軍艦大和

吉田滿




        一

 昭和二十年四月、少尉として乘組んでゐた。配置は電測士乙(副電測士)甲は大森中尉。
 二日、大和は、呉軍港の碇泊地最外廓に打たれた二十六番ブイに繋留中。ドツクの整備を待つてたゞちに入渠し、出動に備へて、艦内外部の修理と兵器の増備を行ふ豫定であつた。
 早朝、突如、艦内スピーカー。「〇八一五(八時十五分)ヨリ出港準備作業ヲ行フ 出港ハ一〇〇〇(十時)」
 かくも不時の出港は前例がない。されば待望のときか。
 通信士からは緊迫した信號の動きを傳へてくる。われわれを待つものは出撃のほかにない。
 入渠整備の豫定と稱しての碇泊も、眞實は發動の僞裝であつた。
 あゝいかにこの時を、この時をのみ、期して待つたことか。
 出撃こそその好機。
 また出撃は、晝夜の別も寛嚴のけじめもない猛訓練を一擧に終止させ、そこからわれわれを解き放つてくれる。

        ☆

 待望の時。
 米軍が沖繩の一角に上陸してから十日を經ぬころである。作戰はその方面に向ふものに相違ない。
 噂がさゝやかれる――關門海峽を通過し、佐世保か釜山で重油を補給して一路南に向ふか。或ひは、豐後水道を堂々直進するか。――さゝやきはたかまり、ひろがつてゆく――作戰海面はどこか。
 大和に從ふ僚艦は何々。艦隊編成如何。南海に決戰場を求め一擧に雌雄を決するのか。――喧々囂々
 その聲を壓して艦内スピーカーが凛とひゞく。
「各分隊、可燃物ヲ上甲板ニ出セ」
「各自ハ身ノ廻リ整理ヲナセ、終レバ私物ヲ水線下ニ格納セヨ」
「艦内警戒閉鎖トナセ」(浸水および火災防止のため通路のハツチも各室の扉蓋も嚴重に閉鎖する)
「陸上ヘノ最終便(連絡艇)ハ〇八三〇(八時半)ニ出ス」
「艦内閉鎖ハ各分隊長點檢セヨ」
 命令號令が亂れとぶ。
 時が追ひ拔くやうに流れ去る。
 陸上への最終便の短艇指揮を指命され、第一波止場に向ふ。
 全天、薄雲に蔽はれ、海面は煙り、睡るやうな軍港街は全く平生とかはらぬ姿である。
 波止場に着き、所用を達したのち、三度上陸場附近を點呼して、未乘艦者の殘留してゐないことを確かめた。出撃に際して出港におくれゝば銃殺が例である。
 これが俺の足の踏むさいごの土か、ふとそんなことを思ひ浮かべる。
 歸艦後即刻とりこめるため、短艇揚收準備を急がせながら返路を大和に向ふ。微風がこゝろよい。
 大和は外舷をくまなく銀灰色に塗粧した直後で、四周を壓して磐石の如く横たはつてゐる。
 大和に近く投錨した矢矧(新型巡洋艦)から、「出撃準備ヲ完了シ……」と發光信號を點滅させてゐるのがよめる。生氣を匂はすやうにそれは閃いて見えた。
 ひそかに歡聲が湧きあがつてくる。
 すべてたゞこの機に備えて來た、まさにその時。快哉――
 歸艦してもいま更ら身の廻り整理の要もない。そのまゝ出港準備作業にとりかゝる。
 十時、大和はしずかに前進をはじめた。出港は呉軍港内に大和一艦のみ。ひそかな、しかし悠容たる出陣。
 碇泊する僚艦からは、千萬のまなこが無言の歡呼をこめて注視してゐる。それが痛く胸を射る。
 われらこそかれらの輿望を切に擔ふもの。
 一兵にいたるまでも誇らかに胸を張つて甲板に整列する。
 想へば巨艦の、往つてふたたび還らぬ最後の出撃であつた。
 各電探兵器の作動良好を確かめ、分隊長に屆ける。
 つねのごとく途次、訓練を反覆しつゝ周防難に向ふ。
 艦長は幕僚と、艦橋で作戰討議をたゝかはせてをられる。海圖臺のわきには、赤表紙の分厚な書册が置かれ、背文字は太く「天一號作戰關係綴」と讀まれる。
 「天」號作戰とは、回生の天機といふ意味でもあらうか。
 海圖臺には、沖繩本島周邊のもつとも詳密な海圖數枚が用意され、その上に、大和主砲の射程、四十粁(十里)の縮尺目盛に合はせたコンパスが、米軍の上陸地點を中心に弧を描く。かはされる言葉は少いが、コンパスを握る指の爪は、こもる力に白く濁つてゐる。
 薄暮のころ入港して、三田尻沖に假泊する。大和の通過できぬ狹水道を經て先廻りした驅逐艦が、すでに數隻入港してゐた。
 この錨地に結集し一時投錨して、陸上との交通を絶つたまゝ出動の命を待つ。
 僚艦がそれぞれ別個に呉を出港してきたのは、機密保持のためである。
 こゝに戰備を整へつゝ機の熟するのを待つあひだ、しばしの休息に回天の英氣を養ひ、白日の心境に必死の鬪魂を磨かうとする。
 總員集合、令達。戰鬪服裝に身を固めた三千の乘組員は、無氣味な靜肅をたゝえて密に整列する。
 艦長は、本作戰の目的、大和の使命を述べられ、總員の奮起を切望された。

 米機動部隊が近接し、明早朝來襲の算大、との情報が入る。身うちがひきしまる。
 戰鬪服裝のまゝ寢につく。心ははやるが、思ひ切り熟睡する。
 三日、早朝、豫期したごとく米機來襲の報。配置に就く。
 急速出港、第二警戒航行序列に散開する。(警戒航行序列は、各艦の位置を、警戒および防禦に適するごとく定めて航行する對勢をいふ。第一序列はそのうちの防空對勢)。
 スクリユーを廻はす機關は停止させてあるが、不時の來襲に即應するため、機械も鑵も煖めて、ただちに機動出來るごとく待機しつゝ漂泊せねばならぬ。
 出動は米機動部隊の避退後であらう。焦つてはならない。「時」をこそ捉へねばならぬ。
 午前、B29一機が盲爆をおこなつた。中型爆彈一箇を投じたが、損害はない。
 だが寫眞偵察を敢行したのではないか。本艦隊の動向すでに蔽ひ切れぬのか。
 午後、内地の各地が猛烈な空襲にさらされてゐると、情報がしきりに入る。(しばらく待つてくれ、もうすこし……われわれが出撃さへすれば……)心のうちに叫びつゞける。
 日の落ちるのを待つて、昨夜投錨したその同じ錨地に假泊する。
 この非常のときに、數日前卒業したばかりの新候補生五十餘名が、大和乘組の光榮に頬を紅潮させ、大發(木造艇)を横付けに乘艦してきた。そして直ちにいく組かに分れて艦内見學をはじめた。
 かれらが眞の戰力となるのはいつの頃か。
 通信科の敵信班が、米機間の緊急電報をぬすみ、即刻飜譯して、「機動部隊ハ明日一日各地ヲ空襲ノ上、東方ニ避退セン」と情報を屆けてくる。
 いよいよ出撃も近い。
 夜食がなんとうまいのか。
 快的に熟睡する。
 四日、早朝、米機來襲の報。配置につき、出港して漂泊をはじめる。
 年前午後、前日と同樣、滿を持して警戒する。
 驅逐艦「響」が、漂泊中觸雷した。ひそかに米機から投下されてあつた機雷の、作動圈内に入つたものであらう。被害は比較的輕微であるが、鑵に損傷を受けたため航行不能に陷つた。驅逐艦「初霜」が曳航して呉に回航することにきまる。
 艦長から「士氣をいかに振作するかについてはかられる。
 呉を出港してからほとんど緊急配備のため、傳統の猛訓練は止むを得ず中絶されてゐた。三日間の休養により兵員の體力はやゝ恢復したが、あの積日の過勞はなほ挽回されるに至つてゐない。だが訓敵中絶による氣力の弛緩をこそ戒しめねばならぬ。
 艦長は結論を出された。「明日ヨリ警戒配備ノマヽ綜合訓練ヲ強行セン」
 米機動部隊がわが出動を牽制してくるとき、最善をつくしてこれに對さねばならぬ。訓練再開による士氣昂揚。
 夕食後巡洋艦「矢矧」から、第二水雷戰隊司令官が來艦され、司令長官と要談される。作戰の詳細な檢討か。
 艦内、きはめて平穩。
 通信參謀から、「艦隊各艦アテ書類アルユエ二一〇〇(九時)短艇用意セヨ」と命達され、艇指揮の指命を受ける。
 艦橋にのぼると、星なき暗夜に、本日の空襲により炎上中らしい微光が二點みとめられる。遠からぬ陸岸か。
 用命を圓滑に達するため、各艦の假泊隊形、風向風速、潮、海圖を確かめ、手帳にしるして舷門におりた。豫想所要時、二時間半。
 使用艇はなじみの一號大發、艇長は手練の椙本兵曹。
 まさに絶好の夜間短艇達着訓練といふべきか。乘艦當初、今日に備へて連日の黎明達着訓練が。重ねられたことを想ひうかべ、感無量。
 艇長も艇員も終始默々として一語を發する者もない。
 散開して假泊する各艦を一順すると、いづれも暗黒の洋上に、動かぬもののごとく鎭坐してゐる。そこに、つゝしみ睡る無數の毅魂。
 歸還して、任務完了を通信參謀に屆ける。十一時半を過ぎてゐた。
 すでに一點の微光もない。眞の暗夜。
 寢室の机に向つて、一日の電測訓練記録を整理する。終つて瞑目、少時。
 やがて春陽も近い。
 わが迎へる春はいづこの春か。
 五日、午前、砲術長から、電測時訓練に關して照會がある。電探大標的を、「矢矧」に曳航させるとき、射距離、曳索長をいかにすべきか、と。
 昨日の決定に基き、艦内各部の訓練が再開され、綜合應急訓練は熾烈を極める。艦長は徹底的に缺陷を指摘し、反覆訓練をつゞけられる。
 錬度いまだ充分でなく、完全なものは何一つない。艦橋は痛烈な叱聲であふれ、殺氣がみなぎつた。
 午後、米機動部隊避退、の報がとゞく。
 沖繩の戰況に關し大本營發表がある。刻々に切迫の度を加へてゐる。
 胸中に火が走る。
 訓練の合間、艦橋で休憩中「櫻、櫻」と叫ぶ聲。見れば三番見張員が、見張用の眼鏡を陸岸に向け目を當てたまゝ片手をあげてゐる。
 早咲きの花か。
 先を爭つてその眼鏡にとりつき、こまやかな花瓣のひとひらひとひらをまな底に灼きつけようと、瞳をこらした。霞む眼鏡の視界のなかで、この見收めの内地の櫻は、誘ふやうに絶え間なく搖れてゐた。

        二

 一次室(青年士官室)で、戰艦對航空機論がたゝかはされる。戰艦必勝論、絶無。
 夜、五時半頃、突如として艦内スピーカーが、
「候補生退艦用意」
「各分隊、酒ヲ受取レ」
「酒保開ケ」
 と矢つぎ早やに令達する。いよいよ出動準備か。
 候補生の退艦用意はきはめて迅速。完了をまつて一次室に招き別盃をかはす。
 航海士鈴木少尉が乾盃しようとして、盃を手からすべらし、床にくだけ散らした。顏色を失ひ、一瞬悄然とうなだれた。
 不吉な兆しだといふのか、この期に及んで、凶兆におびえるとはどうしたことか、そんな輕悔の視線がしたゝかにそゝがれた。
 だが蔑視する者、貴樣らは何を恃むのか。何に依つて、平靜を保つのか。
 たゞおのれの死に、何か一片の特殊をねがつてゐるに過ぎぬのではないか。異常なものを空に描き、その異常の故の亢奮に縋つてゐるのではないのか。
 われを迎へるものは、まさしく死。あの唯一の、しかもあやまつことのない死にほかならぬ。
 この平凡極まる死を、よく受け入れる用意があるといふのか。
 鈴火少尉とそむしろ眞率に、死の正體に眼覺めたといふべきではないか。
 直觀せねばならぬ。おのれを詐つてはならぬ。
 誰の盃もひとしく微塵にくだけてゐる。たゞこのしばらくを、もろ手に支へてゐるに過ぎない。
 死はも早や眞近に明かにあり、さへぎるものも、のがれるすべもない。
 死に面接し、死を捉へぬばならぬ。死こそ眞實に堪へるもの、いな、眞實を強要するもの。も早や僞る餘地はない。
 いまにして、耳目を掩つて死にむかはうと、酒氣を招かねばならぬとは。
 この俺に缺けたものは何か。この弱さは何なのか。
 甲板士官江口少尉が、出動前夜の最後の無禮講を控へて、なほ精神棒をふるひ、兵の入室態度を叱正してゐる。
 老兵が一人怒聲で叩かれ、眸を殺して魯鈍な動作をくり返してゐる。
 苦痛の表情さへ失つたあの老兵も、一日後のわがいのちを知らぬわけはない。そのことを思ひ浮かべても見ないのか。考へつきて惱み呆けたのか。
 おそらく彼の息子にも年の近い若輩の江口少尉、その氣負つた面貌にあふれるものを、覇氣とよび、軍規ととなへるべきか。
 一次室から、所屬分隊の居住地へ遠征。痛飮快飮を重ねる。
 出撃。斗酒なほ辭せず。
 乘員三千、すべて戰友、一心同體。
 廊下で少年兵に遭ふ。一面識もないが、童顏に、微醺のせいか、紅く稚氣をたゝへてゐる。
 きびしく答禮を返し、身をかはさうとすると、閃めくもの――俺たちの墓場はお互ひに遠くはないのだ。俺たちは、ひとつのむくろ――肩をかゝへて、「お前」と叫んでやりたい衝動を辛うじてこらへる。
 十一時、副長がみづからスピーカーを通じて、「今日ハ皆愉快ニヤツテ大イニヨロシイ。コレデ止メヨ」と親しく、つよく命達された。
 血の氣が顏からひき、肩から腕が痙攣する。叱聲、怒聲がとび散り、ひろがつて壁にひゞく。
 この胸のうちに、疼いてゐたあの心は、はたとまなこをとぢた。
 六日、○時、驅逐艦一隻づつを兩舷に横付けさせ、全力をもつて、急速燃料搭載、不要物件卸し方の夜間作業を行ふ。
 月明の夜、出撃の氣は艦内に漲る。
 一時頃、B29一機、大和の眞上を通過。「作業ソノマヽ、對空戰鬪配置ニツケ」の命令。しかし高々度のため發砲せず。
 大和偵察の執拗さに齒ぎしりする。
 二時頃、驅逐艦に移乘して、候補生たちは退艦して行つた。なほゆたかな春秋に富む龍駒を、この決死行に拉致するには忍びない。
 大和乘組はかれら宿年の夢想であつたらう。いま出撃といふこの時に、果たしかけた夢を、なげうたねばならぬかれらの心中を想ひやつた。前途よ、洋々たれ。
 最近に、他の艦船に轉勤の命令を受けてゐたものは、この機會に退艦する。渡された横木の上を驅逐艦に移乘してゆくかれらのまなじりには、さいごの時に戰友と訣れねばならぬ無念さもうかゞはれるが、それを見送る甲板上の眸に浮く羨望の色もかくしがたい。
 こちらは死におもむくもの、かれらはともかく安きに身をかはす者である。
 戰鬪に堪へぬ重患者も退艦をゆるされた。足手まとひである。
 四十を過ぎる程の老兵は如何にすべきか。いくさの用には立たず、その家族の上なども思ひ合はせて、この際死出の旅から免れさせることをわれわれ青年士官は艦長に具申したが、幹部協議の末、一部の退艦がゆるされた。
 かれらを見送る頃、不要物件卸し方の作業も終了する。
 大和は刻々に身を固め、戰ひの裝ひをとゝのへる。
 未明、熱料塔載作業終了と同時に、兩側の驅逐艦の横付けを離す。
 矮小な驅逐艦の重油搭載量はいか程のものか。しかもその提供を受けて、辛うじて大和の巨躯が油でふくらんだ。
 恐らくは艦隊保有量の底をはたいての補給であらう。明日からは驅逐艦の鑵は干あがるか。それらを米機は高空から仔細に偵察してゐる。
 朝、スピーカーは舟出の氣勢をこめて、「出港ハ一六〇〇(四時)、總員集合ヲ一八〇〇(六時)ニ行フ、前甲板」とつたへる。艦内の閉鎖状況が重ねて點檢される。
 異常な緊迫を目前に控へた、一種氣づまりな無聊にいつか落ちこむ。と、「郵便物ノ締切ハ一〇〇〇(十時)」スピーカーが流れる。
 郵便物の締切、何の締切か、俺のこの手で書く文字の終止符。
 氣が進まぬが、皆はげまし合つて家にしたゝめようとする。これが遺筆だと知りつくしてゐては筆が走らぬ。だがこの俺の手の一文字をも心待つ人たち。その心に報いねばなるまい。しかし――母の悲しみをどうしたらいいのか。ひたぶるに、はてもなく悲しんでくれる母。さうにきまつてゐる。この歎きを、先立つ俺が少しでも慰めてあげるすべがあらうか。いささかでも、この身に代つて背負ふすべもあるといふのか。
 ない。ないのだ。ないとすれば、何一つお返しもせずに先立つて死に果てるとの俺の不幸を、どうして詫びたらよいのだ。いかにして報いたらよいのだ。
 ――いな、おもてをあげよ。涙をぬぐへ。俺はも早やたゞ出陣の戰士。すでにあるは戰のみ。母を想ふな。打ち伏すおくれ毛を想ふな。
 たぐひなく勁い肉親の愛は尊からう。がそれにつきない。より大いなるもののために斷ち切るとき、いやまさる眷戀の情は、さらに尊ぶに値しよう――
 わが身を鼓舞しつゝやうやく筆を進める。「私のものはすべて處分して下さい。皆樣ますますおげんきで、どこまでも生き拔いて行つて下さい。そのことをのみ念じます」これ以上、書くことばもない。
 ――あゝ、これをよむ人、母上、そこひもない嘆き。泣かれもしよう、喚かれもしよう。私は、默つて、俯して、死んでまいります。いまはこの死が、實りゆたかなものであることを、願ふのみです。幸ひ私の死がそのやうにめぐまれたものであつたら、どうかよろこんで下さい。祝つてやつて下さい。私はたゞ、ひたすらに死の途を歩みます。
 讀む人の心の肌にふれる思ひで、よみ返すことができず、郵便箱に押し入れると、私室をのがれ出た。
 これで、あの親しい人たちと俺とを、うつし世に結ぶ一切のものは失はれてしまつた。俺はいまそのことを知つてゐる。あの人たちは知らない。
 だがいつの日かは知られるだらう。
 知り給ふ日、この身はすでに亡いとすれば、も早や再び、あの人たちと心ふれ、魂を合はすことは出來ぬのか。
 一次室に集合し、恩賜の煙草、酒保の支給を受ける。
 哨戒直や航海科の當直員にあたつてゐて、いち早く配置に就く者がある。かれらはいづれも純白の風呂敷に清裝一揃へを包み、軍刀をひつさげて閾に立ち、踵を揃へて默禮すると、身をひるがへして去つてゆく。
 見送る戰友の口から、「げんきでやれよ」「貴樣らしく死ね」、と餞けのことばが飛ぶ。怒つたかれらの肩は、この荒つぽい別辭を浴びて消えていつた。
 血肉をわけ合つたほどに交りの濃い戰友たち、その訣れにも、肩を叩いたり手を握つたりする者はない。一見固いこの一瞬の底にこそ、かけがいのない者との訣別にふさはしい、何かが流れてゐるのであつた。
 前後二回、B29一機づつの高々度偵察。

        三

 午後、出港準備作業。ゆくてに入港を約束せぬ出港である。
 身の廻り品を、定められた配置、前檣(前部のマスト)頂上に近い上部電探室に置く。これよりいかなることがあつても、配置を下ることはない。
 兵器の作動、極めて良好。
 大軍艦旗は翩翻とひるがへつてゐる。
 大和はほゞ戰鬪準備を完了した。
 四時、出港、旗艦「大和」第二艦隊司令長官坐乘。これに從ふもの、九、「矢矧」「冬月」「涼月」「雪風」「霞」「磯風」「濱風」「初霜」「朝潮」
 日本海軍最後の艦隊出撃であらう。選ばれた十隻。
 哨戒直に立つ。艦橋(艦の心臟且頭腦)に勤務して、艦内各部の見張員を掌握し、その報告を取捨選擇して、艦長以下の各幹部に復誦し直結するのを任務とする。
 左に司令長官(中將)、右に參謀長(少將)、新參の學徒兵として、この身の幸運を想ふ。
 原速(十二ノツト)で悠々豐後水道を直進する。
 矢は弦を放たれた。
 六時、總員集合。最後の總員集合であらう。
 散れば二度と會することはない。たゞ渾然の氣魄に結ばれるのみ。
 大和は舷側に横波を蹴立ててひたすらに進む。左右の僚艦の艦尾を噛んで白波が數條耀く。いまこそわれらを貫くひとすじのものが、この潮流をおかして驀進する。その途はわが生の有終を飾るべき場、また必定の死につらなる場でもある。
 作戰がすでに發動したため、艦長は指揮所、艦橋を離れられることがない。副長が代つて、聯合艦隊司令長官から艦隊に宛てた壯行の詞を達せられる。本作戰をして戰勢挽回の天機となさん、と。
 君が代奉唱。軍歌。萬歳三唱。
 清明な月光、遙かに仰ぎ見る前檣頭、いまさら何をいふことがあらうか。
 解散して、一番主砲右舷のハツチを下りようとすると、前方の錨甲板に佇む士官をみとめた。月に冴えた頬に、濃く影を落とした太い眉、森少尉である。闊達な人柄と艦内隨一の酒量できこえ、またその美しいいひなづけを以て鳴る彼。
 暗い波間に投げてゐた眸をこちらに返すと、耳元に口を近づけて怒つたやうに言ふ。「俺は死ぬからいゝ。死んでゆく奴は仕合はせだ。俺はいゝ。だがあ奴はどうするのか、あ奴はどうしたら仕合はせになつてくれるのか。……きつと俺よりもいゝ奴があらわれて、あ奴と結婚して、そしてもつとすばらしい仕合せを與へてくれるだろう。きつとさうだ。……俺と結ばれたあ奴の仕合はせはもう終つた。俺はこれから死にに行く。だからそれ以上の仕合はせをつかんでもらうんだ。もつといい奴と結婚するんだ。その仕合はせを心から受ける氣特になつて欲しいんだ。
 俺は眞底悲しんでくれるものを殘して死ぬ。俺は果報者だ。だが殘された奴はどうなるのだ。いい結婚をして仕合はせになる。俺はそれが、それだけが望みだ。あ奴が仕合はせになつてくれたとき、俺はあ奴のなかに生きる。生きるんだ。だがこの俺の願ひをどうしてつたへたらいゝのか。別れてくるとき、自分の口からもくり返し言つた。それからも、何度となく手紙で書いてきた。俺を超えて、仕合はせを得てくれ、それだけがさいごの望みだと。……しかしそれをどうして確かめるのだ。あ奴が必らずそうしてくれると、何が保證してくれるんだ。祈るのか。祈らずにをれない、この俺の氣持は本當なのか。たしかなのか。そして、たゞ祈るだけでいゝのか。自分を投げ出して祈ればそれでいゝのか。どうかあ奴にまできこえてくれと、腹の底から叫ぶしかないのか」
 あらいその聲に涙はない。涙のゆとりはない。彼は切願のあまり、眞實怒りにせきこんでゐる。
 怒りを吐きつゞける彼、うなづきつゝことばもない自分、この二人を蔽ふものは、これが見收めの澄んだ月空。二人の足を支へるものは、今夜かぎり二度と踏むことのない、堅い大地のやうな最上甲板の觸感。
 いひなづけの方、あなたはこよなき愛を獲られた。
 彼の全心こめた祈りは、きゝいれられるだらうか。ききいれて下さるにちがひない。
 彼は怒つたまゝ口を結び、凝然と波頭にみ入つてゐる。漆黒の波間に、はかなく、またたくましくくだける銀白の波頭。
 この目に涙が滲んできて、顏をそむけた。風が頬の涙をつめたく吹き過ぎる。
 好漢森少尉、あすは貴樣も天晴れのはたらきに散り果てるか。
 立ちつくす彼の肩を突き放すと、「ハツチ」に走りより、ラツタルを駈けおりた。
 も早やすべては定まつてゐる。いかにせんすべもない。かれは祈り、ひたすらに祈るだらう。そして散華する。その人が祈りにこたへる。そのやうにしかならぬ。ほかに途はない――
 なにか憤ろしく、床さへ踏み拔きたいもどかしさで走りつづけた。
 たゞちに配置に就く。
 艦橋で作戰談をきく。本作戰は、沖繩の米上陸地點にたいするわが特攻機の攻撃と不離一體の作戰である。過量の炸藥を裝備した鈍重な特攻機にとり、優秀な米戰鬪機の邀撃はまさに致命的である。だが尋常ならばその猛反撃は必至であり、特攻機攻撃は挫折する確率が大きい。そこでその間米迎撃機群を吸收して、その方面を手隙にするための囮が他に必要となる。それは多くを吸收するための魅力と、長く吸收するための對空防禦力を備へたものでなければならぬ。大和こそ最適の囮とみとめられ、その壽命を長引かせるために、九隻の護衞艦が選ばれたのであつた。
 沖繩海面は一應の目標に過ぎず、眞に目指すところは、米精鋭機動部隊の集中攻撃の標的であつた。したがつて全艦とも燃料塔載量は辛うじて往路をみたすのみで、いかにして歸還するかはまつたくかへりみられてゐない。敵地に向けて發進するふねが往きの然料しか持たぬ、これは勇敢といふよりは無暴であり、むしろ自暴自棄である。
 だが萬一沖繩上陸地點に到達しえた場合の積極作戰も、もちろんもくろまれてゐた。大和の主砲による上陸軍の攻撃である。砲彈最大限が滿載され、そのうち徹甲彈(通常艦船撃沈のために用いられ貫徹力大)をもつて輸送船團の潰滅、三式對空彈(航空機撃墜用のもの、彈片はいちじるしく細分しくまなく四散する)をもつて人員の殺傷が期せられた。
 すなはち、まづ全艦突入の對勢により、身をもつて米海空勢力を吸收し、特攻機奏功のみちをひらく。命脈あれば、さらにたゞ突進、敵の眞只中にのしあげ、全員火となり風となり全彈打ちつくす。もしなほ餘力あれば、一躍して陸兵となり、つひに黄土と化する。
 世界海戰史上、空前絶後の特攻作戰であらう。
 はたしてその成否如何。
 士官のあひだにはげしい論戰。わが航空兵力はどれだけあるのか。恐らく零に近いものではあるまいか。
 必敗論が壓倒した。
 大和の出動が當然豫期される諸條件の符合、米軍のこれまでの愼重極まる偵察振り、情報にあるごとく沖繩周邊に待機する優秀かつ大量の機動部隊群、皆無にもひとしいわが制空力、提灯をさげて暗夜をゆくにも劣る情勢といふべきか。
 まづ豐後水道で潜水艦魚雷に傷付くか。あるひは途半ばに航空魚雷に斃れるか。(青年士官のほゞ一致した結論となつたこの豫測は、あまりにも鮮やかに的中した。)
 必敗を根據づけようとする痛烈な作戰討議をかたはらに、哨戒長臼淵大尉は、薄暮の洋上に眼鏡を向けたまゝ低く囁くやうに言ふ。
「進歩のないものは決して勝たない。負けて目ざめることが最上の途だ。日本は進歩を輕蔑してきた。わたくし的な潔癖や徳義にこだはつて、眞の進歩を忘れてゐた。敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救はれるか。いま目ざめずしていつ救はれるか。俺たちはその先導になるのだ。新生にさきがけて散るのだ。」彼、臼淵大尉の持論である。
 何故日本は負けねばならぬのか、何故俺たちはこのやうにして死なねばならぬのか、この問ひは若い士官たちのあひだに毎夜のやうに持ち出され、時には夜を徹してつきつめた口論が沸騰することもあつた。
 第一線に來て見れば、艦隊の敗戰の状はすでに蔽ひ難く、決定的な敗北は單なる時間の問題に過ぎず、大和に乘組むおのれのいのちもまた旦夕に迫つてゐることは疑ひ得ない。何がもたらす敗北か。何の故の出陣の死か。この敗戰、死は何をあがなひ、いかに報いられるのか。これは執拗に解決を迫る設問であつた。
 敗戰の救ひへの先導、臼淵大尉のこの結論には、それを裏付ける論據と實踐が用意されてゐた。彼は大和きつての勇猛な指揮官であり、總員の士氣をほゞその掌中に握り、かつもつとも俊敏、もつとも進歩的な砲術士官であつた。
 艦隊の先鋒はやうやく水道の半ばを過ぎた。これより敵地に入る。
 潜水艦に對する電波哨戒を始める。徹宵哨戒とならう。
 電探室は、兵器の熱源に蒸せかへり、人いきれに息苦しい。當直には非番の兵四名が、暗い一隅に折重なつて眠つてゐる。
 かれらの肉體はなほどれだけのいのちを保たうといふのか。數時間か、また十數時間か。
 泥のやうに朽ち果てて、そのことも知らぬげに無心に睡り呆けてゐる。すでに疲勞があまりに重いか
 當直員四名は、愼重緊密な探信を行つてゐる。平靜で、訓練時と何ら變らぬ。
 かれらの一擧一動はいま刻々に艦隊を率いつゝある。その運命を導きつゝある。あの終りもないかに思はれた至烈の訓練の成果を示すのはたゞこの時。
 その躯間に漲る生氣、眉間にほとばしる嬉々とした自負、胸中は、傲りを知らぬ集注に充ちみちてゐるのであらう。めぐまれたかれら。
 逆探が潜水艦らしいものを探知した。電探を同方向にむけるとやはり微感度がある。(米艦の輻射した電波をまづ逆探によつて捕捉し、その方向に間歇的にわが電探を指向してこれを確かめる。はじめに電波を輻射してわが所在の探知されるのを防ぎつゝ、米軍の動向を逸早く捕捉するためである)。
 潜水艦は一乃至三方向から終始觸接してくるごとくである。魚雷發射を覺悟せねばならぬ。
 もとより夜間のため視覺兵器は無用。同方向に水中聽音機を指向し、魚雷發射音に備へる。發射音をきけば、音高、音速、音向にしたがつて魚雷をかはす。
 通信科の敵信班が、サイパン宛敵緊急電話を傍受した。暗號文でなく平文で、「大和以下十隻、基準針路何々、速力何ノツト……」 わが足跡を詳細に報告しつゞけてゐる。豫期したところではあつたが、すでに周到極まる觸接が開始されてゐる。
 十一時四十五分、艦橋勤務立直の十五分前、艦橋當直に立てば、電測士甲、大森中尉と交代し電測距離を報告する。
 電探室の張り詰めたカーテンを押しひらき、烈風に吹きつけられるまゝ、一歩一歩ラツタルをのぼる。
 暗雲が月を蔽ひ、いよいよ濃密を加へた視界に一點の光源もなく、無際限の闇黒あるのみ。
 この身は飜弄されて紙のやうにラツタルに纏ひつく。
 ――待て。こゝでさいごの家郷禮拜をしよう。絶好の機會だ。この機を失したならば二度とその機會はあるまい。一人でも目にふれる人があると、神聖をけがすやうで氣が進まぬからだ。あす、日がのぼつてからではおそい――よく氣がついた。ありがたい。
 針路から家郷の方向を推定して正對し、手摺をにぎりしめ頭を垂れた。手摺の鋲の肌が掌に密着してつめたいが、掌のうちはやゝ汗ばんで温い。
 父、母、姉、そして一年前陣沒して今は亡き兄、はつきりとわがみ前に立ち給ふ。
 數々の瞳、面差しが、網膜をよぎつて消える。短いわが生涯に、忘れがたい人たち。
 それらすべての姿は、眼界を蔽ひ、身近くまのあたりに拜せられた。「ありがたうございました」唇が思はず呟きをくり返す。唇は間歇して痙攣を刻んでゐる。
 この我がまゝな幼い自分を、よくもゆるして交はつてくれた方たち。身にあまる御厚意と庇護、そして鞭撻――
 私はいま死んで參ります。たやすい死の途をめぐまれました。死ぬ者は安樂におもむく者です。だがあなた方は、あすからの日々を、いかに耐へいかに忍ばれるでせうか。その艱苦、私などのはかり知るところではありません。
 しかしそこに、ひとすじの光りを希ふことを私にもおゆるし下さい。忍苦の途からひとりのがれてゆく私はまことにふさはしくないけれど、なほ一掬の祈りを汲ませて下さい。あなた方のゆく手には歡びこそ、新生のさちこそありますやうにと――
 いつまでこのやうな陶醉にひたることがゆるされよう。あゝわが知り得た、浴しえた、至幸のとき。
 吹きつのる突風が、片々のこの身を艦橋に吹き入れた。
 艦橋は、鈍い無明のうちに殺氣をはらんでゐる。人の動きはほとんどなく、それぞれのかすかなかたちが影繪のごとく固着してゐる。二十名にあまる士官、下士官、傳令兵が、所要の位置に根を据えてみづからの任務に沒入してゐる。その充實感があふれて息苦しい。
 夜間の識別の便のため、艦内帽の後部に、長官は「シチ」、艦長は「カ」、副長は「フ」と小型の螢光板をつけてをられる。その淡光があたりを領してたのもしいが、わづかに動くと、夢幻のなかの文字のやうに美しく、むしろ微笑ましい。
 あすこそは戰ひの日。ひたすらに、悔いなき戰ひを戰はう。
 いまや虎穴に入らうとしてゐる。
 つひに魚雷發射音をきかぬまゝ、接岸航行に移つた。のちに一擧に航空魚雷を以て屠ることを期してか、潜水艦は偵察を行つたのみで、これまで魚雷攻撃を控へてくれた。意想外のことである。
 水道はやうやく陸岸も高く海邊も深い箇所にさしかゝり、この場合夜間潜水艦にたいしもつとも安全な接岸航行がとられた。
 暗夜のため視界はきはめて狹く、坐礁の危險を防いで陸岸までの距離を愼重に電測しつゝ、極力接岸をはかつて進む。(大和裝備の電測兵器によれば測距の誤差は五十米を出ない)。 
 突入完了まではすべてこのやうに細心周密でなければならぬ。大事の身である。
 大和はもとより攻守の中心勢力。陸測距離を逐一艦橋で報告しながら、この身の重責を思ひ、息をひそめてたかぶりを抑へる。

