シベリア抑留の記録・第3回(全4回)
民間人も捕虜に……、労働証明書なしの強制労働
シベリア抑留の中でも大きな問題は、本来は捕虜といえない捕虜の存在である。
ソ連占領地では日本軍将兵だけでなく、日本人の官吏、会社員、商店主など、民間人、それに満蒙開拓移民団の男子が、片っ端からソ連軍に捕まり抑留された。さらには日赤(日本赤十字社)看護婦、軍関係の事務職員だった女性たちも含まれていた。
日ソの停戦交渉では、ソ連は在留邦人の保護を行う了解が成立していたにもかかわらずの拉致である。これまで死者は、約6万人とされてきたが、民間人の死者を含めると少なすぎるという指摘があった。
近年、ソ連崩壊後の一部資料公開によって、実態が少しずつ明らかになりつつある。
日露双方の資料を突き合わせると終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民合わせて約272万6000人の日本人が居たが、このうち約107万人が、終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。
また、200万人以上(ワレンチン・アルハンゲリスキーの著作、およびダグラス・マッカーサー元帥の統計より)との説もある。
アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証──シベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4000人、行方不明・推定死亡者は9万3000人で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある。今後のロシア側の、積極的な資料公開と調査の進展を望みたい。
抑留ではないが、民間人の中には逃避行の最中、ソ連軍に襲われ、殺されたり、凌辱(りょうじょく)を受けた女性も多かった。
さらに、ソ連側が食料供給など保護措置をとらなかったことから、飢え死にした人も続出、東満州では避難路に延々と日本人死者の屍(しかばね)が放置してあったという。
中でも満州奥地から避難した開拓民たちは、避難しきれずに路中で集団自決したり、ソ連軍や匪賊(ひぞく)と化した地元民により、略奪、暴行、殺人、強姦(ごうかん)などの仕打ちを受けた。
これについて、内科医の西岡昌紀さんは自著「ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に」で、
「ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を破って、満州に侵攻した。そして、侵攻した先々で、子供や老人を含む、多くの日本の民間人を、無差別に殺戮(さつりく)したのであった。また、子供を含む、多くの日本人女性を、やって来たソ連軍の兵士たちは、至る所で、強姦(ごうかん)、輪姦(りんかん)したのであった。その際の悲惨な状況は、原爆とは形が違ったものの、この世の生き地獄と呼ばれるべきものであった」
「ソ連崩壊後も、日本のマスコミの多くは、なぜか、このソ連軍の満州侵攻による悲劇を、語りたがらない。若い人たちは、本書を含めた単行本をひも解いて、当時、日本の子供や女性が、ソ連軍によって、どれほどむごい目に遭わされたかを知ってほしい」
と記している。
私個人のことになるが、父が召集された後、終戦となり、避難先の日本人施設は、ソ連兵に襲われて時計、現金、宝石など財産といえるものは残らず奪われた。
その後、母は生まれたばかりの妹を背負い、4歳になった私の手を片手で握り、もう一方の手で持てるだけの荷物を持って奉天から脱出、大連に向け多くの避難民と徒歩で避難を開始した。
食料は、私が背負っていた岩塩だけで、畑のトウモロコシなどを食べて飢えをしのいだらしい。奉天から、200キロ歩いたところで、再び奉天に追い返された。その後、また奉天を南下、やっと無蓋(むがい)貨車に乗ることができ、大連の収容所に入った。
歩いて避難する途中、地元の満人から、私たち兄妹(きょうだい)を売れ、と迫られたそうが、母はダメ! と何度も拒否、私たちは残留孤児にならずに済んだ(以上の記録は、母の話をまとめたもの。私の記憶はほとんどない)。
占領軍であろうと一般民間人を、自国に連行して強制労働させる権利は国際法上存在しない。
ソ連の行為は、許されるものではない。
強制労働の理由は、労働力確保にあったとみられる。
ヨーロッパで対ドイツ戦勝利後のソ連は、働き手の多くを戦死させ、国土は荒廃していた。労働力がいくらあっても足りぬ現状にあった。そこでスターリンの命令によって、敗戦国日本の将兵と民間人を強制労働につかせたのだ。
日本だけでなく200万人とも、それ以上とも言われるドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、ポーランド、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも捕虜がシベリアに送り込まれていた。
このほかにソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていた。
強制労働の賃金などは、びた一文支払われなかった。
しかし、これはポツダム宣言の「日本国軍隊は、完全に武装解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」をはじめ、人道的扱いと労働賃金の支払いを明示したヘーグ(ハーグ)陸戦条約、1949年ジュネーブ条約に明確に違反している。
いくら労働力が不足しているといっても、戦後の強制労働は言い訳にはならず、共産主義を標榜(ひょうぼう)しながら大半は農民、労働者出身の捕虜を虐待したその罪は永遠に消えない。
ソ連以外の第2次世界大戦参戦国は米英、中国とも日本兵捕虜、民間人を船舶が手配でき次第、即時に日本へ帰している。
日中戦終了後、国民軍と共産党の内戦に入った中国では、困難な事情があったにもかかわらず共産軍(現・中華人民共和国軍)は自軍兵士よりいい食事を日本兵捕虜に与えた。
また国民軍は、個人計算カード(労働証明書)を発行。それに基づき賃金を支払った。
しかし、当時のソ連は、抑留者たちに労働証明書を発行しなかった。しかし、1992年以降からロシア政府は労働証明書を発行するようになった。
日本政府は、かって「労働証明書がないから、賃金を支払わない」という理由で支払いを拒否。労働証明書が出ても、日本政府はいまだに賃金支払いを行っていない。
中国国内で、共産党と戦っていた国民軍の蒋介石総統が「怨(うら)みを報いるに恩をもってせよ」と布告を出し、日本人の早期帰国をうながした。
また南方地域から帰還した元捕虜たちには、労働証明書に基づき、抑留中の労働に対する賃金が、大蔵省(当時)より支払われている。
ソ連だけが、捕虜を最高10年間も、奴隷のように酷使したわけだ。しかも、労働証明書も発行していない。
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対して賃金を支払っている。
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