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今夜の番組チェック
石橋湛山とその時代
1 |
一億総特攻の精神 |
2005,10,27 |
2 |
生き残った特攻隊員 |
2005,10,30 |
3 |
待ちに待った日米開戦 |
2005,11,1 |
4 |
尾崎行雄翁の抵抗 |
2005,11,2 |
5 |
石橋湛山の先見の明 |
2005,11,4 |
6 |
自由と秩序 |
2005,11,5 |
7 |
戦う石橋湛山 |
2005,11,12 |
8 |
愚かなる神宮建設 |
2005,11,23 |
9 |
大日本主義の幻想 |
2006,3,12 |
10 |
幻想に生きなさい |
2006,3,13 |
11 |
中国を敵視するなかれ |
2006,3,14 |
12 |
戦後の石橋湛山 |
2006,3,15 |
13 |
雇用不安に怯える軍人 |
2006,3,16 |
14 |
柳条溝事件の真相 |
2006,3,17 |
15 |
哲学的日本を建設すべし |
2006,3,18 |
16 |
言論界に殉難者なし |
2006,4,1 |
17 |
リットン調査団と湛山 |
2006,4,2 |
18 |
5.15事件と湛山 |
2006,4,3 |
19 |
満州国承認と湛山 |
2005,4,4 |
20 |
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1.一億総特攻の精神
レイテ島はセブ島のとなりにある。セブに滞在中、私はゼブ基地から飛び立った特攻機や、レイテ島で喫した日本海軍の敗北についてしばしば考えた。日本に帰ってからも、「昭和の歴史 太平洋戦争」(木坂順一朗著 小学館)を読み返しながら、いろいろと考えた。
レイテ戦や特攻についてインターネットで検索したり、新たに何冊かの本を手にしたが、なかでも印象に残っているのは、私が参加しているメーリングリスト「戦争を語り継ぐ」の管理責任者である西羽さんから教示していただいた「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」(光文社)である。
http://denkaisui.com/tubuyaki2/index618.html
これは元海軍中尉で特攻隊員だった角田和男さんの体験記である。角田さんは昭和9年15歳で予科練習生として入隊。中国戦線、ラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾で熾烈な戦いを経験した。フィリピンのセブ基地にも滞在し、とくに特攻隊の直掩任務(現場まで護衛し、戦果を報告する任務)にあたり、多くの隊員の最期を見届けた。そして自らも特攻隊員となったが奇跡的に生き残り、台湾で敗戦を迎えている。
この「修羅の翼」には特攻隊の生みの親である大西中将の副官であった門司氏も序文を寄せている。そこでも触れられているが、この本の大きな特徴は、死んでいった夥しい戦友たち一人一人の日常にまでたちいたった細かい記述であろう。作者自身が自分の目で見たこと、耳で聞いたこと、肌で感じたことをありのまま語ることで、死んでいった戦友達への鎮魂になりえている。
たとえば、ある特攻隊員が役目を果たさず、爆弾だけ投下して帰ってきた。上官に叱られた彼は、今死ぬと2階級特進しても少尉になれない。あとしばらくで昇進があるので、それから死んで将校になりたい。それが自分が故郷の父母に尽くせるせめてもの孝養だという。これに対して、上官も口をつぐんだという。こういう何気ないところに私はリアリティを感じた。
また、桟橋に特攻せよという命令に対して、「それはできない。せめて敵の巡洋艦にでもあたらせてくれ」という隊員にたいし、上官は「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」と諭すところがある。これには驚いた。
1944年10月20日、マッカーサー率いるアメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。日本軍はこれを叩くべく「捷一号作戦」を発動していた。どんな作戦かというと、連合艦隊のうちの小沢艦隊が囮となって敵艦隊を北に吊り上げ、そのさなかに栗田健男提督の主力艦隊がボルネオを発してレイテ北側の海峡を抜け、レイテ湾に突入するという作戦だった。作戦に参加した日本海軍の構成を「日本の歴史」から引用しよう。
(1)栗田艦隊 大和・武蔵以下戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15
(2)小沢艦隊 瑞鶴、瑞鳳など空母4、日向、伊瀬の航空戦艦2、軽巡3、駆逐艦8
(3)西村艦隊 山城、扶桑の戦艦2、重巡1,駆逐艦4
(4)志摩艦隊 重巡2,軽巡1、駆逐艦4
この栗田艦隊突入を助けるため、神風特攻隊が編成された。ゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して、体当たりで空母に突撃するというものだった。これは海軍航空部隊の司令官大西滝治郎中将の発案である。
このとき神風特攻隊はそれなりの戦果をあげている。わずか数時間の攻撃で、神風機3機がアメリカの護衛空母二艦の甲板を破り、さらに5機が空母に体当たりして炎上沈没させたという。
しかし全体的にみればレイテ沖開戦は日本軍の惨憺たる大敗北だった。沈没したものだけで、戦艦3,航空母艦4,重巡6,軽3,駆逐艦8,潜水艦6で合計30にものぼる。まさに壊滅的な打撃である。これにたいして、アメリカの被害は、小型空母1,護衛空母2,駆逐艦3、魚雷艇1,潜水艦1の8隻に過ぎない。
栗田艦隊の武蔵は一度も砲門をひらくことなく轟沈し、自慢の大和の巨砲も役に立たなかった。囮の小沢艦隊はハルゼー麾下の大艦隊を北に引きつけてチャンスを作ったが、栗田中将は反転を繰り返し、結局はレイテ湾に突入せず、みすみすレイテ湾に集結した敵の輸送船団敵に打撃を与える千載一遇のチャンスを逸した。
この結果、囮になって空母4隻とともに全滅した小沢艦隊はまったくの犬死になってしまった。それどころか、レイテに残された8万余の陸軍部隊が孤立し、7万9千人が戦死するという悲惨な結末を余儀なくされた。さらに陸軍部隊の玉砕は民間人をまきこみフイリピン諸島全体に及んでいく。これは日本海軍の大失態だが、なぜだかこのことで栗田中将はじめ誰も責任を追及されなかった。またこの決定的な敗戦は国民に知らされることもなかった。
