2006年 11月

赤旗名人戦全国大会を終えて [2006-11-15 03:00 by shigeshogi]
今日は赤旗全国大会 [2006-11-11 07:30 by shigeshogi]
はじめてのデート 後編 [2006-11-09 00:21 by shigeshogi]
はじめてのデート 前編 [2006-11-08 00:12 by shigeshogi]

赤旗名人戦全国大会を終えて

赤旗全国大会は前日までの熱も下がって
まあまあの調子で迎えることができた。
将棋も立ち上がりちょっと不安定だったものの
指しているうちに調子が上がっていき
予選を2連勝で通過し本戦に入ってからも連勝で
当初の目標であった1日目突破(ベスト8入り)を果たすことができた。

2日目は沖縄で昔よく将棋を指した、禰保君と。
彼は将棋推薦で立命大に入り、
ネットでは2800を超えていたこともあるという話だが
長い将棋では普通に勝機があると思っていた。
むしろ自信があった。
しかし、序盤の作戦で研究をはずされ、
また勝負所で大局観を誤って自滅してしまった。完敗。

自分は昔からスロースターターで1局目がちょっと苦手ということもあり
さらに9時半対局開始という早いスタートの中で
コンディションつくりもイマイチで十分な内容の将棋が指せなくて
応援に来てくれた友達にも申し訳なかったと思う。
禰保君とはまた大きいところで戦いたいものだ。

自分は晩学だったのに、よくぞここまでこられたと思う。
若いから勝てるだけの未熟な奨励会のこどもや
弱いくせに女だからという理由でちやほやされる女流をみていると
小さいころから将棋に取り組めていたら・・・と思うことも多いが
それでもここまでこれたのだから、自分的にはがんばったと思う。
自分にはもう少し強くなる余地があると思うが、
それにはいま少しの時間とお金と、
ぼくを助けてくれるすてきな女性の存在が必要だろう。
たぶん、それは手に入らないと思う。
自分はもうダメだと思う。


大会終わった後、友達が6人集まって、打ち上げ。
終バスまで将棋を指したりしていたら
やはり連日の無理がたたったのが、翌日発熱、まったく動けなかった。
今日は少しマシになって、家事などをすることができたがなかなかよくならない。
人生全般、すごく問題が多い状態で、なかなか解決しない。
将棋も今度の朝日の予選で一段落になりそうだ。

