクレルダラウ キツトサウニ違ヒナイ 俺ト結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ツタ 俺ハコレカラ死ニニ行ク ダカラソレ以上ノ仕合セヲ掴ンデ貰フノダ モツトイヽ奴ト結婚スルンダ ソノ仕合セヲ心カラ受ケル氣持ニナツテ欲シインダ 俺ハ眞底悲シンデクレル者ヲ殘シテ死ヌ 俺ハ果報者ダ ダガ殘サレタ奴ハドウナルノダ イヽ結婚ヲシテ仕合セニナル 俺ハソレガ、ソレダケガ望ミダ ア奴ガ本當ニ仕合セニナツテクレタ時、俺ハア奴ノ中ニ生キル、生キルンダ…… ダガ、コノ俺ノ願ヒヲドウシテ傳ヘタライヽノダ 別レル時、自分ノ口カラモ繰返シ言ツタ ソレカラモ、何度トナク手紙デ書イテキタ 俺ヲ超エテ、仕合セヲ得テクレ、ソレダケガ最後ノ望ミダト……シカシソレヲドウシテ確カメルノダ ア奴ガ必ズサウシテクレルト、何ガ保證シテクレルンダ 祈ルノカ ドウシテモ祈ラズニハ居レナイ、コノ俺ノ氣持ハ本當ダ ダガソレダケデイヽノカ 自分ヲ投ゲ出シテ祈レバソレデイヽノカ ドウカア奴ニマデ聞エテクレト腹ノ底カラ叫ブシカナイノカ」 荒キ語勢ニ涙ナシ セキ込ムバカリノ切願ナリ ムシロ怒リナリ 怒リヲ吐ク彼 肯キツヽ言葉モナキワレ コノ二人ヲ蔽フハ、コレガ見收メノ清澄ノ月空 二人ノ足ヲ支フルハ、再ビ踏ムコトアルマジキ、堅牢ノ最上甲板 許婚者ナル方ヨ 君ハ類ヒナキ愛ヲ獲タリ 彼ガ全心コメタル祈リハ、キヽ入ラルヽベシ 必ズキヽ入ラルヽベシ 彼、怒レルマヽニ口ヲ結ビ、凝然ト足下ノ波頭ニ見入ル 漆黒ノ海面ニ、ハカナク、マタ逞シククダケ散ル銀白ノ波頭 コノ眼ニ涙滲ミ、オモテヲソムク 頬ヲ吹キ過グル風冷シ 好漢森少尉、明日ハ天晴レノ働キニ散リ果テン 立チツクス彼ガ肩ヲ突キ放スヤ、ワレ「ハッチ」ニ走リ寄リ、「ラッタル」ヲ駈ケ下リヌ モ早ヤスベテハ定マレリ 決死ノ出撃ナリ 今ヤ如何ニセンスベモナシ 彼祈リヒタスラニ祈リツヽ散華シ、ソノ人ツヒニ祈リニ應《コタ》ヘン 他ニ途アルベカラズ 何カモドカシク、床《ユカ》サヘ踏ミ拔カント苛立チツヽ走リ續ク 直チニ配置ニ就キ敵ニ向フ 艦橋ニテ作戰談ヲ聞ク 本作戰ハ、沖繩ノ米上陸地點ニ對スルワガ特攻攻撃ト不離一體ノ作戰ナリ 特攻機ハ、過重ノ炸藥(通常一瓲半)ヲ裝備セルタメ徒ラニ鈍重ニシテ、優秀ナル米迎撃機ノ好餌トナル惧レ多シ 本沖繩作戰ニオイテモ米戰鬪機ノ猛反撃ハ必至ニシテ、特攻攻撃挫折ノ公算極メテ大ナリ シカラバソノ間、米迎撃機群ヲ吸收シ、ソノ防備ヲ手薄トスル囮《ヲトリ》ノ活用コソ良策トナル シカモ囮トシテハ、多數兵力吸收ノ魅力ト、長時間吸收ノ對空防備力ヲ兼備スルヲ要ス 「大和」コソカヽル諸條件ニ最適ノ囮ト目サレ、更ニソノ壽命ノ延引ヲハカツテ、護衞艦九隻ヲ選ビタリ 沖繩海面作戰ハ一應ノ目標タルニ過ギズ 眞ニ目指スハ米精鋭機動部隊集中攻撃ノ標的ニホカナラズ カクテ全艦、燃料搭載量ハ辛ウジテ往路ヲ滿タスノミ 歸還ノ方途、成否ハ一顧ダニサレズ 世界無比ヲ誇ル「大和」主砲、砲彈搭載量ノ最大限ヲ備ヘ氣負ヒニ氣負ヒ立ツモ、ソノ使命ハ一箇ノ囮ニ過ギズ 僅カニ片路一杯ノ重油ニ縋ル 勇敢トイフカ、無暴トイフカ 萬一、沖繩上陸地點到達ノ場合ノ積極作戰モ企圖セラレタルハ言フマデモナシ 「大和」主砲ニヨル上陸軍攻撃、コレナリ 砲彈滿載量(二千數百發)ノウチ、徹甲彈(通常艦船撃沈ノタメニ用ヒラレ、貫徹力大、マタ海面突入時ノ水柱ハ二百五十米ニ達ス)ヲ以テ輸送船團ノ覆滅ヲ期シ、三式對空彈(航空機撃墜用ノモノ、彈片ハ著シク細分シ、隈ナク四散ス 一齊射ニヨリ十機撃墜ノ實績アリ)ヲ以テ人員殺傷ヲ期ス 本作戰ノ大綱次ノ如シ――先ヅ全艦突進、身ヲ以テ米海空勢力ヲ吸收シ、特攻機奏效ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバ、タダ挺身、敵ノ眞唯中ニノシ上ゲ、全員火トナリ風トナリ、全彈打盡スベシ 若シナホ餘力アラバ、モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戈ヲ交ヘン(分隊毎ニ機銃小銃ヲ支給サル) 世界海戰史上、空前絶後ノ特攻作戰ナラン 終戰後海軍當局ノ釋明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ驅逐艦三十隻ノソレニ當ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戰ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、數千ノ人命ヲ喪失シ、慚愧ニ堪ヘザル如キ口吻アリ カヽル情況ヲ酌量スルモ、ソノ餘リニ稚拙、無思慮ノ作戰ナルハ明ラカナリ 果シテソノ成否如何 士官ノ間ニ、激シキ論戰續ク 必敗論壓倒的ニ強シ 「大和」出動ノ當然豫想セラルベキ諸條件ノ符合 米軍ノ未ダカツテナキ愼重ナル偵察 情報ニヨリ確認セル如ク、沖繩周邊ニ待機ノ優秀且大量ノ機動部隊群 大海戰ニ前例ヲ見ザル航空兵力ノ決定的懸隔 併セテ發進時期ノ疑問 提灯ヲ提ゲテヒトリ暗夜ヲ行クニモ等シキ劣勢トイフベシ 豐後水道ニテ逸早ク潛水艦ニ傷ツカン 或ヒハ途半バニシテ航空魚雷ニ斃レン(青年士官ノ大勢ヲ占メタルコノ豫測ハ、餘リニモ鮮ヤカニ的中セリ) 痛烈ナル必敗論議ヲカタハラニ、哨戒長臼淵大尉(一次室長)、薄暮ノ洋上ニ眼鏡ヲ向ケシマヽ低ク囁クゴトク言フ 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイフコトヲ輕ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、眞ノ進歩ヲ忘レテヰク 敗レテ目覺メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ 今目覺メズシテイツ救ハレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂヤナイカ」 彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日一次室ニ沸騰セル死生談義ノ、一應ノ結論ナリ 敢ヘテコレニ反駁ヲ加ヘ得ル者ナシ 出撃氣配ノ濃密化ト共ニ、青年士官ニ瀰漫セル煩悶、苦惱ハ、夥シキ論爭ヲ惹起セズンバ止マズ 艦隊敗殘ノ状既ニ蔽ヒ難ク、決定的敗北ハ單ナル時間ノ問題ナリ――何ノ故ノ敗戰ゾ 如何ナレバ日本ハ敗ルヽカ マタ第一線配置タル我ラガ命スデニ旦夕ニ迫ル――何ノ故ノ死カ 何ヲアガナヒ、如何ニ報イラルベキ死カ 兵學校出身ノ中、少尉、口ヲ揃ヘ言フ 「國ノタメ、君ノタメニ死ヌ ソレデイヽヂヤナイカ ソレ以上ニ何ガ必要ナノダ 以テ瞑スベキヂヤナイカ」 學徒出身士官、色ヲナシテ反問ス 「君國ノタメニ散ル ソレハ分ル ダガ一體ソレハ、ドウイフコトトツナガツテヰルノダ 俺ノ死、俺ノ生命、マタ日本全體ノ敗北、ソレヲ更ニ一般的ナ、普遍的ナ、何カ價値トイフ樣ナモノニ結ビ附ケタイノダ コレラ一切ノコトハ、一體何ノ爲ニアルノダ」 「ソレハ理窟ダ 無用ナ、ムシロ有害ナ屁理窟ダ 貴樣ハ特攻隊ノ菊水ノマークヲ胸ニ附ケテ、天皇陛下萬歳ト死ネテ、リレデ嬉シクハナイノカ」 「ソレダケヂヤ嫌ダ モツト、何カガ必要ナノダ」 遂ニハ鐵拳ノ雨、亂鬪ノ修羅場トナル 「ヨシ、サウイフ腐ツタ性根ヲ叩キ直シテヤル」 臼淵大尉ノ右ノ結論ハ、出撃ノ數日前、ヨクコノ論戰ヲ制シテ、收拾ニ成功セルモノナリ 敵地ニ入ル 艦隊ノ先鋒ハ漸ク水道ノ半バニ達セントス コレヨリ敵地ニ入ル 右ニ九州、左ニ四國、シカモ制海、制空權ヲ占メラル 潛水艦ニ對シ電波哨戒ヲ始ム 徹宵哨戒ナルベシ タダ全力ヲ以テ戰ハンノミ 上部電探室ニ行ク 電源ノ熱氣ニ蒸セ返リ、人イキレニ苦シ 當直非番ノ兵四名、暗キ一隅ニ折重ナツテ眠ル 彼ラガ肉體、ナホ幾時間ノ生命ヲ保ツカ 數時間、ハタ十數時間カ 泥ノ如ク朽チ果テヽ睡リ、無心ノサマナリ 疲勞スデニ餘リニ重キカ 兵器室ニ入レバ、當直員四名、愼重緊密ナル探信ヲ行ヒツヽアリ 平靜ニシテ訓練時ト異ラズ 本艦ノ電測資料ハ九艦ノ動向ヲ主導ス 彼ラガ一擧一動ハ、刻々ニ全艦隊ヲ支配セルナリ 連日連夜ノ猛訓練ノ、成果ヲ示スハタグコノ時 ソノ躯幹ニ漲ル生氣、眉間ニホトバシル嬉々タル自負 幸ヒナルカナ彼ラ 逆探、二方向ニ米潛水艦ラシキモノヲ探知 電探ヲ同方向ニ指向セバ同樣微感度アリ(米艦電測器ノ輻射セル電波ヲ先ヅ逆探知機ニヨリ捕捉シ、同方向ニ間歇的ニワガ電波ヲ指向シテコレヲ確カム 逸早クワガ方ヨリ電波ヲ輻射セバ、ワガ所在ノ探知セラルヽハ必定ナレバ、コレヲ防ギツヽ敵ノ動向ヲ捕捉センタメナリ) 潛水艦ハ二隻乃至三隻カ 終始觸接シキタルモノノゴトシ 夜間ノタメ視覺兵器ハ殆ンド用ヲ爲サズ 止ムナク水中聽音機ヲ同方向ニ指向シテ、魚雷發射音ニ備フ 發射音ヲキケバ、音高、音向、音速ニヨリソノ進路ヲ測定、囘避スルコトヲ得ン 水道半バニシテ早クモ出現セル潛水艦 ソノ觸接動作ノ巧妙敏活 コレヨリ窺フモ、米軍ノ攻勢ノ尋常ナラザルコトハ明ラカナリ 魚雷集中發射ヲ覺悟スベシ 通信科敵信班、米艦ヨリ「サイパン」宛ノ緊急電話ヲ傍受 暗號文ニヨラズ、平文ノマヽナリトイフ ワレヲ侮レルカ 内容ニ機密性低クソノ要ナキカ 「大和以下九隻、基準針路何度、速力何ノット……」刻々詳細ニワガ足跡ヲ報告シツヽアリ 「敵サシニ教ヘテ貰ツタ方ガ早イヂヤナイカ」苦笑スルハ航海長 豫期セルトコロナルモ、ソノ觸接ノ餘リニ周到ナルニ一驚ス 一一四五(十一時四十五分)艦橋立直十五分前 立直セバ、主任電測士大森中尉ト交代シ、艦橋ニテ幹部ニ電測状況ヲ報告セン 夜間對潛警戒ノ焦點ナレバ、身ニ餘ル重責ナリ 電探室ノ張リ詰メタル「カーテン」ヲ押シ開キ、烈風ニ吹キツケラルヽマヽ、一歩一歩艦橋ヘノ「ラツタル」ヲ上ル 時ニ暗雲月ヲ蔽ヒ、蔽ヒツクシテイヨ/\密ナリ 視界ニ一點ノ光源ナク、涯ナキ闇黒アルノミ コノ身飜弄セラレテ紙ノ如ク「ラッタル」ニ纏ヒツク 待テ ココニテ最後ノ家郷禮拜ヲナサン 絶好ノ機會ナリ コノ機ヲ失セバ、再ビ好機ナシ 禮拜ノ動作ヲ傍觀スル者一人トテアランカ、神聖ヲケガス心地シテ心進マズ 明日ノ陽昇レバスデニ遲シ ヨクゾ今氣附キタル、感謝スベシ 本艦ノ針路ヲ基準ニ、家郷ノ方向ヲ推定シテ正對スルヤ、手摺ヲ握リシメ頭ヲ垂ル 手摺ノ鋲ノ肌、掌ニ密着シテヒヤヽカナレドモ、ウチニハ汗バミシ暖カ味アリ 父、母、姉、一年前陣沒シテ今ハ亡キ兄 明ラカニワガミ前ニ立チ給フ サラニ知己、師友、數々ノ瞳、面差シ、網膜ヲヨギリテ消ユ ワガ短キ生涯ニ忘レ難キ人々ヨ ソレラスベテノ姿、眼界ヲ蔽ヒ、身近クマノアタリニ拜ス 色モナキ幻ナレド、何レモ淋シゲナル微笑ミハマサニ髣髴タリ 「有難ウゴザイマシタ」唇ニ覺エズ呟キヲ繰返ス 唇、間歇シテ痙攣ヲ刻ム 幼クホシイマヽナルコノワレヲ、ヨクゾ許シ、交ハリ給ヒシ人々 ソノ御厚志、庇護、更ニ鞭撻 ワレハ死ナン 易キ死ノ道ヲ得タリ 死ハ安樂ナリ 無爲ヘノ逃避ナリ 死ヲ惠マレズ、ナホ生ヲ強ヒラルヽ人ヨ 明日ヨリノ日々ヲ如何ニ堪ヘ、如何ニ忍ビ給フヤ ソノ艱苦、ワガハカリ知ルトコロニ非ズ ヒトリ忍苦ヨリ逃レユカンワレ、ゲニフサハシカラズトモ、ソノ行ク手ニ一筋ノ光ヲ希フコトヲ許シ給ヘ 君ガ明日ノ日ニ歡ビヨアレ、新生ノ幸《サチ》アレヨカシ 生命ノ尊サヲコソ輕ンジ給フ勿レ イツマデカヽル陶醉ニ浸ルコトヲ許サレン アヽワガ知リ得タル至幸ノ時 頭ヲ上ゲ、手摺ヲ傳ヒツヽノボレバ、吹キ募ル突風、片々ノコノ身ヲ艦橋ノ潛リ窓ヨリ吹キ入レタリ 艦橋モトヨリ燈火管制下、鈍キ薄明ノウチエ殺氣漂フ 人ノ動キ殆ンドナク、固着シテ影繪ノ如シ 各人所定ノ位置ニ根ヲ据ヱ、自ラノ任務ニ沒入ス 快キ充實感漲ル 士官、下士官、傳令兵、凡ソ二十名 「何度、何々……」電測ニヨル方向距離ノ報告 「異常ナシ」水中聽音機ノ報告 ソノ聲ノミ鋭ク沈默ヲ破ル 夜間識別ノ便ノタメ、艦内帽ノ後部ニ夫々螢光板ヲ附ス 長官ハ「シチ」、艦長ハ「カ」、副長ハ「フ」ト、ソノ淡光アタリヲ領シテ頼モシキモ、僅カニ動カバ夢幻ノ文字ノ如ク美シク、ムシロ微笑マシ ワレ戰ハン ワレ戰ハン アスハ戰ヒノ日ナリ ワレハヒタスラニ戰ヒテ悔イザルベシ 接岸航行可能ノ地形ニ達ス 遂ニコレマデ魚雷音ヲ聞カズ 外洋ニオケル總攻撃ヲ期シテカ、米潛水艦ハタダ偵察ニ從事シタルノミニテ、魚雷發射ヲ控ヘタリ 望外ノ事トイフベキカ 陸岸高ク海邊モ深キ九州寄リニ、接岸航行ニ移ル 夜間潛水艦ニ對シモツトモ安全ナリ(攻撃ヲ一方向ニ局限シ、電波ニヨル捕捉ヲ困難トス) 暗夜ノタメ視界極メテ惡ク、坐礁ノ危險ヲ防ギ、陸岸マデノ距離ヲ電測シツヽ極力接岸シテ進ム 「大和」裝備ノ電測兵器ニヨレバ、測拒誤差ハ五十米以下ナリ 突入マデスベテカク細心周密ナルベシ 大事ノ身ナリ 「大和」モトヨリ攻守ノ中心勢力ナリ 陸測距離ヲ逐一報告シツヽ、ソノ與《アヅカ》ルトコロ餘リニ重大ナルヲ想ヒ、息ヲヒソメテ昂リヲ抑フ 外洋ノ朝 七日黎明 大隅海峽ヲ通過 西南進ヲ續ク 「大和」ニ常時搭載スル〇式水上偵察機六機ノウチ、呉ニテ五機ヲ却シタルモ、殘ル一機ヲコヽニ「カタパルト」ニヨリ射出シ、鹿兒島基地ニ避退セシム コノマヽニ推移セバ、アタラ海底行ノ悲運ハノガレ難ケレバナリ 艦隊上空ニ味方直衞機ナシ 進發直後ニスデニ發動セル米有力偵察部隊ヲ前ニシテ、水上特攻艦隊ハ一切ノ空軍援護ヲ剥奪サル コレヨリ再ビ味方機ヲ見ルコトナシ タトヘ三百五百ノ戰鬪機群出動ストモ、延ベ三千機ノ壓倒的猛襲ニ對シテハ、蟷螂ノ斧ニ過ギズトノ見解アリ 一方、呉軍港ニ待機セル「天城」「葛城」等ノ新鋭空母ハ、コノ時出動ノ噂ニ湧立チタリトイフ モシ出動實現セバ、呉方面ノ第一級搭乘員、戰鬪機ハ全ク殲滅セラレ、シカモ何ラ得ルトコロナカリシナリ ナホ鹿屋基地ヨリ翔立テル偵察機二十機、艦隊ノ前方數十マイルニアリテ哨戒ニ當レルモ、日出後間モナク連絡ヲ絶チシマヽ遂ニ全機歸還セズ 米前衞機群ニ包圍サレ、全滅ヲ喫シタルナラン ソノウチニ伊藤司令長官ノ子息ノ搭乘機ヲ含メリトイフ 一人息子ナリ 航空機零トノ中央ノ指令ニ對シソノ非ヲ力説、遂ニ二十機ヲ獲得シタルハ、ホカナラヌ伊藤長官ナリ 