レイテ海戦については、ミッドウェー海戦とともに多数の本で取り上げられたいるが、ほとんどの著者が栗田艦隊の反転については疑問を投げかけている。栗田は戦後になっても沈黙を守り、他の関係者も口を閉ざす中で、これはいまだに歴史の謎であるが、「日本の歴史」は栗田艦隊反転の理由を一応次の二つに整理している。
(1)出撃した4つの日本艦隊とのあいだの無線連絡がきわめて悪く、不正確な情報や誤報に悩まされたこと。
(2)栗田長官らが敵の輸送船団と主力艦隊のどちらを撃滅目標にするかについて、明確な認識を欠いていたこと。
とくに深刻なのは(2)であろう。栗田艦隊は出撃するときから、レイテ湾突入に懐疑的だった。敵の主力艦隊と一戦交えたいという気持が強く、「本件は最早能否を超越し国運を賭して断行せられるもの」(大本営)という意志のもとに作戦本部が立案したこの作戦に終始否定的で、中央と意志疎通を欠き、溝が埋まらないまま出撃している。
これが(1)の無線連絡の不備の中で、「敵主力艦隊現れる」という誤報の電報に惑わされ、任務を放棄して反転することに繋がったと見るのが妥当だろう。海軍中枢部のこの作戦に賭ける思いを、栗田とその幕僚はついに共有できなかかったわけだ。
この敗戦によって、日本海軍はもはやほとんど手足をもがれた無力な存在となった。これを境にアメリカは日本海周辺の制海権と制空権を握り、やがてサイパン島を発したB29が日本本土襲撃を始め、東京も11月24日には初空襲に見舞われている。
こうした中で、特攻攻撃は継続された。そしてやがて「一億総特攻」という言葉まで生み出されていく。いったい特攻とは何であったのか。
2.生き残った特攻隊員
もう20年近く前になるが、私の職場の上司(教頭)のH先生が特攻の経験者だった。彼が定年退職するとき、同じ理科の教員ということもあり、私はもう一人若い理科の教員も誘って名古屋駅近くの料理屋に招待した。
H先生は中日文化賞を受賞するなど、教育の分野で大きな功績を残していた。後輩としていろいろ参考になる話を聞こうと思ったが、H先生は職場でも謹厳実直そのもので、滅多に口を開かない。さすが宴会ではにこにこしていたが、それでも寡黙だった。
ところが、私が彼の戦争体験を聞いたときから、雰囲気がかわった。彼が静かに自分の戦争体験を語りだしたのだ。寡黙な彼が、ときどき涙を浮かべながら話す内容は、私にとって衝撃的なことだった。私たちは口を閉じ、彼の語る世界に入った。
特攻では片道の燃料しか積まない。まさに死出の旅である。H先生はまだ19歳になったばかりで、この死出の旅に飛び立った。しかし、どうしても死にたくはなかった。「生きていたい」という思いが強まり、気がついたときには引き返していたのだという。
引き返しても、基地までもどる燃料はない。また戻っても待っているのは上官の譴責である。譴責ですめばよいが、軍法会議にかけられるかもしれない。同僚にも合わす顔がない。ふたたび反転しようかと思ったが、燃料がなかった。燃料切れで海上に落ちることになった。
飛行機から必死で脱出したものの、広い太平洋の真ん中である。それでもいましばらく生きていられるころがうれしかった。南国の青い空を眺め、死を覚悟しながら波に漂っていると、突然海面に潜水艦が浮上した。それは日本軍の潜水艦だった。こうして彼は奇跡的に生還した。
戦争が終わり、彼は学校に入りなおして教員になった。家庭を持ち、教員としての生活も精一杯尽くしてきた。「生きていてよかった」という思いと同時に、自分が特攻隊員として生き残ったことに、自責の念もあるのだという。それはとても重い告白だった。
私はこのとき、初めて特攻というもののむごさを意識した。それから、特攻隊員の遺書や手記をよく読むようになった。最近手にした角田和男さんの「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」には、特攻を前にして必死に精神のバランスを保とうとする若い特攻隊員たちの赤裸々な姿が描かれている。この本を読みながら、久しぶりにH先生のことを思いだした。
3.待ちに待った日米開戦
1941年12月8日午前7時、ラジオの臨時ニュースは「帝国陸海軍は本日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と報じた。さらにその日の正午、「億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲ征戦ノ目的ヲ達成」せよとの天皇の詔書を放送した。
皇居の二重橋前の広場には、国民が詰めかけ、土下座して宮城を拝する者もいた。官庁には「進め一億火の玉だ」「屠れ米英我らの敵だ」という垂れ幕がさげられ、全国の映画館と劇場では午後7時から興業を一時中断し、東条首相の「大詔を拝し奉りて」の録音放送を観客に聞かせた。
1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発した日中戦争が4年間続いていたが、戦局は泥沼化するばかりで進展はなく、米英から経済封鎖を受ける中で国民生活も圧迫され、日本には閉塞感が重苦しく漂っていた。
徳川無声も12月4日の日記に「日米会談、相変わらず危機、ABCD包囲網益々強化、早く始まってくれ」と書いている。それだけに日米開戦とそれに続く帝国陸海軍の快進は、国民を狂喜させた。高名な詩人の北原白秋は次のような歌を詠んだ。
天にして雲うちひらく朝日かげ
真澄に晴れたるこの朗ら見よ
この歌は国民の多くの気持を代弁していた。桑原武夫は「暗雲が晴れた。スーッとしたような気持」と書き、河上轍太郎も「今本当に心からカラッとした気持でいられる」と書いた。戦後東大総長となった政治学者の南原繁は開戦の詔勅を聞いたときの心の高まりを、次のような和歌に託した。
人間の常識を超え学識を超えて
おこれり日本世界と戦ふ
「それからまもなく昼頃戦果の発表でしょう。そうしたら、ぽろぽろ涙が出てきた。支那事変というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」
戦後作家になった阿川弘之もこのように当時を回想している。翌年2月15日にシンガポールが落ちると、首相官邸や陸海軍省に日の丸の小旗を持った市民や学生がおしかけた。18日の祝賀式では、東条首相のラジオによる「天皇陛下万歳」の三唱に、ラジオの前に集まった何千万という国民が唱和した。
この日、皇居の二重橋前の広場は数万の群衆でうめつくされた。午後1時55分、愛馬「白雪」にまたがった天皇が二重橋の上に現れると、「天皇陛下万歳」の声がわき上がり、君が代の大合唱となった。やがて人気絶頂の霧島昇や藤山一郎らが歌った「大東亜決戦の歌」が国民に愛唱された。