        四

 七日「黎明、大隅海峽を通過し、西南進をつづける。
 大和は、塔載してきた〇式水上偵察機一機をカタパルトで射出し、鹿兒島基地に避退させ、むざ/\海底行きの道伴れとなることを防いだ。
 艦隊上空に一機の味方直衞機もない。水上特攻艦隊は一切の空軍援助から見放された。その後二度と味方機を見ることはなかつた。
 だがよし、なけなしの三百や五百の戰鬪機群が出動してゐたとしても、延べ三千機の壓倒的猛襲を前にしては、空拳のあはれさをのこすにとどまつたであらう。
 日の出と同時に潜水艦は電探の感度から消え去り、交替に、マーチン偵察機が觸接をはじめた。艦隊對空砲火の射距離限度附近を巧みに旋回しつゝ追躡をつづける。折を見て發砲すると鮮やかにこれをかはし、ふたたびやゝ近接して追躡をつづけてくる。
 對空用の電探が活躍をはじめた。觸接機の程度の距離のものは、もちろん一機ものがさず、刻々に測距、測角を報じてくる。雲高が低く視界は極端に不良で、對勢は全く不利であるが、觸接機の動靜は手にとるやうに知られる。
 だがその觸接の何と巧妙なことか。天候を利して雲間に隱顯しつゝ追躡をつづける。
 編隊右翼の「初霜」が落伍しはじめた。「ワレ機關故障」の旗旒信號が掲げられる。艦影は次第に遠ざかり、無電は急速修理中の旨をつたへてくる。
 脱落か。凄慘な豫感が背筋をはしる。
 幕僚の動きや、信號の授受はやゝ活溌だが、艦橋はいつたいに極めて平靜、嵐の前の靜けさといふのがこれか。
 朝食。電探室前のラツタルを攀ぢのぼり、電波輻射用ラツパの臺上に出て、顏を潮風にふかれながら握り飯を頬張る。さいごの朝食であるだけに、なにか大空にじかに包まれながらたべて見たい氣特に誘はれたのであつた。
 電探名測手の片平兵曹をよび、膝を接してたべはじめる。母の乳をはなれて朝めしというものをたべはじめてから、けふまでそれを何度重ねただらうかなどゝ、こころ愉しく數へて見たりする。朝飯といふものとももう縁がなくなる、そのことがおかしいことでもあるやうに、笑ひがこみあげてくる。
 だが片平兵曹は、默々と急いでたべおはり、するどく會釋して臺を下りて行つた。こめかみからひたひにかけて、孤獨になりたい焦燥の色がありありとうかんでゐた。
 彼には郷里に懷姙中の妻がある。しかも待ちこがれた初ひ子である。彼はつひにわが子にひとめふれることもなく散り果てるであらう。そのことはも早やうごかしがたく定まつてゐる。
 しかしひとを避けるのはなにゆえか。――士官は手紙の檢閲を通じて部下の下士官の懷情をくま/″\まで熟知してゐる。自分より年下のしかも獨身の士官の口から、萬一慰藉のことばでもきかされはせぬかと、それをおそれたのではあるまいか。
 陰性潔辟な彼らしい。だがその偏狹な苦辱の眸のまゝに朽ちるとき、妻のうちによみがへることもかなはぬことを彼は知らぬのか。
 一方わが死を悲しみくれるものは骨肉のみ。彼のごとくに、死にぎわに心を閉ぢさせるほど斷ちがたい糸もない。愛戀の火の燃えるものもない。
 これは幸ひといふべきか、不幸といふべきか。
 散つてうづく嘆きをのこす苦しみと、ただ骨肉の嘆きに送られる安らひと、いづれが生甲斐に價するものか。
 思ひふけりつゝうつろにひらいた瞼は、眠りを求めて熱を含んでゐる。涼風が痛い。
 朝の日がにぶく黄光を波頭に照り返して眩ゆく、それがまたこころよい。まばゆさに吸はれてまなこをとぢると、涙が滲んでくる
 海はあくまで青く、重い波が舷側を打つ。
 九州の最南端の陸岸はすでに艦尾方向に消えた。ふたたび内地を肉眼に見ることはないであらう。刻々に離れて、ただひたすらに離れゆくのみ。
 一點の島影もない。基準進路二百五十度。
 日本の船團と遭遇する。數隻の小輸送船團。どこから還つてきたのか。
 内地ももう間近い。霞む船影、疲れ果てた船あしに、かれらの傷ましい勞苦を想ふ。こゝに辿り着くまで、どれほどの犧牲が拂はれたことか。
 大和に向ひ、「御成功祈ル」と發信してくる。微笑が艦橋に溢れた。
 辛うじていのち永らへ老人が、死裝束の血氣の若者に送る餞けのことば。だがその期待に、われわれはそうことができようか。
「初霜」がいよ/\視界外に遠ざかりつゝある。單獨で脱落すれば米機の集中は必至。これを拾ひあげるため、やがて豫定の變針點に達したとき、反轉して「初霜」の位置まで逆行し、編隊に組入れ、のちふたゝび豫定針路に變針することに一決した。
 九時頃、上部電探(對艦船用)室にゆく。大和は、たま/\艦隊の當直は非番。(十隻を二直に分け、交互に當直に立つて電波哨戒を行ふ)兵たちは勤務から解かれて、默々と配置に坐つてゐる。
 老兵は背を曲げた姿勢で、ぶざまに蹲り、青黒い顏に苦澁をたゝへてゐる。太て/″\しく死によりかゝつた投げやりとも見え、また死に打ちひしがれた困憊とも見える。
 數々の悦樂がすべてわが身に喪はれることをかこつてゐるのか。あすから妻子に訪れる難澁の日々を歎いてゐるのか。――叱る氣持も起らぬ。
 恩賜の煙草をくばる。ポケット、ウイスキーをのみ廻はす。
 班長宮澤兵曹は、顏もあげず、「兵器の調子は完璧です」といふ。彼は、結婚四日目にはからずも出撃を迎へたのだ。
 ひとのいいのろけ振りでよく笑はせた彼。
 だが出港以來その精勵さはますます加はり、度を過してすさまじい。少憩中も兵器の調整を怠らぬ。
 勤務をゆるめてふとわれに返る一瞬の空漠が、堪へがたいのだらう。
 傳令が嬉々として、「吉田少尉、今日の夜食は汁粉です」といふ。主計科の兵隊にでもきいたものか。かわいゝ糸切齒を見せて、いさゝか手柄顏。
 彼には班長のことばに出ぬたゝかひも、老兵の心痛も全く意中にない。たださいごの夜食がもつとも人氣のある夜食であることが、そしてそれを誰にでも知らせてよろこばせてやることだけが、重大關心事である。そしてその先にある死は忘れ去られてゐる。――だが突入は今夜半の豫定。夜食まで無事ならば作戰の成功は疑ひない。そのときの汁粉はどんな味がするか。
 九時四十五分、哨戒當直に立つ。自分が大和最後の哨戒直とならうとは、思ひも設けぬこと。
 暗雲はいよ/\低く驟雨がある。視界は局限され、哨戒至難、當直の任務もつとも重大である。
 頬が引きつれる。緊張のあまりか。
 艦橋中央の羅針儀臺に突つ立ち、眼鏡を握りしめる。各部と通ずる傳聲管の蛇口や、夥しい電話機の巣にかこまれ、蹠の痛むまでゆかの格子を踏む。
 對潜哨戒を嚴にする。眼鏡による捕捉は不可能に近い。
 變針して、南進をつづける。沖繩海面に向ふことを隱蔽するため、當初はむしろ西進し、やゝ迂回して南下するコースが選ばれた。その南下直進の針路に入つたわけである。
 晝食は戰鬪配食。片手に皿、壁に倚りかゝつて氣ぜはしい食事。
 最後の飯の味か、(夕食時までこの餘裕が保てるとは思はれぬ)誰もそんな豫感に刺されつゝも、心のこもつた首途のこの銀飯(白米飯)をくふ。さつぱりとしてうまい。
 湯呑になみ/\とつがれた熱い紅茶をすゝる。それはあたゝかく身うちにふれて腹に泌みた。胸のおくに疼くもの。
 食後、艦長を中心に和氣藹々、歡談がかはされる。突然艦長が、「電測士」とよばれる。
 艦長「貴樣は一人息子だつたな」
「さうであります」
「後顧の憂ひなしか、どうだ」(出港數日前、この擧を豫期して家庭の状況を全員に問はれた。後顧の憂ひなし、と私は答申した。)
「ありません」
「本當にないか]
 うなづくも打ち消すもならず、ただ炯々の眼光に一閃たゝへた悲愁の色を直視した。
 勇猛と技倆を以つてうたはれた名艦長が、士官の末輩に至るまで、その身上をいかに知悉してをられたか。いまにして初めて知つた。――「本當にないか」と念を押す、その聲音、こちらが答へられぬと見て、ひときはしみ入る眼光。
 鋭氣俊敏の參謀たちのまなざしも、柔和の光りがうかがはれた。ただ滿腹の倦怠と安堵だけではない。數歩をへだてずに死にゆくわれら弟たちに寄せる、肉親にも近いいたはりのかげであつた。