前回に引き続き、昔書いたものを紹介して、終わりとしたい。

************

「沖縄レーティング」16号 当時沖縄でレーティングを用いた研究会を行って
その会報を発行していましたがそのときのものです)を2,3アップしようかと
思います。

 エッセイ「はじめての将棋」

 最近は羽生七冠効果、「ふたりっこ」効果ということで将棋ブームと言われて
いるが、私が小学校のころにも実は将棋ブームといわれた時期があった。その立
役者は谷川浩司現名人竜王であった。谷川新名人が誕生したのが私が10歳の時
でそのころはその余波で今のように将棋をやることがちょっとブームになったよ
うだ。私より2、3歳ぐらい年上の人たちがその影響を一番受けた人たちで上は
羽生4冠王、佐藤八段、森内八段などのチャイルドブランドとかつてよばれた昭
和57年奨励会入会組、アマチュアでも菊田裕司さん、桐山隆さん、渡辺健弥さ
んなどそうそうたる人たちがみなこの年齢だ。我が沖縄将棋界を振り返ってみて
も、普久原安さん、吉本健次さん、玉城司さん、具志堅竜大さんなどがいてその
ほかにもこの世代で将棋を指す人たちは多い。
 当時はそうと気がつかなかったが、そのような社会全体の将棋ブームに影響さ
れ私の通っていた小学校でも私が2年生ぐらいのころ「回り将棋」を中心に将棋
ブームがおこっていたと思う。そのころの私にとっての「将棋」というのは「回
り将棋」のことで、例の金を4枚振るヤツである。学校で覚えた回り将棋がすっ
かり気に入った私はうちに帰ってさっそく「将棋、うちにあるぅ??」と訪ねた
が、家族は誰も将棋をやらなかったのでうちにはなく、次の日曜日に父親と近く
の文房具屋さんに行って買ってもらったのであった。
 盤は折り畳みの板盤でいくらのものかわからないが、安いものではあったはず
だ。駒はプラ駒で今も将棋連盟の売店でプラ駒(上)、千円也となっているもの
である。この駒は将棋会館道場や那覇将棋クラブで使われているものでよくある
普及品だが、当時は500円だったようで値札のシールが貼ってあった。それら
を買ってうちに帰ってさっそく「将棋をやろう」いって金を選び出すと、父親は
「それは本当の将棋じゃない」といって相手をしてくれず、「これが本当の将棋
だ」といって将棋の指し方を駒の並べ方からはじめ、動かし方、そして詰みの概
念・・・といっても頭金ぐらいであったが、などを教えてくれたのであった。
 駒のひとつひとつの個性的な動きが新鮮でおもしろかった。すぐに飛車が大好
きになった。(それは今でも続いているが。)駒の裏に崩し字で書かれた「龍王」
「龍馬」などの珍しい字に興味をもった。頭金がどうして「詰み」なのか、3回
説明されてやっと理解できた。それから2枚落ちで2番ぐらい教えてもらったよ
うな気がするがまったく勝てなかったような覚えがある。父は教えながら指して
くれたのだが、父の棋力は2年ぐらい前、2枚落ちでいい勝負ぐらいだったので
初段近くはあるはずだから、覚えたてのころ勝てなかったのは当然だ。
 翌日学校に行って一番仲のよかった友達に「オレ、将棋盤を買ってもらったん
だゼ。『本当』の将棋だって知ってるんだゼ。」と自慢をしたら敵もさるもの、
彼も将棋盤と駒を買ってもらっていて将棋のルールを父親から習っていたのであ
った。そして早速その日帰った後、彼のうちに行って将棋で勝負することになっ
たのである。さあ、初めての勝負だ。これは負けられない!!
 彼のうちには当時毎日のように遊びに行っていたが、彼の新しい将棋盤は3寸
ぐらいの足付き盤で、駒もちゃんと桐箱に入っていたからツゲ駒だったのだろう、
子供の目にもすばらしい高級品でうらやましかった。盤駒の勝負では出鼻をくじ
かれ、肝心の将棋ではいよいよ負けられなくなった。
 超初心者同士の一戦である。棋譜なんてもちろん覚えているはずはない。王手
(注1)は「王手」というのが暗黙のルールで、そしてそのゲームの目的は相手
の駒を取ることだったようだ。すさまじい駒の取り合いが繰り広げられ、局面は
必敗(とその時は思っていた。)になった。なぜなら大好きな飛車が取られてし
まったからだ。持ち駒は角と金と歩だけしかない。もうダメだ。
 しかし、その時父の教えてくれた「将棋」を思い出した。そうだ、将棋は駒を
取ればいいんじゃなかった、王様を詰ますんだった、そのためには、ええと、頭
に金を打つんだっけ?!


図はその時の局面である。もちろん先後がどちらだ
ったかなんて適当だし、それ以外の駒の配置なんて
覚えているわけもないから、ここでは省略してある。
しかし、ここで指したこの手だけは私は忘れない。
図で私はさりげないそぶりで「▲8五角」と指した
のだった。当時はもちろんそういう言葉は知らなか
ったが、これは「詰めろ」である。(注1)
友達は角のききを指で7四、6三、5二とたどって
いき、そしてうなずいた。そしてうれしそうに
「王手じゃないよ、これ」という。私は「しまった」と
いう顔で「あっそうか」と言った。
それで相手はなんかの駒を取ったはずだ。
そこで私は「えっと、これは王手じゃないね。」と

か言いながら私の指した次の手はもちろん▲5二金!。そして「やったあ、詰み
だあ」とか言って勝ちを宣言したのであった。友達はこの状態を理解できなかっ
たようでついに書斎で仕事をしていた父親(彼の父親は設計士であった)を呼ん
できて判断してもらうことになった。彼の父親は詰みの概念を彼に教え、もちろ
ん、私の勝ちは認めてくれた。やむなく友達は渋々それを受け入れ、負けを認め
たのであった。
 おかげで私は将棋がちょっと好きな少年になった。もちろん、そのあとも彼と
は将棋を指したはずだが、そのあとは勝ったり負けたりであっただろうと思うし、
将棋の内容ももちろん覚えていない。そしてその後1年もたたないうちに小学校
の将棋ブームは終わってしまい、それとともに、私たちは将棋から離れてしまっ
たのである。今になれば、その時将棋を続けていればと思うが、うちの両親は私
に将棋をそれ以上やらせくれるような親ではなく、その後将棋に再会するのは実
に10年後、18歳の夏を待つことになる。18歳の年の8月27日に将棋会館
の道場で子供を相手に負けて9級を認定され、再び暑い日ははじまるのだが、そ
の話はまた別の機会に書くことにしよう。
 将棋に負けたときにいつも思い出す、そのときのこと。「初心忘れるべからず」
という言葉を忘れないようにしよう。


(注1)次に王様を取れる状態。初心者はこれをかけたがるが、王様を逃げられ
たりしてなんでもない王手である場合が多い。
(注2)放置しておけば(相手が気がつかなければ次に勝つ状態)。詰みという
のが将棋が勝ちの状態で、「次に詰みますよ」という状態の局面のことを「詰め
ろ」といいます。