掩護機搭乘員ノウチニワガ息子ヲ含ム公算少カラズトハ、十分豫期セラレタルベシ ムシロ祖國ノ命運迫リタル折、榮エアル決死行ヲ父子共ニスルハ宿願タリシヤモ知レズ 子ハ父ヲ衞ラントシ、父ニ先ンジテ玉碎シタルナリ 日ノ出ト同時ニ、潛水艦ハ電探ノ感度ヨリ逸走シ、交代ニ「マーチン」偵察機觸接ヲ始ム 夜間潛水艦、晝間航空機ハ觸接ノ常道ナリ 艦隊各艦對空砲火ノ射距離限度附近ヲ、巧ミニ旋囘シツヽ追躡シキタル 機ヲ見テ發砲セバ鮮ヤカニコレヲカハシ、再ビヤヽ近接シテ追躡ヲ續ク 掩護機皆無ノ弱點ヲ露呈 出動以來、ワガ動靜ハクマナク把握セラレツヽアリ シカモ雲高低ク視界極メテ不良ニシテ、觸接機ヲモ見失フコト一再ナラズ 況ンヤ敵機動部隊ノ早期發見ハ不能ナリ 對勢ノ不利著シ 對空用電探活躍ヲ始ム 刻々ニ觸接機ノ測距離、測角ヲ報告シキタル ソノ所在、手ニトル如ク明ラカナリ サハレソノ追躡ノ如何ニ巧妙ナルカ 時ニハ果敢、時ニハ細心、天候ヲ利シテ雲間ニ隱顯シツヽ觸接ヲ續ク 全艦速力二十「ノット」前後、時間間隔五分ニテ「之」字運動ヲ行フ(全艦一齊ニ複雜ナル「ヂグザグ」運動ヲ行ヒ、五分毎ニソノ形ヲ反復スルヲイフ 徒ラニ直進セバ、直チニ針路ヲ明示シ、待機スル潛水艦ニヨリ容易ニ照準セラル ソノ隱蔽運動ナリ) 編隊右翼ノ「初霜」、突如落伍ヲ始ム 旗旒信號「ワレ機關故障」ヲ掲グ 艦影忽チニ遠ザカリ、急速修理中ノ旨打電シキタル 脱落カ凄慘ノ豫感、背筋ヲ走ル 艦橋、常ノ如ク平靜ナリ 幕僚ノ動キ、信號ノ授受ヤヽ活溌ナルノミ 嵐ノ前ノ靜ケサカ 朝食 尋常無事ノ氣分ニテ味ハフ最後ノ食事ナラン 暗キ室内ニテ攝ルニ忍ビズ 電探室前ノ「ラッタル」ヲ攀ヂ上リ、電波輻射用「ラッパ」ノ臺上、一坪餘リノ平面ニ出テ握リ飯ヲ頬張ル 大空ニ包マレタル、絶好ノ位置 潮風ノ吹キ落トサント募ルヲ、柱ニ足ヲマキツケテ支フ コノ好位置ヲ獨占スルハ不可ナリ 電探名測手ノ片平兵曹ヲ呼ビ、膝ヲ接シテ共ニ喰フ 彼、默々トシテ急ギ食シ了ルヤ、鋭ク會釋シテ去ル コメカミヨリ額ノアタリ、孤獨ヲ求メン焦燥ノ色アラハナリ 三十三歳、電探理論ノ精緻ト實測技倆ノ拔群ヲ以テ鳴ル 彼、郷里ニ懷姙中ノ妻ヲ遺ス シカモ待チ焦レタル初子ナリ サレバ彼、遂ニワガ子ト相見ルノ日ナカラン 子ハ父ノ呼氣ニ觸レズ、父ハ子ノ絆ヲ知ラズシテ散ラン 如何ニセンスベモナシ ワレ彼ガ直屬ノ上司ナレバ、手紙ノ檢閲ヲ通ジ、コレラノ事情ニハカネテ通曉セリ 彼マタワガ熟知セルコトヲ知ル サレバ若輩獨身ノ上官ヨリ、萬一慰籍ノ言葉ヲキカンコトヲ惧レタルカ ソノ屈辱ニ堪ヘザリシナラン 同ジ思ヒニ苦シム戰友同士ナラバ、共ニ慰メ合フモ一時ノ興ナルベシ 陰性潔癖ナル彼ヨ ソノ偏狹ノ心境ノマヽニ果テンカ、再ビ妻ガウチニ生クルコトヲ得ザルベシ ソレハ君ヲ慰メントハ欲セズ フサハシカラヌヲ知レバナリ ワガ希ヒハタダ最後ノ朝ヲ、爽涼ノ汐風ヲ共ニ娯シマントノミ 顧ミレバ妻ワレニナシ 子モトヨリナシ ワガ死ヲ悲シミクルヽ者ハ骨肉ノミ ワレ未ダカノ愛戀ノ焔ヲ知ラズ 死ニ臨ンデ、心狂フマデニ斷チ難キ絆《キヅナ》ヲ帶ビズ ワレトカノ片平兵曹ト、何レヲ幸トシ、何レヲ不幸トスルヤ タダ骨肉ノ嘆キニ送ラルヽワガ安ラヒヲ、惠マレタルモノトシテ甘受センカ 心歪ムマデノ彼ガ苦惱ニ、ムシロ眞ノ生甲斐ヲ見出サンカ 思ヒ耽リツヽ空虚《ウツロ》ニヒラク瞼、睡リヲ求メテ熱ヲ含ム 涼風、痛ミヲ以テ瞼ヲ洗フ 朝ノ陽《ヒ》、雲間ヨリ鈍ク黄光ヲ波頭ニ照リ返シテ、眩クモ快シ マナコ閉ヅレバ涙滲ム 母ガ乳首ヲ離レ朝食ナルモノニ親シミハジメシヨリ、今日マデ幾千、幾萬度コレヲ重ネタルカト心愉シク想フ 「朝食」――今日ヲ限リニ、ワレトハ無縁ノ存在ナリ――何カ訝《イブカ》シク、笑ヒヲコラフ 海飽クマデモ青ク、重キ波舷側ヲ打ツ 九州最南端ノ陸岸スデニ艦尾方向ニ消ユ 再ビ肉眼ニ内地ノ山野ヲ見ルコトアラジ 刻々ニ遠ザカリ、限リナク離レ行カンノミ 今ヤ一點ノ島影ヲ見ズ 艦隊基準針路二百五十度 ホヾ南西西ノ方向ニ當ル 沖繩本島ハ南南西ニ當ルモ、企圖ノ隱蔽ト米主力部隊囘避ノ目的ヲ以テ、途半バマデコノ針路ニテ進ミ、更ニ迂囘ノ豫定ナリ 琉球列島線ニ沿ツテ直行スル第一案、淺ク迂囘スル第二案、及ビ深ク迂囘スル第三案ヲ中央ニオイテ討議シ、遂ニ第三案ニ決シタリトイフ 艦隊ノ空氣ハ強ク反對ニ傾ク カヽル小細工ノ餘地ナク情勢逼迫セルハ明ラカナリ ムシロ最短距離ヲ直行スルノ直截ナルニシカズ 日本ノ船團ニ遭遇ス 數隻ノ小輸送船團ナリ 何處《イヅコ》ヨリ還リキタレルヤ ワガ編隊ノウチヲ縫ツテスレチガフ 霞ム船影、疲レ果テシ船脚 傷マシキ彼ラガ勞苦ヲ想フ 内地ヤウヤクニ間近シ コヽニ辿リ着クマデニ拂ハレタル犧牲ヤ如何ニ 「大和」ニ向ヒ發信シキタル「御成功祈ル」 微笑、艦橋ニ溢ル カノ瀕死ノ老船團ヨリ、餞別ノ辭ヲ受ケントハ 直チニ返信「ワレ期待ニ背カザルベシ」 過ギ行ク船ノ甲板上ニ、ワレラヲ見送ル兵ノ姿ヲ見ズ 日本最後ノ艦隊出撃ニ遭遇スルモ、ナホ船鎗ニ屏息セルナリ 遂ニ内地ヲ目睫ノ間ニ望ミシ彼ラガ安堵ノ、並々ナラヌヲ想フ 薄レ行ク船影ヲ見送ル、艦隊各艦ノ眼、眼 忘我ニ誘フマデニ生カシキ絶望感 「初霜」イヨ/\視界外ニ遠ザカル 艦隊ヨリ單艦脱落セバ米機ノ集中必死ナリ 放置ヲ許サズ 緊急協議 ヤガテ豫定ノ變針點(針路ヲ南西西ヨリ南南西ニ變ズ)ニ達シタル時、反轉シテ「初霜」ノ位置マデ逆行シ、編隊ニ組入レタル後再ビ豫定針路ニ變針スベク一決ス 同艦故障箇所ハ變速切換裝置ノ一部ナリトイフ 〇九〇〇(九時)頃、上部電探室(對艦船用)ニ行ク 「大和」ハタマ/\艦隊當直ノ非番ニ當ル(全艦十隻ヲ二直ニ分チ、交互ニ當直ニ立ツテ電波哨戒ヲ行フ) 兵ラ勤務ヲ解カレ、默々トシテ配置ニ坐ス 老兵二名共ニ背ヲ曲ゲテ蹲リ、青黒キ面貌ニ苦澁ノ色ヲ湛フ ソノ視線、凝然ト床ニ落チテ動カズ フテ/″\シク死ニヨリカヽリタル倨傲ト見ンカ 死ニ打チヒシガレタル困憊ト見ンカ ソコニアルハモ早ヤ兵ナラズ 一個ノ人間ナリ 生命ナリ ソノ腰ヲ蹴リ、背ヲ鞭打ツテ、叱正スベキ術《スベ》アリヤ 如何ナル心、如何ナル言葉ニ、ソノ失態ヲ責メ得ルヤ 獨リ沈メル眼 數々ノ悦樂ノ、コレヲ最後ニ、スベテワガ身ヨリ喪ハルヽヲカコツカ マタ明日《アス》ヨリ妻子ニ訪レン、苦難ノ日々ヲ歎クカ 恩賜ノ煙草ヲ配ル 「ポケット・ウィスキー」ヲ一口宛飮ミ廻ス 最後ノ團欒ノ機會ナラン 班長宮澤兵曹顏モ上ゲズ、「兵器ノ調子ハ完璧デス」トイフ 彼、結婚後四日ニシテ、ハカラズモ出撃ヲ迎ヘタリ 「實ハ今度ノ上陸ノ時、結婚シタイト思フノデスガ、御意見ヲ聞カセテ下サイ」カヽル相談ヲ彼ヨリ受ケタルハ、一月前ノ近海猛訓練中ナリ 相手方ノ環境、性格、兩人ノ親密ノ度ヲ確カメ、即座ニ贊成ス 出撃ノ近カラントハ豫期シタルモ、カクモ早急ナラントハ思ヒ及バズ マタ死ノ間近キハ、今ヤ全國民共通ノ命運ナラントテ、氣輕ク贊成セルナリ 彼ガ結婚後ノ第一聲ハ、「ソリヤイヽ體ヲシテマスヨ」 巧マザル「ノロケ」振リヲ以テ、忽チ人氣ヲ集メタル彼 出港以來、精勵更ニソノ度ヲ加ヘタリ 他ニ類ヲ見ズ 少憩中モ兵器ノ調整ヲ怠ラズ 勤務ヲ緩メ、フトワレニ返ル一瞬ノ空漠ヲ惧レタルカ 傳令(少年兵)嬉々トシテ「吉田少尉、今日ノ夜食ハ汁粉デス」 主計科ノ同年兵ヨリ探リタルカ 絲切齒ヲノゾカセテ手柄顏ナリ 彼、老兵ノ傍ラニアリテ、ソノ心痛意中ニナク、宮澤班長ノ直屬ノ部下ニシテ、ソノ苦悶ト無縁ナリ タダ夜食トシテ壓倒的人氣ヲ保ツ汁粉ニ心奪ハレ、ソノ支給サルヽヤ僅々十時間後ナル事實ノ喧傳ニ大童ナリ 突入ハ今夜半ナリ 夜食マデ無事ナレバ、作戰成功疑ヒナシ ワレラガ玉碎モマタ疑ヒナシ ソノ汁粉ノ味ヤ如何ニ 山田軍醫少佐ヲ訪ネントシテ、艦橋最上部應急治療室ニ寄ル 蒼白ノ面《オモテ》ヲ傾ケ、學術書ニ讀ミ耽リ居リ 「御氣分イカヾデスカ」默然トシテ肯キ、視線ヲ外ス 連夜ノ大醉、全ク意表外ノ失態ヲ愧ヂ入レル如シ 特ニ親シカリシワレニハ、意外感更ニ大ナリキ 醫師トイハンヨリハ詩人、武將トイハンヨリハ文人 士官室ノ一隅ニ、常ニ物思ヒ勝チナリシ彼 司令部附トシテ本艦ニ乘艦セラレシヨリ、僅カニ三ヶ月餘ナルモ、醇乎タル風格ヲ以テ深ク衆人ニ親シマル 彼「大和」乘艦ノ直前、横須賀ニオイテ擧式、花嫁ハ芳紀十八歳、忽チ倉皇トシテ赴任セラレタル事實ヲ、歸還後書類整理ニヨツテ知ル マタノチ、ワレ未亡人ノ訪問ヲ受ケタリ ソノ語ラレシトコロ次ノ如シ 特攻出撃ノ折シモ、夫君ノ奬メニヨリ呉ニ旅シテ、知人ノ宅ニ寄寓シ居ラレタリ 當日ヲ遡ルコト數日、豪雨中ノ午後、夕刻マデノ數時間ノ短キ上陸ニテ立寄ラレタルモ、心ナシカ默シ勝チニテ、シバシバ互ヒニ瞳ノウチヲミツメ合フ如キ瞬間アリシトイフ 忽チ時移リテ歸艦ノ時刻迫ル 訣レ際ニ「今度ハモツトユツクリ上陸出來マセンノ、ドコカ山ニデモノボリマセウヨ」ト訊ネタルニ、矢庭ニ自ラノ腕時計ヲ外シ、妻ガ腕ニ強ク捲キトメタレバ、流石ニ胸騷ギテ、ソノマヽ、手ヲ抑ヘツヽ見上グレバ、彼莞爾トシテ「コノ次俺ガ來ルマデ、俺ノツモリデ、大事ニ持ツテヰテクレ」ト言ヒ殘シ、後モ見ズ足早ニ去ラレタリトイフ(コノ時スデニ、出撃遠カラズトハ覺悟シ居ラレタルベシ) 彼女、餘リニ若クシテ、人生ヲ知ラズ 運命ヲ氣安ク見テ、夫ノ言葉ヲ信ジ、タダソノ日ヲ待チ居タリ サレドコノ、心ナクモ夫ノ遺品ヲ受ケシ幼サニモマシテ、彼女ガ痛恨ニ耐ヘザルハ、昭和二十年四月七日、二時四十分、夫ガ戰死ノ瞬間ニ、空シク笑ヒサザメキテ、己レヲ娯シミ居タル事實ナリ タマ/\知人ノ家ニ友達數人ト集ヒ、呉灣ヲ見ハルカス庭ニ出デテ、ナホ塵ホドモ夫ガ身ヲ思ハズ、嬉々トシテ遊ビ興ジ居タル事實――悔ミテモ、悔ミテモ、ナホ心平ラカナラズトイフ 山田少佐ハ、ソノ後當直ノ爲上陸ノ機ヲ失ヒ、出動前夜ノ最後ノ機會モ、緊急手術ニ當リ、最終便ニ遲レタリ 彼ガ初メテ大盃ヲアフリ、狼籍ヲ極メタルハソノ夜ナリ 以後連夜ノ深酒、暴力沙汰、遂ニ同僚數人協力シテ手足ヲ扼シ、寢臺ニ連レ返ルマデ止マズ カクモ彼ヲ狂亂セシメタルモノハ何ゾ 彼ラガ眞箇ノ結婚生活ハ、新婚ノ二日間ノミ 出撃前、時折洩ラシタル口吻ニヨツテ、彼ニハ家妻ニ非ズ、ムシロ清純花ノ如キ戀人アラント、ワレラ想像ヲメグラシ居レリ 最後ノ上陸ノ夜モ、モシ呉ニ新妻ヲ呼ビ寄セヰタルコト知ラレタレバ、無理ニモ當直ヲ交代シテ、上陸艇ニ押シ込マレタルヤ必定ナリ ミヅカラ最終ノ機會ヲ放棄セシ彼 彼ガ十八歳ノ若妻ニ求メ居タルハ、夢想的ナルマデニ氣高キ美シサカ 人生ヲ知ラヌマヽニ至純ナル愛カ マタ平凡自然健康ナル妻ノ本性カ ワレモシコノ時コレラノ事實ヲ知悉シ居タルトシテ、彼ガ蒼白ノ額《ヒタヒ》ニ浴ビセン、如何ナル批判、マタ同情ノ言葉アリシヤ 〇九四五(九時四十五分)ヨリ哨戒當直ニ立ツ アヽ、ワレ「大和」最後ノ哨戒當直タラントハ 雲イヨ/\低ク驟雨アリ 視界ノ局限著シク、哨戒至難、當直任務モツトモ重大ナリ 頬引キツレルゴトキ感アリ 緊張ノアマリカ 艦橋中央ノ羅針儀臺上ニ突ツ立チ、汗バム掌ニ眼鏡ヲ握リシム 前方及ビ左右兩側ニハ、艦内各部ヨリノ傳聲管ノ蛇口密集シテ、蜂ノ巣ノ如キ觀ヲ呈ス 顏ノアタリヲ夥シキ電話器取リ卷キ、更ニ上方ニハ對空指揮所(戰鬪中艦長所在)ヘノ太キ傳聲管開口ス 蹠ノ痛ムマデ床《ユカ》ノ格子ヲ踏ム 對潛水艦哨戒ヲ特ニ嚴ナラシム 視界惡ク、雙眼鏡ニヨル潛望鏡捕捉ハ殆ンド不可能ナレバ、コレニ乘ゼラルヽ危險極メテ大ナリ 水上電探ノ活躍ニ俟ツコト多大ナルモ、日本ノ水準ヲ以テスレバ、潛望鏡捕捉ニハ少クトモ露出長一米、時間三分間ヲ要シ、實戰ノ用ニハ遠ク及バズ 豫定變針點ニ達ス「初霜」トノ距離餘リニ大ナレバ、反轉コレヲ編隊ニ收容スルコトヲ斷念、直チニ南南西針路ニ入ル 艦首今ヤ敵方ニ正對ス 晝食 戰鬪配食ナリ 壁ニ倚リ、片手ニ皿、片手ニ握リ飯ヲ持ツ 氣ゼハシクワビシキ食事ナリ 最後ノ飯ノ味ナラムカ タ刻マデカヽル餘裕ヲ保チ得ルトハ樂觀シ難シ 暗キ豫感ニ刺サレツヽモ、心籠レルコノ首途ノ銀飯(白米)ヲ食フ イハン方ナクウマシ コレヲ限リノ奢リナリ 揚呑ニナミ/\ト熱キ紅茶ヲ啜ル 暖ク身ヌチニ觸レ、腹ニ沁ミワタル 舌シビレ、胸ノウチ疼キテ止マズ 食後艦長ヲ中心ニ、和氣藹々、歡談サカンナリ 訓練中ハモトヨリ、アラユル航海ヲ通ジ極メテ稀ナル雰圍氣トイフベキカ 突如「電測士」ト指名サレ、面ヲ上グレバ艦長ナリ 「ハイ」哨戒直配置ノマヽ、一歩ニジリ寄ル「貴樣ハ一人息子ダツタラウ」 「サウデアリマス」出港ノ數日前、コノ事ヲ豫期シテカ、全員ニ家庭状況ノ下問アリ 詳細ニ誌シテ提出セリ 最後ニ「後顧ノ憂ヒナシ」トワレ誌ス 「後顧ノ憂ヒナシ、ト書イテヰクガ、ドウダ」一少尉ノ身上ヲ、カクモ記憶シ居ラルヽトハ 「心配アリマセン」 「本當ニナイノカ」續ケテ肯定スベキヤ、否定スベキヤ 答フル能ハズ 見上グレバ、怒レルゴトキ朱面ニ、固ク結ベル唇 タダ炯々ノ眼光、一瞬悲愁ヲ湛ヘタルヲ直視ス 勇猛ト技倆ヲ謳ハル名艦長 マタ「ゴリラ」ノ愛稱ヲ以テ全將兵ヨリ敬愛セラル 出撃間近キ一夜、ワレ最終上陸艇(九時ニ波止揚着)ノ艇指揮トシテ艦長ヲ送リ、三時間後、零時ノ第一上陸員迎ヘノ艇ニ、再ビ艦長ヲ迎ヘシコトアリ 敵襲シゲキ折ナレバ、艦長ノ不在ハ長時間ニワタルヲ許サレズ 機敏豪放ニモ、コノ短時間ニ人間洗濯ノ目的ヲ達セラレタルモノト、微笑ヲ禁ジ得ザリシナリ マタ平時ノ外出時ニハ、必ズ私服ヲ着、時アツテカ氣ニ入リノ美人ニ逢ヘバ、ソノ家ヲツキトムルマデ尾行スル、愛スベキ「耽美癖」モアリシトイフ 鋭氣俊敏ノ參謀ラ、ソノマナ差シニモ柔和ノ光ヲ見タリ 滿腹ノ倦怠、安堵ノミノ故ニ非ズ 數歩ヲ隔テズシテ死ニ行カンワレラニ寄スル、肉親ニモ近キイタハリノ心ナリ 一二〇〇(十二時)今ヤ征途ノ半バニ達ス 全艦隊肅々ト進ム 司令長官左右ヲ顧ミ、破顏一笑「午前中ハドウヤラ無事ニ濟ンダナ」 出撃後、艦橋右前部ノ長官席ニ就カレシ以來ノ第一聲ナリ 警戒序列、之字運動型式ノ選擇、速力、變針等、一切ヲ「大和」艦長ニ委ネ、參謀長ノ上申ニモタヾ默シテ肯クノミ コノ後本艦ノ傾覆マデ、砲煙彈雨ノウチ終始腕ヲ組ンデ巖ノ如ク坐ス 周圍ノ者殆ンド死傷スルモ些カモ動ゼズ 官ヲ賭スルマデノ反對ヲ、遂ニ押シ切ラレタル作戰ナレバ、首長トシテコレヲ主導スルヲ潔シトセザリシカ 海戰史ニモ殘ルベキ無暴愚劣ノ作戰ノ、最高責任者トシテ名ヲトドムル宿命ヘノ、無言ノ抵抗カ 