起つや忽ち 撃滅の
かちどき挙がる 太平洋
東亜侵略 百年の
野望を ここに覆す
今決戦の 時きたる
こうして国民の熱狂的支持を得て、大西洋戦争は始まった。しかし、国民には知らされていなかったが、この戦争の先行きが暗いことは、戦争を裁可した天皇も政府も軍部の上層部も知っていた。
1941年におけるアメリカの主要物資生産高は日本の76倍以上もあった。そして日本は石油や屑鉄をはじめ主要な産物をほとんど米英から輸入していた。とくに石油について、鈴木貞一企画院総裁は11月5日の御前会議で、「3年後の1944年末には軍需民需ともに需用困難におちいる」とはっきり述べていた。
その数ヶ月まえの9月6日、天皇は近衛首相立ち会いのもと、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を宮中に呼び出し、作戦計画について下問している。南方作戦によって石油の確保は可能だという杉山に対して、天皇は「お前の大臣の時に蒋介石は直ぐに参るといふたが、未だにやれぬではないか」と追求した。天皇の「絶対に勝てるのか」という大声の下問に、杉山は「絶対に勝てるとはとはもうしかねます」とあやふやな答をするしかなかった。
11月4日に開かれた天皇臨席の軍事参議院会議で、永野は「開戦二カ年の間必勝の確信を有するも、将来長期にわたる勝局においては予見し得ず」と正直に述べている。東条英機首相兼陸相も、「戦争の短期終結は希望するところにして、種種考慮する所あるも名案なし。敵の使命を制する手段なきを遺憾とす」と述べていた。
満州事変や日中戦争は出先機関の暴走によってはじまった。これに対して、太平洋戦争は天皇の臨席のもと、慎重な会議を重ねての決断である。しかも、その会議でだれもが勝利の確信を述べることをしなかった。それではどうして天皇はじめ重臣達はこのような先の見えない無謀な戦争に踏み切ったのか。
それは重臣達もまた当時の重苦しい閉塞的な気分にうんざりしていたからだろう。そうした中で軍部を中心に不穏な動きがあった。当時朝日新聞社の主筆だった緒方竹虎が、そのころの国内の雰囲気を次のように伝えている。
「当時の国内情勢を大袈裟にいへば、外に戦争に訴えるか、内に内乱に堪へるか、二つに一つを択ぶ外ないような時局であった。それほど軍およびそれに引きずられた好戦的の勢ひを抑え難い事態だったのである」
東条はこうした軍の暴走を抑えるためにあえて首相にしたのだが、結局、会議は東条の「二年間は南方の要域を確保し得べく全力を尽くして努力せば、将来戦勝の基は之に因り得るを確信す」という根拠のない楽観にもとづいた確信に押し切られてしまった。
「無為に自滅をもとめず、死中に活を求めるべき」だという東条の主張に、対米慎重論者の海軍大将・米内光政元首相は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分ご注意願いたい」と発言した。しかし、このとき連合艦隊はすでに、真珠湾を目差していた。
真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、戦略的には失敗だった。しかし、このあと、日本軍は戦術的にも失敗を繰り返し、自滅への道をたどっていく。その象徴が「特攻攻撃」であろう。まさに「ジリ貧を避けんとしてドカ貧」になったわけだ。
開戦の理由について、ABCD包囲網や資源の枯渇をあげる人がいる。天皇も戦後「石油」が開戦の理由だったとのべたことがあった。しかし、これはアメリカから出された条件をもっと真剣に検討し、妥協すれば回避できたことである。事実アメリカは「ハルノート」で日本に互恵的最恵国待遇を約束していた。
<米国政府及び日本国政府は、両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする米日間通商協定締結のための交渉に入るものとす。右通商障壁引き下げには生糸を自由品目に据え置くべき米国による約束を含むものとす。米国政府及び日本国政府は、各々米国にある日本資産及び日本にある米国資産に対する凍結措置を撤廃するものとす>
「屈辱的な要求により、やむを得ず開戦に至った」などという論調が今もまかり通っていることに対して、この人たちが本当にハルノートを真剣に読み、その精神を理解しようとしたことがあるのか疑問に思わざるを得ない。
<合衆国政府及日本国政府は、共に太平洋の平和を欲し、其の国策は太平洋地域全般に亙永続的且広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於て何等領土的企図を有せず、他国を脅威又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく、又其の国策に於ては、相互間及一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し、且之を実際的に適用すべき旨闡明す>
米内首相が主張したように、ナチスドイツを排してアメリカと組む事がもっとも理性的な選択だったわけだ。その上で、これを逆手にとって東南アジアの独立に寄与すれば、日本は今も世界から尊敬される国として大いに繁栄していたことだろう。残念ながら、天皇をはじめ当時の指導者にはそうした英明さはなく、事情を知らない軍や国民の不満と盲目的な熱狂に押し流されていくしかなかった。
(参考文献)
「昭和の歴史 7 太平洋戦争」 木坂順一郎著 小学館
4.尾崎行雄翁の抵抗
米英開戦の翌年、連勝祝賀でわきたつ世論を背景に、東条内閣は万全の下準備のもと、4月30日に総選挙を行った。東条はこの選挙で、候補者の推薦制を実施すると宣言していた。
推薦制というのは、すでに一部の地方選挙で行われていた。つまり、地方の有力者が候補者を推薦し、他の立候補をみとめず、そのまま無投票で当選を決めてしまうやり方だ。
もちろんこんなことは憲法違反であり、いくら戦時中だと言えやってはならないことだ。しかし、東条はこれを行うべく、翼賛政治協議会をつくり、議員定数の466名の候補者を推薦させた。
これに先だって、警視庁情報課が現職代議士を次の3つのグループに分類した「立候補適格者名簿」を作成している。
(甲)時局に即応し、率先垂範国策遂行のため他を指導し、代議士たるの職務を完遂し得る人物(85名)
(乙)積極的活動なきも時局に順応、国策を支持し反政府的言動なき人物(207名)
(丙)時局認識薄く徒らに旧態を墨守し常に反国策的・反政府的言動をなし又は思想的に代議士として不適当なる人物(138名)
