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「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座 終了分報告

第13回
『なぜ、今、脱北帰国者の支援か 私の入管行政・30余年の歩みをふまえて』
 講師:坂中英徳さん
(前東京入国管理局長・脱北帰国者支援機構代表) 近著:『入管戦記』(講談社刊)

日時:2005年(平成17年)6月19日(日)13:00〜17:00
場所:ラポール日教済 (新宿区山吹町10-1 Tel:03-5228-2675)
司会:鈴木啓介
構成:原 良一(RENK&守る会&救う会&難民基金会員、集い呼びかけ人)
連続講座の第13回の要旨をご紹介します。
講演要旨―坂中英徳さん
第一部
私が活動を始めてから、予想以上に多数の取材を受けて驚いている。多く受けた質問が、何故在日の問題にこれだけ熱心に関わるのか? 何故在日韓国・朝鮮人と一緒にやるのか? ということ。
私は、終戦の年、昭和20年の5月に朝鮮半島で生まれ、戦後すぐに京都の片田舎に引き揚げて育った。そこにも在日朝鮮人はいたのは記憶しているが、意識したことはなかったし、関心も低かった。役人になったのもたまたまで、大学を卒業後、就職浪人でブラブラしていた時公務員試験に合格、たまたま配属された先が法務省の入管だったというだけのこと…。

在日二世以降を外国人扱いするのはおかしい…
私は71年(昭和46年)大阪入管の窓口に配属された。来訪者は在日ばかり、特に大阪では99%が在日であり、入管の看板を掲げていても実質在日韓国・朝鮮人だけが対象だった。

当時、在日韓国・朝鮮人には、14歳で本人出頭の義務があり、その2年後16歳で外国人登録で指紋押捺が課せられていた。一世の親に連れられて初めて入管に来る二世の少年、少女たちは、日本で生まれ育ち、ほとんど日本人と同じ、親とは顔、姿、物腰と雰囲気がまるで違う。赴任し、業務に就いてすぐに「こういう子供たちを、外国人として扱うのは酷なことだな」と直感的に不当性が理解できた。その後知る問題の重大性、複雑性を認識していなくても「彼らを外国人扱いするのはおかしい」と強く感じていた。

1970年代初めは、在日社会では日本は仮住まい、「仮の宿」とする帰国志向が強く、韓国籍向けに協定永住などの制度はあっても、民団でさえも定住の話はタブーだった。それでも、当時で既に在日の70%近くは二世以降であり、一世は少数派であった。

その頃、入管法の改正が議論され、改正法案作りに私も携わった。もっとも73年頃、国会に4回提出されてすべて廃案になってしまった。改正案には、政治活動の規制など問題のある条項があり、法的地位への配慮もなかったからで、民団、総聯とも猛反対で、特に総聯からは何度も集団での抗議を仕掛けられた。入省2〜3年の私も、抗議団との談判の矢面にも立たされ、腹が立って「文句があるなら対案を出せ」とやりかえしたこともあったが、相手は、その点に対して上部から答え方を指示されていなかった様子で、回答に詰まっていた。

「坂中論文」の上梓、波乱の人生の始まり
これらの経験を踏まえ、「在日韓国・朝鮮人問題の解決なくして、入管法の改正はありえない」を痛感した。75年に法務省の入国管理局発足25周年記念で「今後の出入国管理のあり方について」という題で論文の募集があり、400字詰め70枚の論考で応募した。望外で優秀作に当選し、幹部から公表化の提案も受けた。法務省に「外人登録」という機関紙があって、その77年6月号に資料を交えて掲載された。この「在日朝鮮人の処遇」という文章が「坂中論文」と呼ばれ、多くの議論を呼ぶことになった。

当時「日本朝鮮研究所」という在日韓国・朝鮮人研究について最も有力な団体があり、佐藤勝巳氏や多くのジャーナリストが在籍していた。同所で「岐路に立つ在日朝鮮人」という7、8回の連載特集があり、そこで私の「坂中論文」が批判された。

『入管戦記』を出版後、旧知の佐藤勝巳氏より400字詰め×60枚ほどの書評を書いたので、順次『現代コリア』に発表する」との連絡を受けた(「現代コリア」05.6月号より連載中)。佐藤氏は同文で「坂中論文は、日本政府の対在日政策を根本的に変革させた」と述べておられた。しかし坂中論文は、当初から総聯にボロクソに酷評され、民団からも批判されたが、民団は80年代に入って日本での定住志向に傾き、坂中論文に同調する傾向が出てきた。