        五

 十二時、征途の半ばに達した。
 長官は左右を顧み珍らしく破顏一笑「午前中はどうやら無事にすんだな」
 十二時二十分、電探が大編隊らしいもの三目標を探知する。後部對空電探室から、室長長谷川兵曹のいつも變らぬしづかな濁み聲が流れるやうに測距測角を報じてくる。
 いまゝで無數にくり返された訓練目標射撃に、これと同じ状況、同じ對勢、同じ調子の探信がどれだけ行はれたか分らぬ。今のこの事態こそ、これこそ紛れもない實戰なのだと、自分に承知させるのに骨が折れる。
 目標發見。ただちに艦隊各艦に緊急信號が發せられる。
 スピーカーがその旨を達しをはると、艦内はさらに靜肅の度を加へた。じーんと重い緊張。
 對空戰鬪迫る。探知方向にたいし各部の見張を集中する。
 十二時三十二分、二番見張員の蠻聲「グラマン二機、左二十五度(方向角)、高角八度、四〇(距離四千)、右ニ進ム」
 肉眼捕捉
 ときに雲高は千乃至千五百米、機影發見は至近に過ぎ、照準至難、最惡の對勢。
「今ノ目標ハ五機……十機以上……三十機以上」雲の切れ間から大編隊が現はれ、大きく右に旋回。
「敵機は百機以上、突込んでくる」叫ぶ聲は航海長か。
「射撃始メ」艦長下命。
 高角砲二十四門、機銃百五十門、一瞬砲火を開く。護衞驅逐艦の主砲も一齊に閃光を放つ。
 戰鬪開始。招死の血戰は火蓋を切つた。
 われは初陣。
 肩の肉が盛りあがり躍り出さうとするのを抑へつゝ膝にかゝる重量をはかり、この身は昂奮にたぎりつゝみづからのたかぶりを眺め、奧齒を噛みならしつゝ微笑みをひたひにたゝへる。
 壓倒する騷音のうちに、身近かの兵が彈片にたをれその頭骨が壁を叩くのをきゝ分け、瀰漫する硝煙のうちにその血の匂ひをさぐる。
「敵は電爆混合」甲高い聲。
 編隊の左外輪「濱風」がたちまち赤腹を出す。艦尾を上にして逆立つ。轟沈まで數十砂を出ない。ただ一面に白泡をのこすのみ。
 雷跡が水面に白く針を引くごとくしづかに交叉して迫つてくる。その目測距離と測角を回避盤に睨みながら、艦を魚雷方向と平行に持つていつてぎり/\にかはす。要は見張と計算と決斷だ。
 艦長は最高部の防空指揮所、航海長は艦橋、二者一體の操艦。
 艦長の號令が傳聲管を貫いてわが耳を聾するばかり、語尾がわれて凄まじい怒聲だ。
 爆彈、機銃彈が艦橋に集中する。
 大和は最大戰速(二十六ノット)を振りしぼり、左右に舵一杯をとりつゝ必死に回避をつづける。さすがに艦内の動搖震動は甚しい。
 あはや寸前に魚雷をかはすこと數本。つひに前部左舷に一本をゆるした。
 敵來襲の第一波が去つた。
 傾斜はほとんどないが、後部副砲射撃指揮所附近に直撃彈二發。
 米機はすべてF6F及びTBF。爆彈は二十五番か。(二百五十キロ)
 雷跡は相當顯著だが雷速は從來に比しやゝ速いか。(航海長)
 襲撃はきはめて巧妙、避彈の巧緻、照準の不敵、恐らく全米軍切つての精鋭に相異ない。(參謀長)
 長官は默然と腕を組み微動もせず、參謀長は温顏をほころばせ、虚心に敵をたゝへる。
 航海長、左右をかへりみて莞爾「たうとう一本當てちやつたね。」こたへて笑ふものもない。
 擔架が死體三箇を艦橋から盜むごとく運び去る。機銃彈の彈瘡によるもの。
 それをまたぬすみ見るわが失態を愧ぢ憤りつゝ、一抹の憫情がおのれをあはれむごとく湧きかへるのをどうすることもできぬ。
 測的分隊長傳令、「後部電探室被彈、直チニ被害ヲシラベ報告セヨ」
 後部電探室被彈か。たま/\哨戒直に當つてゐなければ俺は當然そこに配置してゐたのだ。同室勤務の童顏大森中尉、温厚長谷川兵曹、そして部下の誰かれの顏がさつとまな底にうかぶ。
 艦橋後部のラツタルを驅けおりようとすると、手摺右の鐵壁に喰ひ入る肉一片。肱で彈いてゆき過ぎる。
 信號科の下士官が旗甲板から「雷測士、そとは機銃彈でとてもいかんです」と叫ぶ。その叱聲が彈雨の間にち切れて耳を刺す。
 犬死するぞ、と氣づかつてくれたのだ。
 ありがたう。おもてを向け手をかざして、「了解」の意をあらはす。だがそれに反應した動作に移る餘裕はない。
 俺には任務がある。いな。わが身に代つて戰友のあまたが果てたかも知れぬ。危急に驅せる責務があるのだ。
 ラッタルを滑り落ち、硝煙が鼻を衝くうちを走る。手摺にひどく擦りつけた掌の、皮のはげたところが燃えて痛い。
 すぐそばの機銃指揮塔に胸から上をあらはして立つた士官がたま/\振り向く。こちらは走りながら視線がぶつかる。同期の高田少尉。鐵兜をま深くかぶり、淺黒い顏をほころばせて、「げんきでやれや」と喚きながら鞭を振つてくれる。
「オウ」突嗟にこたへて走り過ぎたが、これが大阪ものの、あの善良な高田少尉の見收めとならうとは。
 煙突の下部附近を驅け拔けようとして、助田少尉に遭ふ。白鉢卷から血糊二本をしたゝらし、杖にすがり辛うじて歩いてくる。彼の配置は後部副砲射撃指揮所、直撃彈二發の中でいかにして爆死を免れたのか。唯一の生存者か。
 日頃人なつこく柔和な彼も、鋭い一瞥を投げたのみ。小柄の、雨衣も裂け散つてゆがんだ肩の、うしろ姿が痛々しい。思はず默禮してたゝずみ、氣をとり直して急ぐ。
 電探室前に走り寄つたが、ラツタルの跡形もない。止むなくロープを下ろして滑りおりる。
 堅牢安固の電探室が、眞二つに裂け、上半分は吹き飛んでない。整備に整備を重ねてけふの決戰に備へて來た兵器は、四散して殘骸もみとめられぬ。部品の殘滓さへない。
 朽ちた壁に叩きつけられた、ひとかゝへ大の紅い肉塊。手足や首などの、突出物をもがれた胴體。――あたりにはじかれた四個の肉塊をかゝへて來て前に並べる。
 他の八名は全く飛散して屍臭さへ漂はぬ。何といふ空漠。
 焦げた爛肉に點々と軍裝の被布らしいカーキ色の屑がはりついてゐる。脂臭が芬々と鼻をつく。首や四肢の附け根の位置を確かめ得ぬどころか、四箇の死屍のあひだに何らの判別の手がゝりさへ見出せぬ。ただ芯が燒けて手ざはりも粗い赤肌を撫でまはすのみだ。
 これがあの戰友部下の若い肉體と同じものか。この肉塊はただ、その時を經て變り果てた姿に過ぎぬのか。――信じられぬ。訝しい。
 悲憤でもない。恐怖でもない。ただ堪へ切れぬ不審感。
 ときに脛に無氣味にひびきながら、艦尾方向から押しつぶすやうな音波が押し寄せてきた。顏をあげれば左後方から第二波の來襲。
 俺には艦橋勤務がある。俺の死場所はこゝではない。
 すでに被爆の衝撃もある。やがて彈雲が蔽ひ包むのだ。
 頭を下げ片手を手摺にふれながら狂氣して走る。一切は眼中にない。
 前檣直下のラツタルに躍りあがらうとする瞬時、網膜の周邊が緊張すると、あの機銃指揮塔が片影もない。煮湯を呑む思ひで首を曲げ、まなこをくりあけてみつめたが、深くえぐられたあとには、ただ濛々と白煙が逆卷くのみ。
 一瞬に、彼も部下も塔も根こそぎ奪はれた。
 高田少尉、ゆるしてくれ。あのとき俺は貴樣の激勵のことばにこたへなかつた。激勵を返さずに走り去つてしまつた。
 番頭のやうに篤實で、酌のうまかつた奴。
 目をとぢてラツタルを馳せのぼる。俺の通過がもう數十砂早かつたら、見事貴樣と同體に散華してゐたものを。
 ひるむおのれを鞭打ち敵愾心をかき立て、「總員戰死、兵器全壞、使用不能」と、分隊長に屈ける報告を聲高に繰返しながら、ラツタルを突きのぼる。機銃彈がキン/\と背を叩き、風壓は振り落とさんばかり縱横に煽り立てる。
 ただちに分隊長に報告。
 空戰の利刄、對空電探はかくて緒戰に粉粹された。暗天のもと、蔽ひ迫る米機、ただ肉眼を以て對するのみ。
 耳底に低くさゝやく聲が、消えようとして消えぬ。電測士甲、大森中尉の聲。三時間前、哨戒直に立つ直前に、電話を流れて耳底に殘つた、あのさいごの聲。
「吉田少尉、貴樣には面倒なことばかりさせて、苦勞をかけたなあ……すまんかつたなあ」――さうではない……ちがひます。私こそ怠慢でした。私こそ氣まゝでした。……
「貴樣には……」「貴樣には……」聲が絶えない。ときには笑みを含み、ときには愁ひを含んでこのいのちに觸れ、いのちを責めてさゝやく。
 彼もすでに亡い。彼を死なせて、何をこたへたらよいのか。いかに報いたらよいのか。
 米機の突入はすべて緩降下對勢による。
 日本機のごとく過長の距離を直進することなく、左右に稻妻型に反轉しつゝ突込んでくる。直進してくる目標は、對勢の變化が上下方向だけだが、反轉横向すると左右變化が大かつ速やかとなり、機銃のごとき單純な兵器の照準能力を全く超絶する。
 投雷投彈のためには照準する間、或る距離の直行は不可缺だが、米機はこの不利な對勢をわづかにたもつのみで、たちまち飛燕の肉迫コースに移る。
 機銃彈の彈着状況は頗る不良とならざるを得ぬ。
 かゝる襲撃法はその投雷の優秀、照準の巧捷によるのは勿論だが、雲高が低く主砲の彈幕もうすく、高角砲また屏息して、近接が比較的容易なためでもある。
 さらに機銃員が敵機の過量かつ急撃に眩惑された點も蔽ひがたい。
 吹流しや風船の假設目標にたいする訓練射撃の成果に、一喜一憂してきた機銃員、かれらの目にはまさに一つの驚異、一つの眩覺。間斷もない炸裂の殺到、ゆるみない光、音、衝迫の集中だ。
 五發の發砲ごとに一發づゝ赤色の曳踉彈を發射して、その彈着状況(赤い尾が目標をかすめるのが確認される)により修正を行はうとするが、對勢變化が急激なため容易に捕捉できぬ。
 いたづらに追從するのみ。
 二十五粍機銃彈の速力は、米機のそれのわづか數倍に過ぎぬ。それで曳踉射撃は無理か。
 第二波も、ふたゝび百機以上、左後方。雷撃機が多いか。
 大和に向ふもの、約二十本。左舷に三本をゆるした。後檣附近。
 量の壓倒的優勢は、大和の性能を以てしても、避雷を全く絶望とした。
 まさに天空四周より閃々迫りくる火の槍ぶすま。
 わが海軍に比絶する大和の彈幕は、少からぬ脅威を與へはしたが、米編隊は一部の犧牲をあらかじめ計量して、ことさら迂遠な回避方法をとらず、まつしぐらに照準のベスト・コースをなだれ込む。そしてその間投雷投彈のため素早く直進を行ふや、横向快走して砲火を避けつゝ銃撃を敢行する。
 銃撃はさいごの反轉後直線的に艦橋に迫りつゝ概ね二齊射。硝煙、唸り、火柱が、かれらの息吹きのやうに艦橋の窓めがけて吹きこむ。
 紅潮した米搭乘員の顏がいづれも至近に押し迫つて、面詰されるやうな錯覺を起こす。
 砲火に仕とめられゝば一瞬火を吐き海中に沒するが、必らず投雷投彈を終了してゐる。戰鬪終止までつひに、進んで體當りする輕擧に出るものは一機もなかつたが、任務未了のまゝ撃墜されたものも極く少かつたに相異ない。
 正確緻密沈着なそのコースの反覆は、むしろ端正なスポーツマンシツプの香を放ち、未知の底知れぬ強靱さを祕めて迫つてくる。
 いまやたゞ被害を局限し戰鬪力を温存して相手の消粍を待つほかない。
 二十五粍機銃の三聯裝砲塔(六疊間大)が直撃をくらひ、つぎつぎに空中に數回轉して落下する。機銃員の死傷もおびたゞしい。
 各砲塔の銃口は、指揮塔から電氣誘導により操縱されるためたゞ發射のみを行ふのが常態だが、電波はやがて斷絶して、指揮系統も滅裂、止むなく各個に銃測照準にすがりはじめる。照準はいよいよ不正確を極める。
 萎縮、動搖のきぎしあきらか。
 飛行甲板から白煙が上る。
 艦の左右、前方に至近彈集中、いく層もの大水柱内に突入する。豪雨に數倍する水量が窓からほとばしつて吹きこむ。
 海圖臺は慘憺と水びたしになる。水をぬぐひながら血涙を呑む。
 首筋から胸、腹へと潮水が流れてなまあたゝかく、肌着がすけばぞくぞくする。全身にくまなくしたゝる。あたりの散亂は手がつけられぬ。
 顎紐が顎に喰ひ入つてくる。ぬれた眉は微風にさはやか。