憲政の神様と呼ばれ、連続当選20回、東京市長をはじめ、文部大臣、司法大臣を歴任した尾崎行雄は、この「立候補適格者名簿」では徒らに旧態を墨守する非適格者の丙に分類され、翼賛政治協議会の推薦も得られなかった。しかし、すでに82歳だった尾崎翁はいささかもひるむことなく、無所属で立候補した。
それどころか同じく無所属で立候補した人たちの応援にたった。これをよしとしない官憲は、尾崎の応援演説の中に天皇に対する不敬があったったとして、投票1週間前に逮捕し留置所に拘置する。
尾崎翁の不敬罪というのは、「売家と唐様で書く三代目という川柳がある。たいてい三代目になると没落する。しかし日本は明治天皇が英明で憲法をおつくりになったおかげで大正天皇、今上天皇の代になって日本はますます発展した」という発言に対するものだった。
「畏くも天皇陛下が川柳の三代目に当らせらるるかの感を与える」ところが不敬だというのだから、あきれるしかない。幸い尾崎はそれでも当選した。しかし、裁判は非公開で行われ、12月21日には東京刑事地方裁判所は懲役8ケ月、執行猶予2年の判決が下された。尾崎はただちに大審院に上告した。
大審院の判決が下ったのは、東条が職を退き、敗戦間近の1944年6月29日のことだ。三宅正太郎裁判長は尾崎に不敬の心はないとして、尾崎を無罪と断じた。さらに「被告人は謹厳の士、明治大正昭和の三代に仕ふる老臣なり。その憲政上に於ける功績は世人周知のところ」と尾崎を誉め讃えた。昭和の名判決といわれるゆえんだ。
東条の翼賛選挙で、推薦候補はひとりあたり5千円の資金援助をうけるなど、政府や軍部から手厚い援助をうけた。在郷軍人会や町内会、隣組の常会が開かれ、内相自らがラジオを通じて全国民に「翼賛選挙」の意義を訴えた。新聞や雑誌もこぞって翼賛選挙を応援した。
これに加えて、非推薦の候補には官憲による厳しい取り締まりや恫喝、いやがらせが加えらた。その結果、東条政権をささえる翼賛政治協議会が推薦する466名の候補のうち381名が当選し、翼賛候補の当選率はなんと81パーセントをこえた。これによって、東条政権は独裁的な地位を掌中に収めた。
しかし、当時の状況の中でも、尾崎をはじめ非推薦候補が85名当選している。419万票、34パーセントの票が非推薦候補に投じられていた。まだこれだけの人たちが、東条内閣に批判的だったわけだ。
非推薦候補として当選した人の中には、極右翼的な立場から東条は手ぬるいと批判する人たちも少なからずいたが、1940年2月の国会で反軍演説を行い、議員の身分を剥奪された斎藤隆夫のような軍部独裁に批判的な人もいた。彼は兵庫五区から立候補し、トップ当選を果たしている。どんな時代にも骨のある政治家がいて、勇気ある有権者がいた。
なおこの総選挙は本来ならば、1941年に行われるべきものだった。ところが近衛内閣は、日中戦争が泥濘に入り、世論が政府に批判的だと判断して、特別立法で総選挙を1年間延長した。
この間に太平洋戦争が勃発し、世論が一気に政府や軍部に友好的になったわけだ。こんなことができたのも、大政翼賛会に支えられた近衛内閣だったからだ。これも憲政上きわめて異常なことだと言わなければならない。
5.石橋湛山の先見の明
戦前・戦中、「満州は日本の生命線」だといわれた。満州を失い、朝鮮を失えば日本は滅びると考えて、これらの植民地を死守すべく、愚かな戦争に突入していった。そしてこの侵略戦争を、「大東亜共栄圏の建設」とか、「八紘一宇」などと呼んで美化していた。
こうした傾向を、戦前から鋭く批判し、日本に植民地は必要ではなく、日本の活路は米英との協調関係にあると説いていたのが石橋湛山(第55代内閣総理大臣)である。彼が大正十年のワシントン海軍軍縮会議に際し、『東洋経済新報』 に発表した二つの社説を紹介しよう。
これを読めば、アメリカが突きつけてきた「ハルノート」もそうやみくもに拒否すべきものであったかどうか疑問になるだろう。すでに日本側から、こうしたことを石橋湛山は委曲を尽くして主張していたからだ。
文章の引用は瀬戸内パイレーツさんが掲示板で紹介して下さったHP(アドレスを下記)からさせていただいた。石橋湛山の文章は、「戦う石橋湛山」(半藤一利著 東洋経済新報社)からの引用だそうである。
<例えば満洲を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常な苦境に陥るであろう。
なんとなれば彼らは日本にのみ、かくのごとき自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保ちえずに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、日本が台湾・朝鮮に自由を許したごとく、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。
これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、ひとたびこの覚悟をもって会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するであろう。
ここにすなわち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、これこそがその唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である。
以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりをする人があるかも知れぬ。小欲に囚わるることの深き者には、必ずさようの疑念が起こるに相違ない。朝鮮・台湾・満洲を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリアもいらない、そんなことで、どうして日本は生きていけるかと。
キリストいわく、「何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ。汝らまず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆、汝らに加えられるべし」 と>(「一切を棄つるの覚悟」七月二十三日号)
<朝鮮・台湾・関東州、この三地を合わせて、昨年、我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。すなわち経済・貿易を重視するならば、三植民地より後者三国のほうが欠くべからぎる国であり、よっぼど重要な存在ということになる。