# by shigeshogi | 2006-11-15 03:00 | 近況 | Trackback | Comments(0)

今日は赤旗全国大会

今、起きて、出かける前にこれを書いている。
このところずっと風邪っぽかったのだが、水曜に蒲田水曜研に行き
木曜はうちに5人も集まって研究会を開きしていたら
昨日ついに発熱して寝込んでしまった。
でもマイミーオやこっちゃんなどが励ましメールをくれたし
よく寝て休んだら、熱は下がったし頭も痛くなくなった。

今日はなんとか戦えそうだ。
先週くらいから調子はイマイチだけど
自分の力は真ん中よりは明らかに上だし
実力が発揮できるなら優勝を含めて上位入賞の力は十分ある。
あとは運がどれくらい味方するかだ。

このあいだパソコンを調べていたら、散逸したと思っていた
自分の古い文章がでてきた。
今の目で見るとちょっとはずかしいところもあるけど
懐かしく思ったりもする。
それを再掲する。

***************

 エッセイ第二段です。
 初出「沖縄レーティング 23号」
 登場する関口先生は指導棋士六段、当時准棋士五段。将棋会館道場師範で私が
師匠と仰ぐ方です。

エッセイ 「将棋記念日」

「この味がいいねとあなたがいったから 7月6日はサラダ記念日」

 というのは数年前ベストセラーになった俵万智の歌集「サラダ記念日」の表題
歌だが、このように人にはそれぞれMy記念日というものがあるはずだ。
 もっともポピュラーなのが誕生日といったところで、それから人によっては結
婚記念日、初恋の日、家を飛び出した日、父親を亡くした日、初体験の日・・・
いろいろな記念日をもっているかもしれない。
 そんな中に将棋記念日というのがあってもいいだろう。

 ちなみに将棋の日という日はある。11月9日だ。これは江戸時代に将棋家元
が徳川将軍の前でお城将棋と呼ばれる御前将棋を指した日で、それを記念して日
本将棋連盟が制定したものだ。将棋の日には毎年各地でイベントを行い、それが
NHKテレビで放映されるのでご存じの方もいるだろう。
 木村義雄14世名人は81歳=盤寿(将棋盤の升目の数は9×9=81だから)
の年のこの日になくなっているのだが、これはさすが永世名人というべきちょっ
と真似のできない記録だ。

 もっとも私の将棋記念日はその11月9日ではない。私の18歳の年の夏も終
わろうとしている8月27日である。私はこの日ふとしたきっかけで、千駄ケ谷
の将棋会館の道場を訪れ棋力9級を認定されたのである。その日は突然やってき
て、それからはじまった熱い日々は、今に続いている。

 18歳の春、高校を卒業したあと私はとある会社でコンピュータの仕事のバイ
トをしながらブラブラしていた。そのころ大学には行きたくなかったし、さりと
てまじめに勤めようというほどやりたい仕事もなかった。当時はまだまだバブル
の時代でフリーターなんて言葉がカッコよく聞こえていたころなのである。
 その日、私は新宿にある母校に行った。私は高校のとき、コンピュータ部とい
うのに所属していて、高校のときは部長とかもつとめてえらく熱心にその活動を
やっていたのだが(今にして思えば当時からハマりやすい性格だったのだ)、そ
のOB会が夏休みの母校の部室で行われることになっていたからだ。
 母校のコンピュータ部というのは非常に盛んで、パソコンもたくさんあったし、
いろいろなソフトを(ゲームが主だったが)開発し、学園祭や同人ソフト即売会
などでパソコンソフトを売って部費を稼いだりして活動していた。OBはほとん
どは理系の大学に行って、コンピュータ関係のプロになった人もたくさんいたし、
仲間の結束は固かった。今でもOB会がインターネット上で活動していて、母校
の学園祭の時期や仲間に活躍があれば電子メールで連絡がきたりする。
 ところが、その日のOB会はなぜか集まりが非常に悪く、現役数人と、私と同
学年の仲間1人と、先輩が1、2人いたぐらいなのであった。昼から集まったの
だが部室で少し遊んだあと、軽く食事をしたが3時ぐらいにはお開きになってし
まったのである。
 そのとききていた同学年の友達の名前は石王丸直大君という。なんともすごい
名前だが「いしおまる なおひろ」と読む。高校のときは一番の友達だった。な
ぜなら彼がとてもかわりものだったからだ。彼はギター野郎で、バイク野郎で、
茶髪野郎で、タバコ野郎でついでに英語が好きで、頭がイカれてて、女にモテて
いた。うちの高校は都内でも5本指には入る進学校だったから、今の7つの条件
をひとつでも満たしている人は、まずいなくて、彼は無敵の7冠王だったのだ。
 彼はちょっと将棋が好きで、棋力は5級。高校在学中は将棋に全然興味がなか
ったのでそんなことも知らなかったのだが、うちの高校は将棋はけっこう盛んだ
ったようだ。将棋部もそれなりに活躍していたし、私の学年ひとつ上には奨励会
で3級ぐらいまでいった三浦さんという方や東大に行って関東学生名人を取った
奥村理也さんがいたりした。
 石王丸君はそのころ浪人生だった。彼は英語が好きでICU(キリスト教国際
大学)だけ大学を受けたのだが(ICUは英語については日本でも定評のある大
学)落ちて、ちょっとくさっている時期だった。自分と彼は新宿から代々木、原
宿、渋谷方面に歩きながらくだらない話をした。灼けるような暑い夏の陽射しの
中、とぼとぼと歩くというのは18歳のころには案外、悪くない。
 新宿から明治通りを30分ほどもあるけば渋谷までつくが、その途中、15分
ぐらい歩いたあたりで彼がぼそっと「この近くに将棋会館というのがある」と言
った。将棋会館は総武中央線、千駄ケ谷駅が最寄りだが、実は山手線の代々木、
原宿の各駅からでもあまり距離は変わらない。「行こう」と彼が言った。彼の行
動はいつでも唐突である。