竹ヲワツタル如キ氣風、長身秀麗ノ伊藤長官 開戰 一二二〇(十二時二十分)對空用電探、大編隊ラシキモノ三目標ヲ探知ス 同室室長長谷川兵曹ノ常ノゴトキ濁《ダ》ミ聲、流ルヽ如ク測距測角ヲ報ジキタル 「目標捕捉 何レモ大編隊 接近シテクル」 直チニ艦隊各艦宛緊急信號ヲ發ス 「スピーカー」ソノ旨ヲ達シ了ルヤ、艦内カヘツテ靜肅ノ度ヲ加フ 電探目標追尾ノマヽ、刻々ニ「データ」ヲ傳聲シキタル「……三〇〇、三五度……次ノ目標、二五〇、八五度……」 スデニ幾タビ、訓練目標射撃ニオイテ、カヽル追躡ヲ繰返シタルカ 同一ノ状況、同一ノ對勢、同調子ノ探信スラカツテ體驗シタル如キ錯覺ニ陷ル コノ現前ノ事態コソ、紛レモナキ實戰ニホカナラズト、如何ニシテ己レニ納得セシメンヤ 目標ハ假設敵ニ非ズ、必殺ノ翼陣ナリ 四周ハ練習水域ニ非ズ、敵地ナリ シカモナホ機械的ニ報告ヲ復誦シツヽ、ヤヽモスレバ安易ト定型ニ走ル 對空戰鬪迫ル 探知方向ニ對シ各部見張ヲ集中ス 折シモ小雨霧ノ如ク洋上ニタチコメ、視界ノ不良コヽニ極マル カクテ米機ノ發見ハ、恐ラク同時ニ襲撃ノ開始トナラン 一二三二(十二時三十二分)、二番見張員ノ蠻聲「グラマン二機、左二十五度(方向角、正面ヨリ左ヘ二十五度)高度八度、四〇(距離四千米)右ニ進ム」 忽チ肉眼ニ捕捉 雲高ハ千乃至千五百米、機影發見スルモスデニ至近ニ過ギ、照準至難、最惡ノ對勢ナリ 「今ノ目標ハ五機……十機以上……三十機以上……」 雲ノ切レ間ヨリ大編隊現ハル 大キク右ニ旋囘 「敵機ハ百機以上、突込ンデクル」叫ブハ航海長カ 艦長下命「射撃始メ」 高角砲二十四門、機銃百五十門、一瞬砲火ヲ開ク 護衞驅逐艦ノ主砲(口徑十糎)モ一齊ニ閃光ヲ放ツ 戰鬪開始 今ゾ招死ノ血戰、火蓋ヲ切ル ワレハ初陣 肩ノ肉盛リアガリ腿踊リ出ダサントスルヲ抑ヘツヽ、膝ニカヽル己レノ重量ヲハカリ コノ身興奮ニタギリツヽ自ラノタカブリヲ眺メ、奧齒ヲ噛ミ鳴ラシツヽカスカニ笑ミヲタヽフ 壓倒スル騷音ノウチニ、身近カノ兵彈片ニ殪レソノ頭骨壁ヲ叩クヲ聞キ分ケ、瀰漫スル硝煙ノウチニ、血ノ匂ヒヲ探ル 「敵ハ雷爆混合」甲高キ聲 編隊ノ左外輪「濱風」忽チニ赤腹ヲ出ス、ト見ルヤ艦尾ヲ上ニ逆立ツ轟沈マデ數十秒ヲ出デズ タダ一面ノ白泡ヲ殘スノミ 乘員ノウチタマ/\外面ニサラサレタル者、被雷ノ衝撃、誘爆ノ風壓ノタメ飛散シテ水面ニ落チタリ ソノ後絶望ノ空戰ノカタハラニ漂遊スルコト五時間、ヨク十數名ノ生存者ヲ出セリトイフ ノチ同艦先任將校(艦長ニ次グ位置ヲ占メ副艦長ニ當ル)ノ言ニヨレバ、轟沈ヲ喫セシ契機ハ、微妙ナル囘避ノ失敗ニアルモノノ如シ 襲撃時驅逐艦ハ、ソノ細身ト脚力トヲ以テ、肉眼捕捉ニヨリ避雷、避爆ヲ行フヲ常トス 即チ艦長(前檣頂ニアリ前方ヲ擔當)先任將校(後檣頂ニアリ後方ヲ擔當)兩者緊密一體ノ連繋ノ下、ワレニ飛來スル魚雷、爆彈ヲ個々ニ判別シ、肉眼ニ追尾シツヽコレヲ囘避ス 兩指揮官ノ渾然タル協力、特ニ艦長ノ技倆決斷コソ生死ノ鍵ナリ コノ日、米機第一編隊ノ雲間ヨリ殺到スルヤ、何ハナシ威壓セラルヽ如キ息苦シサ「初霜」艦内ニ漂フ(南方水域ヲ廣ク轉戰セル同艦ニシテ「カヽル例ハ全ク初メテナリ) 第一魚雷、投下ノ水煙ヲ上ゲテ後方ヨリ進ミキタルヤ、ソノ瞬時、一秒ニモ滿タザル間、氣ヲ呑マレテ徒ヲニ傍觀シ、艦長ヘノ連絡ヲ怠リシタメカ、僅カニカハシ得ズ、艦尾ニ當テ、舵ヲ吹キ飛バス ト忽チ、相次グ爆彈、行動不如意ノ同艦ニ集中シテ水柱、火柱ニ包マレタリトイフ 雷跡ハ水面ニ白ク針ヲ引ク如ク美シク、「大和」ヲ目指シ數十方向ヨリ靜カニ交叉シテ迫リキタル ソノ目測距離ト測角ヲ囘避盤ニ睨ミツヽ、艦ヲ魚雷方向ト平行ニ運ビ、ギリ/\ニカハス 至近ノ火急ノモノニ先ヅ注目シ、コレヲカハシ得ルコト確實ノ拒離ニ至レバ直チニ次ニ移ル 要ハ見張ト計算ト決斷ナリ 艦長ハ艦ノ全貌ヲ見渡ス防空指揮所ニアリ 少尉二名コレニ侍シテ囘避盤ヲ睨ミ、鞭ヲ揮ツテ四周ノ魚雷ヲ艦長ニ傳フ 航海長ハ艦橋ノ艦長席ニ坐シ、二者一體ノ操艦ナリ 艦長ノ號令、傳聲管ヲ貫イテワガ耳ヲ聾ス 語尾ワレテ凄マジキ怒聲ナリ 爆彈、機銃彈、艦橋ニ集中ス 「大和」、最大戰速(二十七ノット)ヲ振リシボリ、左右ニ舵一杯ヲトリツヽ必死ニ囘避ヲ續ク 外洋ノ航行ニモ陸地ニアルゴトキ安定ヲ誇ル本艦モ、サスガニ動搖振動甚シク、艦體ノ軋ミ、裝備ノ摩擦音喧シ アハヤ寸前ニ魚雷ヲカハスコト數本、遂ニ左舷前部ニ一本ヲユルス 敵來襲第一波去ル 傾斜ハ殆ンドナキモ、後部ノ副砲射撃指揮所附近ニ直撃彈二發 米機ハスベテF6F及ビTBFナリ 爆彈ハ二十五番(二百五十瓲)カ 雷跡ハ相當顯著ニシテ捕捉ハ容易ナルモ、雷速從來ニ比シヤヽ速キカ(航海長) 航海長、左右ヲ顧ミテ莞爾、「タウトウ一本當テチヤツタネ」答フルモノナシ 襲撃ハ極メテ巧妙、避彈ノ巧緻、照準ノ不敵、恐ラク全米軍切ツテノ精鋭ナルベシ(參謀長) 長官、温顏ノマヽ腕ヲ拱キ、微動ダモセズ 參謀長、顏ホコロバセ、ムシロ嬉々トシテ敵ヲ讚フ 擔架、死體三箇ヲ艦橋ヨリ盜ム如ク運ビ去ル 機銃彈ノ銃瘡ニヨルモノナラム ソレヲマタヌスミ見ルワガ失態ヲ愧ヂ憤リツヽ、ナホ一抹ノ憫情己レヲイトホシム アトハ暫時ノ安穩ニ返リ、談笑ノ氣配殆ンド訓練終了時ニ近シ 電探室被彈 測的分隊長ヨリノ傳令、甲走ル聲ニ「後部電探室被彈ノ模樣、直チニ被害ヲシラベ報告セヨ」 後部(對空用)電探室 ワガ配置ノ一ツニシテ、タマタマ哨戒直タラザレバ、同室ニ指揮シ居レルヤモ知レズ 哨戒直ヲワレト交代セル大森中尉(主任電測士)ハ、直チニソコニ赴ケルマヽナラン 大森中尉ノ童顏、室長長谷川兵曹得意ノ微苦笑、部下ノ誰彼ノ面貌ヲマナ底ニ浮カベツヽ、艦橋後部ノ「ラッタル」ヲ驅ケ下リントスレバ、手摺右ノ鐵壁ニ喰入ル如キ肉一片 肱ニテ彈キ走リ去ル 「電測士、ソトハ機銃彈デトテモイカンデス、中ヲ通ツテ下サイ」見レバ旗甲板ニノリ出シテ叫ブ信號科下士官ナリ 叱聲、彈雨ノ間ニ千切レテ耳ヲ刺ス ワガ犬死センヲ氣遣ヒタルヽナリ コノ忽忙ノ間ニ 有難ウ 顏ヲ向ケ、手ヲカザシテ「了解」ノ意ヲ表ス サレド反應セル動作ノ餘裕ナシ 艦橋内部ヲ降レバ安全ナランモ、警戒閉鎖ノ突破ニ時間ヲ要シ火急ノ用ニ立タズ ワレニ任務アリ イナ、ワレニ代リテ戰友アマタ相果テシナリ 二十米、直立セル「ラッタル」ヲ一氣ニ滑リ落チ、硝煙鼻ヲ衝クウチヲ走ル 手擦ニ烈シク擦リツケシ掌ノ、皮剥ゲシトコロ燃エテ痛シ 傍ラノ機銃指揮塔ニ胸ヨリ上ヲ露ハシテ立テル士官、タマ/\振リ向クニ、ワレ走リツヽ視線ヲ捉フ 同期ノ高田少尉ナリ 鐵兜|眼《マ》深ク冠リ、淺黒キ顏ホコロバセテ、「ゲンキデヤレヤ」大阪訛リニ喚キツヽ鞭ヲ振ル 「オウ」咄嗟ニ答ヘ目モクレズ走リ過ギシガ、善良ナル大阪ボンボン、コレ君ガ見收メナラントハ 煙突下部ノ被彈箇所ヲ驅ケ拔ケントシテ、同分隊ノ助田少尉ニ會フ 白鉢卷ヨリ血糊二本ヲシタヽラシ、杖ニスガリ辛ウジテ歩ク 彼ガ配置ハ後部副砲射撃指揮所ナリ スナハチ直撃彈連續二發ヲ喰ラヒ、全員戰死ヲ何ビトモ疑ハザリシニ、如何ニシテ爆死ヲ免レタルカ 恐ラクハ唯一ノ生存者ニシテ、重傷ニ屈セズ情況報告ニ赴ク途次ナランカ 日頃人ナツコク柔和ナル彼モ、鋭キ一瞥ヲ投ゲシノミ 雨衣裂ケ散リテ歪メル肩、小柄ノウシロ姿痛々シ 出血過多カ、困憊見ルニ堪ヘズ 報告ヲ完了シテ緊張緩メバ、恐ラクハ崩折レタルマヽナラン ワレ默禮シテ急グ 電探室前ニ走リ寄ル「ラッタル」跡形モナシ 止ムナク運用兵ヲ呼ビ「ロープ」ヲトツテ下ス 堅牢安固ナル對空電探室 六疊間大、四周ニ鐵壁ヲメグラセルモ、眞二ツニ裂ケ、上部半バヲ散佚ス 大斧ニテ竹筒ヲ叩キワツタル如キサマナリ 直撃彈、斜メニ深ク抉リ込ミ撃發シタルカ 整備ニ整備ヲ重ネ今日ノ決戰ニ備ヘ來シ兵器、四散シテ殘骸ヲ認メズ、部品ノ殘滓スラナシ 一切ヲ吹キ掃ハレタルカト見レバ、朽チシ壁ノ腰ニ叩キツケラレタル肉塊、一抱ヘ大ノ紅キ肉樽アリ 四肢、首等ノ突出物ヲモガレクル胴體ナラン アタリニ彈カレタル四箇ヲ認メ、抱ヘ來テワガ前ニ置ク 焦ゲクル爛肉ニ、點々軍裝ノ破布ラシキ「カーキー」色ノモノ附着ス 脂臭紛々 ソコニ首、手足ガ附ケ根ノ位置ヲ確カメ得ザルハ言フモ更ナリ 四箇ノ死屍ノ間ニ、何ラノ判別ヲ定メ難キトハ コレヲ抱ケバ芯燒ケテナホ熱ク、コレヲ撫ヅレバ手|觸《ザハ》リ粗《アラ》木ノ肌ノ如シ 數分前マデコヽニ活躍シタル戰友、部下ノ肉體トコノ肉塊ト、同體ニシテタダ時ヲ隔テタルニ過ギズトハ 如何ニシテ信ジ得ベキ コヽニ宿リシ四個ノ生命、四樣ノ個性ハ今イヅコ 他ノ八名ハ全ク飛散シテ屍臭スラ漂ハズ 何タル空漠カ 今ノ瞬時マデマサニ現前セル實在ハ、如何ナル歸趨ヲ遂ゲシゾ 疑ヒ訝シミテ止マズ 不審ニ堪ヘズ 悲憤ニ非ズ 恐怖ニ非ズ タダ不審ニ堪ヘズ 肉塊ヲマサグリツヽ忘我寸刻 時ニ無氣味ニ脛ヲユルガセツヽ、艦尾方向ヨリ押シ潰ス如キ音波寄セキタル 面上グレバ、左後方ヨリ第二波來襲ナリ 不覺 ワレニ艦橋勤務アリ ワガ死處コヽニナシ スデニ被爆ノ衝撃アリ ヤガテ彈雲ワレヲ蔽ハン 頭ヲ下ゲ片手ヲ手摺ニ觸レツヽ狂氣シテ走ル 一切眼中ニナシ 前檣直下ノ「ラッタル」ニ躍リ上ラントスル瞬時、全身躍動ノ故カ網膜ノ周邊緊張セバ、サキノ機銃砲塔、高田少尉ノ配置片影ナシ 煮湯呑ム思ヒニ首ヲ曲ゲ、マナコクリアケ凝視スルモ、深ク抉ラレシトコロ、タダ濛々タル白煙逆卷クノミ 人、銃、塔、一瞬ニシテ根コソギ奪ハレタルカ 高田少尉ユルシ給ヘ カノ時、君、彈雨ノ中ワレヲ激勵シクルヽモ、ワレ部下ガ危急ニ捉ハレテコレニ應ゼズ 一言ノ返禮モナク走リ過ギタリ 君カクモ無慘ニ散リシハ、ワガ激勵ヲ怠リタレバカ 番頭ノゴトク篤實、酌ノウマカリシ君 齒並ビ皓ク、シバ/\破顏洪笑シタル君 マナコ閉ヂテ「ラッタル」ヲ馳セノボル ワガ通過ノ數十秒早カリセバ、直撃彈ノ爆風ワレヲ包ミ、見事君ト同體ニ散華シタルモノヲ 怯《ヒル》ム己レヲ鞭打チ敵愾心ヲカキ立テ、「總員戰死、兵器全壞、使用不能」ト、分隊長ニ屆クベキ報告ヲ聲高ニ繰返シツヽ「ラッタル」ヲ突キ昇ル 能フ限リノ高聲モ破壞音、騷音ニ吸取ラル 絶叫ハ自己鞭撻ノ止ムナキ手段ナリ 機銃彈キン/\ト背ヲ叩キ、風壓縱横ニ腰ヲ煽ル 直チニ分隊長ニ報告 空戰ノ利刃、對空電探、カクテ緒戰ニ粉碎サル 暗天ノモト、蔽ヒ迫ル敵機、タダ肉眼ヲ以テ對スルノミ 耳底ニ低ク囁ク聲、消エントシテ消エズ 三時間前哨戒直ニ立直ノ直前、電話ヲ流レテ耳底ニ殘リシ大森中尉(主任電測士)ノ聲、最後ノ聲ナリ「吉田少尉、貴樣ニハ面倒ナコトバカリサセテ苦勞ヲカケタナア……濟マンカツタナア……」 シカラズ シカラズ ワレコソ怠慢ナリシヲ ワレコソ氣儘ナリシヲ 「貴樣ニハ……」「貴樣ニハ……」ソノ聲絶エズ ワレヲ責メ、ワガイノチニ觸レテ囁ク アヽ彼スデニ亡シ 彼ヲ死ナシメテワレ何ヲカ應フベキ 直チニ第二波 第二波モ再ビ百機以上 左正横 雷撃機多キカ 「大和」ニ向フモノ約二十本 左舷ニ三本ヲユルス 後檣附近 量ノ壓倒的優勢ハ、本艦ノ精敏ヲ以テスルモ、カク避雷ヲ全ク絶望トナセリ マサニ天空、四周ヨリ閃々迫リ來ル火ノ「槍ブスマ」ナリ マタ米機ノ突入ハスベテ緩降下對勢ニヨル ワガ海軍ニ比絶セル「大和」ノ彈幕ハ、絨氈状ニ展ケタル炸烈ヲ以テ少カラザル脅威ヲ與ヘタルモ、ソノ威力ハ机上ノ計算ニ遠ク及バズ 米編隊ハ不可避ナル一部犧牲ヲ豫メ計量シ、迂遠ナル彈幕囘避方法ヲ棄テヽ、マツシグラニ照準ノ「ベスト・コース」ヲ雪崩レ込ム ソノ間投雷投彈ノタメ素早グ直進ヲ行フヤ、横向快走シテ砲火ヲ避ケツヽ近接銃撃ヲ敢行ス 投雷投彈ニハ照準ノ間、一定ノ距離ノ直行ハ不可缺ナルモ、米機ハコノ不利ナル對勢ヲ最少限度ニトドメ、忽チ飛燕飛ビチガフ肉迫「コース」ニ移ル 日本機ノ如クシバシ直進對勢ヲ保タバ、ソノ間目標ノ變化上下ノミニ局限セラレ、照準發射ハ容易トナルモ、左右ニ稻妻型ニ反轉突込ミクル目標ハ、更ニ左右變化モ大幅且ツ神速トナリ、機銃ノ如ク單純ナル兵器ノ照準能力ヲ全ク超絶、彈着状況頗ル不良トナル五發ノ發砲毎ニ一發宛曳光彈ヲ發射シ、赤茶色ノ彈道ト目標トノ交叉状況ニヨリソノ誤差ヲ確認、發射距離、角度ヲ修正セントスルモ、對勢變化餘リニ急激ニシテ至近ノ彈着スラ難事ナリ 徒ラニ目標ニ追從シ、飛來セル後尾ヲ、後手後手ニ追ヒ縋ルノミ 宜《ムベ》ナルカナ 二十五粍機銃彈ノ速力ハ、米機ノ平均速力ノ僅カ五、六倍ニ過ギズ 相對的ニハカクモ遲速ノ兵器ヲ以テ曳光修正ヲ行フハ、恰モ素手ニテ飛蝶ヲ追フニ似タルカ カヽル襲撃法ハ、米搭乘員ノ操縱技倆ノ卓拔、照準技術ノ巧捷ニヨルハ勿論ナルモ、タマ/\雲高低ク、主砲ノ彈幕淺ク平板ニ押シヒシガレ、マタ高角砲屏息シテ、雲上ヨリノ近接比較的容易ナル事態ニモヨル マタワガ機銃員ノ、過重ナル敵機、相次グ來襲ニ眩惑セラレタル事實モ蔽ヒ難シ 通常ノ對空訓練ハ吹流シ、風船等ヲ假設目標トセルモノニシテ、タダ浮遊セルソレラ目標ノ射撃記録ニ一喜一憂シ居タルガワガ實情ナリ カヽル機銃員ガ眼ニ、天翔ケル米機ハマサニ一ノ驚異、一ノ眩覺 間斷ナキ炸藥ノ殺到、ユルミナキ光、音、衝迫ノ集中ナリ 最近頻發セル對空慘敗ノ事例ニオイテ、生存者ノ誌セル戰訓ハヒトシクコノ點ヲ指摘シ、何ラカノ拔本策ノ喫緊ナルコトヲ力説ス シカモコレノラニ對スル砲術學校ノ見解ハ「命中率ノ低下ハ殆ンド射撃能力ノ低下、訓練ノ不足ニヨル」ト斷定スルヲ常トス ソコニ何ラノ積極策ナシ 砲術學校ヨリ囘附セラレタル戰訓ノカヽル結論ノ直下ニ、「コノ大馬鹿野郎、臼淵大尉」(一次室長)トノ筆太ノ大書ノ見出サレタルハ、出撃ノ約一ヶ月前ナリ 更ニソノ上ニ附箋ヲ附シ、「不足ナルハ訓練ニ非ズシテ、科學的研究ノ熱意ト能力ナリ」ト前書シテ、次ノ如ク記ス 「ドイツノ渡洋爆撃ヲ無力トシタ、イギリスノ最新對空兵器ヲ知ラヌカ 高角砲彈ニ長サ數百米ノ鎖ヲ以テ分銅ヲ結ビツケ、ロケットニヨリ彈速ヲ落トサヌヤウニ發射スル 鎖ハソノ倍ノ直徑ノ圓ヲ描キツヽ敵機ニ襲ヒカヽル 命中率ヲ少クトモ五〇%トスルコトハ容易ダ 點ヲ以テ點ニ當テル(日本ノアラユル對空砲火)、面ヲ以テ點ヲ捉ヘル、ソノ差ハ殆ンド無限ニ近イ カウイフ状況ニアツテ、尚訓練ノ不足、トハ何ノ意味カ」 中、少尉ノ擧ツテソノ下ニ署名シタルハ言フマデモナシ カヽル狼藉モ、何ビトノ叱責、懲戒ヲ受ケズ タダソノ戰訓綴込ハ、徹底セル沈默ヲ以テ幹部間ニ囘覽サレタルノミ 