Passing Days〜東京球場幻話〜
(ふさ千明)
冬とは思えぬ柔らかな日差しの休日。私は都内を散策していた。具体的には都電三ノ輪橋電停を降りて歩くこと10分ほどのあたり。所謂、下町だ。友人に教えてもらった古本屋で目当ての本を購入したついでに、少しぶらぶらとしてみることにしたのだ。このあたりは、ぶらっとするのに向いている。何より覆い被さるような高層建築がないのがいい。
空の広さを感じながら気の向くままに歩いているうちに、あることを思いだした。ごく一部のマリーンズファンの間で“聖地”と称されているというあの場所。あの跡地へ、足を向けてみよう。
広い国道沿いからちょっと道を外れ、わざと小道へ入る。木造住宅の板塀の狭間、一杯飲み屋の店先と、昭和の空気を濃厚に漂わせた路地を抜けると、そこには荒川総合スポーツセンターが‥‥あるはずが、そこには野球場があった。そう。あった。
といっても、スポーツセンターに併設されている軟式野球場のことではない。堂々たるスタジアムだ。確かに、以前ここには野球場があった。光の球場という愛称で下町の野球ファンに親しまれたスタジアムが。しかしそれも古き良き昭和の話のはずだ。
「どういうことだ?」
光の球場こと東京スタジアムは私が生まれる前になくなった球場だから絵や写真でしか知らない。だから壁面に書かれた“東京スタジアム”という大きな文字がなければ別の場所と思ったことだろう。もしかして移転問題に悩んだファイターズが建ててしまったんだろうか? しかしそんな情報、建設計画の段階から話題になっていてもおかしくないし、何より球場はそんなに急に建つものでもないだろう。
とりあえず誰かに電話して確かめてみようかとケータイを取り出すと、画面には“圏外”の表示。カバーエリアが広いだけが取り柄のような会社の機種が、都内の、しかもこんな遮蔽物のないような場所で? もうわけがわからなくなったので、とりあえずそのまま進んでみた。
目の前にあるのだから実際に確かめてみるのが一番だろう。東京球場記念館でも作ったのか? あの荒川総合スポーツセンターや軟式野球場はどうなったんだ? 答が出るはずもない自問にさいなまれ、わけもわからぬままぐるりと一周してみる。
広さでいえば確かに野球場である。ちゃちな模造品ではあり得ない。全く以て不思議な話だが、さらにはそこにいる人間の姿も不思議だった。つぎあてだらけのシャツを着た子供が、サンダル履きで駆けていく。追いかける親父さんの格好もダボシャツに腹巻きの当世見かけぬ昭和の装いだった。やはり映画の撮影としか思えない。にしては収録用のカメラ一台すらないではないか。今日は撮影が休みなのだろうか‥‥。
しかし、疑うだけ疑ってみても結論は一つだった。ここは、東京球場だ。GS神戸とも甲子園とも仙台宮城球場とも違う。さらに言うなら川崎球場とも後楽園とも違った。
ゆっくり見上げながら歩いていると、キャンドルスティックパークを模したと言われる外観には、それらの球場とは違うなにかが感じられた。そのことが、この茫洋とした自信を確信に変えた。論理を越えて納得させるだけのものがそこにはあったのだ。
そして外周一回りの最後に、大きな看板に出会った。それには“本日の試合 東京対東映”と大書してある。訳が分からない。東京球場があるのはまだいい。ここまで来たらもういいとしよう。しかし東京対東映とはどう言うことか? 30年以上前のカードではないか。やはりこれは野球関係の映画の撮影なのか? それとも夢でも見ているのか?