 将棋会館は明治通りから路地に入って5分ほどのところにある。レンガ作りの
ちょっと瀟洒な建物だとは思った。(今見ればボロい建物だが)2階はガラス張
りになっていて、古臭い文字で「将棋道場」と書いてあり、その内側では将棋を
指している人たちの姿が見えた。彼は3回ぐらいそこに行ったことがあるという。
 1回の売店で驚くほど高い将棋の盤駒をみてから2階に行くと道場があって、
自分は「はじめてです」というと、「認定しましょう」と言われた。受け付けに
いた人はそのときはわからなかったが、のちに私の将棋の師匠となる(といって
も別に正式の入門をしたわけでもないのだが、こっちが勝手に思っているだけ)
指導棋士六段(当時準棋士五段)の関口勝男先生だった。
 夏休み中だったので、こどもが多かった。自分はまず、8級のこどもと対戦し
た。おそらく、小学校のとき以来十何年ぶりの将棋だったと思う。今でもぎこち
ない手付きが(よく手付きでヘボだと思った、と言われる)いっそうぎこちなか
ったはずで、局面は覚えていない。負けた。
 次は7級の子に負けた。また別の8級の子にも負けた。
 小学校のとき将棋が流行ったときやっていたころはちょっと強かったはずで、
自分ではひそかに「初段ぐらいあるのでは?」と思っていたが、大甘だった。
 これは誰にも勝てないのかも、と思いはじめた4局目ぐらいに10級の子に勝
ったときはうれしかった。それで関口先生が「これは9級かな」と認定した。
「9級 山田茂樹 平成3年8月27日」の認定証は今でももっている。認定証
は段級が上がるたびに道場が発行してくれ、9級から四段までそろえていたが、
一度財布ごと洗濯してしまってボロボロになってしまったので、9級と四段のも
の以外は捨てた。今思えばちょっともったいなかったかも、とも思う。

 夕方になると石王丸君は帰ると言ったが、私はもっと指したかったので、ひと
りで残ることにした。こどもたちはどんどん帰って手合いがつかなくなった。
 ちなみに、その日は王位戦の解説会があった。中田宏樹五段(当時)が谷川王
位に挑戦したシリーズの第6局である。その将棋で中田五段は終盤谷川玉に詰み
があるのに、打ち歩詰めと錯覚して破れ、谷川王位が防衛しているがそれはあと
から知ったことで、その時はわからなかったし、久しぶりに指す将棋が楽しくて
たまらなくて、指したくて仕方がなかったのである。そのころは解説会のときで
も道場の前半分で対局することができたのである。
 カウンターに行って「相手いませんかね」と言ったら、「じゃあ私と一番やろ
う」と言って関口先生が相手してくれた。手合いは2枚落ち。そのときは相手が
プロであるとはしらなかったし、まさか2枚落ちで負けることがあるとは思って
いなかった。
 関口先生は指導対局で相手を木端微塵に負かすようなことはしない。そのとき
自分はうまく攻めていると思っていた。あとちょっと、あとちょっとで相手の王
様が詰みそうだ、と思っていたが、きっと実際は全然切れている攻めだったのだ
ろう。最後にするっと、王様が上に抜けてしまったあたりで、先生からの反撃が
あって今度は簡単に寄せられてしまった。
 自分は相手の強さに驚くとともに、今度は勝てるかもしれない、という気がし
たのだと思う。「もう一番お願いできますか?」と聞いた。先生は「この道場に
あなたがきたときに、私がいたら、1番づつ指しましょう」と言った。その時は
「もっと指してくれればいいのに」と思ったものだが、先生が1番づつ指してく
れるのは今思えば、破格の待遇である。本来なら指導対局は1局3千円(今は5
千円)で、実際多くの人がそのお金を払って将棋を教わっていたのだから。
 そして先生は「あなたは道場にしばらく通ってきたらいい。あなたはきっと強
くなるから。」とも言ってくれた。その言葉が耳の中を突き抜けて、自分は道場
に通うことに決めた。その言葉が、私の将棋記念日だ。