        六

 第二波が去ると、踵を接して第三波の來襲。左正横から百數十機。驟雨の去來のごとし。
 直撃彈多數、煙突附近に集中命中。臼淵大尉が直撃彈に斃れた。
 死を以て新生への目ざめを切望したあの智勇兼備の若武者は、散つて一片の肉一滴の血ものこさぬ。眞の建設を夢見、その故にこそ敢鬪をさゝげた若者の骨肉は、虚空にあまねく飛散した。
 塚越中尉、井學中尉、關原中尉、七里少尉、……機銃指揮官戰死の報はあとを絶たぬ。
 魚雷、すべて左舷に五本。傾斜計の指度がわづかに上昇しはじめる。
 連續被害のため、應急員の死傷多く、防水遮防作業はほとんど不可能となる。
 ――魚雷命中すれば、防水區劃の一部に浸水する。區劃は細分されてゐて浸水を局限するが、やがて水壓は非浸水區劃との境界の鐵壁をしなはせ、これを潰滅させて浸水を擴大する。そこで非浸水區劃の内側から太い圓材(丸太)を以て鐵壁を支へ、決潰を遮防せねばならぬ。――應急員の任務。
 だが被雷は間斷なく繼起し、浸水は跳梁を重ね、一切を覆滅し去る勢ひ。たゞ兵員の救出に汲々とするのみ。
 すなはち、遮防作業中、附近に被雷が相ついで起る。たちまち水攻めにさらされ、ラツタルをつたつて上方へ、内部へと脱出せねばならぬ。鐵壁に切られた丸窓をくぐり拔け、足元のハツチの留め金をガツキリ締めてそこで浸水を押しとどめる。そしてその壁を遮防線とする。
 だがそのためには、われにつゞいてラッタルを突きあがる戰友の頭を蹴落として、ハツチを閉じる間隙を作らねばならぬ。
 いかに至難のことか。血の出る猛訓練もよく達し得ぬ異常の應急作業。
 いたづらに開かれがちなハッチを拔けて、浸水は奔騰しつゝなだれ込む。傾斜の進行は意想外に速い。すでに五體に不安感がある。
 傾斜が五度に達すれば、戰鬪力は半減する。彈藥の運搬に支障をきたし、重心の喪失感は士氣をそこなふ。猶豫はできぬ。
 浸水した防水區劃とまさに對稱をなす反對舷の區劃に注水し、傾斜復舊をはからぬばならぬ。そのための吃水線の沈下は。――速力の低下は。――萬止むを得ぬ。
 この注水は、注排水管制所の所掌。ランプの指示する片舷の浸水區域を見て、所要の對稱區域に、ボタン一つでたちどころに海水をみたす機能。――この注水の敏捷適確こそ、大和の特技の尤なるもの、しかもそれもはかない希望に過ぎなかつたか。
 後部奧深く位置した注排水管制所が、魚雷二本、直撃彈數發の集中を浴びて、脆くも機能を失つた。
 天われにくみせざるか。
 魚雷及び爆彈の連續集中は最も苦手。あたかもこの要衝の位置を知悉して狙撃したごとき執拗精確な攻撃だ。
 管制所の破壞は、つひに右舷區劃の注水を全く不可能とした。訓練時の想定にはかつてない最惡の不可測の事態。かくも遺憾悲運をきはめた事態が、それのみが唯一の現實とならうとは。
 米軍はよく渾身の膂力を、連續強襲、魚雷片舷集中の二點にそゝいだか。
 艦長が數度「傾斜復舊ヲ急ゲ」と、スピーカーも裂けんばかりにくり返し令達される。
 だが防水區劃の注水はすでに不能となつた。いまや、右舷の防水區劃以外の各室に海水を注入するほか方策もない。
 敵は脚下に迫り傾覆をはかつてゐる。あやふし。いかなる犧牲をも甘んじてこれを恢復せねばならぬ。
 全力運轉中の右舷機械室、罐室に無斷注水する。「急ゲ」と私は電話一本で指揮所を督促した。
 兩室は、海水ポンプで注水可能の、最大最低位の部屋。傾斜復舊に最大の效果が期待されるのだ。
 機關科員數百名が、海水奔流の瞬間、その飛沫の一滴となつてくだけ散つた。奔入する潮のうち、何も見ず何もきかず、人肉はすべて一塊となつて溶け渦流となつて四散したか。沸き立つ水壓の暴威。
 かれらこそこれまで、炎熱、噪音とたゝかひ、默々と艦を走らせてきた機關科員。もつとも勞苦の重い勤務に、汗と油にまみれてひたすら精進してきた兵員なのだ。
 かれらの生命はからくも艦の傾斜をあがなつた。だが走力はむなしく隻脚を強ひられ、速度計の指針は折れたやうに振れてかたむいた。
 第四波、左前方より飛來。百五十機以上。
 魚雷數本、左舷の、各部。直撃彈十發以上、後檣後甲板。
 艦橋は、機銃彈による被害が續出する。目の高さに横にくり拔かれた狹い見張窓から、彈片は削りそがれて無軌道に戯れるやうに噴きこむ。
 彈道がどこからどう貫くのか、皆目見當もつかぬ。避けるすべもない。裸身をつぶてにさらすのみ。
 一瞬、前後、左の三方から落ちこむやうな重壓が來る。後方の兵とは背と胸を接し、左方の士官とは肩を觸れてゐたが、それがそのまゝ倒れてきたのだ。
 振りほどくやうにこの身をぬけ出すと、もたれ合つた三本の背柱は、よじれながら崩れ落ちた。
 前の兵もうしろの兵もぬぎ捨てた服のやうにうごかぬ。即死。
 左方、西尾少尉は、唐突に起きあがり、左膝を立てた姿勢で、右腿部を縛らうと懸命だ。ほとばしる鮮血を吸つて手拭ひが眞紅にふくれあがる。たちまち血の氣が顏面からひく。かなりのふかで――衞生兵をよび、擔架を敷かせる。
 その上にうつ伏すと、顏をあをむけ、何かを見上げるやうにして、かすかに笑みをうかべた。われ悔いなし、の平安か。そのまゝ意識を失ふ。
 眉目秀麗な彼、その散華のさまはあまりに鮮やかで、いまはの微笑がしばらくは瞼から消えぬ。
 三人の肉塊は、尺にみたぬへだたりで、彈道から俺をさへぎつたのだ。
 電探傳令岸本上水(十八歳)が唇をふるはす。纏ひつく肉片や血しぶきに脅えたのだ。しかもつたへる報告にみちた、戰友の悲運。
 一發顎を張りとばして氣合ひを入れてやる。さつと童顏が紅潮する。可愛い。
 降下する一團の飛霰がたび重なるにつれて、艦橋員の損傷はやうやくあらはれてきた。まき散らされた肉片は處理できたが、血痕は痣になつてのこつた。
 すでに人員は半減していちじるしく行動が樂になつたことを感じながら、誰が消えたかをかへりみるゆとりはない。
 上部電探室にゆく。兵器は動搖逸脱して全く使用に堪へぬ。連續被害および本艦發砲の衝撃のためだ。
 至錬の本兵器も、つ心に爲すところなくして止むか。
 きはめて狹い室内に、兵らは重なり合ひ、動搖震動にたへてゐる。これが、日本海軍至寶の電探兵。
 機銃彈々片が側壁を盲貫して闖入してくる。さらに動く者もない。硝煙と火花を吹きつけ森水長の首を掠めてゆかに落下した。耳の下から太く赤い火ぶくれになつた。
 縱順で有能な電探測者森水長。
 うつむいたまゝ差し出すのを取れば、拇指頭大の鋭い一片。手にこゝろよいぬく味がのこる。
 火傷のあとをさすりながら彼はひつそりと笑ひつゞける。
 その後つひに沈沒まで、再びこゝにおりてかれらを脱出させる機會がなかつた。かれらはその姿勢のまゝ、總員、艦と運命を共にしたといふ。妻子ある兵も少くなく、紅顏の少年兵がまた多かつた。
 ただ一人の生存者青山兵曹の言によれば、のち沈沒の寸前、轟々たる爆發音、相つぐ衝撃のうちに、かれらは折重なつて斃れ、默然と死相をさらし、かれが晩出しようとして「行くぞ」と叫んでも、數人の者がたゞわづかに瞳をあげただけだといふ。
 戰鬪中自分の任務を持たぬものには、かゝる例もすくなくない。状況不明のまゝに、ショツク、停電、横轉、被彈、に重圍されると、「今死ぬか、いま死ぬか」の切迫感に堪へ切れず、先づ舌がしびれてくる。次には手足の自由がうばはれ、つひには瞳孔がひらき切る。
 肉體はなほぬくみを保つてゐるが、實はあはれにも死を待ちこがれたむくろに過ぎぬ。
 だが、かれらにまさつて精勵な兵があらうか。この兵らにしてなほ死神に屈せぬばならぬのか。
 魚雷集中。防水の完璧を誇る送受信室が、つひに浸水についえた。通信長以下通信科員の過半をこゝに失つた。
 艦隊旗艦大和に通信機能なし。たゞ發光と旗旒によるのみ。巨人がその耳口を失つて、なほ何をなしうるか。
 傾斜計指度、十七度。實速力、十餘ノツト。
 右舷の注水區域を擴大し、傾斜復舊を急ぐ。
 爆彈集中のため、應急中樞の第二應急部指揮所が潰滅し去つた。内務長以下の應急幹部の根幹、全滅。副長(副艦長、兼、應急防禦最高指揮官)は、たまたま第一應急部指揮所にあつて無事。
 忽忙の間、第五波、前方から急襲。百機以上。
 ときに「矢矧」が、大和の前方三千米に全く停止し、「磯風」を横付けさせようとしてゐる。
「矢矧」に座乘の水雷戰隊司令官が、沈汲寸前の「矢矧」を捨てゝ、「磯風」に移乘されるのか。(司令官の戰死は、作戰の遂行にたいし甚大な支障となる。)
 この状況を見て、大和に突込まうとする米機の一部が、反轉して二艦に向つた。――「矢矧」は魚雷十數本の巣と化し、たゞうす黒い飛沫となづて四散。「磯風」は停止し、黒煙を吐きつゝある。
 右に「冬月」、左に「雪風」が、水柱の幕帶を突破しつゝ大和あてに發信してくる。「ワレ異常ナシ」
 屈強二艦躍の、その名を賭けての力鬪。
 護衞に任ぜられた九隻のうち、その任を果たしつゝ、あるのは、この二艦のみ。他の或るものは姿を沒し、或るものは停り、傾いた。
 二艦の、兵一員にいたるまでの鬪魂と錬度を、思ひみよ。
 落伍した「初霜」は全く消息を絶つた。すでに米機の重圍下、惡戰苦鬪の末、相果てたものか。
 直上に敵機なし。緒戰以來はじめての空隙。
 大和は「もとより少からぬ彈雨を浴びたが、状況すでに不明。艦内の通信機關はまさに寸斷された。指揮統率は尋常でない。
 止むなく無傷の兵を探し出し、肩を叩いて傳令に走らすが、目をはなさぬうちに、ことごとく機銃彈に狙はれてころげ落ちる。巨體の細胞は切りはなされ、脈絡を絶たれ、それぞれ死滅してゆく。
 後甲板、消火にうごめく影。
 機銃砲塔の全壞多く、甲板はたゞ一面荒涼として、鐵塊の龜裂をのこすのみ。
 等身大の細身の人肉が、高く測距儀の袖から垂れさがつて搖れやまぬ。
 漆黒に塗粧した露天甲板は、いたるところくり拔かれ、一面の變色だ。露出した兵器はことごとく損傷し、空中線はその片鱗さへない。
 傾斜過度のため高角砲以上は全く沈默し(運彈不能)、機銃のみ掉尾の血戰。
 艦橋下部に被彈多く、臨時治療室の軍醫官は總員戰死。その他數なき死傷も傳へるにすべなく、さいごのさまを知るものもない。
 すでに多數集積した士官の戰死報告も、やがて中絶するまゝ記憶より脱してゆく。
 艦橋に降りそゝいだ機銃彈はその數を知らぬ。人員消粍ますます甚しい。
 爆彈また眞向からきそひ落ち、吹きつけるつぶてとなつて、ことごとくひたひぎわをかすめ去る。しかも艦橋幹部に一人の死傷者もない。
 初彈以來すでにいくばくの時を經過したのか。瞬時の閃芒か。しからずか。
 胸裡、ひそかに歡心が湧く。いさゝかの疲勞もない。
 空腹をおぼえ、傾斜計をにらみつゝ菓子をくふ。うまい。雨着の兩ポケツトに詰まつた菓子。
 第六、第七、第八波、相ついで來襲。各百機内外、いづれも後方。
 敵はつひにわが鈍足に乘じて舵をくだくか。豫感が背筋を冷やす。
 たがいにせんすべもない。雷跡の綾なす糸をぬけるには、も早や機動力がか細い。
 汗ばむ掌をにぎり合はせ、艦尾の衝撃に神經をとぐ。
 はたして後部に魚雷集中し、艦尾はしばし宙に浮き火柱水柱に包まれる。
 副舵が取舵(左旋回)一杯のまゝ、舵取室を浸水に奪はれる。主舵を面舵(右旋回)一杯としても、固定した副舵が抵抗となりわづかに右旋回をなすのみ。
 一切の行動は左旋回の範圍内に限られる。半身不髓。
 しかも主舵舵取室もまた浸水に瀕しつゝある。
 米軍の來襲作戰は次のごとしか。――量的壓倒による彈幕突破、天候を利しての緩降下雷撃、魚雷片舷集中、傾斜急増による速力激減、鈍速にたいしての必中爆撃、對空兵力の覆滅、後方よりの雷撃による舵の破碎、再び雷爆集中、致命の追撃。
 巨艦、こゝに進退を失ふか。
 直撃彈が、爆彈、ロケツト彈、燒夷爆彈をまじへて降りそゝぎその數を知らぬ。煙突附近より黒煙がのぼる。
 傾斜急増、殘速七ノツト、わづかに左旋回を行ふ。
「霞」が右前方から、「ワレ舵故障」の旗旒を掲げて盲進してくる。おなじく舵をもがれたものか。
 われまた避けるすべもない。不髓のこの身がいら立たしい。
 膽をくだきつゝ辛うじてこれをかはす。
 主舵操舵長(中尉)からの電話が、妙に濕つたひゞきで耳に沁みる。隣室までの浸水をつたへつゝ、その間刻々の操舵を復誦してくる。
 やがてさすがに切迫した聲が、「浸水マ近シ、浸水マ近シ」とくり返す……一瞬の破壞音をのこして、消息を絶つ。
「ワレ舵故障」の旗がするするとのぼる。この旗旒が大和にはためくのも、これが最初、かつ最後。
 不沈の巨艦も、いまや水面をのたうち廻る絶好の爆撃目標に過ぎぬか。