‥‥なるほど、夢か。何の自慢にもならないことだが、私は夢で野球の試合を見たことが過去に何度かある。それはここまでのリアリティを持っていなかったが。まぁいい。夢となれば開き直って楽しむのが勝ちだ。入場券も売っているようだし‥。
入ってみるかと思い売場に行ってみたが、前のオヤジが伊藤博文の千円札を出しているのを見て、慌てて引き返す。何度見ても私の財布の中には平成の通貨しかない。それでも500円以外の硬貨なら通用するが入場券を買えるほどの分量はない。これが夢だとしたら気の利かない話だ。やむなく私は球場を離れた。と言っても、あきらめたわけではない。いつも背負っているバックパックからヘッドホンステレオを取りだし、最寄りの質屋へ駆け込んだ。
店主は初めて見るその品に不要領な顔つきをしていたが、可動品であることとラジオも聴けることを確認して5000円の値を付けてくれた。シワの多いくたびれた紙幣一枚受け取ると、球場目指してとって返す。
「内野自由席一枚!」
無言で渡されたチケットをひったくるようにつかみ取ると、ゲートをくぐった。駆け上がった階段の向こうに広がったのは、空席とどっこい程度に客の入ったスタンドと全面天然芝のグラウンドだった。バックスクリーンから右にずれたスコアボードはちょっと収まりの悪さを覚えたが、ここではそれすらも味の一つだった。
スコアボードといえば、試合開始もほど近いらしくスタメンが既に発表されている。先攻の東映フライヤーズは1番ショート大下、2番サード佐野、3番ライト毒島、4番レフト張本、5番ファースト大杉、6番センター白、7番セカンド青野、8番キャッチャー種茂、9番ピッチャー森安。
に対し後攻の東京オリオンズは1番セカンド石黒、2番センター池辺、3番ファースト榎本、4番レフトパリス、5番ライト森、6番サード前田、7番ショート山崎、8番キャッチャーダイゴ、9番ピッチャ−成田というオーダーだった。
ダイゴというのは醍醐猛夫さんのことだろう。字画が多すぎてカタカナで書かれたという話を聞いた覚えがある。野球をやっている姿を見たことがあるのはわずかに大杉と張本しかなく、しかも張本はOB野球やモルツ戦で見ただけである。たとえこれが夢だとしても、逃す手はない。
そう思って手近な椅子に腰掛けると、グラウンドではFlyersと書かれたユニフォームの選手達が試合前の練習に励んでいた。がむしゃらとか必死とかそういう空気はなく、どこか淡々としたものを感じながら、しばしぼやっとそれを眺める。ゴロを追う、捕る、投げる。それだけの光景なのに、そんなものは無数に見てきたはずなのに、なぜか嬉しかった。ノックをするコーチの声が、よく響いていた。
そのうち小腹が空いたので試合の始まる前にと取り急ぎ弁当を買いに出た。初めて来た球場だが、球場の構造などそんなに違うものではない。ちょっと歩いて売場を見つけた。
キャラメル、酢昆布、せんべい、板チョコ等が並ぶなか、折り詰め弁当とお茶の入った素焼きの土瓶を買った。弁当の中身は梅干しの埋まったご飯と煮染め、煮魚と漬け物と佃煮。地味な色合いだが味は良かった。いつまでも食べていたいような、そんな味だった。下町らしく濃いめの味付けだったせいか、食べながらお茶をがぶがぶと飲んでいたら食べ終わる前に土瓶が空になってしまった。
「飲むかい?」
往生していると近くのオヤジさんがやかんを差し出してくれた。「すみません」と一声礼を述べ、ありがたくいただくことにした。麦茶の味が口中に染みわたっていた塩分を洗い流してくれる。
「なぁに、カカァが持たせてくれたんだけどよ。こちとらこれのほうがありがてぇもんでな」
右手で掲げたのはアサヒの中ビン。なるほどとうなづき、ならばと私も散歩のおやつ用に持っていたピーナッツを差し出した。
「にいちゃん、今日は仕事休みかい?」
「ええ」
「勤め人さんは大変だろう」
