無事、日本に帰ってくることができた。
もう帰れないかもしれない、とも思っていたので
ある意味では幸運だったのかも、とも思う。
今回は旅行のことを書こうと思う。
旅は公美の友達で、ケルンの音大に通いサックスを勉強している
栗本純子さんという方のレポートを見たのがきっかけだった。
そのレポートの中では公美がドイツのケルンという街で
元気でがんばっているさまがいろいろ描かれていた。
公美の写真も小さかったが久しぶりに見ることができた。
人生にあらゆる意味で行き詰る中で、
ずっと会いたかった公美がケルンにいるということがわかって
とってもうれしかった。
いてもたってもいられなかった。
すぐケルンをたずねていくことを決めた。
数日中には日取りを決めて、飛行機を取った。
また先ほどのレポートを書いた会社に連絡を取ってみたら
レポートの執筆者、栗本さんに連絡を取ることもできた。
またネットで公美の学校の場所などを調べて、
その近くのホテルを手配した。
飛行機はオランダのアムステルダム経由の便になった。
ケルンまでは直行便はないので、
フランクフルトとかウィーンなどを経由していくのだけど
いろいろ調べているうちにKLMという航空会社のホームページが
とてもよくできていて、格安運賃でチケットを取ることができた。
HISなどの旅行会社を通すより、
正規チケットで便や席が確定するメリットがあるうえに
空港利用税などが安いので総額では安かった。
ビザも何もいらないので、パスポートだけあれば何の届けもいらない。
うちにいながらに海外旅行の準備ができる。
それから荷物を整え、ガイドブックなどを購入。
だけど、この旅行のために新しく買ったのはガイドブック1冊。
そして有り金全部もって、
公美に会うまでは日本には帰らない覚悟で旅に出る日を迎えた。
14日(水)日本からアムステルダムまでは約11時間。
時差の関係で行きは昼ばかり。帰りは夜ばかりという感じだ。
日本をちょうど昼12時ごろに離陸して、アムステルダム経由で
ケルンに到着したのは夜の10時くらいだった。
初めてドイツの鉄道に乗って、空港駅からケルン中央駅まで移動。
ライトアップした大聖堂がぼくを迎えてくれた。
駅からホテルまでは歩いて5分ほど。
ホテルではたどたどしい英語でなんとかチェックイン。
毛布を借りたり、朝食の案内を聞いたり、なんとか落ち着けた。
ホテルはシンプルでこじんまりしているけど
家族経営でフレンドリーな感じ、きれいだし、悪くなかった。
15日(木)事実上ドイツでの初日。
でも街はカーニバル一色で、中心街は人、人、また人。
店も博物館もみんな閉まってる。
カーニバルがすごいとは聞いてはいたが、
街全体がこんな一色になるとは思ってもいなかった。
これではケルンの街の観光は無理だと思った。
まず地図をゲットして、日本で調べていた情報をもとに公美の学校を探索。
なんとか見つけるもここもカーニバル休暇。
しかたなく、すぐそばのライン川を散策したり、
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(川底に黄金が眠っているという伝説のあるライン川)
見つけたネットカフェでメールを見る。
日本語の入力はできないが読むことはできるし、ローマ字でメールの返事を書いた。
キーボードがドイツ語用なのがおもしろかった。
アルファベットの配列が違い、ドイツ語専用の文字のキーがある。
日本の友達からのメールは不安な海外で励みになった。
その後はすることもなく、公美の友達でもある純子さんにも電話が通じず
食べ物などを仕入れて早くホテルに戻って休む。
このまま、何もできないでドイツでの日々が続くのでは、と不安だった。
16日(金)この日はカーニバル期間中ではあったけど、比較的平常に近い日で
公美の学校も開いていて初めて中を探索したけど
公美の情報は手に入らなかった。
受付で尋ねるのはまだちょっとこわかったし、学生もほとんどいなかった。
はじめて公美の友達、純子さんと電話が通じるもこわくて公美のことはきけず。
ドイツについてのいろいろな情報を聞くにとどまった。
午後からはボンの町を訪ねる。