 毎日道場に通いはじめた。5級までは6連勝もしくは8勝2敗で昇級できる。
1週間ぐらいごとに昇級し、8級から6級へは一日に2回昇級したと思う。平日
は級の下のほうでは相手が少なく、なかなか指せなくて上がれなかったが、日曜
日は相手が多くてうれしかった。手合いで一日28対局を指した日もあった。
(手合いカードは10局以上書けないので、2枚目、3枚目をホッチキスで止め
る。この最多対局記録はのちに現奨励会の堀尾1級に抜かれたが)
 6級ぐらいになると関口先生がプロであること、毎日無料で将棋を1局づつ教
えてくれるのは特別なことだと少しずつわかってきていた。しかし、2枚落ちで
勝てる日はまだ訪れなかった。5級への昇級の一番を私が迎えたとき先生が「昇
級の一番は自分とやろう。2枚落ちで勝ったら、卒業だから。」と言ってくれた。
 当時の自分は四間飛車専門だった。(9~3級ぐらいまで。3級~二段ぐらい
は三間飛車。二段ぐらいから居飛車を指すようになった。)しかもそのころは、
銀や桂ぐらいならタダ捨てても飛車が成れれば優勢だと思っていた。実際、級の
将棋では桂損、銀損ぐらいでも固い美濃囲いから、龍で攻めつければ相手は受け
間違えて勝てるものなのである。
 その将棋も銀を歩頭にタダ捨てて飛車をなる手があって。当時の自分は「先生
がうっかりした」と思っていたのである。当然ノータイムで銀を捨てて、飛車を
成りこんで優勢になったと思った。今思えば、完全な錯覚だが、優勢だと信じて
いた。
 ところが、龍で攻めれば簡単に攻略できるはずの相手陣がなかなか攻略できな
い。先生は銀を自陣に投入して受け、つかまりそうなんだが、例によって捕まら
ない。あせった。また負けると思った。
 長考した。といってもわからないが、たぶん5分ぐらいだとは思うのだが。

 当時の私の得意技は「こっそり詰めろ」というものだった。これは私が勝手に
作った言葉だが、飛車や角で金や銀などが質駒になっているときに、次にそれを
取れば詰めろになるようにしておくことである。相手はそれに気がつかないと次
にばっさり切られたら終わりである。級の将棋ではたいていがそんなことで勝負
がつくものであって、当時の自分は将棋とはそうやって勝つものだと思っていた
ほどである。
 で、この局面でもそれを狙った。しかし、相手は先生であるから簡単な「こっ
そり詰めろ」では見破られると思った。だからわざと難しい詰めろをかけた。普
通なら切って一手で詰むようにするのだが、あえて、難しい5手詰(と当時は思
った。捨て駒を含む手順)が生じるようにしたのである。
 先生の顔はこわくて見られなかった。目を合わせたら見抜かれてしまいそうだ
ったからである。先生は「なんだろうね」とかなんとか言いながら関係ない手を
指した。「これは?!」、そう龍を切って例の5手詰めがある。
 そして先生は5手詰めの最後の一手まで指して投了した。「いや、うまい詰み
があったうっかりした。」というようなことを言った。自分は会心の一局を指せ
て満足した。それから、先生は5級を認定証を書いてくれ、自分の指導対局は卒
業だと言ってくれた。

 それからは先生と指すことはほとんどなくなって、行くたびに1枚づつくれる
無料指導券(月極めだったが、その場合は一月5枚の券をくれた)を10枚ため
て指導を受けるぐらいになった。
 だいたい3カ月ぐらいで初段になって、1年ぐらいで四段になった。もっとも
連盟道場の四段は本当に甘く、レーティングでいえば1500点ぐらいではあっ
たが。三段のころからは道場でバイトとして手合いをつける側にもなった。
 その頃から、いろいろな道場に行くようになり、また大会などにもでるように
なって、そこから先の話はまた機会があれば書くかもしれない。

 今になれば思う。先生は仮にも奨励会三段までいった人だから、5級の自分が
考えた「こっそり詰めろ」がわからなかったということはないはずだ。たぶん、
5級の力があることを認めて、わざと詰まされてくれたのだと思う。それを先生
にきいてみようと思ったことはあるが、聞いてもたぶん先生のことだからとぼけ
て、「そんなこたぁー、忘れたよ」と言うに違いない。

