シベリア抑留の記録・第2回(全4回)

日本に帰国後も、後遺症で約6万人死亡

松本 洋光(2007-07-03 11:50)
Yahoo!ブックマークに登録 このエントリーを含むはてなブックマーク  newsing it! この記事をchoixに投稿

 ソ連は、日本人捕虜を1000人程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。日本人捕虜たちはソ連兵から「ダモイ(帰国)」と言われ、ナホトカ経由で祖国日本に帰れることを期待していた。

 行き先は告げられなかったが、日没の方向から、列車は西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望した人が多かったという。

「生鮮食品の支給がまったくなく、ビタミン補給のため松葉を食べ、辛うじて生き残った」と語る鳥取県シベリア抑留慰霊碑建立委員長=鳥取県米子市の自宅で(撮影:松本 洋光)

 「シベリア送り」は、ソ連国内でも反革命分子とされた人間たちに課されたもので、ソ連建国当初から行われていた。

 日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、氷点下40度にも達する極寒の中で、厳しいノルマを課せられた重労働が待っていた。労働は鉄道建設、森林伐採、鉱山労働、農業など肉体を酷使するものだった。

 食事は、小さな黒パン一切れと岩塩スープといった過酷なもので、ある将校が、自分たちに出された食事のカロリー計算をしたところ、生存に必要な量の30パーセントしかなかったという。

 抑留期間は、2年から4年、長い人は10年も収容され、飢えと寒さの中で強制労働に従事させられた日本兵は次々と死亡。全体の1割に当たる約6万人が帰らぬ人となった(厚生労働省把握分)。帰国できた人たちも、三重苦の後遺症のため、帰国直後に次々死亡、ほぼ同数の6万人が犠牲になったと見られている。

 特に死亡者が多く出たのは、バム鉄道(バイカルとアムール地区を結ぶ第2シベリア鉄道)の建設、維持工事に駆り出された捕虜たちで、シベリア鉄道よりはるか北の北極圏寄りにあり、苛酷(かこく)な労役と極度の寒さ、栄養失調から倒れる者が続出した。死者が出るたびに、欠員補充が絶えず行われたため、死者数など実態は現在でも確認されていない。

 中でもタイシェットとブラーツク間では、鉄道沿線の両側に収容所がどんどん建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となった。死亡率60パーセントという悲惨な収容所もあったそうだ。

 バム鉄道が、今日あるのはひとえに日本人捕虜によるものと言える。捕虜たちに体力がないため、伝染病の発生もすさまじく、ヨーロッパ、ロシアでは事実上、全滅した収容所もあった。
 
 故・岡本輝雄さんは「MRジャーナル」に「シベリア抑留の生々しい記録」と題した遺稿を寄せている。一部を紹介する。

 「半ば餓死状態で死亡した兵隊たちは、一糸も纏わず遺体置き場に野ざらしにされた。それは、骨に皮がくっついただけのミイラのようであった。

 (中略)埋葬場はラーゲルから少し上の小高い丘を切り開いて作られていた。土は固く凍っているので、立ち枯れの木を伐採して運び、積み上げて一昼夜ほど燃やす。土が融けて軟らかくなったところを見極めて、素早く掘って死体を埋める。はじめは、一人ずつ埋められて、そこに立てられた杭に死体番号と名前が書かれていた。

 だが、このラーゲルに来て一カ月も過ぎた一九四六年(昭和二十一年)一月になると、死者の数は一日に十人を超えるようになり、一人づつ埋めていたのでは処理できなくなった。すさまじい収容状況だった」

 現在の北朝鮮・平壌で、捕虜になった元鳥取県議会議長の井上万吉男さん(米子市・全国強制抑留者協会常務理事)はこう言う。

 「私は、ウラジオストックに連行された。黒パン? そんないい食事は出たことがない。コーリャン、豆、燕麦(えんばく)の雑炊だった。ひどいときは、小豆の塩煮をひと月も食べさせられた。

 ほとんどの抑留者が重労働と食料不足により栄養失調になった。中でも青物、野菜は一切支給されず、ビタミンCの不足から体中に紫色の斑点ができ、1人歩きもできない状態となった」

 炊事班長だった井上さんは、「収容所近くで、青物は松葉しかないことから、松葉を採り、雑炊に入れて、皆に食べさせ、やっと斑点が薄くなった」と語る。

 シベリアの収容所では、あり合わせの材料でその土地の状況に合わせて作った粗末なものが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた収容所跡地、ロシア人の囚人が入っていた刑務所の利用もあった。

 日本人の抑留者たちによって作られた収容所建物は、立て穴式、半地下式、盛り土箱型が多く、工場近辺では家屋型もあった。既存の建物は、将校収容所に当てられた。建物の中は、立って歩けないほど低いものから、2段、3段の蚕棚式まで種々雑多だった。

 私の父もシベリア抑留兵で、満州・奉天(現瀋陽)で税務署に勤めていたが、終戦間際の根こそぎ動員で召集され、満鮮国境(満州と朝鮮)の守備についたところで敗戦となり、ヤクーツク自治共和国のウランウデで強制労働を強いられた。

 極寒、重労働、飢えで「あすは○○が死ぬぞ」と言われる状態の中でも、なんとか生き延びて帰国できた。しかし、三重苦の後遺症から10余年後には死亡した。

【参考文献】
『シベリア決死行』(岡崎溪子著 アルファポリス出版)
『季刊鳥取』(2006年秋冬号 季刊鳥取社)
『流転の旅路~シベリア抑留記~』(佐々木芳勝著 自家本)
『シベリア抑留記 凍てつく青春』(上口信雄著 新樹社)
『検証 シベリア抑留』(W・ニンモ著・加藤隆訳 時事通信社)
『ソ連が満州に侵攻した夏』(半藤一利著 文春文庫)
『ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に』(西岡昌紀著 文藝春秋)
『失われた青春 私たちの終戦』(鳥取県倉農語緑会編)
『平和の息吹』(戦後50年記録誌 鳥取県西伯町発行)
※そのほか、新聞各紙

【参考にしたシベリア抑留関連サイト】
戦争に捧げた青春~ベリアを生き抜いて~
※青森県・白井信三さんのホームページ
旧ソ連抑留画集
※元陸軍飛行兵・木内信夫氏のホームページ。抑留中のエピソードを明るいタッチの画で表現している
シベリア抑留は捕虜であった
※1997年11月28日、内閣衆質141第9号により、日本政府の見解として



松本 洋光 さんのほかの記事を読む

マイスクラップ 印刷用ページ メール転送する
41
あなたも評価に参加してみませんか? 市民記者になると10点評価ができます!
※評価結果は定期的に反映されます。
評価する

この記事に一言

more
評価
閲覧
推薦
日付
行雲
63
8
07/03 17:57
65
10
07/03 17:34
行雲
72
9
07/03 13:13
タイトル
コメント

オーマイ・アンケート

2008年北京オリンピック、日本の金メダル獲得数を予想しよう!
OhmyNews 編集部
15個以上
10~14個
5~9個
1~4個
0個

empro

empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです
»empro とは?