ボンに向かう鉄道の中で日本の女性に出会っていろいろ教えてもらう。
デュッセルドルフには日本人がたくさんいるという話などを聞く。
ボンではベートーベンハウス(ベートーベンの生家)などを見たり
ミュンスター大寺院、ボン大学、ライン歴史博物館などを見学。
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(写真はミュンスター大寺院)
広場ではくだもの、花の市場などが開かれ
屋台でくだものの食べ物をいただいたりもした。
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真琴さん(未出だと思うが、自分の長いメールフレンド、高校生)や
こっちゃんなどに絵はがきを書く。
17日(土)この日は公美の学校に行くも案の定休みだった。
街はカーニバルで相変わらず騒々しいし、今までの情報を総合して
日本人が多いというデュッセルドルフの街に向かうことにした。
ガイドブックによるとイマーマン通りというところに
日本人街があるということで歩いていくとさっそく日本語の看板が。
日本の本を取り寄せている書店で、店員さんに聞くと
とりあえず日本人会館に行ってみると良いとのこと。
会館の中は日本と変わらない雰囲気、
とりあえず中の日本食レストランでごはんをいただく。
安くて、日本茶がとてもおいしかった。
掲示板には日本人むけの情報が書かれ、音楽教えますなどの文字も。
受付で話をしていると、ちょうど囲碁将棋の会がこれから開かれるとのこと。
会館の上に特別に上げてもらって、会に参加した。
最初は囲碁しかできる人がいなかったので囲碁をやったが
あとから将棋ヨーロッパ選手権3位になった人なども訪れ、将棋も始まった。
ドイツの方に詰め将棋なども出してもらい、結局日が暮れるまで将棋をした。
帰りにいろいろ迷って、いったんは駅まで帰ったがやはりと思いなおして、
日本人会館に戻って受付で公美のことをいろいろ訪ねてみる。
留学生は日本人会には入らないことが多いのでまったくわからないとのこと。
囲碁将棋会の人が大変楽しかったということで
困ったことがあったらなんでも相談にのってくれるということで
とっても気持ちがありがたかった。
デュッセルドルフの駅のレストランで初めてドイツのソーセージをいただく。
ソーセージとジャガイモの炒め物と、サラダの一皿。
それにケルンとは違うデュッセルドルフの黒いアルトビール。
値段も高くなく、とてもおいしかった。いい店でおいしかった。
帰りのケルン行きの快速電車は本当の満員電車。
ケルンのカーニバルに向かう連中なので、仮装に放歌。
電車は遅れに遅れ、時間がかかり、途中停車もするし
まあ、どうなることかと思ったが、何ごともなく、ようやくケルンに着く。
18日(日)この日はバイロイトに行くと決めた。
前の日の晩にいろいろ考えて、日曜はどうせ学校も休みに決まっているし
小さいころから行ってみたいと思っていたバイロイトに行くのは
一生のうちにこの機会しかないと思ったのだった。
中学のころ、初めて買ったCDが「展覧会の絵/禿山の一夜」で
2枚目がたぶん「カルメン/アルルの女」
そして3枚目に買ったのが「ニーベルングの指環」(ハイライト盤)だった。
ショルティ指揮、ウィーンフィルの名盤中の名盤と言われたCDだった。
ヴォルフガングヴィントガッセン、ハンスホッター、ビルギットニルソンなど、
往年の名歌手が勢ぞろいのすごいCDだったのだ。
深遠なストーリーに、壮大な音楽に歌。
このCDを毎日、早起きして聞いていた。
このCDだけではあきたらず、ハイライト版を中心に何種類も
「指環」CDを買って聞いた。
もちろんほかのワーグナー作品も聞くようになっていった。
さらには当時大枚10万円ほども払って、全曲の
LD(レーザーディスク、今はないディスクの規格)を買ったのだった。
バイロイト祝祭劇場で収録されたブーレーズ指揮、シェロー演出の「指環」。
ワーグナーを聴きながら、こども心には指揮者になりたかったとか、
バイロイトの音楽祭に一生のうちにいければと思ったりもしたのだった。
ケルンからバイロイトまではガイドブックによれば