しかも、中国およびシベリアにたいする干渉政策が、経済上からみてどんなに不利益をもたらしているかを知るべきである。つまり中国およびロシア国民のうちに日本にたいする反感をいっそう高め、経済的発展の障害となっている。この反感は、日本が干渉政策をやめないかぎり、なくならない。
それゆえに、結局のところ、朝鮮・台湾・樺太を領有し、関東州を租借し、支那・シベリアに干渉することが、我が経済的自立に欠くべからぎる要件だなどいう説が、全くとるに足らざるは、以上に述べたごとくである。
我が国に対する、これらの土地の経済的関係は、量において、質において、むしろ米国や、英国に対する経済関係以下である。これらの土地を抑えて置くために、えらい利益を得ておるごとく考うるは、事実を明白に見ぬために起こった幻想に過ぎない。・・・
日本の政治家も軍人も新聞人も、異口同音に、「わが軍備は他国を侵略する目的ではない」という。では他国から侵略される恐れはあるのか。仮想敵国は以前はロシアだといい、いまはアメリカだという。では問うが、いったいアメリカが侵略してきて日本のどこを奪ろうというのか。
日本の本土のごときは、ただで遣るといってもだれも貰い手はないであろう。むしろ侵略の恐れのあるとすれば、わが海外領土にたいしてであろう。それよりも何よりも、戦争勃発の危険のもっとも多いのは、中国またはシベリアなのである。
我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする、我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。しかしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲わるる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満洲・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出ずるならば、戦争は絶対に起こらない、したがって我が国が他国から侵さるるということも決してない。
論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。
しかるに世人は、この原因と結果とを取り違えておる。謂えらく、台湾・支那・朝鮮・シベリア・樺太は、我が国防の垣であると。安(いずくん)ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。しかして我が国民はこの垣を守るがために、せっせといわゆる消極的国防を整えつつあるのである。吾輩の説くごとく、その垣を棄つるならば、国防も用はない。あるいはいわく、我が国これを棄つれば、他国が代わってこれを取ろうと。しかりあるいはさようのことが起こらぬとも限らぬ。しかし経済的に、既に我が国のしかく執着する必要のない土地ならば、いかなる国がこれを取ろうとも、宜いではないか。
しかし事実においては、いかなる国といえども、支那人から支那を、露国人からシベリアを、奪うことは、断じてできない。もし朝鮮・台湾を日本が棄つるとすれば、日本に代わって、これらの国を、朝鮮人から、もしくは台湾人から奪い得る国は、決してない。
日本に武力があったればこそ、支那は列強の分割を免れ、極東は平和を維持したのであると人はいう。過去においては、あるいはさようの関係もあったか知れぬ。しかし今はかえってこれに反する。日本に武力あり、極東を我が物顔に振る舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見ゆるので、列強も負けてはいられずと、しきりに支那ないし極東をうかがうのである。>(大日本主義の幻想)
日本が愚かな戦争をし、そして敗れたのは、指導者に世界に通用する戦略なかったからだ。そうした意味で、石橋湛山は米英に対抗できる貴重な戦略家だった。そして彼がすぐれた戦略家たりえたのは、彼が世界に通用する世界観と歴史観、哲学を持っていたからだ。現在の私たちも彼から多くのことを学ぶことができる。
(参考サイト)
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_ishibashi.html
6.自由と秩序
個人の自由と社会の秩序をどう調和させるかということは、いつの時代でも大きな問題である。個人の自由を尊重し、これに重きを置くべきたとする人と、社会の秩序を重んじ、個人の自由は制限されるべきだとする人がいる。
しかし、個人の自由か社会の秩序かという二項対立はディベートとしては面白いが、あまり実りあるものをもたらさない。なぜなら、個人の自由は秩序のよく保たれた良質な社会があって可能なことであり、良質な社会もまた自由な個人の存在に支えられているからだ。
自由な個人を希求することと、秩序の維持された良質な社会を希求することは、何も矛盾することでも対立することでもない。それは車の両輪のように助け合って機能し、おたがいに手を取りあって前進する。そしてこの両者によって個人と社会がゆたかになる。
こうした観点にたって、とくに「言論の自由」を尊重する良質な個人主義論を展開したのが、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)である。彼はとくに「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。彼の「自由論」(1859年)から引用してみよう。
<個性の自由な発展は幸福の主要な要素である。それはまた、文明、知識、教育、教養といった言葉で表現されているもの必須の要素でもある。このことが痛感されているならば、自由の軽視される危険は存在せず、自由と社会による統制との境界を調整することについても、特別の困難を惹起しないであろう。
不幸なことに、一般の考えによると、個人の自発性が固有の価値をもち、それ自体のゆえに尊敬に値するものであることは、ほとんど認められていない。大多数の人々は、現在のままの習慣に満足しているので、これらの習慣が必ずしもすべての個人にとって満足すべきものではないわけを理解することができない>
<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。
もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>
