啄木の日記より
明治41年4月27日、
横浜の崎が見えだした。
船は防波堤の奥深く入つて、午後六時錨を投じた。
人々と共に二昼夜半の航海を終つて上陸、
正金銀行前の長野屋に投宿。
(横浜市長野屋旅館にて)
左茶色い建物が啄木の日記に出てきた
長野屋旅館があったと思われるところ
現在はホテルになっている。正面に見えるのが正金銀行。
以前から気にして見てはいたが
昨年暮、このホテルに2日続きで
しかも、一日5、6回も出入りすることがあり
何かのご縁かと今回横浜物語に登場してもらった。
翌明治41年4月28日
港内の船々の汽笛が、皆一様にポーツと鳴り出した時、
予は正金銀行の受付に名刺を渡して居た。
応接室に待つ事三分にして小嶋君が来た
現在の元正金銀行本店、現神奈川県立博物館の
正面階段
そして入口を入ったところの天井↓
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この廊下を啄木も?
そして
この階段を昇って応接室に?
相携へて程近い洋食店の奥座敷に上る。
披璃の花瓶には白いあやめと矢車の花。
夏は予に先立つてこの市に来て居た。
正金銀行の預金課長、紀行文に名を成して、
評論にも筆をとる此山岳文学者は、
山又山を踏破する人と思へぬ程、華車な姿をして居た。小嶋君が来たと書かれている人は評論家で山岳文学者の小島烏水。
啄木と烏水が入った洋食屋がどこだったのか
日記に書かれていないのでわからないが現在の馬車道
ある洋食屋の前
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牛馬飲水と書かれたこの水のみ場は
神奈川県動物愛護会と
社団法人帝国競馬協会からの寄付によるもの。このタイルが貼られた牛馬用水のみは
ここに最初からあったものではなく、
他所から持って来たそうだが
昔はあちこちにあったらしい。
午后二時発の汽車は予を載せて都門に向つた。
車窓の右左、木といふ木、草といふ草、
皆浅い緑の新衣をつけて居る。
アレアレと声を揚げて雀躍したい程、
自分の心は此緑の色に驚かされた。
予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却つて此緑の色の中に吸ひとられた。
やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。
三時新橋に着く
午後二時発の汽車!そう、啄木がこの汽車に乗った駅は
横浜ステンション!
1872年10月14日(旧9月12日)、新橋と横浜の間に日本最初の鉄道が開業
この時の横浜駅が現在の桜木町駅。
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今の桜木町駅に
鉄道発祥の記念碑がある。が
これに気づく人は案外少ないかも
創業当時の横浜駅
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啄木もこの駅舎から
新橋行き上りに乗ったはず。
汽笛いっせい新橋を〜♪
と歌われているけれど
ほんとは新橋・横浜間開通に先立つ明治5年5月
品川・横浜間で仮開業していた。
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記念碑に写されている明治5年の
←時刻表を見ると
「横浜発車」「品川到着」となっている。一日上り下り共に二本。
運賃は三等級に設定されており
上等一円五十銭、中等一円、下等50銭で、
非常に高額。しかし、
歩けば健脚でも7時間以上かかったところを
1時間足らずで運んでくれる陸蒸気
人々は驚愕しただろう。
啄木が乗ったのは明治四十一年
開業当時とはかなり事情が
違っていたと思われる。
この後横浜ステンションは東海道本線開通の便に合わせ、現在の横浜駅へと移転。
初代横浜駅は桜木町駅となった。
現在の桜木町駅はJR根岸線と
東京渋谷〜桜木町間を結ぶ東急線の桜木町駅が軒を同じくしている、いや、いた。