▲中戸町のグラウンドに仮設されたプレハブ園舎で集団保育(平成4年1月)
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12月いっぱい中戸公民館での保育になり、近隣の保育園やご家庭から机やいす、下駄箱、遊具等の戴き物で再開はしたものの果たしてこんな状態のところに大切なお子様を預けて下さるかとても心配でしたが、いつもどおり登園してきてくれる親子の姿と元気で明るい子ども達の声に安堵の胸をなでおろしました。
中戸公民館での園生活は約2週間程でしたが、朝早くから夕方遅くまで賑やかな子ども達の声が響き、隣家の奥村昭二郎さん宅では、さぞ喧しかっただろうと、申し訳なく思っていたら「ええんやで、気にせんといておくれやす、元気な子ども達でいいですがな」と笑顔で言ってもらって、本当にありがたく思いました。
年末に役員の皆さんがレンタル会社から手配していただいたプレハブの仮園舎を中戸町のグラウンドに建ててもらい、年明けから保育が始まりました。
子ども達の保育ができる最低限度の設備を整えようと板の間には善意の畳が百枚とストーブ、そんな中で保育をしてくれた当時の保育士さん達は物のない中、いろいろ工夫しての毎日は、大変だったと思いますが、笑顔で平常心でがんばってくれました。何よりそんな保育士さん達とかすが保育園を支えて協力して下さった当時の役員様方と保護者の方々なくして再建はできませんでした。
元の場所に新園舎を新築し、4月から園の再開を目指して工事に取り掛かってもらうことになったものの資金をどうするかで行き詰まり、いろんな人にも相談し工面に東奔西走の毎日でした。
子どもさんを預かっていた西澤哲さん(上中野町)が、再建に向けての資金繰りについてどう進めたらよいのか、何も分からない私達の相談に乗って下さり、幾つもの金融機関を廻って何とか貸してもらえるところが見つかり書類を準備した途端、理由も教えてもらえずに断られてしまいました。
▲多くの人々の支援で再建された新園舎(平成4年4月の入学式で)
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途方に暮れている私達を見かねた西澤さんのお父さん・鉄太郎さんが「ほな、わしが保証人になるさかいに」と言って下さり、他の金融機関に断られて相談に行った湖東信用金庫湖東支店長さんが「引き受けましょう」と支援していただいたお陰でようやく動き出すことが出来ました。後で「家の中には貯金通帳は何もないぞ。あるのは保険証書だけやぞ」とさらりと言った主人の言葉にはこたえました。
再建の新園舎建設は、火事から一ヶ月後の年明けから始まりました。建築は、園児の保護者でもあった馬幸富工務店さんに請け負って頂きました。社長の山本富男さんが園児の保護者でもあったという事もあって、儲けなしの費用で取り組んで頂きました。また作業には、仕事仲間の方々が休日返上で応援に駆けつけて下さり、そのお陰で急ピッチで新園舎が出来上がりました。
保護者の中には、勤めが終わってから労力奉仕に来て下さる方もありました。いろいろな人々の協力があり平成4年4月、新しい園舎での再出発ができました。
ただひとつ気がかりだった火災原因の究明は進まず、約3年後に「原因不明」という消防署からの通知で終結しました。納得は出来ませんでしたが、火災そのものを忘れたかったし、元気に通って来てくれる園児達が、辛かった思いを忘れさせてくれました。
再建はできたものの相変わらず無認可園のままで借金を返済しながらの経営は苦しく、町役場には何度か相談を持ちかけたものの方針は変わりせんでした。
それから9年後の平成12年、交替した県の保育行政の担当者が、かすが保育園の卒園児という奇遇が重なり、それはそれは親身になって将来の運営について相談に乗って下さり、その方の尽力により町もようやく重い腰を上げて下さいました。そして翌年3月30日、念願だった社会福祉法人・春日福祉会のかすが保育園として認められ、滋賀県で最後の認可保育園のない町(当時は愛東町)はなくなりました。
写真は何れも滋賀報知新聞社撮影
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町行政と新たな問題
文・文室 智惠子