<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>
<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない。
これこそは公の道徳である。この道徳はしばしば守られていないが、これを誠実に守っている人がいて、さらに守ろうとして良心的に努力している人々も大勢いる。このことを私はとても嬉しく思っている>
<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない。
人類が現在よりもはるかに進歩して、真理のすべての側面を認識できるようになるまでは、意見の相違は害悪ではなくてむしろなくてはならぬものである。そしてこのことは、意見の相違だけではなく、人間の様々な行動においてもいえる。社会の発展のためには、異なった意見が存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験が存在していることもまた有益なのである>
ミルはこの著によって「自由」がいかに社会に有益で重要なものであるかをあきらかにした。民主主義もまたこの「自由」の培地の中で育つわけだ。こうしたすぐれた古典が学校で教えられ、家庭で読まれて、もっと多くの人々に共有されれば、民主主義や個人主義について世間に流布する誤解もおおかた解消するだろう。
(参考文献)
「今こそ読みたい哲学の名著」 長谷川宏 光文社
7.戦う石橋湛山
いつも4時頃には起きているのだが、今日は起床が5時半だった。最近はときどき寝坊する。まあ、これでも大方の人よりは早いかも知れないが、早起きを身上としている私には寝坊である。
寝坊の原因はいろいろとあるが、今日の場合は2時頃にトイレに行ったことだろう。さすが2時に起きる気はしないので、もう一眠りした。しかしその後の眠りが浅く、おかしな夢ばかりみた。これでリズムが狂ったらしい。
こういうパターンは避けたいのだが、これがときどき繰り返される。おかしなリズムができそうだ。困るのは清浄な朝の時間が少なくなることだ。日記を書く時間もなくなり、内容も疎かになる。今日の日記がその例である。
予定していたテーマはあるが、何だか気力がわかない。かわりに昨日から読み始めた半藤一利さんの「戦う石橋湛山」(東洋経済新報社)について書こうと思ったら、うまい具合に掲示板に植田さんが、この本を読まれた感想を投稿して下さった。ここに引用させていただくことにする。
−−−−−「戦う石橋湛山」に学ぶ −−−−−−−−
掲示板でみなさんにお知らせしたくなって投稿します。
「日記」11/4付で紹介されていた「石橋湛山の先見の明」を拝見し、Amazonで標記の本を購入して一読しました。徹底した湛山の反戦論もさることながら、満州事変から上海事件、国際連盟脱退に至る軍国主義への急展開に朝日・毎日の二大新聞が戦意を煽り立て、大衆を戦争への熱狂と興奮に誘導した流れが当時の記事を証拠に跡付けられていて、唖然とする思いでした。
今までは言論の自由を圧殺した軍部権力の責任が大きいと思い込んでいたのですが、軍部も世論の後ろ盾があったからこそ謀略を重ねて侵略を進めることができたのです。当時もマスコミが世論の形成に大きな力をもっていたことが分かります。
これは過去の事実に止まりません。小泉首相の民営化解散の場合も、マスコミは問題の本質を論じることを忘れて解散に賛成し、「刺客を放った」とか「小泉チルドレン」とか、コマーシャルまがいの新語をばらまいて、世論を小泉支持に誘導したとしか言えないからです。
今後もマスコミへ監視と批判の目をそらしてはならないと痛感します。因みに、私たちのHPでも石橋湛山の反戦論について紹介しています。自虐史観とか謝罪外交の是非を語る前に、昭和5年から日米開戦までの史実を認識することが、平和の大切さを説得する大きな力になり得ると思います。
http://www.geocities.jp/shougen60/
−−−−−−−−−−−−−
現在6時である。この日記、今日は15分間で書くことができた。これは新記録だ。植田さん、ありがとうございました。私も今日一日かけて、じっくり読んでみたいと思っています。
8.愚かなる神宮建設
通勤電車で毎日「石橋湛山評論集」(岩波文庫)を少しずつ味わいながら読んでいる。明治から大正の初めの頃に「東洋経済新報」などに掲載されたあたりを読んでいるが、その内容が少しも古くなっていないのに驚く。
今日は大正元年9月の「東洋時論」に掲載された「愚かなる神宮建設の議」という評論を紹介してみよう。明治天皇がなくなり、国民は悲しんだ。天皇の功績をたたえるために神宮を建設しようという声が高まる。これに湛山は反対である。
<或る一部から多大の希望を嘱せられて東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎は、その就任最初の事業として、日枝(ひえ)神社へお参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。そうしてその第一の事業もなかなか世間の賞賛を博したが、第二の事業はまた素晴らしい勢いで、今やほとんど東京全市の政治家、実業家、学者、官吏、それからモップの翼賛する処となっておるようである。
しかしながら、阪谷男よ。それからその他の人々よ、卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。卿らはわずかに東京の一地に一つの神社くらいを立てて、それで、先帝陛下と、先帝陛下によって代表せられたる明治時代とを記念することが出来ると思っているのか>
湛山によれば、明治時代の最大特色は人々が考えているように「帝国主義的発展」にあるのではない。大戦争を経験し、陸海軍が盛大になり、台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった。しかしこうしたことは、明治という時代の一面にすぎないという。
<その最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度および思想に、デモクラチックの改革を行ったことにあると考えたい。軍艦をふやし、師団を増設し、而して幾度かの大戦争をし、版図を拡張したということは、過去五十年の時勢が、日本を駆ってやむをえず採るらしめた偶然の出来事である、一時的の政策である。