訳の分からぬままここにいる身としては、話しかけてくれるのが嬉しい。私が弁当を食べている間、オヤジさんは色々話してくれた。野球のことだけでなく、家族のこと、暮らしのこと、仕事のこと。こう言うのを気さくというのだろうな、と思いつつ、返事と食事に追われながらどうにか試合開始に間に合った。
『たいへん長らくお待たせいたしました。試合開始でございます』
折り詰めの蓋を閉め、紐を結んでいるとウグイス嬢の声が聞こえた。グラウンドをに散らばる選手たちの胸に縫いつけられたOrionsのロゴが懐かしい。残念ながらFlyersのロゴには「懐かしい」と思えるだけの記憶がなかったので、“珍しい”という視線を送るしかなかったのだが。
マウンドには背番号18がいる。成田文男。球の速さと背番号が伊良部を連想させたが、体型だけは大きく違った。いや、逆に入団当初の伊良部を連想させたと言うべきか。すぱーん。すぱーん。ミットに収まる音が、小気味よく耳に響く。
「いいね。今日はやるぜあいつ」
それはまるで家族に対して向ける視線のように暖かさに満ちていた。私は静かにうなづき、そのまま試合開始までのわずかな間を楽しんだ。
審判の右手が挙がり「プレイボール」の声がスタンドまで響いた。オヤジさんの予言は当たった。成田はフライヤーズ打線に付け入る隙を与えない。高めのボールを躊躇なく投げ込む姿はいかにも江戸っ子好みの気っぷのよさが感じられた。わずかに張本がカット、カットで粘った末の7球目の内角高めをレフト前に弾いたのみで、一巡して1安打ピッチング。
森安も負けじと、こちらはコントロールのきいた粘り腰で球数は多いが確実に打ち取っていく。一巡して榎本の強烈なライト前ヒットと前田へフォアボールのみ、計1四球1安打ピッチング。0−0の程良い緊張感が目に見えない糸のように球場に張られはじめる。
「さ、この辺からかな」
4回裏、先頭の榎本喜八が登場すると、拍手がひときわ大きくなる。それに応えてなのか、バッターボックスで構えに入った榎本が、言語表記不能な奇声を発した。
「いいねぇ、きはっつぁんはああじゃなきゃいけねぇ」
ビックリしている私を後目に、オヤジさんは3本目のビールをアオリながら嬉しそうにうなづいていた。榎本のこの癖は、話には聞いていたが実際やられるとやはり驚く。しかしこの人は「なきゃいけねぇ」と言っている。
「うらやましいですよ」
「なにがだい?」
下駄履きで来られる野球場がある。選手全員を家族のように思えるチームがある。それだけで、うらやむには十分すぎるほどだ。
「お、打った!」
火を噴くような、という月並みな形容詞が真を以て迫る打球が三遊間を抜けた。一塁にたたずむ榎本に花束を持った女性が近づく。
『榎本選手パシフィックリーグ新記録となります1828本目の安打でございます』
「おお、すげえな」
「いいときに来ました」
深々と頭を下げて受け取る榎本。スタンドからもグラウンドからも声と拍手が聞こえた。そして。グラウンドでひときわ大きく拍手をしている“紳士”に目が行った。一見してオーダーメイドと分かる高そうな背広に収まっていたその“紳士”は黒縁の丸メガネと月代型に禿げ上がった頭部、鼻の下に生えたヒゲというマンガに出てきそうなカリカチュアライズされた“ニッポンの社長”な風貌。私は我が目を疑いそうになった。
「えーと。見間違いだと思うんですが、アレ‥」
「ああ、永田のおとっつあんだな」
一瞬での肯定。どうやら間違いないらしい。あれが「パリーグを愛してくださあああああい」と絶叫した男、永田雅一。オーナーが一番のオリオンズファンというのは当時の常識だったらしいが、それにしても試合中にグラウンドにいるオーナーというのは初めて見た。ニコニコしながら榎本と握手をし、秘書とおぼしき男に記念写真を撮らせている。どっちが記録達成したんだというくらいの喜びようだ。
「来てるんですね、オーナー」
「イヤ、もうしょっちゅう来てるぜ、本業大丈夫なのか」
特別な日だからですかね? という疑問は発するまでもなく否定される。ちなみに本業は大丈夫ではなかったのだが、それを口にすることははばかられた。ここで無粋な予言者となることなど針の先ほどの価値もない。それより、試合だ。