坂中論文では、「在日韓国・朝鮮人の人々は、日本国籍を取って日本国民になるのが一番良い。そのためにも社会差別がないよう社会環境を整えよう」というのが主張の骨子だったが、総聯からはこれを「同化政策」として非難された。しかし、在日の人々の処遇の改善は、私のように将来日本国民になってもらう立場と、外国人として民族性を維持する立場の違いはあれ、いずれも彼らの日本での「定住を前提」にしており、帰国志向のままでは、処遇の改善に取り組む私たちにとっても力が入らないのも事実であった。

その「定住志向」の姿勢を、総聯から機関紙の一面を使って「坂中けしからん」と酷評されたりもした。ところが、酷評しつつも、路線転換を公式表明していなくても、いざ特例永住や難民条約による法改正が施行されると、総聯は、一転組織動員をかけて25万〜30万人もの会員に一挙に申請させた。85年頃から、一部の学者や運動家たちから「坂中の言った通りの方向になったな」と言われるほど、在日社会の定住志向は強まった。一方で私自身は、ことある毎にボロクソに批判されるのに嫌気がさし、次第に対外的には沈黙するようになっていった。その間、在日社会の側でも指紋押捺の問題などさまざまな動きがあった。

私は「対外国人政策は百年の計」であり、日本社会の問題であり、問題に取り組む主体は日本社会の側にあると考える。失礼ながら在日社会の側は、「けしからん、けしからん」と文句を言いながらも、「本国」の意向にも影響されてか主体的な対応がなされず、できず、流れに身を委ねているだけのように見える。

再注目された「坂中論文」
98年2月、仙台に勤務していた当時、民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)の代表だった李敬宰(イ・ギョンジェ)氏(現高槻むくげの会会長)より「坂中論文から20年経って、坂中さんの言ったとおりになってしまった。それなのに在日の側に危機感自体がない」と講演の依頼を受け、大阪府高槻市で「坂中論文から20年、在日はどう生きるべきか」という題で講演した。その中で、「このままでは在日は自然消滅する。50年は持たない」と発言し、在日社会に大きなインパクトを与えた。私自身は、自然消滅がいいとは思っていなかったが、上記の見解に基づいて毎日新聞でインタビューを受け、99年4月2日付の夕刊一面で「在日は自然消滅へ」のタイトルで掲載された。

帰国運動は、日本の政府や差別をした日本の社会の責任も大きいが、基本的には帰国者を受け入れた北朝鮮の問題であり、責任である。一説に9万3千人が還ったとされる帰国者は、最初の4〜5年で1万人が処刑されたとの話を聞いた。帰国運動当時、北朝鮮で帰国運動の実務の責任者だったある亡命者からは、「1万人どころではない、日本人妻の60%、帰国者全体でも30%が処刑または、行方不明になっていて収容所で獄死した可能性が高いとの見解を示されたとのことだ。

社会的差別も深刻で、帰国者の北朝鮮での成分(階層序列)は51段階ある内の48番目だという。帰国者で日本人妻など日本国籍を持つ者は、二重の差別を受けているとも聞く。帰国者は、本国で監禁状態にあるも同然で、本国政府からこれほど酷い目に遭わされた在外民族は聞いたことがない、北朝鮮だけだ。

 「帰国者問題の解決なくして、在日韓国・朝鮮人問題の解決なし」が私のたどり着いた結論である。


第二部
在日の主体的活動の不可欠性
今後、元帰国者の大量の再入国は必至であり、政府が対策に乗り出す前の中継ぎとして在日主体の活動が始まっていないと、国民の理解は得られない。被害者が声を挙げてもいないのに、彼らの支援に血税である国費の支出されるのを国民が受容してくれるわけがないからだ。

ある意味、帰国者親族の在日親族は、帰国者以上の辛酸を嘗めてきた。例に挙げれば、横田めぐみさんに対する横田ご夫妻と同じ立場である。現在、日本への再入国を果たした80人に対しては、関係したNGOは日本への受け入れだけで精一杯であり、入国後の面倒は到底ムリである。

平島筆子氏の北朝鮮への再入国は、同氏を孤立状態にするなど、現在の我々日本社会の力量不足を露呈するものだった。実態は、北朝鮮に残した親族をネタにしての脅迫による再度の拉致であり、北京の北朝鮮大使館での平島氏の「金正日将軍万歳」が、猿芝居に過ぎないことは日本人なら誰でもわかることだ。

日本はかつてインドシナ難民を約1万人、中国残留孤児を二、三世を含めて数万人単位で受け入れた経験がある。帰国者の再入国は、それよりさらに膨大な人数になる可能性があるが、在日社会という数十万単位の受け皿があるという有利な点もある。率直に言って、インドシナはともかく中国残留孤児の日本への再定住は失敗であり、多くの問題を抱えている。