「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――萬里ノ長城、ピラミッド、大和」ナル雜言、「少佐以上銃殺、海軍ヲ救フノ道コノホカニナシ」ナル暴言ヲ、艦内ニ喚キ合フモ何ラ憚ルトコロナシ 二十五粍機銃ノ三連裝砲塔(廣サ高サトモ六疊間大)ニ直撃彈降リ注ギ、相次イデ空中ニ飛散(最モ高キモノハ二十米)、數囘轉シテ轟々落下シキタル 身ヲ置クニ由ナキ修羅場ナリ 機銃員ノ死傷夥シ 更ニ被彈ニヨル斷線ノタメ電源斷絶相次ギ、必死ノ復舊作業モ空シク、電動兵器ハ逐次無用ノ鐵塊ト化ス 機銃發射モ止ムナク銃側照準ニ移ル 砲塔三基乃至四基ヲ總括シテ、ソノヤヽ上方ニ指揮塔ヲ設ケ、指揮塔ノ囘轉、仰角ハソノマヽ電氣誘導ニヨリ各砲塔ニ傳ヘラレ(位置ノ相異ニヨル若干ノ誤差ハ自動的ニ修正)、砲塔銃側ハタダ引金ヲ引クノミナルヲ常態トスルモ、電源杜絶、指揮系統モ滅裂シテ、各個照準ニ縋ルホカ方策ナシ 照準更ニ不正確ノ度ヲ加フ 萎縮、動搖ノ兆シ明ラカナリ 飛行甲板(後部)附近ヨリ白煙昇ル 艦ノ左右、前方水面ニ至近彈集中、シバシバ林立セル大水柱内ニ突入ス 豪雨ノ雨脚ニ十倍スル水量、艦橋ノ窓モ張リ裂ケント奔入ス 海圖臺、汚水ヲ漂ハセテ慘澹タリ 拭ヒツヽ血涙ヲ呑ム 首筋ヨリ胸、腹ヘト潮水流レテ生暖カキモ、下着スケバゾク/\ト肌ニ粟ヲ生ズ 奔放ナル水勢ニ至ルトコロ散亂 顎ニ喰ヒ入ル顎紐ノ冷クサ 間斷ナキ猛襲 第二波去ルヤ踵ヲ接シテ第三波來襲 左正横ヨリ百數十機、驟雨ノ去來セル如シ 直撃彈多數、煙突附近ニ命中 臼淵大尉、直撃彈ニ斃ル 智勇兼備ノ若武者、一片ノ肉、一滴ノ血ヲ殘サズ 死ヲ以テ新生ノ目覺メヲ切望シタル彼、眞ノ建設ヘノ捨石トシテ捧ゲ果テタルカノ肉體ハ、アマネク虚空ニ飛散セル 塚越中尉、井學中尉、關原中尉、七里少尉ラ相次イデ戰死 機銃指揮官戰死ノ報アトヲ絶タズ 艦橋ヲ目指シテ投下サレタル爆彈ノ悉クガ外レ、コレヲ圍繞防衞セル機銃群ニ命中セルタメナリ 魚雷命中、スベテ左舷ニ五本 傾斜計指度僅カニ上昇シ始ム 連續被雷ノタメ應急科員ノ死傷多ク、防水遮防作業殆ンド不能トナル 魚雷命中セバ、防水區劃ノ一部ニ浸水ス 區劃ハ細分セラレテ浸水區域ヲ局限スル仕組ナルモ、水壓ハ徐々ニ非防水區劃トノ境界タル鐵壁ニカヽリ、遂ニコレヲ潰滅、浸水ヲ擴大ス シカラバ非浸水區劃ノ内側ヨリ太キ圓材ヲ以テ鐵壁ヲ支ヘ、決潰ヲ遮防セザルベカラズ――コレ應急科員ガ任務ナリ サレド被雷間斷ナク繼起、浸水跳梁ヲ重ネ、一部ヲ覆滅シ去ル タダ兵員ノ救出ニ汲々タルノミ スナハチ遮防作業中、魚雷相次イデ命中セバ瞬時海水奔入シ、「ラッタル」ニヨル上部脱出ヲ迫ル 上部ニ位置セル者ヨリ鐵壁ノ丸型通路ヲ潛ツテ駈ケ上リ、足元ノ「ハッチ」ノ留メ金ヲ手早ク締メ、ソコニテ浸水ヲ押シ止メザルベカラズ 後退セル遮防線ノ確保ナリ 己レニ續キ「ラッタル」ヲ駈ケ上リクル戰友ノ、頭ヲ蹴落トシテ「ハッチ」ヲ閉ヅ――浸水ノ進捗ヲ睨ミ一瞬ニ事態ヲ測ル、ソノ如何ニ至難ナルカ 血ノ汗絞ル猛訓練モヨク達シ得ザル難作業ナリ 馳セノボル兵ヲ迎ヘテ、徒ラニ開カレタルマヽノ「ハッチ」ヲ拔ケ、浸水ハ奔騰シツヽ雪崩レ込ム カクテ傾斜ノ進行意想外ニ速シ スデニ五體ニ不安感アリ 傾斜五度ニ達セバ、砲彈等ノ運搬ニモ支障ヲ來シ、戰鬪力半減セン マタ重心ノ喪失感ハ、士氣振作上致命的ナリ 猶豫スベカラズ 今ヤ右舷防水區劃(左舷防水區劃トマサニ對稱ナル部位)ニ注水シ、左右均衡ニヨリ傾斜復舊ヲ圖ルノミ 注水ハ吃水線ノ低下――速力ノ急減――ヲ招致センコト必定ナルモ、萬止ムナシ 注水作業(浸水區域ハ自動的ニランプニヨリ表示セラレ、コレト對稱ノ區域ノボタンヲ押セバソノ海水管ハ開ク)ハ、注排水管制所ノ所掌ナリ カヽル機能コソ「大和」防禦力ノ主軸トシテ、天下ニ誇リシモノ ソレモ儚《ハカ》ナキ望ミニ過ギザリシカ 「後部注排水管制所、魚雷一本、直撃彈三發」 傳聲管ノ中繼ニヨル報告 艦橋幹部暗然トシテ無言 アヽ天ワレニ與《クミ》セザルカ 魚雷及ビ爆彈ノ連續命中ハモツトモ苦手ナレバ、後部奧深ク位置セシメタルコノ要衝 恰チソノ所在ヲ熟知、狙撃セル如キ執拗精確ナル攻撃ナリ 管制所ノ破壞ハ、遂ニ右舷防水區劃ノ注水ヲ全ク不能トナセリ 訓練時ノ想定ニモカツテナキ最惡ノ事態 シカモコレノミガ唯一ノ現實ナラントハ 想ヘバ無用ニシテ甘キ訓練ノ反覆ナリキ 米軍ヨク渾身ノ膂力ヲ、連續強襲、魚雷片舷集中ノ二點ニ注ゲルカ 艦長「傾斜復舊ヲ急ゲ」ト叫ブコト數度 傳聲管ノ中繼ニヨリ所要部署ニ傳フ サレド復元ハ容易ナラズ 防水區劃以外ノ右舷各室ニ海水注入ノホカ方策ナシ 敵、脚下ニ迫リ傾覆ヲ謀ル 危シ 如何ナル犧牲ヲモ敢ヘテセン 機械室オヨビ罐室ヘノ注水ヲ最良ノ策トス(兩室ハ、海水ポンプニテ急遽注水可能ナル最大、最低位ノ室ナレバ、傾斜復舊ニ著效ヲ期シ得ン) 防禦總指揮官(副長兼務)、無斷注水ヲ決意 全力運轉中ノ機械室、罐室――機關科員ノ配置ナリ コレマデ炎熱、噪音トタヽカヒ、終始默々ト艦ヲ走ラセキタリシ彼ラ 戰況ヲ窺フ由モナキ艦底ニ屏息シ、全身コレ汗ト油ニマミレ、會話連絡スベテ手先信號ニ頼ル 海水ポンプ所掌ノ應急科員サスガニ躊躇 「急ゲ」ワレ電話一本ニテ指揮所ヲ督促 機關科長數百名、海水奔入ノ瞬時、飛沫ノ一滴トナツテクダケ散ル 彼ラソノ一瞬、何モ見ズ何モ聞カズ、タダ一塊トナリテ溶ケ、渦流トナリテ飛散シタルベシ 沸キ立ツ水壓ノ猛威 數百ノ生命、辛クモ艦ノ傾斜ヲアガナフ サレド片舷航行ノ哀レサ、速度計ノ指針ハ折ルヽ如ク振レ傾ク 隻脚、跛行、以テ飛燕ノ重圍トタヽカフ 戰勢急落 第四波左前方ヨリ飛來ス 百五十機以上魚雷數本、左舷各部ヲ抉ル 直撃彈十數發、後檣及後甲板 來襲機ノ艦橋攻撃イヨ/\熾烈ナリ 銃撃ハ投下、反轉ノ後、直線的ニ艦橋ニ迫リツヽ概ネ二齊射ナリ 火柱、唸リ、硝煙、カレラガ息吹キノ如ク窓ヨリ吹キ込ム 紅潮セル米搭乘員ノ顏、相次イデ至近ニ迫リ、面詰セラルヽ如キ錯覺ヲ起ス カツトマナコ見開キタルカ、シカラズンバ顏ノ歪ムマデニマナコ閉ヂタリ 口ヲ開キ、歡喜ノ表情ニ近キ者多シ 砲火ニ射トメラルレバ一瞬火ヲ吐キ、海中ニ沒スルモ、既ニ確實ニ投雷、投彈ヲ完了セルナリ 戰鬪終了マデ、遂ニ體當ノ輕擧ニ出ヅルモノ一機モナシ 正確、緻密、沈着ナル「ベスト・コース」ノ反覆ハ、一種ノ「スポーツマンシップ」ニモ似タル爽快味ヲ殘ス ワレラノ窺ヒ知ラザル強サ、底知レヌ迫力ナリ 今ヤタダ、被害ヲ局限シ戰鬪力ヲ温存シ、敵數量ノ消耗ヲ待タンノミ 果シテソノ間隙アリヤナシヤ 艦橋ノ窓ハ目ノ高サ、横ニ一メグリクリ拔カレタル狹キ見張窓ノミ 彈片ソノ間ヲヨギラントシテ、多クハネ返リ、無軌道ニ噴キコム 戲レ舞フニ似タリ 炸裂箇所、彈道ノ方向モ測ルニ由ナシ 何ヲ以テコレヲ避ケンカ タダ裸身ヲ礫《ツブテ》ニ曝スノミ 大半ノ艦橋員、無意識ニ床《ユカ》ニウツ伏シテ突入スル米機ヲ仰グ 銃口ヲ直視セバムシロ危險大ナルモ、見エザルモノニ狙ハルヽノ不安ニ堪ヘズ セメテワガ仇敵ヲ目撃捕捉シタキ衝動ニ驅ラルヽナリ ソノ中ニ、依然トシテ身ジロギモセヌ司令長官 スツクト立ツ航海長 ソノ前ニ、窓ニ上半身ヲ乘リ出シテ雷跡ヲ見張ルハ兵學校出身、倨傲ナル山森中尉ナリ 日頃ノ高言ニ愧ヂヌ天晴レノ活躍トイフベキカ 一瞬、前後及ビ左ノ三方ヨリ重壓落チカヽル 背ト胸ヲ接シタル前方後方ノ兵、肩ヲ觸レ合ヒタル左方ノ士官、同時ニ殪レタルナリ コノ身ヲ振リホドキ、重ミヲ外ス モタレ合フ三本ノ背柱、ヨヂレツヽ崩レ落ツ 前後ノ兵トモニヌギ捨テタル服ノ如シ 即死 左方ノ西田少尉、見レバ唐突ニ起キ上リ、左膝ヲ折リ唇スデニ色ヲ失フ 右大腿部ヲ縛ラントスルカ ホトバシル鮮血ニ、手拭眞紅ニフクレ上ル 忽チ顏ニ血ノ氣ナシ カナリノ深傷――直チニ衞生兵ヲ呼ブ 擔架ヲ敷ケバ、ソノ上ニウツ伏シ面ヲ上グ 何モノカヲ仰グ如クシテ、微カニ笑ミヲ浮カベ意識ヲ失フ ワレ悔イナシ、ノ平安ナルカ 或ヒハ何ビトカヘノ訣別ナランカ 眉目秀麗ナリシ彼、散華ノサマ餘リニ鮮ヤカニシテ、ソノイマハノ微笑シバラクハ瞼ヨリ消エ難シ 彼、常ニ一葉ノ寫眞ヲ肌身ヨリ離サズ ソレヲ見得タルハ數人ノ心友ニ限ラレタルガ、口ヲ揃ヘテ、「清楚、ムシロ悲シゲナル」美人ナリトイフ 森少尉ト並ビ、天下ノ果報者トシテ、羨望ノ的《マト》トナリタルハ言フマデモナシ シカモ彼ガ、終始微笑ヲ含ミ誇ラシゲニ默シテ、揶揄、羨望ノ言葉ヲ甘受セシハ、ソノ氣配ヲ一層ソヽル結果トナル 擔架上ニ五體冷エユク時モ、ソノ麗人ノ彼ガ胸ヲ温メヰタルハ疑ヒナシ ワレラ生還後、陸上司令部ニ彼ヲ待チ詑ビタル手紙ノ束(悉クソノ人ヨリノモノナリ)、及ビ身上調書ニヨリ、ハカラズモ眞實ヲ知ル 妹ナリキ 父母モナク他ニ兄弟モナケレバ、天地ニ唯二人ノ兄妹ナリキ 彼ガ肌身離サズ戀ヒ焦レタリシハ、カケガヒモナキ骨肉ナリキ 西田少尉、兵二名、コレラ三箇ノ肉體ハ、荒レ狂フ彈片ヨリワレヲ遮リ、救ヒタリ ソノ隔リ、尺ニモ滿タズ 軍裝數ケ所、血シブキニ染マル 電探傳令岸本上水(十八歳)、唇ヲ震ハス 纏ヒツク肉片、血糊ニ脅エタルカ シカモ彼ガ自ラ傳フル報告ハ、戰況ノ苛烈、戰友ノ悲運ニ滿チ滿チタリ 眞向ニ眼ヲ睨ミスヱ、一發顎ニ鐵拳ヲ見舞フ 童顏紅潮、震ヘ止ム 可憐ナリ 翼陣飛霰ノ度重ナリテ、艦橋員ノ損傷ヤウヤクニ顯ハル 撒散ラサレタル肉片ハ處理セシモ、血痕ハ痣トナツテ殘ル スデニ艦橋員半減シテ、身ノ動キ著シク容易トナレルヲ喜ビツヽモ、誰ガ喪ハレタルカニ留意セン餘裕ナシ シカモコヽニ踏止マレル者ノ過半ハ、手カ、足カ、頭カニ、手拭、三角巾等ヲ縛ツテノ苦鬪ナリ 上部電探室ニユク 對艦船用電探室員ノ誰彼ノ顏、フト心頭ヲ掠メタレバナリ 兵器、動搖逸脱シテ全ク使用ニ堪ヘズ 本艦發砲ノ衝撃、連續被害等、未曾有ノ事態ノ故カ サハレカクモ慘澹タル状況ニ陷ラントハ、裝備定着方法ノ不備ト斷ゼザルベカラズ 海軍實施部隊中、モツトモ性能安定セルトノ評價ヲ受ケヰタル本兵器、遂ニ何ラ爲ストコロナクシテ止ム 極メテ狹キ室内ニ兵重ナリ合ヒ、四肢ヲ組ミ交シテ動搖震勤ニ堪フ コレ日本海軍至寶ノ電探兵ナリ 機銃彈々片、側壁ヲ破リ闖入シキタルモ、身動キスル者ナシ 火花散リ「キーン」ト室内ヲ一順、硝煙立チコムルウチ、森水長ノ首筋ヲ掠メテ落下ス 耳ノ下ヨリ太ク赤キ火ブクレトナル 從順ニシテ有能ナル測者森水長 拾ヒ上ゲウツムキタルマヽ差シ出スヲ見レバ、拇指頭大、裂目鋭キ彈片ナリ 掌ニ快キヌク味ノコル 彼、首筋ヲ撫デツヽ目ヲ細メテ笑フ ソノ後沈沒マデ、再ビコヽニ下リテ彼ラヲ脱出セシムル機會ナシ アヽコノ時、彼ラ縺レ合フマデニ身ヲ伏セテ、默然ト何ヲ待機シ、何ニ備ヘヰタリシヤ 彼ラソノ姿勢ノマヽ、總員、艦ト運命ヲ共ニセリ 妻子アル兵少カラズ マタ紅顏ノ少年兵多シ タダ一人ノ生存者青山兵曹ノ言ニヨレバ、ノチ沈沒ノ寸前、轟々タル爆發音、相次グ衝撃ノウチニアツテ、彼ラ折重ナル如ク倒レ、一樣ニ死相ヲ漂ハセリ 彼、脱出セントシテ「行クゾ」ト叫ブモ、數人タダ僅カニ瞳ヲ上ゲシノミ 肩ヲ叩キ足|蹴《ゲ》ニストモ、敢ヘナク崩折レタリトイフ 戰鬪中自ラノ任務ヲ持タザル者ニハカヽル例少カラズ 衝迫、停電、横轉、被彈ノ重圍ノウチ、シカモ状況ハ皆目不明、「今死ヌカ、今死ヌカ」ノ切迫感ニ脅カサルヽマヽ、待機ト忍苦ノ時ヲ刻ム ヨク常人ノ堪ヘウルトコロニ非ズ 先ヅ舌端シビレ次イデ手足シビレ、自由ヲ失ヒ、ツヒニハ瞳孔開キ切ル 肉體ハナホヌク味ヲ保ツモ、眞實ハ死人ナリ、形骸ナリ カクシテ徒ラニ肉體ノ死ヲ待チ焦ルヽノミ サレド、彼ラニマサリテ孜々タル兵アリシヤ コノ兵ニシテナホ死神ニ屈セザルヲ得ンカ 魚雷集中ノタメ、防水ノ完壁ヲ誇ル送受信室モ遂ニ浸水ニ潰ユ 通信長以下、通信科員ノ過半ヲコヽニ失フ 艦隊旗艦「大和」ニ通信機能ナシ 今ヤタダ發光ト旗琉ニヨル 巨人ソノ耳、口ヲ失ヒテ何ヲカ爲スベキ 特暗科員中谷少尉モ、敵信傍受ノ勤務ノマヽ散華シタルベシ 二世出身者トシテソノ去就ヲ注目セラレタル彼ガ最期、僚友ニ伍シテ見事ナリシモノト推察セラル(通信科士官中、唯一ノ生還者渡邊少尉ノ證言ニヨレバ、通信室決潰ノ寸前マデ、敵信捕捉、解讀ノ作業ハ、淡々且適確ニ進メラレツヽアリトイフ) ノチ終戰ニヨル通信ノ囘復ニヨリ、ワレコレラノ事實ヲ遙カ彼ガ母上ニ傳ヘタリ ソノ返信ニ誌シ給フ 「邦夫ガ最後マデ、自分ノポストニベストヲ盡シテ戰ヒ、日本人トシテ恥ヅカシクナイ死ヲ遂ゲテクレタトイフコト、コレ程ウレシイコトハゴザイマセン 邦夫戰死ノ報ヲ聞イテ、悲シミノ餘リ三月モ寢込ンダ私共デシタガ、邦夫最後ノ模樣ヲ知リ、心カラ勇氣附ケラレマシタ 家族一同、邦夫ヲ尊ンデ居リマス」 傾斜計指度、十五度ヨリ十七度ニ振レ廻ル 實速力、十二乃至三ノット 機械室、罐室以外ニ右舷注水區劃ヲ擴大シ、傾斜復舊ヲ急グモ、最外延タル防水區劃ノ活用不能ノタメ效率低下著シ 爆彈集中、防禦ノ中樞タル第二應急部指揮所潰滅シ去ル 内務長以下、應急科幹部ノ根幹全滅 ソコヲ定配置トセル副長(副艦長、兼應急防禦最高指揮官)、タマ/\第一應急部指揮所ニアリテ無事ナリ 防禦能力寸斷サレ、艦一體ノ抵抗不能トナル 傾斜復舊イヨ/\至難ナリ 護衞艦苦鬪 忽忙ノ間、第五波、前方ヨリ急襲 百機以上 トキニ「矢矧」(巡洋艦)本艦前方三千米ニ全ク停止シ、「磯風」ヲ横附ケセントシツヽアリ 「矢矧」ニ坐乘ノ水雷戰隊司令官、沈沒寸前ノ「矢矧」ヲ捨テ、無傷ノ「磯風」ニ移乘セントスルヤ 司令官ノ戰死ハ、作戰遂行ニ對シ甚大ナル支障トナリ、且士氣一段ト沮喪ノ虞レ多シ サレドコノ絶望的ナル戰局ノ、シカモ特攻必死作戰ニオイテ、カクモ露骨ナル司令ノ延命工作ハ、奇異ノ感ナキヲ得ズ 司令ノ獨斷行勤ナルコト疑ヒナシ 彼、歸還ノ後、批判ノ矢面ニ立チタルハ當然ナリ 特ニ少壯士官ノ攻撃鋭シ カヽル状況ニ應ジ、ワレニ突込マントスル米機ノ一部、反轉シテ二艦ニ向フ 「矢矧」魚雷數本ノ巣ト化シ、タダ薄黒キ飛沫トナツテ四散 「磯風」モ停止、黒煙ヲ吐キツヽアリ 辛ウジテ轟沈ヲ免レタルモ、爆彈數發命中セルカ 右ニ「冬月」、左ニ「雪風」、ソノ身ニ數倍スル水柱ノ幕帶ヲ突破疾走シツヽ、「大和」宛發信シキタル――「ワレ異常ナシ」 屈強二艦、ソノ名ヲ賭シテノ力鬪ナリ 想ヒ見ルベシ 兩艦、兵一員ニ至ルマデノソノ鬪魂ト錬度トヲ 護衞ニ任ゼラレタル九隻ノウチ、ソノ任ヲ果タシツヽアルハコノ二艦ノミ 