長々とした空白が響いたか、続く4番パリスは空振り三振。しかしその隙に榎本が盗塁して1死2塁。続くは5番森。中日ドラゴンズ在籍中にはホームランと打点の二冠王を取ったほどの選手だったが‥‥‥。
打った! あがった打球は、飛距離こそスタンドには及ばなかったが落ちた位置がよかった。ライン上に跳ねた球をレフト線審が慌ててよけながらも両腕で必死に“フェア”のジェスチャーをしている。榎本生還して、これでオリオンズ先制。1−0。なおもチャンスだったが、後続が結局1点止まりだった。これを見て思わず今のマリーンズを引き合いに出してしまいたくなったが、この場にいる全員が分かろうはずもない事に気づき踏みとどまった。
「ミサイル打線って、言われてたんですよねぇ‥」
「山内も葛城もいねえんだ。しかたあんめ」
あきらめたようで、しかしなお寂しさを含んだ言葉に私は「そうですね」としか言えなかった。今、ここでこうしてこの試合を見られることは望外の幸せなのだが、このオヤジさんの嘆声混じりの言葉から伝わってくる大毎オリオンズ(東京オリオンズの前身)全盛時代の試合に思いをはせると、やはりそれを見られたということをうらやまずにはいられない。
「きっともうすぐ、昔みたいに強くなりますよ」
「だといいんだけどなぁ‥‥ああ、打たれやがった」
見ると、フライヤーズの白がセカンドベースに滑り込んでいる。先制の1点がかえって重荷になったのか、どうも成田の調子がおかしい。これまで空振りを取ってきた高めの速球がボールになりはじめた。向こうの目が慣れたと言うことか。それでも5回は何とか0に抑えたのだが。
6回表、先頭の大下を歩かせる。そのランナーを続く佐野がきっちり送った。毒島レフトフライで2死2塁。4番、張本勲登場。安打製造器の異名を持ち、逆説的になるがわかりやすく言うと“昭和のイチロー”だろうか。無論これは打撃に関してのみだが。守備についてはまぁ、その、と言葉を濁してしまう程度という他はない。
「あ〜〜」
嘆声を生んだ同点タイムリーは左中間を深々と破ったツーベース。またも内角高め、しかも今度はボールに見えた球だったが、それを流し打てるとは。これで1−1。なおも場面は2死2塁。大杉勝男登場。大杉といえば「月に向かって打て」と言われて打撃開眼したエピソードで有名だが、本当に月まで飛ばしそうなそんな雰囲気を持っていた。少なくともあの怒り肩ならこの狭い球場のフェンスくらいは軽く越しそうだった。
そんな思考の流れをぷっつりと切ったのは、澄んだ金属音だった。ここまで2三振の大杉がついに成田の速球を捉えた。空気を切り裂くように飛んだ打球は成田の頭上を通ってセンターバックスクリーンに放り込まれた。3−1。ついにフライヤーズ逆転。一気に崩れるかと思ったが成田、気を取り直して後続を断った。
その裏、フライヤーズ水原監督は森安を引っ込め尾崎行雄を投入した。尾崎行雄と言えばこれまた伝説の剛速球投手である。東映フライヤーズが高校を中退させてまで入団させた剛球投手。昭和37年20勝9敗で新人王。39年最多奪三振。40年最多勝・最多奪三振・ベストナイン。それが‥‥見たところ成田の速球との大して変わらないどころか見劣りがするような気すらした。
「あんなもんでしたっけ?」
「バカ言っちゃいけねぇよ。確かヒジだかどこだか痛めたって聞いたけどな」
それでもテンポよく打ち取っていた。成田も粘りを見せ、再び投げ合い。しかしもう終盤だ。このままでは‥‥。そう思った8回裏、先頭の「長島2世」の異名をとる山崎がヒットで出ると、尾崎の調子が狂い始めた。醍醐を歩かせ、無死1,2塁。ピッチャーの打席なのでここで代打‥‥‥と思ったが出てこない。成田がそのまま打席に入る。
「得津がいるだろーに」
「どうしたんでしょうね?」
バックネット裏から聞こえた怒声は、その疑問が我々だけのものではないことを証明していた。視線を向けると、それはオーナー席からのものだった。