 今年も夏がきて、もうすぐ、私の将棋記念日がくる。そのときにはまたひそか
にお祝いしたいと思う。みなさんにも、みなさんの将棋記念日はありますか?
 よかったら、それを聞かせてください。

*********

将棋を本格的にはじめたのが遅かったのでプロは最初から目指せなかった。
でも1年以内にアマ四段になり、5年以内に県代表になれた。
そして、沖縄で初めて代表になったころより、
今は角1枚くらいは強くなっただろう。
多くの友人や、そして守ってくれたやさしい女の子たちのおかげで
ここまでくることができた。
とりあえず、今日、自分らしいいい将棋を指せたらと思う。
今日は天気が悪いのでちょっと躊躇するところだけど
公美が誕生日に買ってくれたとってもすてきな
シャツ&革ジャンで行こうと思っている。

# by shigeshogi | 2006-11-11 07:30 | 近況 | Trackback | Comments(0)

はじめてのデート 後編

後楽園から御徒町に戻るあいだにいろいろな話をした。

くみ「今日はドイツ語の試験があったんです」
ぼく「ドイツ語かあ。中学のころワーグナーのオペラにはまって
   ドイツ語に興味もって辞書買ったりしたなあ。
   くみさんはオペラも詳しいんでしょう?」

くみ「私、音楽を専門にしてるんですけど、
   オペラは詳しくなくて・・・はずかしいです」


公美はとっても謙虚なところがあって
専門の音楽のこととかでも、あまりカッコつけたり
専門家ぶったりすることがなくて、素人の話でも好意的に聞いてくれた。

ぼく「そうなんだ~意外な感じ~
   そうだなぁドイツ語でわかる言葉と言えば
   Ich liebe dich.」

くみ「それくらいなら、私でもわかります^^」
ぼく「あとは~、ドイツ語の歌なら少しわかるよ」
くみ「え~、どんな曲ですか~??」

ぼくがわかるドイツ語の曲はシューベルトの歌曲か
ワーグナーオペラのアリアとかだったけど、
正直あまり自信がなかった。
でも高校のとき音楽の授業で習ったブラームスの子守唄なら
きっと歌えるんじゃないかと思った。
高校の音楽の先生は外国曲を原語で歌わせるのが好きな先生だったのが
思わぬところで役に立ったと思った。