他ハ或ヒハ海底ニ埋モレ、或ヒハ傷ツキ傾ク 高速行動可能ノ、精鋭全殘存兵力ヲスグツテノ艦隊編成モ、無殘ナル失敗ニ終ルカ 落伍セル「初霜」全ク音信ナシ 時スデニ米機ノ重圍下、惡戰苦鬪シテ相果テタルベシ ノチ一名ノ生存者モナキコト明ラカトナル 如何ニ烈シキ轟沈ト雖モ、タマ/\艦ノ外表ニ在ツテハネ飛バサレ、ソノマヽ水面ニ浮ブ幸運者、少クトモ數名ニ達セザルコトナシ 同艦、開戰後數分、「ワレ交戰中」トノ通信ヲ最後ニ、消息ヲ絶テリトイフ 爆死ヲ免レクル僅カノ生存者 ムナシク海上ヲ漂流シ、島影ハ愚カ、僚艦ノ姿モ目ニ映ラヌニ絶望シツヽ遂ニ力ツキタルニ非ザルカ 小休止 直上機影ナシ 敵襲小休止 緒戰以來初メテノ空隙ナリ 「大和」被彈モトヨリ夥シキモ、スデニ状況全ク不明ナリ 艦内通信機關マサニ寸斷サル 今ヤ指揮統率ハ尋常ナヲズ 電話ニ代ル傳聲管モ損傷多ク、頼ルハタヾ傳令ノミ 無傷ノ兵ヲ探シ、肩ヲ叩キ傳令ニ走ラセントスルモ、「ラッタル」ヲ滑リユクヤ目ヲ離サザルウチ、悉ク機銃彈ニ狙ハレテ轉ゲ落ツ 巨體ノ全細胞分裂ニ任セ、脈絡モナキマヽ、夫々死滅ヘノ一途ヲ辿ル 後甲板附近、消火ニウゴメク影 ソノ動キヤウヤクニ緩慢トナル 機銃砲塔ノ全壞多ク、甲板タダ荒涼トシテ、鐵塊ノ龜裂ヲ殘スノミ 等身大、細身ノ人肉、高ク測拒儀ノ袖ヨリ垂レ下ツテ搖レ止マズ イヅコヨリ飛ビ來レルヤ 甲板ヨリ十米ノ高サナリ 漆黒ニ塗粧セル露天甲板、至ルトコロクリ拔カレ一面ニ變色ス 露出セル兵器コトゴトク損傷シ、前檣、後檣ニ蜘蛛ノ巣ノ如ク張リメグラサレタル空中線、ソノ片鱗スラナシ 巨人在リシ日ノ姿ハ、艦首ヤヽ反リ返ツタル力強キ上甲板ノ線ニ、力瘤ニモ髣髴タル機銃、高角砲々塔隆々トシテ重疊シ、獨自ノ力感横溢セルモ、今ヤソノ面影更ニナシ 白茶ケテ腐蝕セル木片ノ如ク深ク漂フ 傾斜過度ノタメ中型以上ノ砲彈運搬不能、(運彈車轉覆、人力運搬ハ危險)、高角砲、副砲全ク沈默ス 機銃ノミ掉尾ノ血戰ナリ 艦橋下部ニ被彈多ク、臨時治療所配置ノ軍醫官總員戰死ト 群ガル負傷者、ソノ唯中ニ獅子奮迅「メス」ヲ揮フ軍醫、シカモコレラスベテヲ爆風薙ギ倒ス 無心ノ新妻ヲ殘シテ、山田少佐ノ昇天セルモ、カヽル修羅場ナリ ソノ他數ナキ死傷傳フルニ術《スベ》ナク、最期ノサマ知ル者モナシ スデニ多數集積セル士官ノ戰死報告、ヤガテ中絶スルマヽニ記憶ヨリ脱シ去ル 艦橋ニ降リ注ゲル機銃彈ソノ數ヲ知ラズ 人員消耗マス/\甚シ 爆彈マタ眞向ヨリ競ヒ落チ、黒一點、礫、防錘型ト忽チ擴大シテ、アナヤ眞オモテニ喰ラフカト息呑ム瞬時、辛クモ額《ヒタヒ》ギハヲ掠メテ流レ去ル シカモ艦橋幹部ニ一人ノ脱落者ナシ 天佑ナランカ 何ヲモタラサン僥倖カ 初彈以來、スデニ幾何《イクバク》ノ時ヲ經過セルヤ 瞬時ノ閃芒ニ非ズヤ 少クトモワガ意識ニハ、一聯ノ好モシキ肉體勞働、數分ノ快樂ニモ似タル後味ナリ 胸裡ヒソカニ歡心湧ク 些カノ疲勞ナシ 空腹ヲ覺エ、値斜計ヲ睨ミツヽ菓子ヲ食フ 雨着ノ兩「ポケット」ニ詰メタル羊羹、「ビスケット」ノ類、今マデモ無意識ニ探リタルカ、スデニ半バ程ニ減ル ウマシ 言ハン方ナクウマシ 止メノ殺到 第六、第七、第八波相繼イデ來襲ス 各百機内外 何レモ後方 敵遂ニワガ鈍足ニ乘ジ、舵ヲ摧《クダ》カントスルカ――豫感、背筋ヲ冷ヤス 滿身創痍、シカモ隻脚、ワレ如何ニセンスベモナシ 雷跡見事ニ綾ヲナシテ、巨大ナル艦尾ヲ追フ 汗バム掌ヲ揉ミ合ハセ、艦尾方向ニ背ヲ向ケテソノ衝撃ニ神經ヲ研グ 果タシテ後部ニ魚雷集中 艦尾シバシ宙ニ浮キ、火柱、水柱ニ包マル 主舵、副舵トモ幸ヒ舵ノ損傷ハ輕微ナルモ、副舵舵取室ヲ浸水ニ奪ハル 副舵ハタマ/\取舵(左旋囘)一杯ノマヽナレバ、ソノ位置ニ固定ノホカナシ 主舵ヲ面《オモ》舵(右旋囘)一杯トスルモ、左一杯ニトレル副舵強力ナル抵抗トナツテ、僅カニ右旋囘ヲナスノミ 一切ノ行動ハ左旋囘ノ範圍内ニ限ラル イヨ/\半身不隨ナリ シカモ主舵舵取室マタ浸水ニ瀕シツヽアリ 米軍ノ來襲作戰次ノ如シカ―― 量的壓倒ニヨル彈幕突破、天候ラ利シテノ緩降下雷爆撃 魚雷片舵集中、傾斜急増ニヨル速力激減 鈍速ニ對シテノ必中爆撃、對空砲火ノ覆滅 後方ヨリノ雷撃ニヨル舵ノ破碎 再ビ雷爆集中、致命ノ追撃 周密果斷ノ作戰ナリトイフベシ 航海長「一ツ一ツ向ウノ打ツ手ハ見當ガツク 舵ニクルナ、ト思フト必ラズ來ル ソレデヰテ、ドウニモコチラカラハ手ガ出ナイ コンナ馬鹿ナ話ガアルカ」 參謀長「見事ナモノヂヤナイカ ヤハリ實戰コソハ最上ノ訓練ナノダ 戰爭ノ前半デハ、ドン/\攻メナガラ俺タチハ腕ヲ上ゲテイツタ トコロガ後半ニナルト、逆ニ敵サンガ逃ゲテバカリヰル俺タチヲ追ヒ拔イテシマツタ 航空機ニヨル大戰艦攻撃法トイフ、俺タチガ緒戰デ世界ニ叩キツケタ問題ニ、コヽデ鮮ヤカナ模範答案ヲツキツケラレタヤウナモノダ」 巨艦コヽニ進退ヲ失ハントスルカ 爆彈、「ロケット」彈、燒夷爆彈、縱横ニ降リ注ギソノ數ヲ知ラズ 煙突附近ヨリ濛々タル黒煙昇ル 艦内ノ火災カ 防火裝備ノ完璧ヲ誇ル本艦ニシテ、ナホカヽル事態ノアラントハ 値斜急増 殘存速力七ノット 僅カニ左旋囘ヲ行フ 「霞」右前方ヨリ、「ワレ舵故障」ノ旗旒ヲ掲ゲツヽ盲進シキタル 同ジク舵ヲ摧カレタルナラン ソノ身傾キ、醉ヒサラバヘル如シ ワレ如何ニシテ避クベキヤ 不隨ノ身ニ苛立チツヽ、苦心ノ操艦ニヤウヤクコレヲカハス 艦橋ニ開戰以來ノ笑聲上ル 自嘲カ 狂氣カ 主舵繰舵長(中尉)ヨリノ電話次第ニ繁ク、遂ニ隣室マデノ浸水ヲ傳フ ソノ間淡々ト刻々ノ操舵状況ヲ復誦「面舵一杯、七五度、ヨーソロー……」 ヤガテ流石ニ切迫セル聲ニ「浸水マ近シ、浸水マ近シ……」ト連呼 一瞬ノ破壞音ト共ニ、全ク消息ヲ絶ツ 「大和」前檣ニ「ワレ舵故障」ノ旗旒上ル コノ旗ノ本艦ニハタメクモ、最初ニシテ最後ナラン 不沈ノ巨艦、今ヤ水面ヲノタウチ廻ル絶好ノ爆撃目標タルノミカ 斷末魔 傾斜三十五度 米主力ハ雲間ニ集結待機シツヽアルカ 數機乃至十數機ノ小編隊ニ分レ、致命ノ追撃ヲ加フ 弱體ノ目標ニ對シ、小氣味ヨキ效率攻撃ナリ ワレ避彈不能ナレバ、全彈命中、床《ユカ》ニ俯シテ被害ノ衝撃ニ堪フ 一發ノ無駄ナキ必死ノ投彈ハ、殘忍、肌身ニ針ヲ突キ立テラルヽ如シ サレド次ノ瞬時、掠メ去ル虚脱感ノウチニムシロ敵ナガラ天晴レトノ感懷湧キ、達人ノ稽古ニ恍惚タル如キ爽快味ニ醉フ 艦長「シツカリ頑張レ」自身、數囘繰返サル コノ聲ヲ聞キシ者果シテ幾何ゾ 艦内スピーカー及ビ傳聲管ノ機能全滅ニヒトシク、聲涸ラセル傳令ノ口傳ヘノミヨル 艦長ガ肉聲ノ範圍内ニアル者、僅カニ肩ヲ凝ラシ、眉ヲ上ゲタルノミ 突如中部左舷ニ大水柱上ル 同時ニ、足元ヲ掬ハレクル如キ薄氷感アリ 航海長、詰問ノ語調鋭ク「艦長 今ノ魚雷ハ見エマセンデシタカ」 艦長、上部ノ防空指揮所ヨリ「見エナカツタ」 航海長、繰返シテ「見エマセンデシタカ」横顏引締ツテ蒼黒シ コノ魚雷、遂ニ致命傷トナレルカ 少クトモ數發ニ匹敵スル痛撃ヲ與フ 或ヒハ虚ニ乘ジテ潛水艦ノ潛航近接、集中發射セシモノニ非ズヤ 威力絶大、謎ノ魚雷ナリ 神祕ヲ孕ム、フサハシキ巨艦ノ最後 傾斜針ノ動キ一層顯著トナル 僅カニ疲勞ヲ覺エ、床《ユカ》ニ片肱ヲツケテ倚リカヽル 心輕シ 斜メニ身ヲ横タフベク絶好ノ傾斜ナリ 肩ニ息ヲ吐キツヽ菓子ヲ頬張ル 味覺ヲタノシムハ己レガ生身カ、虐ゲラレタル食慾カ 想ヒ出シテ「サイダー」ヲ呑ム 雨着ノ内「ポケット」ニ忍バセタルモノ 炭酸、咽喉ヲ彈ケテ快シ 舌ニ殘ルソノ甘味 フト、肋《アバラ》ノ下ヨリ何ビトカノ聲 「オ前、死ニ瀕シタル者ヨ 死ヲ抱擁シ、死ノ豫感ヲタノシメ サテ死神ノ面貌ハ如何 死ノ肌觸リハ如何 オ前、ソノ生涯ヲ賭ケテ果セシモノ何ゾ アラバ示セ アラバ唱ヘ 今ニシテ、己レニ誇ルベキ何モノノナキヤ」 ワレ 雙手ニ頭ヲ抱ヘ、身悶ヘツヽ「ワガ一生《ヒトヨ》ハ短シ 餘リニ短シ ワレ餘リニ幼シ…… 許セ 放セ 胸ヲ衝クナ 抉ルナ 死ニユクワガ慘メサハ、ミヅカラモツトモヨク知ル……」 何タル、力弱キ呟キ 周圍ノ人ノ氣配變ラズ モノ憂《ウ》ク見交ハシ、互ヒニ生殘レルヲ確カメ合フ 過激ナル活動ノアトノ、コノ身ノ熱氣感應シ合ヒ、溶ケル如キ倦怠ノミ ソノ眸ノ虚ロサ、忘我ノ果テカ、利己ノ極ミカ シバシ全キ虚脱 疾風吹キ拔ケタルアトノ寂寥 ワレ戰ヘリ、戰ヘリ――獨リナキ囘想 アタリ閑《シヅ》カナリ 閑カナリ 傾斜計ノ指針、コノ靜寂ノナカヲ滑ル如ク進ム 艦隊解散 副長ヨリ艦長ニ「傾斜復舊ノ見込ナシ」 スキ透ル副長ノ聲、艦橋ト應急指揮所ヲ結ブ特設堅牢ノ傳聲管ヲ流レ、雜音ヲ冐シテ鮮ヤカニ屆ク ワレ任務ナレバ、ソノマヽヲ、聲高ニ艦橋一杯ニ復誦ス 傾斜復舊不能――沈沒確實――作戰挫折――遂ニ死ノ到來 聯想ハ瞬時ニ結論ヲ掴ム 狼狽ノ氣配ナシ 片肱ツキタル肩ノアタリ、引ツレル如ク搖レタルモノ二、三名 ソノ中ヲ司令長官席ニ匍ヒ寄ルハ、參謀連カ 最後ノ協議カ 旗艦、シカモコノ巨艦ノ喪失ハ、作戰ノ根本的變更ヲ迫ル ヤガテ長官、ツト身ヲ起シテ、前方斜メニ搖レ返ル水面ニ見入ル(ノチ、想ヒ測レバ、コノ間長官ハ、直截果斷ナル「作戰中止」ノ下命ヲ了シタルナリ) 參謀長、左手ヲ羅針儀ニ支ヘツヽニジリ寄ツテ、長官ニ擧手ノ禮 永キ沈默 長官禮ヲ返シ、眸互ヒノ眸ヲ射ル 粗笨無類ナル作戰ノ、最高責任者、及ビソノ輔佐責任者 今ヤ豫期シタル無慘ノ敗北ノ、遂ニ現實トナツテ目睫ニアリ アラユル諫言 アラテル焦慮 アラユル自嘲 アラユル憤懣 感無量ナルモ宜《ムベ》ナリ 長官、擧手ノ答禮ノマヽ、靜カニ左右ヲ顧ミ、生キ殘リノ士官一人一人ノ眸ヲ捉フ イザリ寄ル幕僚(參謀)數名ト、慇懃ノ握手 一瞬微笑マレタル如ク思ハレタルモ、ワレカネテヨリカヽル光景ノウチニ勇者ノ微笑ヲ夢想シタリシ故ノ、錯覺ニ過ギザルヤモ知レズ 長身ノ身ヲ飜ヘシテ、艦橋直下ノ長官私室ヘ「ラッタル」ヲ歩ミ去ル 開戰以來、一切ニ無縁、微動ダニセザリシ長官ノ、ワレラガ眼前ニ演ジタル行動ハ、スナハチ以上ニ盡ク ソノ後沈沒マデ、長官私室ノ扉開カレズ マタ絶エ間ナキ破壞音ノ故カ、自決ノ銃聲ヲ聞カズ 或ヒハ携帶拳銃ヲ撫シツヽ、身ヲ以テ艦ノ終焉ヲ味ハヽレタルカ 第二艦隊司令長官伊藤整一中將、御最期ナリ 艦隊コヽニ首上ヲ失ヒ、ヤガテマタ主城ヲ失ハントス 長官、私室ニ去ルト見テ、副官石田少佐、身輕ニ跡ヲ追フ 彼、終始長官ニ侍從スルノ任ニアレバ、死ヲモ共ニセントシタルナリ 參謀長、咄嗟ニ一躍シテ、ウシロヨリガツキトコレヲ捕フ 「ラッタル」ヲ二三段駈ケ下リ、先ヲ急グ副官 ソノ「バンド」ニムンヅト片手ヲ掛ケ、片手ニ手摺ヲ握リシメツヽ、齒ヲ噛ミ鳴ラシ滿面朱ヲ注グ參謀長 兩者無言、氣合ヒヲ應ジ合フコト數秒 「貴樣ハ行カンデイヽ 馬鹿ナ奴ダ」低ク呻ク參謀長 少壯ノ副官ノ渾身ノ力ヲ支フルハ、甚シキ重荷ナラン 副官、力ニテハ優リタランモ、少將ノコノ眞情ニ心挫ケタルカ、顏ヲソムケツヽ遂ニ讓ル 參謀長コレヲ艦橋ニ引キ上ゲタル勢ヒニ、激シク突キ放ス 參謀長副官共ニ、幸ヒ生還セリ 長官ガ遺族ノ、男子スベテヲ失ヒ、戰後ノ日常意ノ如クナラザルヲ知ツテ、ソノ後、兩者相應ノ支援ヲ續ケツヽアリト聞ク 死生ノ寸刻 松本少尉ト艦橋後部ニテ遭フ 顏面蒼白、指ヲアゲテ囁ク「俺タチモ時間ノ問題ダカラナ」 指サストコロハ、艦ノ後部、モツトモ水位高キ最上甲板、イハユル乾舷ナリ 傾ケル左舷ヨリ、波ヒタヒタト寄セアガリ、漣波立テヽコレヲ洗フ 浮城ノ如シ、ト讚ヘラレタルカノ乾舷 波乾舷ニカヽレバ、顛覆モ早ヤ免レ難シ 彼、絶望ノ證據ニヲノヽケルカ 心優シキ詩人ノ松本少尉 スデニ自ラノ過情ニ斃レタルカ ソノ配置ハ、數階下段ノ第二艦橋ナレバ、ソコヨリ友ヲ求メテキタレルナラン ワレヨリタダ樂觀ノ聲ヲ、イカナル悲境ヲモ前ニ激勵ノ言ヲ、求メテキタレルカ ワレコノ時、ナホ夢想ダニ「大和」ノ終熄間近キヲ思ハズ 理性ハツトニコレヲ悟レルモ、感性ハヒトリ、イハレナキ昂リニ燃エ立ツ 餘リニ長クハゲシキ緊張ノ故カ ハタ巨艦ノ雄渾ニ魅了セラレタルカ(オヨソ巨大ナルモノノ魔力ハ、ソコニ屬スル者ノ心魂ヲ奪ヒ、絶對ノ信頼ト愛着ヲ植附ク) 艦橋ノ生存者十名ヲ出デズ 倉皇トシテ脱出セントスル者アリ 何レモ佐官級ノ古強者ナリ 殆ンド水平ニ近ク傾ケル「ラッタル」ヲイザリツヽ、振向キテワレラヲヌスミ見ル 配置ヲ去リテ何處《イヅコ》ニ行カントスルヤ 他ニフサハシキ死處ノアリトイフヤ 去ルモノハ去ルベキナリ タダコノ得難キ死生ノ寸秒ノ間、彼ラガ心中些カノ悔恨ナキヤヲ想フ ワレラ幸ヒニシテコノ時ニ泰ンズ 何ニカ感謝スベキ アタリイヨ/\ヒソヤカナリ モトヨリ戰ヒノ終末ヲ急グ破壞音止マザルモ、忘我ノワガ耳朶ニ觸ルヽハ柔ラカキ靜寂《シジマ》ノミ ワガ眼ニ映ルモノスベテニ白光射シ、眸、初メテモノ見ルコトヲ知リシ如キ愕キナリ 瞳孔、ソノ底マデモ純《ス》ミ切レルカ 空間ワガ眼前ニ停止シ、時間ワガ周圍ニ凍結ス ワレワレニシテ、ワレニ非ズ コノ間、僅カニ數刻 再ビ胸奧ヨリノ聲、殆ンド肉聲ヲ以テ迫ル 「オ前、憐レムベキモノ 遂ニ空シク死ノ軍門ニ降ルカ 死ニ行クオ前ノ血肉タルモノ、アリヤナシヤ 顧ミテ、自ラニトルベキモノノ、一片トテアルカ」 「待テ、待チ給ヘ ワガ半生ハムシロ惠マレシモノ―― 肉親ノ熱キ絆《キヅナ》 スグレタル師友 快ヨキ環境 豐カナル希望 乏シカラヌ資質―― コレラヲ以テ足ル ワレハ倖セ者」 聲「ソノ何レニ眞ノオ前アリヤ ソレラスベテヨリ、死ニ行クオ前ニ加フベキ何モノノアリヤ アラバ示セ」 「……イナ、ソレノミニ非ズ 更ニ輝クモノ、消エザルモノ……」 聲「何ゾ」 「カノ數々ノ想ヒ出 美シク、心ヒラケ、悔ユルナキ……」 聲「眞實カ」 「アヽ如何ナルヤ コノ不安 何ニ故ニ ワレカクモ苛立ツカ」 聲「サテ、オ前『謙讓』――ソノ喜ビト苦シミヲ知レルヤ 心ニ頭ヲ垂レシコトアリヤ」 「アヽ謙虚カ……ワレ、不遜ノヤカラ 許シ給ヘ サレド辛ウジテ謙讓ト自信シ得ル行爲ノ、唯一ツアリシト答フルコトヲ、得サセ給ヘ」、 聲「ソノ時、眞ニ謙虚ナリシカ オ前 何ニ對シ、マタ如何ニ、己レヲ屈シタルカ」 ワレ、自問ニ堪ヘズ 憤然トシテ 「ヤメロ 詰問スルナ ワレハ自ラヲ審ク」 聲(嘲笑ヲ含ミ) 「自ラヲ審クカ 呵々 愚カモノ 死臭ニ捲カレツヽナホ自ラヲ審クトハ コノ時ニ及ビナホ自ラヲ欺クトハ」 「許セ コノ些カノ安逸ヲモ奪ヒ給フヤ 更ニ沈ミ行クハ何處《イヅコ》 ………………………… 殺シ給ヘ 底ナキ戰慄ヨリ救ヒ給ヘ 殺セ」 最終處置 艦長「御眞影ノ處置ハドウカ」 責任者九分隊長ヨリ、走リ書ノ應信、傳令ノ中繼ニテ屆ケラル 私室ニ御眞影ヲ奉持シテ、内側ヨリ扉ニ鍵シタルト 身ヲ以テ護ル、コレニマサリテ確實ナル手段ナシ 見レバ、航海長(中佐、操艦航行ノ責任者)、掌航海長(ソノ補佐)向ヒ合ツテ「ロープ」ヲ繰リツツアリ 膝ヲ交互ニ組ミ合ハセ、肩ヲブツケ合ツテ、互ヒノ足腰ヲ羅針儀ニ縛リツケントス 萬一浮上セバ、恥辱タルノミナラズ、四肢自由ノマヽ水中ニ沒スレバ、生理的ニ浮上ヲ求メモガクコト必定ニシテ、苦痛ニ堪ヘザルナリ コレヲ見テ、ワレモ自然ノ動作ニ腰ヲマサグル カネテ用意ノ「ロープ」アリ 特攻作戰ノ終末ノカクアラントハ、理性ニハ十分豫期セルトコロナリ 「何ヲスルカ、若イ者ハ泳ゲ」參謀長怒聲、鐵拳ヲマジヘテ凄マジキ權幕ナリ 端ヨリ毆リツケラレル 意ヲ飜シ、「ロープ」ヲ捨テテ止ムナク命ニ從フモ、憤懣消エヤラズ 齒ヲ噛ミクダク思ヒニアタリヲ睨ム――今ニシテ脱出セントハ、何ノタメノ特攻出撃ゾヤ 何ノタメノ自決用「ロープ」ゾヤ 眞實ハ數分前、幕僚イザリ寄ル最後ノ協議ニ、「作戰中止、人員救出ノ上歸投」ノ決定ヲ、長官獨斷下命セラレタルナリ ワレラソノ位置餘リニ近ク、カヘツテコレヲ知ラズ 僅カニ殘骸殘ル「大和」ノ旗甲板ニハ、直チニソノ旨ノ旗旒ハタメキ、「大和」前檣頂ノ應急灯ハ、兩側ノ驅逐艦ニ「チカヨレ、チカヨレ」ノ發光信號ヲ、必死ニ連發シヰタルトイフ 驅逐艦、沈沒ノ渦流或ヒハ誘爆ノ衝撃ヲ惧レ、敢ヘテ近接セズ 若シコノ時横附ケセンカ、モロトモニ粉碎セラレタルハ凝ヒナシ 「冬月」艦長、「チカヨレ」ノ發光ヲ見テ怒髮天ヲ突キ、先任將校ノ「横附救出用意ヨロシイ」ノ報告ニハ面モ向ケズ、「大和」ノ反對方向ニ突ツ走レリトイフ 特攻突入ヨリ、急轉直下挫折歸還ヘノ變更ノ、餘リニ不甲斐ナシト、憤慨ニ堪ヘザリシナラン サキニ倉皇トシテ脱出セル參謀連ハ、ソノ時、一點射シキタル生還ノ光明ヲ見タルナリ 歸投ノ決定ヲ自ラノ耳ニ聞キ、命永ラヘント身ヲ處シタルナリ ワレラモマタコレヲ關知セバ、果シテ如何 ヨク泰ンジテ、コノ身ノ顛倒ニ堪ヘ得タルヤ 知ラザリシ故ノ蠻勇ナリ 命アリト勇氣ヅケラレタル者ハ蒼ザメ、命ナシト身ヲ挺スル者ハ氣負ヒ立ツ サルニテモ果斷ナリシ、伊藤長官ノ作戰拾收命令 死出ノ同志、ソノ半バヲ失ツテ必死行ニ成算ナク、征途マタ半バナレバ、然料辛ウジテ歸路ヲ滿タスニ足ル マサニ最後ノ機會、猶豫ヲ許サザル情況ナリ 一億玉碎ノ相言葉高キ折ノ、シカモ乾坤一擲ノ特攻作戰ニシテ、獨斷コレヲ中止セシメタルハ、並々ナラヌ彼ガ決意ヲ示ス 終始頑強ニ反對シキタリシ素志ヲ、遂ニ貫徹セルモノトイフベシ 狹キ見張窓ニ水平線ホトンド直立シ、視界ヲ黒白ニ縱斷シテ壓迫シキタル 傾斜八十度 暗號士ヨリ暗號書ノ處置終了ヲ傳聲管ニテ屆ク――自ラノ腕ニ軍機書類一切ヲ抱キ、艦橋暗號室ニ入リテ内ヨリコレヲ閉ザセリ、ト 敵ノ入手防止ニハ完璧ヲ期セル暗號書 鉛板ヲ表紙ニ打ツテ沈降ニ萬全ヲ期シ、更ニ潮水ニアヘバトケ去ル特殊「インク」ヲ以テ印刷シ、且活字ノ跡ヲ消ス爲文字ト異ル紙型ヲ二重ニ強ク刻印セリ シカモ暗號士身ヲ以テ機密ヲ保持セザルベカラズ 艦長「總員上甲板」繰返サル 艦長傳令ヨリ口傳ニテ各部ニ傳フ 寥々タル生存者 スデニ時期ヲ失セシコトハ明ラカナルモ、沈沒ニ備フベキ處置完了シタレバ、タダ一人ニテモ多ク救ハントセラレタルナリ アヽコノ時コノ命令ヲ、「總員退去、脱出用意」ノ意ニ解セシモノ、一兵トテアリシカ カツテナキ特攻葬送作戰ノ、征途半バニ展開セル惡戰苦鬪ノ末ニ、誰カナホ一縷ノ生還ヲ期スルモノアラン シカモ「大和」兵員ニシテ、殘存僚艦スデニ作戰命令ヲ解カレ、人員救出北上ニ決セリト知ルベキ由モナシ 「總員死ニ方用意」我ラガ待チ設ケタルモノ、タダコレノミニ非ズヤ 上甲板、トハスナハチ、死ノ清裝ヲ以テ、上甲板ニ最後ノ整列、ノ意ト直感シタルナリ 「大和」ノ最期、萬一數刻ノノチナランカ、燃料過半ヲ消費シテ歸還ヲ保スルニ足ラズ 殘黨以テ、遮二無二突入ノホカナカリシナリ サハレ總員救出命令ノ、餘リニオソカリシ 前甲板ニ散在スル「ハッチ」(圓型鐵窓)數ヶ所、内ヨリ開カレテ駈ケ上ル人影ヲ見タルモ、スデニ波滑ラカナル布ノ如クアタリヲ蔽ヒ、「ハッチ」ニ注ギコム 脱出 艦橋スデニ横轉セル暗室ニ過ギズ 何處《イヅコ》ヨリカ落下シキタレル作戰書類二册、無意識ニ拾ヒ上ゲ、海圖臺内ニ收ム 周圍タチマチニ人影ヲ見ズ 「總員上甲板」ノ下命、虚脱セル生存者ヲ機械的ニ操ツテ脱出ヲ誘ヒタルナリ 去ルベキカ、配置 無二ノ死所、艦橋 ワレ最早ヤソコニ爲スベキ何モノノナキヤ 死生ノ關頭、二時間ノ運命ヲ託シタル、コノ忘レ難キ五坪ノ空間 刹那、不覺ノ焦躁 何モノカニ憑カレタル如ク、床《ユカ》ノ格子ニ指ヲカケ、見張臺ヲ攀ヂノボル 先ノ奴ノ踵ニシタヽカニ蹴落トサレ、艦橋ノ底ニ轉ゲ込ムモ、「ヤレヤレ」トボヤキツヽ再ビ匍ヒノボル ウシロニ明ルキ聲「ヨシ、俺ガシンガリダ」 通信士、渡邊少尉ナリ 彼、負傷セル西田少尉ト交代ニ艦橋ニ當直セシ結果、生還ノ幸運ヲ掴ム 最後ノ脱出者ナレバ、腹マデ窓ニ乘リ出セルトキ、艦モロトモ海中ニ呑マル 氣壓カ、水壓カ、窓ヨリ打チ出サレタル如ク撥ネテ、水中ニ投ゼリトイフ 窓ヲヨヂリ出デ、未練ニモ振リ向ケバ イトシキ艦橋ヨ、全ク横轉シテホノ暗シ 意外ニモ狹ク、穴ノ如クナルニ心打タル 航海長、掌航海長、互ヒニ身三ケ所宛ヲ固縛シタルマヽ、再三ノ脱出ノ勸メヲモ固辭、肩ニカヽル戰友ノ手ヲ振リ拂フ 共ニカツト目玉ヲ見開キ、迫リクル海面ヲ睨ミ据ヱタル姿マデ見屆ク 茂木中佐、花田中尉御最期ナリ 操艦ノ責メノ、ソレ程マデニ重キカ 艦長附森少尉ノ、沈沒ノ瞬時マデ叫ビ續ケタル「頑張レ」ノ聲、兵ノ肩ヲ棍棒ニテドヤシツヾケタル姿、今モナホ髣髴タリ 鐵兜、防彈「チョッキ」ヲ遂ニ捨テザリシ彼、心憎キ最後ナリ(ワレラ艦橋内部ノ配置故ニ、カヽル重武裝ナシ、重武裝ノマヽ水中ニ入ラバ、長時間ノ漂流ハ無理ナリ) 巨鯨沈ム 見張窓ヲ出デ艦橋右側ニ立テバ、遙カ數十米ノ彼方、右舷舷側ノ茶褐色ノ腹ニ生存者整列シテ、一齊ニ雙手ヲ揚ゲタリ マサニ萬歳三唱ヲ了セントスル瞬時ナルベシ 小サク纏マリテ動クソノ姿、兵隊人形ノ如クイトホシ 艦長有賀幸作大佐御最期 艦橋最上部ノ防空指揮所ニアリテ、鐵兜、防彈「チョッキ」ソノマヽ、身三ケ所ヲ羅針儀ニ固縛ス 暗號書、總員上甲板ノ下命等、最後ノ處置完了、萬歳三唱ヲ發唱シ、コレヲ了ルヤ傍ラノ見張員生存者四名ヲ顧ル 彼ラ、剛毅、赭顏ノコノ艦長ヘノ心服ノアマリ、ソノ身邊ヨリ離ルヽ能ハズ 總員死ヲ共ニセンノ氣配明ラカナルヲ見テ、一人一人ノ肩ヲ叩キ、「シツカリヤレ」ト激勵シツヽ水中ニ突キ落トス 最後ノ兵、カレガ微衷ヲ示サントテカ、喰ヒ殘シノ「ビスケット」四枚ヲ、艦長ガ掌ノ内ニ殘シ行クヲ、艦長ニヤリトシテ受ケ、二枚目ヲ口ニシタルマヽ、艦ト共ニ渦ニ呑マレタリトイフ カヽル折ニ、「ビスケット」ヲ喰ラフ豪膽ハ無類ナリ 以上、見張長ノ言ナリ 彼モマタ艦長ノ傍ラヲ離ルヽ能ハズ、遂ニ肩ヲ觸レツヽ水中ニ沒セルモ、ワガ身ニ固縛ヲ強ヒザレバ浮上シタルナリ 前檣頂ニハタメク大軍艦旗、傾キテマサニ水ニ着カントス 見レバ少年兵一名身ヲ挺シテソノ根元ニ攀ヂノボル 沈ミユク巨艦ノ生命、軍艦旗ニ侍セントスルカ カヽル命令ノ發セラルヽコト有リ得ズ サレバ彼、自ラコノ榮エアル任務ヲ選ビタルナリ 如何ニソノ死ノ誇ラカナリシヨ 眼ヲ落トセバ、屹立セル艦體、露出セル艦底、巨鯨ナドイフモ愚カナリ 長サ二町半、幅ホトンド半町ニ及ブ鐵塊、今ヤ水中ニ躍ラントス フト身近カニ戰友アマタヲ認ム 彼、マタ彼 サハレ彼ノ眉アマリニ濃ク、彼ノ耳アマリニ蒼シ 誰モ幼キ表情、ムシロ無表情トモイフベキカ 彼ラ童心ノ一刻、放心脱魂ノ一瞬ナラム ワレモ恐ラクハヒトシキ状況ニアルカ ソノ恍惚ノ眸ヲ以テ見入ルハ何 視界ノ限リヲ蔽フ渦潮、宏壯ニモ織リナセル波ノ沸騰 巨艦ヲ凍テ支フ氷トモ見紛フ、ソノ純白ト透明 サラニ耳ヲ聾センバカリノ濤音、一層ノ陶醉ヲ誘フ 見ルハ一面ノ白、キクハタダ地鳴リスル渦流 「沈ムカ」初メテ、灼クゴトク身ニ問ヒタダス ソノ光景ノ餘リニ幽幻、餘リニ華麗ナレバ、唯事ナラヌ豫感ニ脅エタルナラン 水スデニ右舷舷側ヲ侵シハジム 亂レ散ル人影 シカモタダ波ニ吸ハルヽニ非ズ 湧キ上ル水壓、彈丸ノ如ク人體ヲ撥ネ飛バス 人體ムシロ灰色一點トナリ、輕々ト、樂シゲニ四散ス――見ルマニ渦流一擧ニ五十米ヲ奔ル ト、足元ニ飛沫セリアガリ、イビツノ鏡カト見紛フ水、無數ノ角度、無數ノ組合セニ耀キツヽ鼻先ニキラメク 夫々鏡面ニ人影ヲ浸ス 人影或ヒハ跳ネ、或ヒハ逆立チシ蹲ル コノ精巧ナル硝子模樣、泡沫ノ生地ヲ彩ル シカモソノ泡一面ニ、點々チリバメタル眞青ノ縞(夥シキ渦卷ノカモス沸騰カ) コノ美シサ、優シサ、ト心躍ル瞬時 大渦流ニ逸シ去ラル 無意識ニ息ノ限リヲ吸ヒ込ム 足ヲカヽヘ毬ノ如ク胎兒ノ如ク身ヲ固メテ、極力傷害ヲ防ガントスルモ、モツレ合フ渦凄マジク、手足モガレンバカリナリ コノ身吹キ上ゲラレ、投ゲ出サレ、叩キノメサルヽマヽ、八ツ裂キノ責メ苦ノウチニ思フ――サイゴニ、チラト見シ娑婆ノ姿ヨ 歪ミ顛倒シツヽモ、ソノ形魅力ニアフレ、ソノ色|妙《タヘ》ナリシヨ 掠メ去ル心象ノ慰メ、息詰メタルコノ胸ニ明ルシ 事前ニ遠ク泳ギ得テ、コノ渦流ヨリ免レタル者皆無 カヽル大艦ニテハ、半徑三百米ノ圈内ハ危險區域ナリトイフ 救出決定遲キニ過ギ、コノ距離ヲ泳ギ拔ク餘裕ヲ奪フ 總員戰死、コレ運命《サダメ》ナリシナリ 自爆 時ニ「大和」ノ傾斜、九十度ニナンナントス(カヽル例稀有ナリ 一般艦船ハ傾斜三十度ヲ以テ沈ムヲ常トス) タメニ主砲砲彈、彈庫内ニテ横轉、細キ尖端ノ方向ニ横滑リシ、天井ニ信管ヲ激突、誘爆ヲ惹起ス (生還後、幹部協議、一致セル類推ナリ コノ時期ニ彈庫ニ達スベキ大火災ナシト認メラル) 艦スデニ全ク水中、コノ身マタ渦中 主砲砲彈ハ、一發一艦必轟沈ノ徹甲彈、一發一編隊十機必墜ノ三式彈、滿載計二千發ヲ下ラズ 先ヅ前部ノ主砲彈庫誘爆ス(沈沒後二十秒カ) モシ沈沒前ニシテ艦水面上ニアラバ、爆風直截、人肉スベテ彈片ト化シテ四散シタルベシ 水流ムシロ我ラヲ弄ビツヽ、ヨク風壓ヲ滅殺シタルナリ 誘爆ナカランカ、モトヨリ渦流ノウチ、急轉海底ニ沈降ノホカナカリシナリ 「大和」アナヤ覆ラントシテ赤腹ヲアラハシ、水中ニ突ツ込ムト見ルヤ忽チ 一大閃光ヲ噴キ、火ノ巨柱ヲ暗天マ深ク突キ上ゲ 裝甲、裝備、砲塔、砲身、――全艦ノ細片コトゴトク舞ヒ散ル 更ニ海底ヨリ湧キノボル暗褐色ノ濃煙、シバシスベテヲ噛ミスベテヲ蔽フ 火柱頂ハ實ニ六千米ニ達ス(護衞驅逐艦航海士ノ觀測ニヨル) 閃光ヨク鹿兒島ヨリ望見シ得タリトイフ(ノチ新聞紙ニモ報道) 先端ヲ傘ノ如ク大キク開キ、ソノ中ニ最後ヲ見屆ケント旋囘スル米機數機ヲ屠レリト 惡天ノタメ空シク艦底ニ積マレシ主砲砲彈、遂ニ全彈自爆ヲ以テ敵ト刺違フ 前部彈庫一方ノ誘爆ノミニテハ、吹キ起ス力、渦流ニ及バズ 初メ渦ノウチヲ引キ廻サレツヽ異常ナル衝迫ヲ全身ニ喰ラヒ(第一囘誘爆ノ爆風ナリ)、突キ上ゲ逆卷カルヽモ、頭上ニ蠢ク厚キ障壁ニブチ當ル コレ逸早ク浮上シテ、火雨ノ洗禮ニサラサレツヽアル戰友ノ骸《ムクロ》ナリシヨ カレラ、身ヲ以テ火箭ヨリワレラヲ守リシナリ カヽルウチ、渦流ノ餘力フタタビ水面近クヨリワレラヲ引キ戻ス 更ニ約二十秒後、第二次誘爆繼起(後部彈庫ノ一部カ) 爆風ヤウヤクニコノ身ヲ水面ニ投上グ 相次グ自爆ニ飛ビ散ル無數ノ彈片――我ラ艦體ノ蔭ニアリシ少數ノ者ヲ除キ、スベテ身ヲサナガラ彈巣トナセルカ マタ我ラノミ、恐ルベキ水中爆傷ヲカハスコトヲ得タリ 艦橋ニ踏ミ止マリ艦體上部構造物ニ密着セシ者、カヘツテ幾重ニモ守ラレモツトモ安泰ナラントハ サキニ脱出シツヽ甲板ニ近附キシ者、近キニ從ヒテイヨ/\風壓ニ暴露セラレタルナリ 何タル皮肉カ シカモ我ラ身ニ些カノ彈瘡ヲ帶ビザルモノナシ 頭部、及ビ足先ヲ傷ツケル者モツトモ多シ 傷淺キモノノミ、ヨクソノ後ノ苦鬪ニ堪ヘ得タルナリ ワレツムジノ左ニ長キ火傷ト裂傷トヲ受ク ノチ軍醫官ノ診斷ニヨレバ、破片ハ相當大キク、致命傷トナル虞レ多キモ、頭部ニ切線方向ニ接觸セルタメ、辛クモコレヲ免レタリトイフ 接觸時ハワレマタ疾風ノ如ク吹キ廻サレツヽアリシニ、ソノワレト彈片トノ、切線方向ニ觸レ合ハン確率ハ如何ニ僅少ナランカ 人ト生レテ切線ナルモノノオ蔭ヲ蒙ラントハ 笑フベキカ 煙突ニ呑マレタルモノ極メテ多カルベシト 恐ルベキソノ吸引力 長大ナル空洞、多量ノ海水ヲ吸ヒコム 歸還後全生還者ニツキ、入水時ノ位置ヲ圖示セシメタルモ、煙突ノ周圍ハ廣範圍ノ空隙ヲ示ス ワレ五歩右ニアラバ危カラン 火柱逆落シニ吹キ落チ、赤熱ノ鐵片、木塊、冲天ニ飛散シ轟々落下ス タメニ辛ウジテ浮キ上レル戰友ノ、ソノ餘リニ早キニ失セシモノ多數ヲ殺傷ス 渦中迂囘ノ末、最後ニ浮上セル我ラノミコレヲ免レ、灼熱ノ空ヲ見ズ、タダ濛々タル硝煙ヲ仰グ ワレラヨリ數刻早キモノ、橙色ニ燃エ立ツ空ヨリ夥シキ鐵屑ノ落下スルヲ、シバシ茫然ト見上ゲヰタリトイフ 渦流ニ卷カレツヽ、コノ生身ノ責メ苦ニヒキクラベ、如何ニ他愛ナキ想ヒニ心ヒタレルカ ……サイダーガマダ十センチ程殘ツテタ……菓子モ五袋ハアツタ……モウオソイナ……沈沒場所ノ水深ガ四百三十米ダトハ、海圖デ咄嗟ニ調ベテ置イタガ、コノ勢ヒデ落チテユケバドノ位カヽルモノカ 急降下スル、四百三十米ノ距離感、ソシテ、ソレカラ…… ヤガテ呼吸一杯ニ吸ヒ込ミタルマヽ、極限ニ近附ク 第二次自爆ノ衝撃後十秒カ、胸苦シサ衝キ上リ、遂ニ咽喉元ニコミアゲ、ガバト水ヲ呑ミハジム 鼻トイハズ、口トイハズ、「ポンプ」ヨリ注グ如ク海水噴キコム――ソノ顎ノ勤キヲ、無意識ニ、五體ヲ以テ數フ 七……十……十五……十七 ナホ窒息死ノ氣配スラナシ 五體ノクマ/″\ニ水ヲ滿タシ、口ニ溢ルヽマデハ死ニ辿リツキ得ザルカ 死ノ安樂ニハナホ遠キカ 殺セ……ムシロ殺セ 死ヨ、ワレヲ奪ヘ 目ノフチ薄明ルク瞼ノ裏黄色ク、鼻孔ニキナ臭サツキ上ゲ足元輕ミ、スベテ夢心地ニ霞ミ五體宙ニ浮ク ト思フ間ナク、ポカツト水面ニウカブ 誘爆五秒オソクトモ呼吸極限ヲ超エ、敢ヘナカリシナリ 