       七

 傾斜三十五度
 米主力は雲間に集結待機しつゝあるのか。數機ないし十數機づつとどめを刺さんと殺到する。弱體の目標にたいし、效率攻撃。
 われ避彈不能、全彈命中、ゆかに俯して被害の衝撃に堪へる。必中の被彈は、この肌に刺されるにもひとしくむごくこたへる。
 艦長「シツカリ頑張レ」數回繰返される。この聲を聞いたものは何人あつたか。
 電源が斷たれ、令達器は使用不能。肉聲のとゞくかぎりのものがこの聲にわづかに肩を引きしめたのみ。
 中部左舷に大水柱上る。足元をすくはれた薄氷感。
 航海長より艦長へ「いまの雷跡は見えませんでしたか」
 艦長「見えなかつた。」
 航海長「見えませんでしたか」
 この魚雷こそつひに致命傷となつたか。或ひは潜水艦がひそかに近接し集中發射したものではないか。威力絶大。
 傾斜計の指度が目に見えて顯著となる。
 わづかに疲勞をおぼえ、ゆかに肱をつけでよりかゝる。身をなゝめ横たへるのに絶好の傾斜。こゝろも輕い。
 肩で息を吐きながら菓子を頬張りサイダーを呑む。炭酸がのどをはじけて、うまい。自分が喰つてゐるのか。ただ食慾が滿たされてゐるのか。
 ふと、あばらの下から、なにびとかの聲、「お前、死に瀕したもの、死の豫感をたのしめ、死を抱擁しろ。さて死神の顏色はどうだ。……いゝか、お前が生涯をかけて果たしたものは何なのだ。あるのか。あれば示せ。あればうたへ」
 こぶしを胸に合はせ、身を悶えつゝ「俺の一生は短いのだ、あまりに短く、あまりに幼かつた……ゆるしてくれ。放せ。胸を衝くな。いつてくれ。えぐるな。消えろ」なんと弱い呟き。
 周圍の人の氣配は變らぬ。もの憂く見かはして、互ひに生きのこつたことを確かめ合ふ。活動したあとのこの身の熱氣が感應し合ふのみで、それ以上には何もない。
 しばしの虚脱、敵襲も小休止。
 たゝかつた。――濁りない回想。
 あたりはしづか。まことに閑か。
 傾斜計の指度が、この靜寂のなかを、滑るやうに進む。
 副長から艦長に「傾斜復舊ノ見込ナシ」すき透る副長の聲。
 聲高に艦橋一杯にこれを復誦する。
 傾斜復舊不能――沈沒確實――作戰挫折――そして目前の死、――想ひは瞬間に結論をつかむ。だがうろたへるまでもない。みな、引きつれたやうに身を固くしたまゝだ。
 その中を長官の周圍に匍ひ寄るのは參謀たちか。さいごの協議か。
 やがて、いや、一瞬ののちかも知れぬ、長官がつと身を起こす。參謀長が左手を羅針儀に支へつゝ、長官ににじり寄るやうにして敬禮。永い沈默。目が互ひの目を射る。
 長官は答禮を返ししづかに左右をかへりみ、幕僚の一人一人と念入りの握手、一瞬微笑まれたやうに思へたが、長身をひるがへして、艦橋の長官私室へ。(沈沒まで、この部屋の扉は開かれず、また絶え間ない破壞音の故か、自決の銃聲もきかれず、携帶拳銃をすて、身を以て艦の最期を味ははれたか。第二艦隊司令長官伊藤整一中將の御最期。長官はこの作戰に終始反對し、とくに發進時期の遲延をおそれ、しばしば中央に具申したが、つひにいれられす。半日の遲延、これがさいごの痛痕事となつた。その故か、初彈以來、長官は窓ぎわの椅子に腕組みしたまゝ、彈雨血霰のなかを、石のごとく寡默を押し通し、組まれた腕は、この答禮のときはじめて解けたのだ。)
 長官が艦橋をよぎると、副官(少佐)が、終始長官に侍從する任にあるため、死をも共にすべく、身がるにあとを追つた。參謀長が一躍してうしろからがつきとこれを捉へる。ラツタルを二三段駈けおりた副官、そのバンドにむんづと片手をかけ、片手に手摺を握りしめつゝ齒を噛み鳴らす參謀長。
 兩者無言。滿面朱をそゝぎ、氣合ひを應じ合ふこと數秒、つひに副官が顏をそむけつゝゆづる。
 參謀長はこれを艦橋に引きあげてはげしく突き放す。
 艦隊はこゝに首上を、やがて主城を失ふか。
 松本少尉と艦橋後部で遭ふ。顏面蒼白、指をあげて、「俺たちも時間の問題だからな」とさゝやきかける。
 指さすところは艦の後部、乾舷とよばれる最上甲板に、水がひたひたと寄せあがつてゐる。浮城のごとしといはれたあの乾舷。乾舷に波がかゝれば顛覆は確實。
 こゝろやさしき詩人、松本少尉、すでにみづからの過情に斃れたか。
 この時なほ大和の終焉を夢想する氣持さへ湧かぬ。緊張のゆえか。巨艦の雄渾に魅了されたのか。
 艦橋の生存者は十名を出ない。倉皇として脱出しようとする者がある。
 配置を去つてどこに行くか。他に死處でもあるといふのか。
 去るものは去るべきだ。たゞこの得難い寸秒の間、かれらの心中、いさゝかの悔恨もないか。
 このとき、幸ひに泰んじ得られたおのれを何に謝すべきか。
 あたりはいよいよひそやか。もとより戰ひの終結を急ぐ破壞音は止まぬが、このわが耳朶にふれるは優しいしゞまのみ。
 目にうつるものすべてに白光が射し、すきとほり、まなこは、初めて見ることを知つたごとき愕き。瞳孔も、その底までも澄み切つたか。
 ふたゝび胸奧の聲、「お前、憐れむべきもの、つひにむなしく死の軍門に降るか。死にゆくお前を力づける何ものもないか。かへりみてみづからにとるべきもの一片とてないか。」
「待て。待つてくれ。俺の半生はむしろ惠まれたもの。……あたゝかい肉親。すぐれた師友。こゝろよい環境、ゆたかな希望、乏しからぬ資質……」
聲「そのどれに眞のお前があるか。それらすべてが、死にゆくお前に加へるものは何なのだ」
 「いや、それだけじやない。さらにかがやくもの。……消えぬもの」
聲「何だ」
 「あの數々の想ひ出……美しく、こゝろひらけ、悔いなき……」
聲「眞實か」
 「……どうしたんだ、この不安は、なぜ俺はこんなに、いら立つんだ」
聲「さて……。お前は謙虚といふことを知つてゐるか。お前は頭を垂れたことがあるか。」
 「……あゝ、謙虚……俺。不遜のやから……ゆるしてくれ、辛うじて謙讓といひ得る行爲のたつた一つあつたと、答へさせてくれ」
聲「そのとき、眞に謙讓だつたか。何にたいして……いかに……」
 「もうやめろ。詰問するな。俺は自分で自分をさばく。」
聲「は、は、みづからをさばくか。愚かもの。死臭にまかれつゝなほみづからを欺くか」
 「このわづかの安逸を奪つてくれるな。恐ろしい。殺してくれ。懼れから救つてくれ。殺せ」

 艦長「御眞影はどうか」
 責任者九分隊長から、私室に御眞影を奉持してすでに内側から扉に鍵した旨の應信がある。身を以て護られることは疑ひをゆるさぬ。
 見れば航海長、掌航海長(操艦航行の責任者およびその補佐)が、ロープでからだを羅針儀に縛りつけようとしてゐる。もとより萬一浮上するごとき恥辱を、あらかじめ防ぐためだ。
 とつさにこれにならはうとし、かねて用意のロープをまさぐつた。
「何をするか。若いものは泳がんか」參謀長の怒聲が、鐵拳をまじへて降つてくる。からだごとぶつかつてきて、はしから毆りつけられる。
 意をひるがへし、齒をかみくだく思ひで繩を投げ捨てる。止むなく命にしたがつたが、憤懣は消えぬ。今に至つて脱出するとは、何のための特攻出撃か。
 眞實は、數分前、長官をかこむさいごの協議に、作戰中止、人員救濟の上歸投の決定が、爲されたのだ。われわれだけが、それを知らされてゐなかつた。
 僚艦にはすでに、その旨の信號が發せられ、大和の前檣頂の應急燈は、このとき兩側の驅逐艦に、必死に「チカヨレ、チカヨレ」を連發してゐたのだ。(驅逐艦は、沈沒の渦流或ひは誘爆の衝撃をおそれて、敢て近接せず。賢明の策だつた)
 さきに脱出した參謀たちは、一點射しきたる生還の光明を見たのだ。歸投の決定に參加し、身を處して生せながらへる途をさぐつたのだ。
 われわれもそれを關知してゐたらどうだつたか。よく泰んじてこの身の顛倒に堪へ得たか。
 いのちあると知るものは蒼ざめ、いのちなしと氣負ふものはきほひ立つ。
 死出の同志はその半ばを失つていまや必死行に成算もなく、征途また半ばに達して燃料はわづかに歸路をみたすに足りる。――さいごの機會に下された伊藤長官の獨斷、作戟拾收命令。
 狹い視界内を水平線が縱にふれながら壓迫してくる。どす黒い波形がたてにあふれるやうに押しひろがる。傾斜八十度。
 暗號士から、暗號書の處置終了を傳聲管でとゞけてくる。おのれの腕に軍機書類をことごとく抱き、艦橋暗號室に入り内からこれをとざした、と。
 鉛板を表紙に打つて沈降に萬全を期し敵の手中に落ちることを極力防止し、さらに潮水に消えるインキで印刷しかつ文字と異る紙型を重ねて刻印した暗號書、しかもなほ身を持つて機密を保持せねばならぬ。、
 艦長「總員上甲板」さいごの下命。艦長傳令から口傳へで各部に傳へる。
 寥々たる生存者。すでに時期を失したことは明らかだが、たゞ一人でも多く救はうとされたのだ。
 あゝこの時この命令を、「總員退去」の意に解した者、一兵とてあつたか。
 かつてない特攻葬送作戰の、征途半ばに展開した惡戰苦鬪の末に、誰か一縷の生還を期するものがあらう。まして殘存僚艦が、すでに作戰任務を解かれたと知るべきよしもない。
「總員死に方用意」、ひとしく待ち設けたもの、たゞこれのみ。
 大和の最後が數刻おそくとも、燃料は歸還を保するに足りず、殘黨以て突入のほかなかつたのだ。
 どこからか落下してきた暗號書二册を、無意識に海圖臺内に收める。
 艦橋たちまち人影を見ぬ。
 去るべきか、配置。無二の死所、艦橋。
 そこで俺のすることはもうないのか。
 刹那、不覺の焦燥、ゆかの椅子に指をかけ見張臺から脱出する。
 さきの奴のかゝとにしたゝかに蹴落とされ、一度艦橋の底にころげこんだが、「やれやれ」とのどでぼやきながら匍ひ出す。
 うしろに明るい聲、「よし、俺がしんがりだ」通信士、渡邊少尉。(彼は腹まで窓のそとに乘り出したとき、艦もろともに海に呑まれた。氣壓か、水壓か、窓から打ち出されるやうに撥ねて、水中に投じたといふ)窓をよじり出て、さいごにふりむけば、いとしい艦橋が、なにかほの暗く、横轉してひどく狹く見える。
 航海長、掌航海長は、再三の脱出のすゝめもきかず、肩を引く腕もはらひのけ、互ひに身三箇所づつを固縛し合つて、膝をつきあはせてゐる。肩が一つのやうに組み合つてゐる。
 操艦の責めはそれほど重いものか。
 ともにかつと目玉をみひらき、迫りくる海面を睨み据えたまゝ、茂木中佐、花田中尉御最後。
 艦長附森少尉の、沈沒の瞬時まで叫びつゞけた「頭張レ」の聲、兵の肩をどやしつゞけた姿が、いまも髣髴とする。鐵兜、防彈チヨツキをつひに捨てず、敢鬪をつくした彼、こゝろ憎き覺悟。(われわれは艦橋内部の配置ゆえに、かゝる重武裝を持たなかつた。)
 屹立する艦體、露出した艦底、巨鯨などいふも愚か。
 ふと身近に戰友あまたをみとめた。
 彼の眉があまりに濃く、彼の耳があまりに青い。誰も幼い表情、いな、無表情といふべきか。
 誰もが恍惚と、――彼らしいまな差しにふけつてゐる。俺も恐らくさうだらう。
 何にみいつてゐるのか。
 視界を蔽ふ渦、敷きつめた波の沸騰、巨艦を支へる氷かとみまがふその純白と透明。――しかも耳を聾する濤音が一そうの放心脱魂にさそふ。
 見るは一面の白。きくはたゞ地鳴りする渦流。
「沈むか」はじめて、灼くがごとく身に問ひたゞす。
 水が甲板を侵しはじめる。だが、人影がただ波に吸はれてゆくものか。
 打ち出す彈丸のやうに、湧きあがる水壓が人體をはじきとばすのだ。それも思ひ思ひの方向に。
 かるがると彈ねる。樂さうに――と見る間に、五十米の距離を一瞬に渦流はよぎつた。早くも足元に飛沫がせりあがり、いびつな鏡のやうないく面もの水が、(十面もそれ以上も)別々に躍りながら鼻先にきらめく。それぞれがなかに人間を浸し、人間は跳ねてゐるものも、逆立ちするものも――
 この精巧な硝子模樣が、莊麗な泡沫の生地をいろどる。
 しかもその泡にうかべた眞青の縞の、この美しさ、やさしさ、と思ふ瞬間、渦流に逸し去られてゐた。無意識に息を吸ひこんでゐた。
 吹きあげられ、投げ出され叩きのめされるまゝ、八つ裂きの責め苦のうちに思ふ――さいごにちらと見た裟婆よ、ゆがみ顛倒しつゝも、たへなりしその色。――息を詰めた胸に、この色の慰めが明るい。
 事前に遠く泳ぎ得て、この渦流を免れた者は皆無。かゝる大艦の脱出には、三百米の、渦流中心からの距離を要するといふ。救出決定はおそきに過ぎた。
 總員戰死、これこそさだめであつたのだ。
 ときに大和の傾斜はまさに九十度(かゝる例稀有、一般艦船は三十度で沈むのを常とする)、主砲々彈が、彈庫内で横轉し、細い尖端の方向に滑つて、天井に激突、誘爆を若起。
 未曾有の例のため、この椿事を夢想する者もない。
 艦すでに全く水中、身もまた渦中、
 一發一艦必轟沈の徹甲彈、一發一編隊必墜の三式彈、計二千發を下らぬ。
 先づ前部主砲彈庫が誘爆した。沈沒後約二十秒か。
 沈沒前ならば、爆風直截のため、人肉はすべて彈片と化して四散しただらう。水流がわれわれを弄びつゝよく風壓を減殺してくれたのだ。誘爆なかりせば、もとより渦流のうち、急轉海底に沈降するほかない。
 あなや覆らうとして赤腹をあらはし、水中に沒するとたちまち、一大閃光を噴き火の巨柱を暗天ま深く突き上げ、砲塔も砲身も、全艦の細片がことごとく舞ひ散つた。
 さらに底から湧きのぼる暗褐の濃煙が、しばしすべてを噛みすべてを蔽ひつくす。
 火柱は實に六千米(驅逐艦航海士の觀測)

