http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127
駆け出しのときに阪神大震災にあって、はからずも「トリアージ」という現場に立ち会うことになった私としてはですね、人命を救ったり見殺しにしたりした実体験のとぼしい人に、たとえ話のネタでトリアージ云々言われるのはむかつきます。商売の仕方を間違えて客層がおかしくなった百貨店と、あの朝あの救急入口で亡くなっていった人とかあるいは救急まで運ばれることもなかった人とを同列に並べて、自分の話を解さない奴はナイーブだとか感情的だとか仰られてもねえ。いい気なものだと思います。 トリアージに関しては、まじめに正面から語るか、黙るかの、どっちかにして欲しいです。 あのとき救えなかった、というか、救う手をさしのべることもしなかったことにたいして、それを悪だと他者から糾弾されても理不尽だと思うけど、でも、全く正当だと言われてもなんだかなあと思うわけです。やっぱり救えなかったってのは、経営学にはともかくも、医学的にはどこか悪なんだろうと思います。悪なんだけど、でも必要とされる場所においては確かに実行せざるを得ない。でも、実行しなければならないからそれは善なのだという理屈にはならんように思います。 全く善とも言えず全く悪ともいえずの中途にじっとたたずんで耐えるというような経験はあまり経営学ではしなくてすむのかな。だとしたら経営学そのものがずいぶんナイーブな分野であるように思います。ちなみに医学の領域ではそう稀なことでもないように思うんですが。 そりゃあ私はあのとき下っ端だったしあの朝のトリアージを自分の責任で行うなんて立場にはなかったわけですけど、でも、あの朝以来、自分の中でなにか死んだような気はしてるんですけどもね。福知山線の事故の現場でご活躍だった救急の先生が、後に自ら命を絶たれたご心境も、むろんその一面のごく僅かなところではありましょうけれど、自分と共通のところがあるのではないかと拝察しています。 いったん手を染めてしまった医者には、心の内になにも陰影なくあっけらかんとトリアージを語ることは不可能なように思います。救えなかった人を悼む心もなしに純粋な技術論(「戦略」ってやつですか?)で語れる話題ではないのですよ。 Commented by yamakaw at 2008-05-24 00:07 投稿した直後に何ですが、見殺しってのはひどい表現だなと反省。トリアージ一般が見殺しだと言いたいわけではなくて、震災の朝に自分は多くの人を見殺しにしたんじゃないかという思いを未だに拭えずにいるという、私一人のこととして御解釈いただきたいです。 Commented by とおりすがり at 2008-05-24 01:29 x 「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね・・・」 名ゼリフだと思います。ハイ。 >全く善とも言えず全く悪ともいえずの中途にじっとたたずんで耐えるというような経験はあまり経営学ではしなくてすむのかな。 経営学的には「選択と集中」が基本だと思います。たとえばGoogleは検索技術に全資源を集中させ、Intelは半導体、特にCPUに経営資源を集中しています。だから強い。 日本企業は「あっちも、こっちも」と両方に手を出して、結局どの分野でも1番を取れずに共倒れになるケースが多いですね。「二兎を追う者は一兎も得ず」という諺の通り。(実際には十兎くらい追ってるんだけど。) どちらかを選択すべき時に選択しない、或いは決断を先延ばしにするのは最悪の経営判断と言えるでしょう。 Commented by 三宅 at 2008-05-24 02:18 x 以前からこちらのブログを拝読しておりました。現在、至らぬながら少しずつ、知的障害者の就労について調査研究を試みておりますもので、先生の文章を読ませて頂いておりました。ご覧頂いたブログのプロフィールにありますとおり、経営学の講師をしております。 この度は、浅い思慮でトリアージについて書いてしまいまして、申し訳ありません。ご指摘について、全く先生のおっしゃるとおりです。 Commented by 三宅 at 2008-05-24 02:18 x 自分はトリアージについてただ悪とも、全く正当とも、言えないと考えます。むしろ、学科の卒業生が医療福祉系機関に就職することが多い学科で、学生さんたちが将来「悪とも正当とも割り切れない行為についての判断」をすぐ近くで迫られる可能性もあるいはあると思いまして、それが割り切れないからこそ、「そういう『苦い』意志決定の可能性もある」ことを知っておいた方が良いのではないかと思いました。「善とも割り切れないけれども実行しなければならない」ことをいかに行うか、それについて考えてみることは、経営について論じる必須のプロセスでもあると考えますので。 Commented by 三宅 at 2008-05-24 02:19 x そのことと百貨店のはなしについては、受講者がいささか情緒的な感想に終始していることへの苛立ちが自分の講師としてのもどかしさとしてほんの少し類似していただけで、もちろん全く違うレベルの問題と思っています。ただ、時期的に近い期間に体験しましたもので、つい同一のエントリーで並べて書いてしまいました。ご気分を害されましたこと、誠に申し訳ありません。お詫び申し上げます。 弁解のようになりますが、自分はわざと感情を排してあっけらかんと災害について論じたがることに取り憑かれていたのではないか、と、ついさっき、 http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080523/1211556804#c のエントリーを読んでいて、気づかされました。改めて自分の愚昧さに情けなくなりました。 Commented by 三宅 at 2008-05-24 02:19 x >全く善とも言えず全く悪ともいえずの中途にじっとたたずんで耐えるというような経験 自分は、「生きる」という行為自体が、まさにこういう行為ではないかと思っています。しかし、生きなければ、とか、生きていたい、とも、時に感じます。そのときにもしそれを「いかにうまく耐え忍ぶか」という方法知を考えるなら、それが自分の考える経営学であり、「戦略」論です。 先生のご批判には、全く申し開きできません。お恥ずかしい限りです。申し訳ありません。自分を羞じます。 Commented by yamakaw at 2008-05-25 11:44 三宅様
早速の丁寧なコメント恐縮です。ありがとうございます。 お返事を頂いてみると、自分は「反論すること自体がポリティカル・コレクトネスに欠けるような立ち位置」からものを書いていたんだなと気づき、ちょっと下品だったなと反省しています。 また頭を冷やして改めてエントリを書きましたが、他意あってのことではないのでご容赦願います。今度は当方へのご意見を賜れれば幸甚です。
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