片道5時間ほどで日帰りでいけるギリギリの距離だった。
朝6時半に起きて、7時には朝食をいただき
(ホテルの食事はいつも同じでパンのバスケットに、
チーズのお皿と、ハム、サラミ、ベーコンの皿、ゆで卵1個にヨーグルト)
そのまままっすぐ駅に向かったのだった。
直近のミュンヘン行きのICE(Inter City Express =超特急)
に乗りニュルンベルクまで行き、そこで乗り換えになる。
ICEが街を出ると郊外は農園なども広がり、
日本の北海道に似た景色だと思った。
長い移動のあいだじゅう、頭の中ではニーベルングの指環の
壮大な音楽が鳴り響いていた。
禁断の恋に生きて、神の裏切りに倒れる悲劇の英雄
ジークムントとジークリンデの運命に涙を流した。
ニュルンベルクでは乗り換えの待ち時間が50分近くあったので、
行き帰りに少し街を見ることができた。
ヒトラーが愛したこの街は本当にドイツらしい街で
昔の城砦がそのまま残っている感じだった。
日曜日なので閉まっている店が多く、これがヨーロッパなんだと思った。
バイロイトへのローカル線は電線がなくてディーゼル。
4両編成が途中車両が別れて2両づつ別方面に向かうのを
ドイツ人青年の車掌が親切に教えに来てくれて、無事にたどり着けた。
バイロイトの駅についたのは13:51分。
天気は晴れ渡り最高。
すでに昔映像で見たとおりの祝祭劇場(フェスティバルハウス)が見える。
息をはずませながら、駅から祝祭劇場までの坂道を登っていく。
そして14:10分ほどにはたどり着いた。
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しかし受付を訪ねると、すでに入り口の扉がしまっており、
しかも案内の表示によると劇場内を案内してくれるガイドツアーは14時が最後。
中に人がいるのが見えるのだけどどうしても入れてはくれない。
しばらく粘ったが、扉が開かれることはなく結局あきらめることになった。
はるばる訪ねてきたのに、とても残念だった。
祝祭劇場のステージや客席、建物の中をじかに見て
地下に潜っていくような特殊な仕組みになっているという
オケピットを自ら見てみたかったのに。
不満を抱えたままタクシーで、
ヴァーントフリート荘(ワーグナー博物館=住んでいた家)を訪ねる。
中でバイロイト音楽祭の貴重な資料などを見る。
実際に音楽祭で使われた資料などもあったし、
音楽祭の記念絵はがきがタダでたくさんもらえたので、まあ機嫌を直す。
ついですぐ隣の作曲家フランツリストの家を訪ねた後、
歩いて駅まで戻ることにした。
ところが道に迷う。
道を尋ねようにもドイツの中でも田舎なので、英語もほとんど通じない。
身振り手振りで聞きつつ、駅を探すが、時間は迫ってくるしあせった。
列車に乗り遅れると、その日のうちにケルンに帰れない。
迷っているうちにラマダホテルがあるのを発見。
この一流ホテルならよもや英語が通じないことはないと思い。
「I'm ・・・・Lost」というと受付の人は大笑い。
でもタクシーを呼んでくれて、列車発車の2分前、なんとか間に合った。
帰りのICEは混んでいて指定が取れないほどだった。
ニュルンベルクでソーセージをいただき、
夜の10時半過ぎなんとかケルンに帰り着くことができた。
長くてハプニングの多い一日だった。
19日(月)この日は「バラの月曜日」と呼ばれる、カーニバルの最後を飾る大盛り上がり。
昼間から音楽が鳴り響き、人々の8割は仮装という感じ。
半分は酔っ払いでケルシュビールのビンを持ち、
地面には割れたビール瓶の破片があちこちに散らばっている。
立ちションしているドイツ人まで見かけた。
ケルンの中心街はパレード行進のための交通規制がひかれていた。
することもないのだけど、何もしないで一日をすごすのはもったいないし
帰りのチケットが取ってある21日が近づいているのであせりもあった。
それで、ついに考えていた作戦のひとつを決行した。
スケッチブックに
「飯塚公美さんを探しています。
I find ”KUMI IITSUKA”.
She is student of Koln music university.