        八

 鹿兒島よりよく望見しえたといふ(のち新聞紙にも報道)先端を傘のごとく開き、その中に米機多數を屠つた。
 前部彈庫一方の誘爆のみでは、吹き起こす力が濁流に及ばなかつたのか。渦の中を引きまはされつゝ、やがて全身に異常なシヨツクを感じ(このとき爆風が吹き過ぎた)反對方向に逆卷かれると、頭上にうごめく厚い障壁に突きあたつた。――これこそすでに浮上して火雨の洗禮にさらされつゝある戰友のむくろだつたのだ。かれらは、身を以て、火箭から守つてくれたのだ。
 そのうちふたゝび水面近くから引きもどされた。
 約二十秒後、さらに後部彈庫の誘爆。爆風はこの身を水面に押し流した。
 だが艦體の蔭にあつたわれら少數のものを除き、すべて身を彈巣となしたらう。またわれわれのみが水中爆傷をかはすことを得た。
 艦橋上部の構造物に密着した者こそもつとも安全にいく重にも守られ、先に脱出しながら甲板に近付いたものは、近付くに從つて風壓に暴露したのだ。
 しかもわれわれとて身にいさゝかの彈瘡を帶びぬものはない。傷あさきもののみがよくその後の苦鬪に堪へ得たのだ。
 俺もつむじの左に長い裂傷と火傷とを受けた。のち軍醫官の診斷によれば、破片は相當大きく、たゞ頭部に切線方向に接觸したため致命傷を免れたといふ。
 接觸時にはわが身もまた疾風のごとく吹き廻されつゝあつたが、それと彈丸とが切線方向にふれる確率はどれ程のものか。
 人と生れて切線なるもののお蔭を蒙らうとは。笑ふべきか。
 煙突に呑まれたものも極めて多い。恐るべきその吸引力(五歩右にあれば私も危かつた。歸還後、全生還者について、入水のときの位置をしらべたが、煙突の周圍は廣範圍の空隙をなしてゐた。)
 火柱が逆落とした吹き落ち、赤熱の鐵片木塊が沖天に飛散し轟々落下して、辛うじていち早く浮きあがつた多くの戰友を殺傷した。
 渦中迂回の末さいごに浮上したわれわれはその灼熱の空を見ず、たゞ濛々たる硝煙を仰いだ。
 煤煙はやがて潮に斷たれて晴れ渡り、一面に泡立つ重油のうねりをのこすのみ。
 渦に卷かれながらの、この身の責め苦にひきくらべ、何と他愛もない想ひが浮き立つてゐたことか――サイダーが十センチほど殘つてた……菓子も五袋はあつた……沈沒場所の水深、四百三十米は海圖でたしかめたが、この勢ひで落ちてゆけばどの位かゝるものか。……四百三十米の距離感……
 だが呼吸が、つまつてきた。二度目のシヨツク後間もなく、つひに衝きあがる胸苦しさが口元までこみあげ、ガバと水を呑みはじめ――鼻と口から、ふいごで吹きこむやうに海水が入る。その顎のうごきを無意識にかぞへる……七……十……十五……十七……この分じや、からだじゆうが水であふれるまで、死ねんのだらう。まだか……まだだめか……殺せ、殺してくれ……目のふちがうす明るく、瞼の裏が黄色く、鼻孔のきな臭さが苦悶をぼかすやうで、足元もかるく、何もかも夢心地にかすみはじめ――ぼかつと、水面に出た。
 誘爆が五砂おそくても敢へなかつただらう。
 落下する火柱にあたらぬほどに迂回し、しかも呼吸の極限までに浮上したもののみが救はれたのだ。
「薄明るくなつたので、やれやれ冥途かとホツとしたよ」と渡邊大尉。「ナムアミダブツと、二度言つたやうな氣がする。念佛のことなんか考へたこともなかつたが」と迫候補生。
 かく重疊した僥倖の、どの一つを缺いても、ふたたび日を見ることはできなかつたものを。
「大和轟沈 一四二〇(二時二十分)」敵味方同時に飛電を發する。間斷なき對空戰鬪二時間、ここに終止。
 重油がしみてまづ目が開かぬ。息を吐きながらこじあけ、耳をぬぐひ、漂ふこと數分――なんだ、まだ裟婆か、冥途じやなかつたのか、浮きあがつためか。また生きるんだな、畜生――
 細雨降りしきる洋上に、重油、寒冷、機銃掃射、出血、鰭とたゝかふ。
 ま近に見れば、灰色に光る波、うねりも荒く、重油を纏ひ密にねばる外洋の波。泥糊のごとき重油層。一面の氣泡、漂ふ無殘の木片。
 放歌してみづからはげますもの。この身の重さに喘ぐもの。哀れ發狂して沈みゆくものもある。(重油の吸收は生理に異常をきたす)
 重油の黒一色のため流血は見えぬが、深傷の者は苦しみ方がせはしい。
 元氣過ぎて餘り跳ねるものは鱶の餌食となるのか、瞬間に吸ひこまれる。
 若い兵の多くは、母を戀ふらしい斷末の聲をひき、力つきて沈んでゆく。天をつかむやうにさし上げたもろ手が、むなしくぬけ落ちる。それに笑ひ狂つた唱聲がまじる。
 聲がわたる。「准士官以上は姓名申告。附近の兵をにぎれ」叫ぶあの頭から耳へのかたちは副砲長か。
 ――さうだ、俺は士官だつた、兵隊をにぎる、一人でも多く收拾して次の行動を待つ。――俺はいま何を放心してゐたのか。
 聲をからして、眼鼻もわかちがたい兵を集め、抑へ、しづかに、何ものかを待たせる。
 脚絆をといて筏を組み、重傷者を拾ひあげねばならぬが、木塊はことごとく四裂して、筏に堪える長さのものがない。
 重油に刺された目は、うねりをこえて波間に何を求めるか。――
 大和の艦影。鼠色の鐵塊。立泳ぎで伸びをしながら、憑かれたやうにさがし求める。
 ある筈もない。無情な波のかなたに、あるのは泡、泡。
 この足の踏まえてゐたものが消え失せるとは、何と想像もつかぬ寂莫なのか。
 機銃掃射。心地よげな機影。海面を流れ過ぎる彈あしの帶。恐怖はない。――俺をよけてゆくのが不思議だ。
 醜怪な漆黒の頭、顏面、その飄逸さにふつふつと笑がこみあげつゝも、舌端は無念の火を吐き舌打ちをつゞけ、絶えずあたりを睥睨する。
 肌着までとつぷり水びたしになる。齒の根を鳴らし、こぶしを固めてかち合はせつゝ寒さに呻く。わけのわからぬ無念と、どうにもならぬ寒さと。
 後生大事にまたがつてゐた椅子の切片がしきりに沈み、したゝかに水を呑まされる。苦澁のあまり手を離して見ると、忽ちひとりで沈んでいつた。クツシヨンの藁に海水が沁みこんで重くなつたものだらう。わざわざおもりをかゝえてゐたにもひとしい。
「御苦勞樣」聲に出して自分を慰めてやらうとしたが、聲がのどにつまり笑ひはひたひにかたまつて、こめかみがわづかに顫へただけだ。
 あたらしい木片を求めようと身を轉ずると、身近かの兵の視線に遭ふ。魚のやうな臆病小心の眸。「安心しろ。お前なんかいぢめんから」さう呟きつゝよけて泳いで、やうやく細片數個を捉へる。
 兩脇にはさんでから振れ向けば、その兵は體をひねつたまゝこちらをすかして見てなほ憎々しげだ。よく見れば、通信科の少年兵だ。少年。
 何がこれ程までに、彼の血相を變へさせるのか。それはもうどうすることもできぬのか。
 何ものかが胸をつき、立泳ぎの足先をじりじりと曲げて、これに堪へる。
 凍死は睡るごとく深く安らかだといふ。このまゝ睡魔のおとづれを待てばよい。
 だがむらがる兵の、重油に濁る目、喘ぐ口、この執念をいかにすべきか。
 望むべくは、時を得てたゞ死を潔くすることのみ。ひたすらにかくみづからを鞭打つ。
 ふと思ふ。この貴重の時。眞の音樂をきくのは今を措いて他にあらうか。
 聽かう。心さへ直ければきける。一瞬を得るのだ。
 自らの音樂を持たなかつたのか。すべては僞りだつたのか。
 ――待て、今きこえてきたもの、たしかに、バッハの主題だ。
 ――ちがふ。作爲だ。眩覺じやないか。
 いな、思ふな。構へるな。
 あゝこの時、わが身の救はれることを思ひ知つてゐたら、果してよく晏如を保ち得たらうか。
 見よ、俺に向つて笑みかける顏。童顏の、あの少女のやうな野呂水長。
 直接の部下ではなく、たゞ艦橋で數度傳令に使つたことがあるのみ。利發謹直、拔群の模範兵、彼。
 丸顏の頬のかたはらに浮沈みする黒い木片。ほころぶ口元にかすかに齒の白さ。
 俺が濁流からぬけ出したことを喜んでくれてゐるのだ。この眸、無私無心の笑ひよ。反射的に釣りこまれて笑ふ。
 ふと涙ぐみ、涙あふれ、やむなく鼻を重油に漬けて顏をそむけた。――も早やともに死の手中にある俺たちが、こんなにゆたかな生をたのしむのはふさはない。――こらへるべきか。
 この笑は、この涙は、いかなる心情か。