落下スル火柱ヲ避クル程ニ迂囘シテオクレ、且呼吸ノ限界内ニ浮上セルモノノミ、ヨク救ハレタルナリ 「薄明ルクナツタノデ、ヤレ/\冥途カト、ホツトシタヨ」ト渡邊大尉 「ナムアミダブツ、ト二度言ツチマツタヤウナ氣ガスル 念佛ノコトナンカ考ヘタコトモナカツタガ」ト迫候補生 カク重疊セル僥倖、ソノ一ヲ缺クトモ、再ビ陽ヲ見ルコトアラザリシニ 煤煙ヤガテ潮ニ斷タレテ晴レ渡リ、一面ニ泡立ツ重油ノウネリヲ殘スノミ 「大和轟沈一四二三(二時二十三分)」敵味方、同時ニ飛電ヲ發ス 間斷ナキ對空戰鬪二時間 ココニ終止 漂流 重油シミテマナコ開カズ 息ヲ吐キツヽコレヲコヂアケ、耳ヲ拭ヒ、漂フコト數分 ヤウヤクニシテ、身邊ナホ娑婆ノ連續ニシテ、冥途ニ非ルヲ悟ル――畜生、浮キ上ツタカ、マタ生キルノカ―― 細雨降リシキル洋上ニ、重油、塞冷、機銃掃射、出血、鱶トタヽカフ マ近ニ見レバ、灰色ニ光ル波 更ニウネリ荒ク、重油ヲ纏ヒ密ニ粘ル外洋ノ波 泥糊ノ如キ重油層 一面ノ氣泡 漂フ無殘ノ木片 放歌シテ自ラヲ勵マスモノ 聲遠ク近ク、亂レテヒヾク コノ身ノ重サニ喘グモノ 著シク悶エ苦シムハ深傷ノ兵カ 重油ノ黒一色ノタメ、鮮血ヲモ全ク判別シ得ズ 哀レ發狂シテ沈ミ行クモノアリ 重油ノ吸收ハ生理ニ異常ヲキタス 笑フ如キ唱聲、ムシロ嬌聲ニ近シ 動作活溌ニ過グルモノノ瞬間ニ姿ヲ沒スルハ、ソノ動キノ標識故ニ、飢ヱタル鱶ノ餌食トナルカ 力ツキ沈ミユク兵多シ 若キ兵ノ多クハ、母ヲ戀フラシキ斷末ノ聲ヲヒキ、天ヲツカム雙手空シク突キ上ゲタルマヽ、ズブト姿ヲ消ス 聲涸レテ響キワタル「准士官以上ハソノ場デ姓名申告、附近ノ兵ヲニギツテ待機、漂流ノ處置ヲナセ」叫ブアノ横顏ハ副砲長カ ――シカリ、ワレハ士官ノハシクレナリ――兵隊ヲ握ル、一人ヲモ多ク收拾シテ次ノ行動ヲ待ツ―― 何ヲ放心シテヰタノカ、今ヲヲイテ責任ヲ果ス時ガアルカ 聲ヲ張リ上ゲ、腕ヲ揮ツテ姓名申告 眼鼻モ分チ難キ兵ラ、緩慢ニ波間ヲ縫ツテ集ル 約十名ヲ抑ヘ、靜カニ何モノカヲ待タシム カネテ用意ノ如ク、脚絆ヲ解キテ筏ヲ組ミ負傷者ヲ收容セントスルモ、自爆ノタメ木塊コトゴトク四裂シ、筏ニ組ムベキ長サノモノナシ 止ムナク各自木片數箇ヲ求メ、兩脇、股等ニ挾ミ、(指ニテ持ツハ忽チシビレキテ用ヲ爲サズ)懸命ニ波間ヲ漂フ 重油刺ス目ヲ見ヒラキ、ウネリヲ超エテ憑カレタル如ク追ヒ求ムルハ何カ 「大和」ノ艦影、鼠色ニソビエ立ツ鐵塊ニホカナラズ 誰モガ立泳ギニ堪ヘツヽ、飽クナキ執着ヲ以テ追ヒ求ム コノ足ノ踏マヘタリシモノ、天地ニワガ身ヲ支ヘ居タリシモノノ消エ失ストハ、カクモ空恐ロシキ寂寥ナルカ 「大和」――アル筈モナキ據リドコロ アルハタダ泡、泡 機銃掃射心地ヨゲニ掠メ飛ブ機影 海面ニ飛沫ヲ織リコム彈アシノ帶 ソノ縱横ニ交叉スルハムシロ美觀ナリ 恐怖カ 恐怖ニ非ズ 何故俺タチヲヨケテユクンダ――不審ニ堪ヘズ フト見レバ、アタリノ顏、頭 ソノ漆黒、ソノ醜怪 西瓜大ノタドンニヒトシ フツ/\ト笑ヒコミアゲ、唇ヲ噛ンデコラフ ト、矢庭ニ憤怒コミアゲ、舌端無念ノ火ヲ吐キ舌打チヲツヾケ、絶エズアタリヲ睥睨ス 肌着マデスデニトツプリ水浸シトナル 齒ノ根鳴ラシ、コブシ固メテカチ合セツヽ寒サニ呻ク アルハタダワケモナキ無念ト、塞サト ワガ後生大事ニ跨リシ椅子ノ切片シキリニ沈ミ、シタヽカニ水ヲ呑マサル 苦澁ノアマリ手ヲ放サバ、忽チニヒトリ沈ミ行ク 「クッション」ノ藁ニ海水沁ミワタリ、スデニ重ミヲ増シ居タルカ 愚カニモ錘リヲ抱キタルニヒトシ 「御苦勞樣」聲ニ出シ自ラヲ慰メントスルモ、聲咽喉ニ詰リ笑ヒ額《ヒタヒ》ニ固マリテ、コメカミ僅カニ顫ヘタルノミ 止ムナク新ラシキ木片ヲ求メント身ヲ轉ズレバ、身近カノ兵ノ視線ニ遭フ 魚ノ如キ小心臆病ノ眸ナリ 「安心シロ、オ前ノ生命ノ綱ハトラン 何故オ前ヲイヂメル必要ガアルンダ」呟キツヽヨケテ泳ギ、シバ/\水ニ潛リツヽヤウヤク細片數箇ヲ捉フ 兩脇ニ挾ミ振向ケバ、彼ナホ體ヲ捻ツテ面ヲ向ケ、ワレヲ透カシ見テ憎々シゲナル形相ナリ 熟視スレバ、面識アル通信兵ノ面影ヲ認ム 少年兵ナリ 少年ヲシテ、カクモ相貌ヲ變ヘシムルモノ何ゾ コノ怨嗟、コノ憎惡、シカモワレラハ戰友ナリ イナ、兵ノ士官ニ含ムトコロ、カクモ深キカ――少年ノ純情ニシテナホシカリカ 何モノカ胸ヲ衝キ上ゲ、立泳ギノ足先ヲジリ/\ト曲ゲテコレニ堪フ 凍死ハ眠ル如ク深ク、安ラカナルベシト思フ サレバ今ノ空シキ苦鬪ハ、ヤガテソノ極樂境ニツナガラン コノマヽニ、睡魔ノ訪レヲ待タバヨシ 快哉 サレド蝟集スル兵ノ、重油ニ濁ル目、喘グ口、苛立ツ執念ヲ如何ニスベキ 彼ラガアガキハムシロ自然ナリ 己レガ生ニ、ソレノミニ心奪ハレタル一個ノ人間 ソノ正體ヤ赤裸裸ナリ ワレ卑怯ニモ、己レニノガレントス――望ムベクハ、時ヲ得テタダ死ヲ潔クセンノミ ヒタスラニカク自ラヲ鞭打ツ フト思フ 貴重ノ時、眞ノ音樂ヲ聽キ得ルハ、コノ時ヲ措キテ他ニアルベキカ 聽クヲ得ベシ ワレ今素直ナラバ必ズ聽クヲ得ベシ 類ヒナキ一瞬ヲ得ン ――空白 死ノ如キ靜寂 サラバワレ、自ラノ音樂ヲ持タザリシカ カノ愛着、カノ自負、スベテ僞リナリシカ――待テ、今聽キシモノ、胸ニ蘇リタルモノ、何ゾ マサニシカリ、「バッハ」ノ主題ナリ 耳馴レタル、ワガ心ノ糧ナル主題ナリ ――シカラズ 作爲ナリ 眩覺ナラズヤ イナ、思ヒ惑フベカラズ 意ヲ構フベカラズ タダ、オノヅカラナルマヽニアレ 己レニフサハシク、脅エ歎キヨロコベ アヽコノ時ワレ、ワガ身ノ救ハルヽ餘地アルヲ知ラバ、果シテヨク晏如タリシヤ 寸毫ノ可能性ヲモ爭ヒテモガキ、力ツクルマデ我執ヲ追ヒツヅケタルニ非ズヤ 見ヨ、ワレニ向ヒテ笑ヒカクル者アリ 童顏、ムシロ少女ノ如キ野呂水長 彼ワガ直屬ノ部下タリシコトナシ タダ數度、艦橋傳令ニ使ヒシコトアルノミ 利發、謹直、拔群ノ模範兵、彼 丸顏ノ頬ノ傍ラニ、浮沈ミスル黒キ木片 ホコロブ口元ニ、微カニ齒ノ白サ 波間ニ見エ隱レスルソノ表情ハ、疑ヒモナク微笑ノソレナリ ソノ親愛 ソノ歡喜 ワガ渦流ヨリ脱出シタルヲ、喜ビクルヽナリ 共ニ一歩重キ、娑婆ノ苦海ニ歩ミ出デタルヲ、祝福シ居レルナリ 波ニタダレクル眸、無私無心ノ笑ヒヨ 反射的ニ釣リコマレテ笑フ 立泳ギ緩メバ、波忽チニ眉間マデモ呑ム フト涙グミ、涙溢レ、鼻ヲ重油ニ漬ケテ面《オモテ》ヲソムク ワレラ共ニ死ノ手中ニアルモノヲ、カク豐カナル生ノ歡喜ヲタノシムハフサハシカラズ シカモコノ時ニ笑ミ合フトハ、如何ナル心情ゾ 微笑ノ心ナホ失ハレザリシコトヘノ、自足、安堵ノ涙カ 涙晴ルレバ、ヤガテ彼ヲ見失フ 驅逐艦(型ヨリ見テ冬月カ)全速ヲ以テ直進シキタル シバシ注視スルモ、艦首マサニワガ方ニ向フ コノマヽニ推移セバ、「スクリュー」ノ餌食トナルハ疑ヒナシ 所詮救ハレ難キ身ヲ、囘避スルモ無益ナランカト訝リツヽモ、兵ヲ率ヰテ靜カニ針路ヨリ遠ザカル 忽チ至近ニ迫ルト見ルヤ、面舵一杯ニ轉針、艦尾ヲ大キク左ニ振ル――漂流者群ノ眞唯中ヲ縫ヒ、逞シキ艦尾波ヲ浴ビセテ滑リ去ル 盛リ上ル波丘ノ、降リ斜面ノ半バニワレラ位置シ、全員抱キ合ツテ吸引力ト鬪フ ワレラヨリ數米隔リ、波丘ノ頂キヨリ艦體ニ近キモノハ、根コソギ「スクリュー」ノ魔ノ淵ニ吸ヒコマレテ空シ 驅逐艦、信號兵ヲ總動員セルカ、手旗五本ヲ以テ 「シバラク待テ」ノ發信ヲ繰返ス 信號兵ソノマヽノ姿勢ニ、機銃彈ニ轉ゲ落ツ、ト見ルヤ交代兵コレニ代ル 「シバラク待テ」――何ヲ待テトイフカ 勇躍――漂流者ヲ拾ヒ上ゲ、各艦ノ戰鬪員ヲ補充シテイヨ/\突入スルカ ワレニ從フ兵ラ、己レガ生ニ沒入スルノ餘リ、マナコ見エズ、手旗ノ映ルユトリナク、ヒシメキ合ヒツヽ軍歌ニ耽ル コレヲ止メ、叱咤シツヽキタルベキモノヲ待ツ 救出 驅逐艦、漂流者ヲ一巡シテ停止 敵襲完了ト雖モ、ナホ機影散見スレバカナリノ冐險ナリ 停止時間ハ僅少ナラン 泳ギツキ得ルヤ コヽヨリノ距離、目測二百米 逸ル兵ヲ抑ヘ、木片ヲ押シ合ツテ進ム 焦ルハ禁物ナリ 晝夜ノ哨戒、二時間ノ激鬪、更ニ漂流――肉體力ハスデニ極限ニアリ 血氣ニ逸レバ餘力ヲ盡瘁シテ、行キ着クヤスナハチ崩レ落ツルハ明ラカナリ 過去幾多ノ戰訓、枚擧ニ遑ナシ 纏ヒツク雨着ノ裾、編上靴ノ重ミ脚絆ノ煩ハシサ、水面ニ厚ク層ヲ爲ス重油、飴ノ中ヲノタウチ廻ルニモヒトシ シカモ二百米ヲ力貯ヘツヽ泳グ長サ カク微妙ノ動キヲ誘導セズンバ、何ノ士官ゾ 漂流以來スデニ幾何《イクバク》ヲ經過シタルカト、フト自問ス 僅々二十分カ 實感ヲ以テハ、セイ/″\三十分ニ滿タズ サレド事實ハ、自爆後優ニ三時間弱ヲ經過セルナリ カヽル忌マハシキ時間ノ、事實ヨリ長ク心象セラルヽコソ自然ナルヲ、逆ニ著シク短ク刻印セラルヽトハ如何 漂流ナル體驗ノ全キ虚無的消耗ノ故ニ、時間感覺餘リニ稀薄ニシテ、タヾ茫失ノウチニ經過セルタメカ 搖レ動ク僚艦ヲ、痛キマデニマナコニ燒キ附ケ、熱キ渇望ニ灼カレツヽ遂ニ舷側ニ辿リ着ク 命ノ綱ヲ前ニシテ、赤裸ノ人間ヲ見ル 重油イヨ/\濃ク、重キ波艦體ニ打チ返リ、惡感背筋ヲ走ツテ止マズ 人ヲ求メ聲ヲ求メテ見上グレバ、焦慮タダ堪ヘ難シ 無情ナル僚艦ヨ 垂直ナラバセメテヨシ ツレナクモ手前ニ傾キテソヽリ立チ、蔽ヒカブサル如キ舷側ノ壁 激シキ絶望ヲソヽグ 眼底重油ニ灼ケ、下肢スデニ麻痺感アリ 三本程垂レ下リタル「ロ−プ」、何レモ泥油ニチヌラレテ光ル 群ガル手モ、ヒトシク油ニマミレテ光ル 犇メク力 揉ミ合フ油ト油 兵二名ワガ一團ヨリ離レ、先走ツテ綱ニ就クト見ルヤ、掌ヲ滑ラシ、ズルツトソノマヽ姿ヲ消ス 助カツタ――トノ安心感カ、他愛モナシ 再ビ浮上セン見込全クナシ 九仭ノ功ヲ一簣ニカク 如何ニシテコヽヲ切リ開クカ――マヽヨ 三人目ノ兵ヲ後ヨリ抱ヘ、右手首ニ噛リツキ、齒並ヲ以テ油ヲソギ落トス 皮ゴト剥ギタルカ――止ムナシ ソノ手首ニ二三度綱ヲ捲キツケ、血滲ムマデニ縛リ、「アゲーエ」ト甲板ニ叫ブ 甲板ヨリ覗ク顏ニ手ヲ擧ゲテ合圖 綱靜カニ引キ上ゲラル 一本ノ手首、辛ウジテ一人ノ體重ヲ支フ ソノ足首ニ武者振リツク者 コ奴ハ助カルンダ――トノ思ヒニ驅ラレ、ソノ靴ノ眼前ヲヨギルヤ、雙手ニ靴ヲ掴ム――「ロープ」ト異リ、手ヲカクルニ絶好ナレバナリ 一本ノ手首ハ、二人ノ體重ヲ支フルニ堪ヘズ ドウト外レ、折リ重ナツテ墮ツ――スベテ空シ サラバ一人ノ手首ヲ引キ上ゲ、ソノ下ニ構ヘテ、纏ヒツク腕ヲナグリ返サザルベカラズ 綱ヲ見上グル眸ノ、執着ノ光 彼ラノコノ生キントスル力、尊キカ、醜キカ 思ヒ惑フナ 兵一人ニテモ多ク救フベキナリ 責務ナリ 生キントスル彼ラハ必死 生カサントスルワレモ必死 避ケ難キ死鬪 ワガカクモ力ヲツクスハ是カ非カ ワレニ人ノ生死ヲ握ル力ノ與ヘラレタルカ 知ラズ タダオノヅカラナルモノニ驅ラレテタヽカフ フト氣附ケバ、兵ノ姿ナシ 幾名ヲ救ヒ得タルカ 僅カニ四名カ――過半數ハ空シク水中ニ沒シ去レリ 不覺 「急ゲ、急ゲ」ト叫ブ聲 甲板ヨリ覗ク顏二ツ 艦靜カニ前進ヲ始ム タマ/\眼ノ前ニ繩梯子一ツ 歪ンデ垂レ下ル 位置ハ艦尾ニモツトモ近ク、スデニ「スクリュー」ノ渦ノ圈内ニアリ 最後ノ、ギリ/\ノ機會ナリ ノメル如ク繩梯子ニ喰ヒ下ル 兩手六本ノ指ノ第二關節、僅カニカヽレルノミ 波、下半身ヲ容赦ナク叩ク 更ニ身ヲ引上ゲン力ナシ 今ノ瞬時マデ、ホシイマヽニ浪費ヲ重ネ、幾人ヲモ毆リツヾケタル膂力、嘘ノ如クニ萎エシボム 己レヲ捨テタル者ノ強サノ靈妙ナルヨ カク我ラヲシテ高カラシメタルモノ、マコトニ忝シ シカルニイヨ/\己レヲ支ヘントスレバ、コノ力弱サハ如何ニ 力衰ヘ、ツキントシ、生ヘノワガ執着ヲ試ミルカニ、アルカナキカヲサ迷フ 生身ノ半バヲ波ニ奪ハレントシ、死力ヲツクシテコノ身トタヽカフ ――放スカ、放シテヤルカ、マヽヨ、コノ指先ヲ僅カニ緩メ、滑ラス ソレダケデイヽンダ――樂ニナル、睡ル如キ平安、死――樂ニナリタイ、死ンデヤレ アヽ死ノ如何ニ甘美ニ、安易ナルコトカ 「ガンバレ、ガンバレ」甲板上ヨリ、耳ヲ突キ刺ス兵ノ聲 彼ラ、ワガ苦鬪ノ一切ヲ目撃シ居タルナリ 眞情ニ貫カレタルコノ激勵 「生キロ、生キロ、コヽマデ來テ死ンデ相濟ムカ、死ンデ許サレルカ」身ウチニ叫ブ聲ス 初メテ、眞ニ初メテ、生ヲ求メン意地、カツト開ク 生キタキ希求ニ非ズ、生キズンバヤマザル責務ナリ 肉體消エントシテ魂魄ヤウヤクニ燃エ、スベテヲ奪ハレ、タダ眞ニ己レナルモノ殘ル 血、油ニマミレ、繩ニカラマレシワレニアルハ、カノ消エザル火ノミ 眞實ヘノ止マザル傾キノミ コレゾワガ死スベキ窮極ノ時、死ヲユルサレン至福ノ時 故ニコソマタ果敢ニ生キン時、生クベキ時 兩手ニ力強キ人ノ手――長カリシ繩梯子ノ苦鬪 己レトタヽカツテ生キルカ、己レニ挫ケテ散リ果テンカ、二者擇一ノ刻一刻 兵二名、繩ヨリモギ取ツテ甲板ニ擲ツ 倒レタルマヽ面ヲ上グル力モナシ モ早ヤコノ身ヲ支フルノ要ナキヲ、カノ苦業ヨリ免レタルヲ、溶ケル如ク身ニ沁ミテ覺エシノミ アヽワレ、生クベク定メラレタル者ヨ 兵、繩梯子ヲ引上グルニ、萬一急ガンカ、指忽チ繩ヨリ外レ、スベテ空シカリシナリ 相手ノ重ミ、疲勞度ニ應ジタル、絶妙ノ呼吸ナリ、シカモ敵襲ノ危氣去リヤラヌ折、流石ニ歴戰驅逐艦ノ乘員ナリ 兵、手早ク軍裝ヲ脱ガセ、俯向ケテ咽喉ニ指ヲ入レ重油ヲ吐カス 「貴重品ハゴザイマセンカ」ト訊ク――貴重品――作戰書類、人事機密資料、金子《キンス》――必死作戰ナレバ、何レモソノ持チ合セナシ 更ニ、貴重品ナドニカヽハル餘裕ナシ 全裸ノ上ニ毛布ヲ纏フ 肌身マデ浸シタル重油ニ、毛布忽チ濡レテ重ク冷ク、顫ヘ再ビ激シク全身ヲ走ル 「頭ヲ怪我シテ居ラレマス、治療室ヘ」トノ注意ニ片手上グレバ、サキノ自爆裂傷ニ指二本スツポリ入ル コノ時マデ痛ミモナケレバ、全クコレニ氣附カズ 傷幸ヒニシテ頭部ナレバ、遊泳中ニ出血止リタルモ、萬一首以下ナランカ、長ク水中ニアツテ止血ノ途ナク、泳ギツヽ斃レタルベシ 治療室ヲ求メ廊下ニ出ヅレバ、死屍壘々、足ノ踏場モナク、數歩毎ニ躓キ倒ル 落チルハ、生暖キ人肉ノ床《ユカ》ナリ 奮戰隨一ノ「冬月」サモアリナン 力ツキ倒レタルマヽノワレヲ、突キ飛バス如ク走リ去ル士官、ソノ横顏 田邊少尉――懷カシキ學友、大學ノ同級生ナリ シカリ――彼、「冬月」航海士ナリシ 聲ヲ上ゲテ呼ブ 全身重油ニマミレタルコノ身ヲ眺メマハシ、「何ダソノザマハ」ト哄笑シバシ 