I'm from JAPAN.Please Help me.」と日本語と英語でマジックペンで大書して、それを持って回る作戦だ。
原始的な作戦だけど、何もしないよりもマシだと思った。
何人かの人が反応してくれた。
黒人の少女がケルン音大までの道を案内してくれた。
ぼくが探していたのは音大そのものじゃなかったけど、
彼女の親切はうれしかった。
その後何かできることは何かあるかと考えたら
日本人が立ち寄りそうな市内の日本食レストランを回って
情報を集めることくらいしか思いつかず
スケッチブックを掲げながら、仮装の群集が集まる中心街を歩き回った。
すざましい人ごみだった。一度だけ酔っ払いのドイツ人に
「こんにちは」と日本語で話しかけられた。
わかる限りの4軒の日本料理店を回ったが、カーニバルで全部閉まっていた。
何キロも歩いて疲れ果てて、何も得られなかった。
地下鉄を使ってなんとか中央駅まで戻った。
日も暮れたので、駅でチキンの丸焼きを食べて、ホテルに帰って、
あとはひたすら詰め将棋を解いたりポケット将棋盤で棋譜を並べた。
カーニバル明けになる火曜日に勝負をかけるよりないと思った。
20日(火)この日は盛りだくさんだった。
音大はカーニバル休暇も明けて開かれていた。
例のスケッチブックを掲げながら、受付で尋ねてみたら
受付のおじさんは公美のことを知っているとのことだった。
電話番号や住所を尋ねたが、教えられないということだけど
でも受付の人は親切でかわりに日本の留学生が
練習しているホールを教えてくれた。
そこで日本人留学生の佐藤さんに会って、
公美の別の友達の電話番号を教えてもらってかけたり探索を続けた。
特に福田さんという方が親切で、
彼女がほかの日本人留学生に引き合わせてくれたおかげで
たくさんの話が聞くことができた。
公美が半年間のドイツ語語学コースにいたこと、
その卒業試験に受かったこと、
そして4月の新学期が始まるまでのあいだ
日本に帰ったのではないかということ。
さらに4月からはアーヘン校に移るかもしれないこと、
そのため引越しする可能性もあるということ、
そんなことがわかった。
また佐藤さんが公美に
「いつも一緒にいるけど、白子くんという人とつきあっているの?」
と聞いたら「違う」と答えた、という話もしていた。
公美がドイツで実際にこっちでがんばっていることがわかったし
ついに公美の電話番号もゲットすることができた。
もちろんかけてみたが、通じなかった。
誰がかけても通じなかったので、おそらく日本に帰ったことは
間違いないことだと確信を得られた。
このことはぼくに少し安心を与えた。
ずっとドイツにいて探し続けないといけなくなるかもと心配していたからだ。
実家に帰っているとわかっただけでもケルンにきたかいはあったという気もした。
日本に帰る口実が見つかったということもあったのかもしれない。
留学生たちといろいろ話をして、
その日の晩クラシックのコンサートがあることを知った。
佐藤君という留学生と聞きに行くことにした。
ほっとして、学校からすぐの場所にあるホテルにもどっていると
休んでいるのは時間がもったいないと思った。
行ってみたかった「テルメ」という施設に行くことにした。
ここはプールと温泉、サウナを一体にした日本でいうところの
クアハウスみたい感じのところらしい。
もう夕方5時すぎていたが、
8時からのコンサートに間に合うように急いでタクシーで向かった。
テルメは大きくて豪華な施設だった。
料金も2時間12ユーロと高く、また別途タオルや水着を借りた。
でもプールは快適だったし
(海からは遠いはずなのに少し塩分を含んだ水だった)
露天部分からは夕暮れになずんだライン川や街並みも見られた。
温泉は暖かかったが日本人の感覚ではちょっとぬるかった。
休憩室はお香がたかれ、マッサージもある。
(受けたかったが時間がなくてできなかった)
そして、問題はサウナ。
ドイツのサウナは男女ともに素っ裸で入ることになっているからだ。
昼には日本人留学生の女の子がドイツ人の彼氏とその友達に
うまく乗せられて脱いだという話をしていた。
サウナゾーンは原則、裸。
でも実際はタオルやガウンなどで体を隠していた。
しかし、サウナの中だけは本当の裸だった。
老若男女、たくさんの人がいた。
金髪のドイツ人の女の子でも下の毛は黒かった。