        九

 驅逐艦(月型)が全速で直進してくる。餘りにまともに艦首を向けてくる。救はれやうもないくせに、今更ら回避するのもおかしいが、兵をつれてわづかながら針路から遠ざかる。
 至近まで來て面舵一杯をとり、艦尾を大きく左に振る――漂流者の間を縫い、逞しい波をかき立てて滑り去つた。
 俺たちはその降り斜面の半ばに漂つてゐた。ここから數メートルふねに近くその波の頂きより向ふに出たものは、スクリユーに根こそぎ吸ひこまれた。
 信號兵を總動員して、五箇の手旗が、「シバラク待テ」を發信してゐる。信號兵が旗をふりながら機銃彈でころげ落ちるのがよく見える。「シバラク待テ」――勇躍(俺たちを救ひ、戰鬪員を補充して突入するか)
 軍歌をやめさせ、兵をはげまし、きたるべきものを待たせる。おのれのいのちに沒してゐる兵たちの目には手旗信號のうつるゆとりもない。
 驅逐艦停止。空爆下決死。
 泳ぎ着かねばならぬ。目測二百メートル。
 はやる兵を抑へ、木ぎれを押し合つて泳ぎ進む。あせるのは禁物。餘力を盡瘁して、ゆきつくと力つきるのは分り切つてゐる。長い戰鬪と漂流、肉體はも早や極限にある。
 雨着の裾、編上靴の重み、脚絆の煩はしさ、重油。飴の中を歩くにもひとしい。
 二百メートルを泳ぎ切る永さ。漂流の全時間にもまさるか。
 漂流時間――渦に落ちてから、事實はすでに三時間近くを經てゐたのだ。
 だが實感では、せいぜい二十分足らすだ。この忌まはしい時間を、かくも逆に短くうけとるのは何ゆえか。――徹底した空虚の故。全き虚無的消耗の故だ。
 命の綱を前にして、赤裸の人間を見る。
 重油いよいよ濃く、波艦體に打ち返り、惡感が背筋を走つてやまぬ。
 人を求め、聲を求めて見上げれば、焦慮たゞ堪へがたい。つれなくそゝり立ち、蔽ひかぶさる艦體。
 眼底灼け、下肢はすでに麻痺感がある。
 泥油にちぬられた綱、掌、群がりひしめく力。綱も掌も重油にしたゝつてゐる。
 先頭切つてゆき着いた兵二人は、綱にとびつき、ずるつとそのまゝ、姿を沒した。――(助かつた)といふ氣のゆるみ。二どと浮きあがることはあり得ぬ。
 三人目をうしろからかゝへ、右手首に噛りついて齒のかどで油をそぎ落とす。皮ごと剥ぐかも知れぬ。血のにじむほど綱を捲きつけてやり「あげーえ」と甲板に叫ぶ。一本の手首が辛うじて一人の體重を支へる。しづかに綱が引かれる。
 と、その足首にしがみつく奴。靴は綱よりもすがり易い。引きあげられる奴の靴底を見のがし得ぬのだ。一本の手首は、二人の體重を支へ切れぬ。どうとはづれて、そのまゝ。
 次からは、一人をあげさせると、下に構へてゐて、まとひつく腕をなぐり返す。
 綱を見上げる目の執着の光り。かれらのこの生きんとするちから。尊いか、みにくいか。思ふな。一人でも多くの兵を救ふんだ。
 生きんとするかれらは必死、生かさうとするわれも必死。格鬪。
 ふと氣付くと、兵の影がない。いく名救へたか、わづか四名か。――過半數はむなしく水中に沒し去つた。
「急げ、急げ」と叫ぶ聲。甲板からだ。艦はしづかに前進をはじめた。
 目の前に繩梯子一つ。ゆがんで垂れさがり、位置は艦尾にもつとも近く、スクリユーの渦はすぐ身近かだ。さいごの、ぎりぎりの機會。
 のめるやうにくひさがる。兩手六本の指の第二關節が、わづかにかゝる。下半身を波が洗ふ。
 ほしいまゝに浪費を重ね、ひとをなぐりつゞけてきた膂力が、いよいよおのれを支へるとき、このか細さはどうしたことか。衰へ、つきんとし、生へのわが執着を試みるかに、ぬけ去る。死力をつくして、この身とたゝかふ。
 放してやれ、まゝよ、この指先きを、たゞわづかにゆるめただけで、それだけで――樂になるんだ。樂になりたい。樂になれ。死んでやれ――あゝ死のいかに甘く、いかに安易なことか。
「がんばれ、がんばれ」甲板から、耳を突き刺す兵の聲。兵ともつれ合つた俺の振舞ひも目撃してゐたのだ。眞情に生きたこの激勵。
「生きろ、生きろ、こゝまできて死んで相すむか。死んでゆるされるか」身うちに叫ぶ聲。
 初めて、眞に初めて、生を求める意地がカツとひらく。
 生きたい希ひじやない。生きねばならぬ責務だ。
 肉體が消えて、魂魄がやうやくに燃え、すべてを奪はれたとき、眞のおのれが殘つた。
 血と油にまみれ、繩にからまれた俺にあるものは、あの消えることのない火、止まぬ傾きのみ。
 いまこそ死ぬべきとき、死をゆるされるとき。故にこそまた、生きるとき、生きねばならぬとき。
 たゝかつて生きるか、くじけて死に果てるか、長い苦鬪の果て――二名の兵が兩手にとりつき、繩からもぎとつて甲板に投げ出す。倒れたまゝ顏をあげる力もない。たゞもうこの身を支へねばならぬことからまぬかれたのだと、とけるやうに全身に感ずる。
 俺は、生きるべくさだめられたものか。
 兵が軍裝をぬがせてくれ、のどに指を入れて重油を吐かせ、「貴重品はございませんか」ときく。貴重品どころか。その持ち合はせもない。毛布をまとはせてくれる。
「頭を怪我してをられます。治療室へ」と注意され、片手をあげると、指が二本きづの中に入る。痛みもない。氣もつかなかつた。
 治療室を求めてゆくと、死屍壘々。いく度もつまづき倒れる。奮戰隨一の「冬月」だ。
 倒れてゐると、突きとばすやうにしてゆく士官の横顏。「田邊少尉」なつかしい學友。さうだ、かれは「冬月」の航海士だつた。
 全身重油まみれのこの姿を眺めまはして、「何だそのざまは」と哄笑する。だが彼こそ狹い廓下を膝で歩いてゆくじやないか。恐らく自分では氣付いてゐまい。數十時間、重要勤務に頑張りつゞけたのだ。足が立たず、膝をひきづつてゐる。
 そのくせ人を笑ふとは。
 治療室で、傷を縫合して貰ふ。軍醫官二名、しめた鉢卷が血しぶきに染まつてゐる。部屋の一隅は、天井から坂をなして死體の山。目藥を刺す。
 艦内は、血なまぐさいなどと生やさしいものじやない。青臭く、のどがむせる。
 作戰變更をきく。突入にあらす、歸投と。聲もなく唇をかむ。
 發熱、相當。過勞と重油吸收のためか。惡感が止まぬ。
 士官寢室に辿りつき、倒れるごとく折重なつて寢る。
「大和の乘員きけ、元氣なものは本艦の作業を手傳へ」怒鳴りこんでくる山森中尉、自分も辛うじて壁によりかゝつて立つてゐる。無念の形相だ。誰もからだがいふことをきかぬ。
 夜通し、「配置ニ就ケ」の緊急ブザー、「對潜戰鬪」の號令をきゝつゞける。「雷跡右四本」などとつたへる聲、惡夢のやうにきく。――もう泳ぐのはたくさんだ。こんどこそ死んでやる。
 ――終夜の潜水艦攻撃をからくも切り拔けた。被雷二本はいづれも不發でことなきを得た。
 艦隊中殘存艦は「冬月」「涼月」「雪風」「朝潮」の四艦。「冬月」は「霞」を「雪風」は「磯風」をそれぞれ處分する。
「霞」「磯風」は停止のため、放置して敵に捕獲され、機密の洩れるのを防ぎ、敢へて撃沈するめだ。
 横付けは五分間、かけられた二本の横木の上を、士官はすべて軍帽をつけ軍刀を提げ、公用書類を手に移乘してくる。五分を經過すれば殘員の有無にかゝはらず横木を叩き落とし、儀禮的に一周ののち、手練の魚雷一閃、處分を了る。
「涼月」、准士官以上總員、死傷、しかも機械、罐故障、「冬月」あてに、「ワレ後進シテ鹿兒島ニ向フ」と發信してきた(のち修理に成功、佐世保に變更。)
「冬月」「雪風」、八日朝佐世保に入港、「朝潮」同日晝、「涼月」薄暮、炎上のまゝ沈みつゝ入港し、たゞちにドツクに入る。
 副長、「雪風」の短艇に救助された。あの痩躯で、しかも下部の配置から、いかにして脱出されたのか。
 特攻作戰ゆえに、艦長の戰死は必至だ。戰鬪經過報告(きはめて貴重)および艦一切の殘務整理等、すべての責任は副長にある。これらはすべて充分豫期してゐたのだ。
 やうやく救助艇に達したが、力つきて、まさに沈まんとするのを引きあげると、すでに困憊その極に達し、全く意識なく、やむなく毆打をつづけつゝ艦に急いだといふ。ひたひから後頭にかけて、長い彈瘡。
 艦長附森少尉を洋上に目撃した兵がある。彼は濁流をのがれながらも、つひに還らなかつたのか。死をねがつて、過たずゆき着いたか。
 瘡が深かつたか。武裝が重かつたか。
 或ひは舷側で兵は救はうとし、鼓舞叱咤、その職に斃れ、その任に殉じたか。
 いかに彼、死に挑み、正對し、たゝかひ、それをかち得、かくして生をつくし生を全うしたことか。
 大和最後尾の機銃群指揮官、兵器が被彈して作動停止するや、部下の全員を砲塔下に集め、菓子を分け恩賜の煙草一本をのみまはしたが、何か心殘りあるかに思ひ、尿意だと氣付せ、一列にならび一齊に放尿した。そして總員肩をそろへ波濤の上に倒れた。だがかれのみ兵のさいごを見とゞけんと二、三歩おくれたためか、寸秒の間、ひとり微速に回轉するスクリユーに捲きあげられ、兵すべてを捲き落としつゝ、はからずも渦中から掬はれた。
「世にも恐ろしい巨大なものが眼前に迫つて、ハツト俺は氣を失つてゐた」と彼はいう。右肩から左脇腹に袈裟掛けに裂かれたが、武裝に守られて瘡も淺く、化膿を免れたのだ。
「朝潮」救助艇艇指揮「船べりに手をかけてどうしても離れん奴がゐるから引上げてやつたが、えらい苦勞した。」漂泊生還、數度におよぶ測的分隊長だ。しかも及ばす、治療室に運ばれたとき、すでに呼吸なし。人口呼吸二時間。
 よく蘇生はしたが、苦悶の状、なほ見るに堪へなかつたといふ。水中爆傷による胸腔壓迫だ。
 彼、半年前、驅逐艦先任將校として南海に轉戰したとき、集中爆撃を受けて撃沈されたが、甲板上にあらかじめ用意した筏を以てその乘員の大半を救出し、漂泊しつゝ僚艦を待つた。逃走中の海防艦に遭遇するや、これを横付けさせ、總員移乘してたゞちに戰鬪配置につき、みづからは艦橋にのぼり操艦および砲戰指揮を行ひ、氣魄と錬度とを以てよく危機を脱し歸投したといふ。剛睫氣鋭の彼、一觸人を斬り肺腑に迫る。
 八日、朝、一夜を睡つて體力は全く恢復したが、目が痛い。甲板に出て顏を洗ふ。陽光がしみる。
 内地の山の美しさに思はず嘆息をあげる。「やつぱり生きるのもいゝなあ」
 だがこの春陽の明色は、數なき死のかたはらになほ保たれたわがいのちを愧ぢさせるほど、かがやかしくはればれしい。
 大和の乘員總員集合。言ひ放つ副砲長。「貴樣らにはひと仕事したといふやうな色が見える。そんなことでどうするか。いまこそいよ/\貴樣ら古強者を必要とするのだ。すぐにでも俺について突つ込んでゆく。いゝか。」
 同夜から佐世保軍港外の病院分院に入り、傷の治療をうける。
 白衣の身、波近き病棟、花匂ふ夜、思ふこと多し。何か不甲斐なさに堪えず、病院長に願ひ出てとくにゆるされ、治療の途中から呉に赴き、新任地を求める。
 副長「より以上の死に場所を得る。それで何をいふことがあるか」。
 素志を達して、ふたたび特攻隊配屬となる。
 休暇を賜はり、電報を打つて故郷に旅立つ。――父上、母上、諦めてをられるかも知れぬ。よろこびの心構へをしていただかねばならぬ。
 家に着く。父、「まあ、一杯やれ」。母は――状差しに私からの電報を見つけた。文字が形をなさぬまでに涙ににじんだその一葉の紙。こんなに自分の死を悲しんでくれる魂のあることを、俺は少し忘れかけてゐはしなかつたか。一場の戰鬪に傲りかけてはゐなかつたか。頭の傷を、誇つてはゐなかつたか。内地の人の堪へてゐる生活の眞實を、少しでも汲まうとしてゐたのか。
 あの數日の體驗、この乏しい感懷が、死線を超えた實感なのか。
 さうじやない。
 俺たちは萬に一の生をも期することはゆるされなかつた。みづから死を撰んだんじやなく、死に捉へられたのだ。
 精神の死といはんよりは肉體の死。人間の死といはんよりは動物の死。
 これほど安易な死はあるまい。
 一瞬とて死に直面したことがあつたか。出港以來みづからを凝硯したことがあつたか。その間に、一刻の生甲斐をも感じ得られたか。
 俺を死との對決から救つたものは、戰鬪の異常感だ。また去りゆく者の悲懷、あきらかな祖國の悲運だ。
 ひるがへつて、あの報いられぬ無數の戰災の死を思ひ見たことがあるか。
 自分の周圍にあのとき、父が、母がゐたとしたらどうか。脱出の機會、生還の餘地があつたとしたらどうだつたか。
 悲慘な生活のうちに果てるとしたならどうだ。ただ値もない犧牲となると想へばどうだ。
 あの俺の位置に立つて、俺のごとくに振舞はぬものはあるまい。婦女子といへどももとよりしかり。
 必死の途はきはめて容易だ。死自體は平凡かつ必然だ。死の尊ふべきは、ただその自然さによる。大地自然が尊ばれるごとくに。
 しかり。死の體驗の故に俺たちを問ふな。あれは死じやない。いかに職責を全うしたかを、その行ひのみを問ふてくれ。
 俺は果たして分をつくしたか。分に立つて死に直面したか。いな、唯々諾々と死神に屈したのではなかつたか。特攻の美名にかくれて、死の掌中に陶醉したのではなかつたか。
 ほかでもない、薄行の故だ。
 俺は日常の勤務に精勵だつたか。一擧手一投足に至誠をつくしたか。一刻一刻に全力を傾けたか。
 しかしこの試錬を賜はつたのは何ゆえか。
 一たび死の與へられた幸運を謝すべきか。或ひはついに死を奪はれた僥倖を謝すべきか。
 間髮、幽明の岐路、暗鬪のうちに逆行すればどうだつたのか。俺を迎へたものは死か。あの忌まはしく貧しきものが死か。死か。
 思ふな。死はも早やお前にかゝはりはない。この時を、不斷眞摯への轉機となせ。
 死は身に近ければむしろわれより遠ざかり、生が完きとき初めて死に直面する。
 眞摯の生、それのみが死に對する正道。虚心。眞摯。――徳之島西方二十哩の海底に、埋積する三千のむくろ。かれら終焉の胸中はたしていかん。



底本:「軍艦大和」銀座出版社
    1949(昭和24)年8月10日 発行



●表記について