一時的の政策、偶然の出来事は、時勢が変われば、それと共に意義を失ってしまう。しかし、明治元年に発せられた世に有名な御誓文を初めとして、それ以後明治八年の元老大審院開設の詔勅、明治十四年の国会開設の詔勅において、いくたびか繰り返されて宣せられた公論政治、衆議政治即ちデモクラシーの大主義は、今後ますますその適用の範囲を拡張せられ、その光輝の発揮せらるることありとも、決して時勢の変によってその意義を失ってしまうようなことはない。
而してもし明治時代が永く人類の歴史の上に記念せらるるとすれば、実にこの点においてでなければならぬ。しかも我が国民の上下は果たしてこの点においてどれほど深く明治時代の意義を意識し、而してこれを完成するの覚悟をもっておるであろうか>
一介の科学者であるノーベルが永遠に世界の人々の心に残るのは、「その資産を世界文明のために賞金として遺した」からである。湛山はこのノーベルの例を持ち出し、明治天皇の功績を世界に知らしめるために、一木造石造の神社建設に夢中になって運動し回るのはやめて、「明治賞金」をつくれと提唱する。
<東京のどこかに一地を相して明治神宮を建てつるなどということは実に愚かな極みである。こんなことは、断じて先帝陛下の御意志にもかなったことではないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも吾人は先帝の遺された事業を完成することを考えねばならぬ。而してもし何らか形に現れた記念物を作らんと欲するならば「明治賞金」の設定に越して適当なものはない>
湛山がいうように「明治賞金」が出来ていたら面白かったにちがいない。この資金で近代化のために努力しているアジアやアフリカの人々や団体を励ますことができただろう。世界に対する宣伝効果ははるかに大きなものがあったに違いない。そして、これが日本国民に与えた影響も大きかっただろう。
しかし、日本はそうした道を進まなかった。国内のみならず植民地にまで神社を建設し、植民地の人々に礼拝を強要した。こうして神国日本の神話が作られていった。明治天皇の死がその契機になっていることが、湛山の文章を読むとよくわかる。
9.大日本主義の幻想
戦没者の手記「きけわだつみの声」(岩波文庫)の巻頭にあるのが、陸軍特別攻撃隊員として、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死した上原
良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 -
1945年5月11日。享年22歳)の「所感」という遺書である。
<愛する祖国日本をしてかつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら 日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人
これが私の夢見た理想でした。>
彼は遺書の中に堂々と「人間の本性である自由を滅ぼすことは絶対に出来ない」と書き、「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です」と断言している。筋金入りの自由主義者で理性主義を信念として披瀝する上原良司
さんのような知的エリートにとって、「天皇陛下万歳」は論外で、たとえ口に出してもタテマエの世界でしかなかったようだ。
しかし、この遺書には「大英帝国のようになりたい」というの彼の本音が、「野望」という表現で正直に書かれている。そしてこの野望は彼だけのものではなく、当時の日本人の多くが共有した思いだったのだろう。
つまり、当時のほとんどの人々は「大英帝国のようになりたい」という野望を持っていたのではないか。そしてこの野望が、軍部の独走を許し、日本に軍国主義をはびこらせ、侵略戦争へと日本を導いたのではないだろうか。
当時多くのジャーナリズムがこの野望を掻き立てるなかで、石橋湛山はこうした日本帝国主義の野望を、「亡国へ導くものだ」と鋭く批判している。大正10年7月の東洋経済新報社の社説「大日本主義の幻想」から引用しよう。
<政治家も軍人も、新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。我が輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。
しかしながら我が輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的がないとすれば、他国から侵略せらるる恐れのない限り、我が国は軍備を整うる必要のないはずだが、一体何国から我が国は侵略せらるる恐れがあるのかということである。(略)
我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする。我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。
そしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲われる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。従って我が国は他国から侵さるるということも決してない。
論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない>
湛山はこの日本帝国主義の「野望」の背景に経済問題があると考えている。その上で、「一体、海外へ、単に人間を多数送り、それで日本の経済問題、人口問題を解決しようなどということは、間違いである」と断言し、その理由について経済的な立場から精密に考察している。また、当時の世界の世論からも政治的にもこれが不可能であることを主張する。
<昔、英国等が、しきりに海外に領土を拡張した頃は、その被侵略地の住民に、まだ国民的独立心が覚めていなかった。だから比較的容易に、それらの土地を勝手にすることが出来たが、これからは、なかなかそうは行かぬ。
世界の交通および通信機関が発達すると共に、いかなる僻遠の地へも文明の空気は侵入し、その住民に主張すべき権利を教ゆる。これ、インドや、アイルランドやの民情が、この頃むずかしくなって来た所以である。
思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(略)
賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある。而して彼らの道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場を十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山の安き得るであろう。大日本主義に価値ありとするも、即ちまた、結論はここに落つるのである(略)