サウナのプールは裸で泳げ、気持ちよかった。
夫婦やカップルも多かった。
公美と一緒にこんなところに行けたらどんなにすてきかと思った。
気持ちのよい水を浴びて、魚のように泳いで、
そして公美の美しい体を心ゆくまで眺めてみたかった。
テルメからタクシーでコンサートに向かった。
ライン川にかかる、ドイツ橋を渡ると大聖堂が美しくみえる。
コンサート会場は大聖堂のすぐそばのホールと聞いた。
清掃の人々がカーニバルの後片づけをそこかしこでしていた。
道に迷ってコンサートには少し遅れてしまった。
自分の服装があまりフォーマルでなかったせいか
(公美が誕生日に贈ってくれた革ジャンとシャツだった)
受付で戸惑われたがなんとか入れてもらえた。
ケルンフォルハーモニーホール。
すばらしいホールだった。
自分が今まで見た中でもっともすばらしいホール。
ソロのピアノやバイオリンがこれほどまでに美しく響くものかと
おどろかざるを得なかった。
ホールの力なのか、演奏者の実力なのか、それとも楽器がすばらしいのか。
知っているチャイコフスキーのピアノコンチェルトが演奏されて
ドイツまで来て知っている曲を聞けるとは思わなかった。
2曲目の「皇帝」は初めて聞いたが、すごい迫力だった。
指揮者もハゲ頭のオヤジだが、すごく魅力的だと思った。
帰り道、駅前のスタンドで、残っていたソーセージを食べて
ケルンでの最後の晩は更けていった。
ホテルに戻るともう会わないだろうご主人(夜番)が
キャンディーをたくさんくれた。
挨拶だったのだろう。
21日(水)ドイツ最後の日。
ケルン空港を10:55発の飛行機なので、朝は急ぎだった。
毎日同じホテルでの朝食も最後となった。
ホテルの奥さんにチェックアウトを告げると、
奥さんは手を取って握手してくれた。
ケルンにまたきたら、ぜひうちにきてくれと。
自分はだんなさんによろしくと伝えてもらってホテルを後にした。
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KLMの「CITY HOPPER」というプロペラ機で(写真は行きのときのもの)
ケルンを飛び立つと(高度が低いので)ドイツの街並みがよく見えた。
公美に会いにこんな遠くまできた運命を思い、
旅のできごとを思い涙が止まらなかった。
アムステルダムに着いてからは、待ち時間があったので空港ですごした。
行きのときは全てに余裕がなくて、ひたすら時間をつぶしたが
帰りは一応の目的を果たしたので少し気持ちに余裕ができた。
空港内の「オランダ無敵艦隊展」を見学してきたり
カジノで遊ぶ余裕もできた。
最新式のスロットマシーンがいろいろな仕掛けがあって
とってもおもしろかった。
2時間ほど遊んで、20ユーロくらい負けた。
帰りの飛行機の中はずっと夜だったが、あまり寝られなかった。
日本が見えてくると新潟の海岸線がくっきり見えた。
ドイツではついに一度も見ることのなかった雪が積もっていた。
(ドイツのほうが暖かかったし、天気も旅行中ずっと晴れだった)
茨城上空も飛んで、鹿島灘の海岸線も見えた。
きっとこの視界の中のどこかに公美がいるはずだと思った。
飛行機は無事に成田に到着した。
ぼくにとっては最後かもしれない大きな旅だった。
ちょっとした冒険の旅だったとも思う。
帰ってこれないかもしれないと思って旅に出た。
ドイツで死ぬこともあるかと思っていた。
公美の情報もほとんどなく、会えるかどうかもわからないまま
言葉も通じないし、不安だらけだったけど
公美に会えることだけを願って、勇気をもって出発した。
がんばれば、きっと道は開けると信じた。
公美に会えなかったことは限りなく残念だったけど
そのときそのときでできることをがんばってやってきた。
公美のおかげで、こんな遠くまで旅にでることができた。
あこがれのバイロイトやドイツを旅してくることもできた。
いつもぼくに勇気や励ましを与えてくれる公美。
心から愛している、という思いを深めることができた。
このたびでお金も本当に使い果たし、
来月のカードの支払いにも困るほどだけど
今日はぼくの誕生日だし、来月には公美の誕生日になる。
二人がつきあっていた、運命の季節。
きっと来月には公美に会うつもりだ。必ず会う。
人生の大きな決着をつけたいと思っている。