ぼく「Guten Abend, gut' Nacht
   ~~~わからないんでハミングでごまかす
   Mit Naglein besteckt
   Schlupf unter die Deck'
   Morgen fruh, wenn Gott will Wirst du wieder geweckt
   Morgen fruh, wenn Gott will Wirst du wieder geweckt 」


2列目は全然わからなかったし最後の部分geweckt とgesellと間違えたり
相当に怪しかったのだけど、なんとか歌った。
ぼくの歌はたぶんそんなにうまくないはずなのに、
公美は喜んでくれたように思った。

くみ「ブラームスだね。この曲吹いたことあるよ」

とってもうれしかった。

ぼく「くみさんと一緒に遊びに行くときはカラオケだけは
   行っちゃいけないと思っていたのに歌っちゃったなあ」

くみ「なんで、カラオケはダメなの?」
ぼく「だって、歌っていて音がはずれていて、自分は全然気がつかなくても
   くみさんはきっと『あ、またはずした』って何度も思うでしょ。
   そうしたら『なんだ、こんな人と歌うの恥ずかしいな』って思われちゃうかも」


公美は大笑い。この話はかなり受けたみたい。

くみ「芸大の友達とカラオケ行くことあるけど、みんなけっこうはずすのよ
   あたしは広末涼子の『とっても、とっても、大好きよ~』みたいな歌
   歌ったりもするのよ」


この話はちょうど大江戸線を降りて地上に出て、松坂屋の角の道を曲がり
御徒町の将棋センターのほうに向かうときにしていたのをよく覚えている。
そう、ぼくは今までにも何度もでてきた将棋道場の下の
いきつけの個室居酒屋さんに行こうと思っていたのだった。

このお店はそんなに高くないのに個室でゆったりお話ができるので
けっこう気に入っている。
けっこう混んでいたし、予約もなかったと思うけど
なんとかすぐに個室に入れてもらうことができた。
できたて豆腐とか、手作り玉子焼き、10割そばなど女の子が
好きそうなメニューもたくさんおいている。
公美もけっこう喜んでくれたみたいに見えた。

「ノンアルコールの飲み物もあるから、そういうのでもいいんだよ」
と言ったけど、くみは「最初だけお酒もらいます」ということで
二人とも生ビールを飲んだ。
豆腐やそば、串焼きの盛り合わせなどを頼んだことを覚えている。

公美は結局、1杯しか飲まなかったと思う。
いろいろおしゃべりしたけど、ここでの会話はあまり覚えていない。
「この上の道場にはよくきていて、昼間も行っていたんだよ。
 今でも知り合いがきっと何人かいると思う」

みたいなことは言ったような気がする。
一緒にさっき買った写真を眺めたりした。
オリジナルの写真ケースに入っていてすごくよい記念になった。

そして、いろいろお話して店を出る前、最後に
「ぼくは今、お付き合いしている人は誰もいなくて
そういう人がいてくれたらとってもいいなって思っているの
今すぐじゃなくてもいいから、ちょっと考えてくれて
そのうちお返事がもらえたらうれしいんだけどな」
と告げた。

お店を出るとJRの御徒町の駅は目の前だった。
時間は9時半くらいだったと思う。
本当はカラオケでも・・・って言いたかったけど
最初のデートはあまり引っ張りすぎないほうがいいということを
経験が教えていたので、終わりにすることにした。
「うちまで送っていかなくて大丈夫?」と聞いたら
「近くだから大丈夫」ということなので
「それじゃここで失礼するね」ということで改札のところでわかれた。
駅の階段を登って曲がるところで振り返ったら
公美はまだぼくのほうを見ていてくれた。

ぼくが帰りのバスに乗っていたらくみがこんなメールをくれた。

「ありがとうございましたm(__)m
今日は本当に楽しかったです♪
しかも全部出して頂いてごちそうまでなってしまいました。
しげさんは思っていた以上にやさしい方でした。
私が後ろで歩いているのを気にしてくださったり
私を楽しませようとしてくださったりほんとに良い夜になりました☆
しげさんから頂いた言葉の数々、とてもうれしかったです。
近いうちに私もお礼しますね(^-^)
今日は本当にありがとうございました。
気をつけて帰ってくださいね」


こっちからメールする前に、向こうからメールをくれて
本当に心からうれしかった。
それでも今までも経験から、こんなかわいい子が
いつまでも自分をまともに相手してくれるのか
またすぐにふられるんじゃないか、そんな気もした。
今までさんざんふられてきたから不安だった。
それに公美はぼくとはとってもつりあわないくらいすてきな女の子だから
もしそうなったら素直に身を引かなくちゃいけないなあ
そんなことを思ったりした。
部屋に帰って神様に「どうかこの子と一緒にさせてください」と
ひざまずいて祈りをささげて、その日の眠りについたと思う。
愛する公美にやっとめぐり合えた!
ぼくの人生で一番すてきだった日の、大切な記憶と記録。

# by shigeshogi | 2006-11-09 00:21 | 公美 | Trackback | Comments(0)

はじめてのデート 前編

前回の続きにあたる、公美とのはじめてのデートの記憶と記録。
2005年1月24日、はじめて公美と会う日が訪れた。


その日の昼間公美は携帯にシャメをくれた。
会ったときにわかるようにということで送ってくれたのだ。
このときの写真は公美も自信の写真だったみたいで
とってもかわいらしくて、ぼくは今でも待受に使っている。

この日はときどき、携帯でメールを交換して
自分も公美にシャメを何度か撮って送ってみたけど
当時、公美の使っていたドコモのmovaは
添付ファイルが受信できなくてauからは届かなかった。
でもあとで聞いた話では、公美はぼくの名前で検索をかけて
都名人戦のページなどから、ぼくの写真も見ていたらしい。

待ち合わせ場所は古典的だけど、上野の西郷さんの前にした。
そこなら、公美のところからは歩いてこられるし
ぼくも上野なら多少はわかる。
公美とは6時半の約束なったので、
御徒町の道場で将棋を指しながら待ったと思う。
