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23/08/2008

いまさら「旧過失論」に戻っていいの?

 京都弁護士会の矢部善朗弁護士は、2ちゃんねると同タイプの匿名電子掲示板も開設しています。そこでは、「くたばれ!新過失論」なんてスレッドまで立てられています。

 ただ、旧過失論が、予見可能性(+回避可能性)だけで過失を構成するのに対し、新過失論は、予見可能性(+回避可能性)+結果回避義務違反を満たしたときに初めて過失ありと構成する訳ですから、むしろ過失犯が成立する範囲を限定する機能を有しているのであって、その分、あそこに屯している医師ないし自称医師達にとっては望ましい理論といえます。まあ、「結果回避義務」という用語の文字面だけ捕らえて「医師に結果責任を負わせる気か!」と怒っているのかもしれませんが、新過失論で言うところの結果回避義務違反というのは、「基準行為からの逸脱」という行為の客観面を問題とするものであって、「犯罪結果の発生を回避しなかったら全て結果回避義務違反」という類のものではありません。彼らから肯定的に受け取られている「許された危険の法理」にせよ「信頼の原則」にせよ、旧過失論の枠組みでは出てこない話であって、これらの導入を希求しつつ新過失論を詛うというのはいかがなものかという気がします。

 実際、福島大野病院事件についていえば、患者の死亡という犯罪結果が発生しており、これと特定の医療行為との間に相当因果関係が認定され、かつ、上記犯罪結果の発生について予見可能性と回避可能性が認定されているわけですから、旧過失論でいえば、(業務上)過失致死罪は成立しているわけです。そして、福島地裁が被告人を無罪とした「肝」である臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反したものには刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合にほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならないとの部分は、逸脱の有無が問題となる「基準行為」(判決要旨の言い回しで言えば「刑罰を科す基準となり得る医学的準則」)の設定の仕方に関するものということができます。

 あそこは、私のような企業法務畑の弁護士ではなく、刑事畑の弁護士が関与されているのですから、わかるように説明して誤解を解いてあげればいいのに、と思えてならないのですが。

【追記】

 矢部弁護士とそのお仲間は「印象操作」という言葉を安易に使うのがお好きなようですが、「犯罪結果」というのは、犯罪構成要件の一要素としての行為の「結果」を表すのに、少なくとも刑法に関する議論の場では通常使われる言葉ですので、そこでけちをつけられてもなあという感じはします。

 また、ちゃんと説明している云々と言われても、例えば、fuka^2さんの上記スレッドの55番発言

一方、旧過失論では、「不注意で結果を予見しなかったこと」が過失とされています。
本件では、癒着胎盤と判明した時点で、剥離してもうまく子宮が収縮しなくて出血が止まらなければ死んでしまうことは、産科医として当然予見していたはずです。
そしたら、過失はありません。
って説明でOKなのでしょうか?普通に考えたって、犯罪結果を予見しておきながら、それを回避できるのに回避しなかった場合、「予見はしていたから無罪」ということにはならないことくらいはわかりそうなものですが(まあ、認識ある過失として過失犯に位置づけるか、未必の故意ありとして故意犯に位置づけるともかく。)。

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Notifié le le 23/08/2008 à 03:15 PM

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