急ギ去リユクヲ見レバ、狹キ廊下ヲ膝ニテヰザル 恐ラク自ラハソノヰザレルヲ氣附カザルベシ スデニ數十時間、重要任務累積、八面六臂ノ活躍ニ、足遂ニ立タズ、膝ヲ以テ歩行ノホカナキナリ シカモワガ醜怪ヲ笑フトハ 治療室ニ辿リ着キ、傷ヲ縫合ス 軍醫官二名、全身ニ返リ血ヲ俗ビ、マナジリヲ決シテ「メス」ヲ揮フ 通例ノ如ク浴室ヲ使用セリ 湯水ノ流ルヽ「パイプ」ニ、血ヲ通サンタメニシテ、他ノ室ナラバ、ヤガテ血ノ海トナリ、血ニ溺ル 室ノ一隅ハ、天井ヨリ堆キ坂ヲナシテ死體ノ山ナリ ワガ先順ノ患者、足首ヲモガレタル若キ兵ニシテ、膝ヨリ切離サントスル手術ノ間、モトヨリ麻醉ナケレバ、苦痛ノ餘リカ、甲高ク幼兒ノ如ク喚キツヅク 膝ノ骨ノ、豆腐ノ如ク軟カニ切リ開カルト見ル間ニ、喚キ聲ハタト止ミ、忽チ硬直ス 出血多量カ 軍醫官、一人ハ頭、一人ハ足ヲ持チ、二三度振リ勢ヒヲツケタルノチ、死體ノ山ノ頂キニ投ゲ上グ ワガ手術ハ簡單、傷ヲ開キ、重油ヲ拭ヒトリ、鮮ヤカニ縫合 化膿ノ虞レ先ヅナカラントイフ 劇シキ目藥ヲ刺ス 油ノ刺戟甚シ 艦内血ナマグサク、ナドイフモ愚カナリ 腥血溢レテ青臭ク、咽喉ムセテ息苦シ「冬月」航海長中田中尉、羅針儀側ノ戰鬪配置ニアリテ、兩手ニ機銃彈ノ盲貫ヲ受クルモ、ソノマヽ勤務ヲ續ケ、遂ニ出血ノタメ意識不明トナツテ醫務室ニ護送サル 應急手當了リ安靜ヲ命ゼラルヽヤ、隙ヲ見テ脱走、艦橋ニ急グモ、兩手ヲ失ヒ行動不如意、「ラッタル」ノ中段ニテ、再ビ出血ノタメ氣ヲ失ヒタルトコロヲ發見セラル 二十二歳ニシテ美髯ヲ蓄ヘタル、快男兒ナリ 作戰變更、決定ヲ初メテ聞ク ワレラガ收拾ハ突入準備ニ非ズ、歸投用意ナリト 現在針路ハ南西西ニ非ズ、北北東ナリト 聲モナク唇ヲ噛ム 生死ノ關頭ヲ踏ミ越エタル歡喜更ニナシ 死ハナホ間近ニアリ 生コソムシロ苦痛ナリ 克己ナリ 過勞ト重油吸收ノタメカ、發熱相當アリ 惡感止マズ 士官寢臺ニ辿リ着キ、「ベッド」ニ倒ルヽ如ク折重ツテ眠ル 「『大和』ノ乘組員キケ、元氣ナモノハ本艦ノ作業ヲ手傳ヘ」怒鳴リコム山森中尉、血氣ノ「大和」航海士 自ラモ壁ニ倚リ辛ウジテ立ツ 無念ノ形相ナリ「オウ」アタリニ聲上ルモ、立動ク影ナシ 救助セラレタル者、ソノ艦ニ奉仕スベシトハ知悉セルモ、四肢意ノ如クナラズ 漂流中、艦長附森少尉ヲ洋上ニ目撃セシ兵アリ 彼サラバ濁流ヲ脱シツヽモ、遂ニ還ラザリシカ 專心死ヲ冀ヒタル彼、許婚者ノ新生ヲ希ヒタル彼、過タズ死ニ行キ着ケリ 武裝重キカ、瘡深カリシカ 心暖ク、舷側ニテ兵ヲ救ハントスル餘リ、鼓舞叱咤、ソノ職ニ斃レ、ソノ任ニ殉ジタルカ 如何ニ彼、死ニ挑ミ、正對シ、死トタヽカヒ、遂ニカチ得タルカ カクシテ生ヲツクシ、生ヲ全ウシ、己レヲ昇華シタルカ シカモコヽヨリ佐世保マデハ、茨ノ道ナリ 精鋭米潛水艦、傷ツケル驅逐艦コソ好餌ナレト、手具脛ヒイテ數段ニ待チ構ヘ、終夜執拗ニ追尾襲撃シキタル 「配置ニ就ケ」ノブザー、「對潛戰鬪」ノ號令、間斷ナク艦内ニ流ルヽヲ、惡夢ノ如クキク 本艦乘組員ノ心情、ゲニヤ悲壯ナリ 廊下ヲ行ケバ、負傷者ノ腕數本|床《ユカ》ヨリ伸ビテシツカト彼ラガ足ヲ捉ヘ、「ドウカ無事ニ内地マデ還ラセテ下サイ」ト、哀願懇願ヲ繰返セリトイフ シカモ艦橋ハ兵器損壞、將兵死傷多ク、操艦モ容易ナラズ タダ不屈ノ鬪魂ト、胸引キ裂カルヽ如キ重責感トヲ以テ、敢鬪ヲ完ウシタル如シ 敵潛重圍ノウチ、窮餘ノ一策、探照燈ヲ至近ノ艦ニ照射シ威嚇射撃ヲ浴ビセ、止ムナク潛航スル間隙ニ逃レ走ル――カヽル捨身ノ避待ヲモ重ネタリト 「雷跡右四本」ナド傳フル聲、惡感ニ苦シム耳ヲ刺ス――ヨシ、今度ハ泳ガンゾ 必ズ死ンデ見セルゾ――譫言ノ如ク呟ク 夜明ケマデ、終始カクノ如シ 「雪風」遂ニ被雷二本、幸ヒ何レモ不發ニ終リ、事ナキヲ得タリ 艦隊敗殘 沖繩突入特攻艦隊十隻中、殘存艦ハ「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」ノ四隻ノミ ソノ過半ヲ喪フ 「霞」及ビ「磯風」ノ二艦、共ニ機關ニ損傷ヲ受ケ洋上ニ停止 コノマヽ放置セバ米軍ノ捕獲スルトコロトナリ、幾多機密ノ漏洩ハ避ケ難シ 自軍ノ魚雷ニヨリ、敢ヘテ撃沈ノホカナシ コレニ先立チ「冬月」ハ「霞」ニ、「雪風」ハ「磯風」ニ向フ 横附ケ時間ハ五分間、兩艦ニカケラレタル二本ノ横木ノ上ヲ將兵ノ往來シキリナリ 最終ノ機會ナリ 士官ハスベテ戰鬪帽ヲ捨テヽ軍帽ヲツケ、公用書類ヲ手ニ軍刀ヲ提ゲ、廢艦ニシバシ擧手ノ禮ノノチ、移乘シキタル 下士官兵、整列シテ順ヲ待チ、或ヒハ負傷者ヲ背負ヒツヽ急ギ渡ル 五分ヲ經過セバ、殘存者ヲ目撃シツヽモ一齊ニ横木ヲ叩キ落トス 忽チ遠ザカリ、僚艦ヘノ儀禮ヲ以テユルヤカニ一周ノノチ、手練ノ魚雷一閃、鮮ヤカニ處分ヲ了ル 「涼月」准士官以上總員死傷、指揮官ハ上等兵曹ナリ シカモ機械、罐故障 「冬月」宛ニ發信キタル「ワレ後進ニヨリ鹿兒島ニ向フ」ト(前進ノ機械支障アリ) ノチ必死ノ應急修理ニ成功、佐世保ニ足ヲ伸バス 「冬月」「雪風」モツトモ健脚ニシテ、八日朝、佐世保ニ入港 「初霜」ヤヽオクレテ同日晝 「涼月」更ニオクレテ薄暮ノ頃、艦ノ後部炎上シツヽ、マサニ、沈マントシテ入港ソノマヽ「ドック」ニ入ル 救出消息 「大和」副長、「雪風」ノ短艇ニ救助サル スデニ壯年ヲ過ギ、シカモ痩躯 下部深キ應急指揮所ヨリノ、唯一ノ生存者ナリ 如何ニシテ脱出セラレシヤ 特攻作戰ナレバ艦長ノ戰死ハ必至ナリ 戰鬪經過報告(極メテ貴重)及ビ艦一切ノ殘務整理等、スベテノ責任ハ副長ニカヽル 状況如何ニ困難ヲ極ムトモ、生還ヲカチ得ザルベカラズ ヤウヤク救助艇ニ達スルヤ、カ盡キ、マサニ沈マントスルヲ、大佐ノ襟章ヲ見テ、救助員急ギ引上ゲタリ スデニ困憊ソノ極ニ達シ、全ク意識ナク、絶命ヲ防イデ毆打ヲ續ケツヽ艦ニ急行セリトイフ 額ヨリ後頭部ニカケテ長キ彈瘡アリ 「大和」最後尾ノ機銃群指揮官、鎌田少尉、戰鬪末尾近クマデ敢鬪セルモ、兵器被彈シテ作動停止スルヤ、部下ノ全員ヲ砲塔下ニ集ム 菓子ヲ頒ケ、恩賜ノ煙草ヲ一服宛呑ミ廻シタルモ、何カ心殘リアル如キ思ヒニ思案スレバ、尿意ヲ催セルナルニ氣附ク 部下何レモ同樣ノ心懸リ持テルニ哄笑シ、一列ニ舷側ニ並ビ、一齊ニ渦流ニ放尿ス シカルノチ、總員肩ヲ揃ヘ、波濤目掛ケテ飛ビ入ラシム 自ラハ、兵スベテノ最後見屆ケントノ思ヒニ、二、三歩遲レタル故カ、ヒトリ微速ニ囘轉スル「スクリュー」ニ捲キ上ゲラル 「スクリュー」寸秒ノ間ニ、兵全員ヲ捲キ落トシ、次イデ捲上ル勢ヒニ、彼ヲ渦流ヨリ掬ヒ飛バス 「世ニモ恐ロシイ、巨大ナモノガ眼ノ前ニ迫ツテ、ハツト、俺ハ氣ヲ失ツテヰタ」トハ彼ガ述懷ナリ 右肩ヨリ左脇腹ニ袈裟掛ケニ裂カレタルモ、着衣厚ク瘡幸ヒニ淺ク、輕度ノ化膿ヲ以テ免レタリ 「初霜」救助艇艇指揮、嘆イテイフ「船ベリニ手ヲカケテ、ドウシテモ離レン奴ガヰルカラ、仕方ナク引上ゲテヤツタガ、ソノ癖意識ハナク、エライ苦勞シタ」彼「大和」測的分隊長、江本大尉ナリ 艦ニ還リ、治療室ニ運バレテスデニ呼吸ナク、人口呼吸二時間、ヤウヤク蘇生セルモ、苦悶ノ状見ルニ堪ヘザリシトイフ 水中爆傷(誘爆爆風ニヨル)及ビ胸腔壓迫ナリ 彼、漂泊生還ノ體驗スデニ數度ニ及ブ 半年前、某驅逐艦先任將校トシテ南海ニ轉戰セル時、集中爆撃ヲ受ケ轟沈セラレタルモ、カネテ甲板上ニ準備セル筏ニ乘組員ノ大半ヲ移乘セシメ、漂泊シツヽ僚艦ノ救助ヲ待ツ タマ/\逃走中ノワガ海防艦ニ遭遇スルヤ、コレヲ横附ケセシメ、總員コレニ乘組ンデ直チニ戰鬪配置ニ就キ、自ラハ艦橋ニ上リ海防艦長ヲシリメニ操艦及ビ砲戰指揮ヲ行ヒ、氣魄ト錬度トヲ以テ、ヨク危機ヲ脱シ歸投セリトイフ 性、剛捷氣鋭、一觸人ヲ斬リ肺腑ニ迫ル 「初霜」救助艇ニ拾ハレタル砲術士、左ノ如ク洩ラス―― 救助艇忽チニ漂流者ヲ滿載、ナホモ追加スル一方ニテ、スデニ危險状態ニ陷ル 更ニ拾收セバ轉覆避ケ難ク、全員空シク西海ノ藻屑トナラン シカモ船ベリニカヽル手ハイヨ/\多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル コヽニ艇指揮及ビ乘組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ拂ヒ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、バツサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルヽヤ敢ヘナクノケゾツテ墮チユク、ソノ顏、ソノ眼光、終生消エ難カラン 劍ヲ揮フ身モ、顏面蒼白、油汗滴リ、喘ギツヽ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄繪ナリ―― 生還 八日、朝 一夜ヲ睡ツテ、體力全ク恢復、發熱惡感スベテ退參セルモ、目ノ痛ミ甚シク、容易ニ開カズ 甲板ニ出デテ顏ヲ洗フ 漆黒少シモ減ゼズ 互ヒノ珍妙ナル面貌ニ、改メテ腹ヲカヽフ 艦スデニ九州西岸ヲ走ル 陽光沁ミワタル眸ニ、内地ノ山ノ、餘リニ麗ラカナル美シサ 思ハズ嘆聲アガル「生キルノモヤツパリイヽナア」 サレド陽春ノコノ明色、數無キ戰友ノ死ノカタハラニ、ナホ凡々ノ生ヲ保テルヲ愧ヂシムルニ足ル 生還ハ、ワレラガ發意ニ非ズ、僥倖ノ結果ナリト自ラヲ慰ムルモ、ナホ一抹ノ後メタサ消エヤラズ 我ラ救ハレタルハ、正シキカ 佐世保入港 投錨ト同時ニ、軍港工場ノ一部ニ空襲アリ 無表情ニソノ黒煙ヲ眺ム 「大和乘組員、總員集合」 久々ノ下命ナリ 弊衣アリ、毛布アリ、半裸アリ 百鬼夜行 副砲長、一ワタリ睨ミ廻シテ言ヒ放ツ 「貴樣ラニハ、一仕事シテ來タトイフヤウナ、安心、傲慢ノ色ガ見エル、ソンナコトデドウスルカ アンナ戰サハ大シタモンヂヤナイゾ コレカラハイヨ/\貴樣ラ古強者ヲ必要トスルノダ 直グ、今ニデモ俺ニツイテ突込ンデユク イヽナ」 彼ニ集ル視線、陰慘ナル沈默 死出ノ旅ノ疲レヤ、餘リニモ深キナリ 同夜ヨリ佐世保軍港外、病院分院ニ入ル 離レ島ニテ機密漏洩ヲ防ギ、且傷ノ治療ヲ行フ 白衣ノ身、波音終夜トドロシキ病棟 花匂フ夜、思フ事多シ 瀾漫ノ春、長閑ナル療養、何カ不甲斐ナサニ堪ヘズ、傷淺キ者|擧《コゾ》ツテ病院長ニ願ヒ出デ、特ニ治療未了ニシテ退院ヲ許サル 呉ニ赴ケバ、家郷ヨリノ郵便物ノ、夥シクモワレラヲ待チタルヨ シカモソノ殆ンドノ宛先スデニ亡シ 整理返送ノ事務、心苦シク身ヲ細ル 呉人事部ニテ新タナル勤務先ヲ訊ク 副長「俺タチハ幸カ不幸カ生キ殘ツタ ヨリ以上ノ死ニ場所ヲ得ル ソレデ何ヲイフコトガアルカ」 生殘リノ後メタサニ打克タントテ、ワレラ無性ニ特攻志願ニ走ル 素志ヲ達シ、再ビ特攻隊配屬トナル 漂流者慰勞ノ休暇ヲ賜ハリ、思ヒ掛ケズ故郷ニ旅立ツ 途次、電報ヲ打ツ 遺書スデニ參上シタレバ、父上、母上、諦メ居ラルヽヤモ知レズ――喜ビノ心構ヘヲシツラヘ給ヘ 家ニ着ク 父、淡々トシテ、「マア一杯ヤレ」 母、イソ/\ト、心盡シノ饗應ニ立働ク フト状差シニ見出シタル、ワガ電報――文字、形ヲナサヌマデニ涙滲ム カクモワガ死ヲ悲シミクルヽ人ノアリト、ワレハ眞ニ知リタルカ ソノ心ノ無私無欲ナルヲ知リタルカ 故ニコソ生命ノ如何ニ尊ク、些カノ戰塵ノ誇リノ如何ニ淺間シキカヲ知リタルカ 感懷片々 ワガ數日ノ體驗、コレヲ特攻出撃ト呼ブヤ コノ乏シキ感懷ヲ、死線ヲ超エタル收穫トイヒ得ルヤ 然ラズ 我ラ萬ニ一ノ生ヲモ期セズ 自ラ死ヲ選ビタルニ非ズシテ、死、ワレヲ捉ヘタルナリ カクモ安易ナル死ナシ 精神ノ死ニ非ズシテ肉體ノ死ナリ 人間ノ死ニ非ズシテ動物ノ死ナリ ムシロ死ニ非ズシテ死ノ小實驗ナリ ワレ一瞬トテ死ニ直面シタルカ 出港以來、死生ノ關頭ニフサハシク、自ラヲ凝視セシコトアリヤ 最後ノ刻々ニ、些カノ生甲斐ヲモ感ジ得タルヤ ワレハ死ヲ知ラズ 死ニ觸レズ 死トノ對決ヨリワレヲ救ヒシモノ、戰鬪ノ異常感ナリ マタ去リ行ク者ノ悲懷、明ラカナル祖國ノ悲運ナリ 飜ツテ、銃後ノ死、無數ノ戰災ノ死ヲ想フベシ ワレモシ艦橋ニテ、彼ラノ如ク、周圍ニ父母アラバ如何 兄弟アリトセバ如何 ワレニ脱出ノ機、選擇ノ餘地、自主ト責任アリトセバ如何 悲慘ナル生活ノ唯中ニアラバ如何 タダ値ヒナキ犧牲ニ過ギザリトセバ如何 特攻ノ死コソ、遙カニ容易ナリ ワガ位置ニ立チテ、ワレノ如ク振舞ヒ得ザル者ナシ 老幼子女ト雖モ、モトヨリ然ラン 必死ノ途ハ坦々タリ 死自體ハ平凡ニシテ必然ナリ 死ノ事實ノ尊キハ、タダソノ自然ナルニヨルベシ カノ天地自然ノ、尊バルヽ如クニ サレバ我ラガ體驗ヲ、必死ナル故ヲ以テ問フコト勿レ タダ問ヒ給ヘ――我ラノ如何ニ職責ヲ完遂セルカ 如何ニ適確ニ行動セルカヲ ワレ果シテ己レノ分ヲ盡セシカ 分ニ立ツテ死ニ直面シタルカ イナ、唯々トシテ死ニ屈シタルニ非ズヤ 特攻ノ美名ニカクレ、死ノ掌中ニ陶醉セシニ非ズヤ 然リ 他ナシ、薄行ノ故ナリ ワレ日常ノ勤務ニ精勵ナリシヤ 一擧手一投足ニ至誠ヲ盡セシカ 一刻一刻ニ全力ヲ傾ケシヤ ワレコレラスベテニ過怠ナリキ シカモソノワレニ、カヽル試煉ヲ賜ヒシハ何ユエゾ 一度ビ死ヲ與ヘラレタル幸運ヲ謝スベキカ ハタ 遂ニワレヨリ死ヲ奪ヒ返シヽ僥倖ヲ謝スベキカ カノ時、幽明ノ岐路、間髮暗鬪ノウチニ逆行セバ如何ニ――ワレヲ迎ヘシモノ 死カ カノ暗ク苦シク、貧シキモノ、マサニ死ナルヤ サハレ 戰友アマタヨリ、ワレヲ別チ、再ビ天光ニ浴セシメタルモノ何ゾ 思フベカラズ 死、ワレニカヽハリナシ 死、ワガ身ニ近キトキカヘツテワレヨリ遠ザカリ、生安ラカニ全キトキ、初メテ死ニ直面スルヲ得ベシ 不斷眞摯ノ生ヲ措キテ、死ニ正對スルノ途アルベカラズ 虚心ナレ コノ時ヲシテ、常住獻身ヘノ轉機トナセ 本作戰ハ遂ニ成功セズ 艦隊ノ過半ヲ喪ヒ、途半バニシテ歸投ス 連合艦隊司令長官ヨリ、感謝ノ詞アリ 「當隊ノ犧牲的勇戰ニヨリ、ワガ特攻機ノ戰果大イニ擧リタリト」 以テ瞑スベキト雖モ、作戰目的ヲ貫徹シ得ズシテマタ何ヲカ言ハン 徳之島ノ西方二十哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨體四裂ス 水深四百三十米 今ナホ埋沒スル三千ノ骸《ムクロ》 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何 底本:「戦艦大和の最期」創元社 1952(昭和27)年8月30日発行 |