その日の棋譜が1局だけ残っていた。

待ち合わせの時間に少し余裕をもって道場を出た。
御徒町から上野までauショップに立ち寄って眺めたり、
念のため携帯を充電したり(当時の携帯は古くて電池が弱かった)
チケットショップに立ち寄って「東京ドームシティ」
(自分の世代の記憶では後楽園ゆうえんちだけど)
のチケットがあるかを聞いたりしてみた。
全てのアトラクションに1回乗れるチケットが1枚300円で
売られているのを見つけたりした。
そう、この日は初めてだし、近くがいいと思ったので
御徒町からは近い後楽園に行くのはどうかなあと思っていたのだ。

そうこうしているうちに公美に会う時間が近づいて
約束は6時半だったけど、6時くらいに上野の西郷さんのところにいった。
不忍池川の入り口から白い息を吐きながら、階段を登っていき
西郷さんの近く、京成上野駅の上から街を眺めると
ネオンサインがつき始める時刻だった。

ぼくが少し早くついて待ってますのメールを送ったら
くみは少し急いで大学を出てくれたようだ。
道々メールしながらきてくれて
ぼくが「西郷さんと同じ格好して待っています」といったらとっても受けていた。

そして・・・

上野公園の奥のほうから、黒いコートに白いマフラーを着た少女が
少し小走りでやってきてくれた。
「ああ、くみなんだ」ってすぐにわかった。
ぼくのために公美が急いでくれていてとてもうれしかった。
かわいい、かわいい女の子だった。


「公美さんですよね」って聞いたら
「はい、遅れてごめんなさい」と言ったと思う。
思っていた以上にかわいらしい女の子だった。
なんだか怖いような、気恥ずかしいようなで、
真正面から公美のことを見られなくなってしまったけど
ぼくはとっても感動していた。
「今日はよかったら東京ドームシティ行ってみませんか?」と言ったら
公美は喜んでくれたように記憶している。

並んで上野公園の階段を降りて、都営大江戸線の新御徒町の駅に向かった。
途中、行きに寄ったチケット屋さんで、
10枚分のアトラクション券を仕入れた。
道々大江戸線は開業したばかりなんだよね、というようなことや
降りた春日の駅の上にある文京シビックホールというところで
公美が演奏をしたことがある、というような話をした。
ぼくはずっとどぎまぎしていたけど、
公美もちょっと緊張しているみたいだった。

最初にいきなりジェットコースターに乗った。
空いていて、すぐ乗ることができた。
「2人で声合わせて大きな声で『キャー』って言おうよ」って言ったら
公美は笑ってくれてうれしかった。
公美はすごくはしゃいでくれて、緊張もほぐれてきたみたいだった。

くみは歩くのがけっこうゆっくりみたいで、
自分はわりと早足なのでなるべくゆっくり歩くつもりでも
ちょっと差がつきそうになるときがあって
そのときに時々振り返ってくみの様子をみたりしていた。
階段を歩くときは、足元に気をつけてね、と言ったりもした。
公美はそういうことを覚えていてくれて
あとでとってもうれしかった、と言ってくれた。

次は観覧車に乗った。
観覧車に乗る前に業者の方に「記念写真~!」といわれて
並んで写真を撮った。
自分も少しづつ緊張がほぐれてきて、いろいろな話をした。
観覧車から見える景色はすっかり夜景だけど
講道館のほうを見ては昔柔道をしていた話、
御茶ノ水のほうを見ては、自分が生まれた病院がある話、
両親が初めて出会ったのが御茶ノ水の駅前の喫茶店だったという話
祖父が御茶ノ水の駅前の病院に通っていて小さいころよく連れて行かれた話
順天堂病院に救急車で行った(付き添いで)話などをした。
公美は話を聞いているのか、聞いていないのか、
話の脈絡と関係なく時々急に笑い出すのでびっくりした。
「えー、なんで笑ってるの~、公美さんって変わっているね」って言ったら、
「そうなのよ~。なんかときどき友達にも不気味がられる(汗」
と言ったりしていたけど、ぼくにはとってもかわいらしくて
笑顔を見せてくれるくみがとってもいとおしかった。

観覧車の1周は15分くらいだったと思うけど
その楽しい時間も終わって二人してゴンドラを降りた。
するとそこに写真の業者の人が先ほど取った写真を並べて見せてくれていた。
このサービスは最近はいろいろなところであるけれども1枚たしか千円。
さすがにこのときはいらないと思って
「ん~、いいですよ」って言って立ち去ろうとした。
そうしたらそのときくみが
「え~。せっかくだからもらっていこうよ」と言ったのだった。
ぼくはとっさのことでとてもびっくりしたけど
「あ、そ、そうだね。じゃあもらっていこうか」って言って買った。
そしてだんだんその言葉の意味がわかってきてとってもうれしくなった。
公美はこの2人のはじめての出会った日の記念を
とっても大事に思っていてくれている。
そう感じられたぼくはとってもうれしかった。
今まで、こんな風に好意をしめしてくれた女の子はいなくて
この子はやっぱり特別な女の子なのかも、って思っていった。

(写真をシャメでまた写ししたものなので汚いが、大切な写真)

それから2人で今度は屋内型のジェットコースターに乗ってみたり
映像を見ながら自分たちののっている機械が揺れたりする
バーチャル物のアトラクションにのってみたり
「舞姫」という名前のくるくる回転しながら進む
ちょっと気持ち悪くなる系のコースターものに乗ったりした。
その道々、音楽の話などを聞かせてもらったりした。
クラシックの音楽がBGMとして流れたりすると公美は
「クラシックだと専門の頭に切り替わっちゃうから、嫌い」
と言ったりしていた。

チケットも全部使い切って、じゃあお食事にしようか、ということになった。
緊張と最後の「舞姫」でちょっと気分が悪くなった感じもあった自分は
御徒町に知っているお店があるんだけどといって、御徒町に向かうことにした。
公美にとっても帰り道だったし、ちょうどいいと思った。



とても長くなってきたので、後編に続きます。。。。

# by shigeshogi | 2006-11-08 00:12 | 公美 | Trackback | Comments(0)

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