「あのオーナー‥‥」
「あの怒鳴り声一つで天下の名将西本幸雄を解任しちまったってぐらいで、アレが鳴り響くとロクな事がねぇんだがな」
そんなスタンドの声を背に、試合は進む。バッターボックスに入った成田、初球をきっちり三塁線に転がすバント。ランナーのスタートもよく1死2,3塁。打順はトップに返って石黒。水原監督満塁策を指示し、敬遠で1死満塁。池辺、気負ったかショートフライ。2死満塁で榎本喜八。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
オヤジさんも私も、事ここに至っては黙って見守るしかない。どんな言葉もこの場では邪魔者でしかなかった。尾崎が汗をぬぐう。榎本は静かに打席でたたずんでいる。球場内にしみわたる静寂。
スパーン。「ボール!」
スパーン。「ストライク!」
ミットの鳴る音と審判のコールだけが響いていた。カウントツーワンからボール2つでツースリー。おあつらえ向きの絵に描いたような2死満塁フルカウント。そして次の球。榎本のバットが捉えた‥‥が前には飛ばずこちらに向かってきた。ファールでしきり直し。固唾を呑む音が、ひときわ高く感じられる。
勝負の7球目‥‥‥外角低めのストレート! バットが弾いた。乾いた金属音が響いている間にライナー性の打球がフェンスを直撃した。狭い東京球場だったがランナーがスタートを切っていたことが幸いし走者一掃となる。逆転! 3−4。沸く客席。私も必死になって拍手を送った。
「ええぞきはっつぁん!」
オヤジさんの声が聞こえたのか、セカンドベース上の榎本がこちらを向いて頭を下げた。このリードを成田が最後まで守り通し、3−4xでオリオンズが勝った。
「いやぁ、いい試合だった」
この一言に全てが語り尽くされていた。心底そう思える試合に出会えた幸運に感謝しながら、オヤジさんにあいさつして私はゆっくりと席を立った。
「またくるんだろ?」
「ええ」
どっかと座って残ったビールを片づけているオヤジさんの言葉に強くうなづきながら、出口へと向かう。球場はホームチームが勝った後の、独特の高揚感に包まれている。バッティングフォームをマネする子供、赤ら顔で上機嫌の父親、そして彼らの間を流れる優しい空気。その空気を存分に吸いながら、ゲートをくぐり通りへと出た。これからどうしたものか分からなかったが、とりあえず試合が終わったのだ。球場を出て駅へ向かうことにした。あとのことは、なんとかなるだろう。
球場を出てすぐの通りの角をぐるっと曲がる。しかし球場が視界から消えると、すぐに名残惜しくなってもう一度、東京球場を視界に収めようと道を戻る。するともうそこに球場はなかった。広がっているのは、ここに初めて来たときと同じ光景だった。軟式野球場で子供達が試合をしていた。その向こうには荒川スポーツセンターも見えた。
車道にはスバル360も3輪トラックも走っていなかった。ケータイもアンテナが3本きっちり立っている。これは「帰ってきた」ということなのだろうか? なんの前触れもなく、なんのきっかけもなく。ただ現れ消えていった光の球場。釈然としないまま10分ばかりウロウロとした後、それ以上はどうしようもなく結局最寄りの南千住駅へ向かって歩き出した。
◇
自宅に戻ってから『千葉ロッテマリーンズ50年史』を開けば1967年6月14日対東映11回戦、東京球場において榎本の1828本目のヒットは記録されたという記事が掲載されていた。その試合の写真を探せばもしかしたら内野席に自分が居るかも知れないなどと言う妄想に苦笑しながら、私は本を閉じた。
あの試合を見られただけでも果報なのだ。そう思って、それ以上を探ることはやめにした。現実の試合内容が私の見たものと違ったとしても、あの試合の価値は寸毫も減じることはないのだから。ちなみに、夢でない証拠にはその日購入した本と入場券が手元に残っている。
フライヤーズ−オリオンズ 3−4x 勝・成田、敗・尾崎