朝鮮・台湾・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。
もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐げるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げられたるる者の盟主となって、英米をよう懲すべし。この場合においては、区々たる平時の軍備の如きは問題ではない。戦法の極意は人の和にある>
これは大正10年に書かれた文章だが、領土拡大の「野望」ではなしに世界の平等と平和を願う「理想」こそが、日本を平和と繁栄に導くものだという主張を、湛山は終戦にいたるまでかえていない。いくつか引用しておこう。
<今日の我が政治の悩みは、決して軍人が政治に関与することではない。逆に政治が、軍人の関与を許すが如きものであることだ。黴菌が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気だと知るべきだ>(昭和12年2月14日社論)
<ドイツ国民は、どうしてかかる悲惨な結末に陥ったか。その最も重大な責任が指導者に着せられなければならないことはいうまでもない。(略)
しかしまた国民全般に責任の存することは免れない。彼らには憲法もあり、議会もあった。しかしそれを彼らは自ら運用せず、国家と国民との全運命を挙げてナチスの独裁に委した。ドイツ国民に数々の長所美点の存することは、世界の等しく認める所だが、遺憾ながら政治においては能力足らず、もしくは訓練不足であったといわねばならぬ。ナチス指導者にいかなる欠点ないし過失があったとしても、その災いは国民自身が求めてこれを招いたというも過言ではない>(昭和20年6月23日社論)
ドイツを批判する言葉は、そのまま日本の軍部独裁への批判でもある。「その災いは国民自身が求めてこれを招いた」という言葉に、日本もおなじだ、という思いが透けて見える。これは軍部を「黴菌」と呼び、東条内閣の政策を「愚作中の愚作」(昭和19年8月5日)と罵倒してきた湛山だからこそ吐ける言葉だろう。
「真に日本を愛する者をして立たしめたなら
日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います」と書いた上原良司
さんは、湛山を読んでいたのかもしれない。もっと多くの日本人が、「野望を棄てて、理想に生きよ」という湛山の声に耳を傾けていたら、日本の運命も変わっていたことだろう。
そうすれば、早世した特攻隊員たちにも、ジャングルやツンドラで餓死した兵士たちにも、そして焼夷弾や原爆で死んだ多くの人たちにもまた別の人生があった。「世界どこにおいても肩で風を切って歩く」誇らしい日本人としての洋々たる未来がひらけていたに違いない。
10.幻想に生きなさい
石橋湛山は大正10年に「大日本主義の幻想」を書いて、早い時期から日本の軍国主義に警鐘をならした。徹底した合理主義者で、彼の平和主義は戦時中もぶれることはなかった。戦後は総理大臣になったが、病に倒れて2ケ月で辞職し、彼の理想を実現できなかったことは残念である。
札付きの平和主義者といえば、私の脳裏に浮かぶのはバートランド・ラッセルだ。彼はイギリスの第一次大戦参戦に反対し、投獄されている。彼もまた「大英敵国の幻想」を批判し続けた。「天才の秘密」から引用しよう。
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How to become a man of genius
If there are among my readers any young men
or women who aspire to become leaders of
thought in their generation, I hope they
will avoid certain errors into which I fell
in youth for want of good advice.
When I wished to form an opinion upon a subject,
I used to study it, weigh the arguments on
different sides, and attempt to reach a balanced
conclusion. I have since discovered that
this is not the way to do things. A man of
genius knows it all without the need of study;
his opinions are pontifical and depend for
their persuasiveness upon literary style
rather than argument. It is necessary to
be one-sided, since this facilitates the
vehemence that is considered a proof of strength.
It is essential to appeal to prejudices and
passions of which men have begun to feel
ashamed and to do this in the name of some
new ineffable ethic. It is well to decry
the slow and pettifogging minds which require
evidence in order to reach conclusions. Above
all, whatever is most ancient should be dished
up as the very latest thing.
There is no novelty in this recipe for genius;
it was practised by Carlyle in the time of
our grandfathers, and by Nietzsche in the
time of our fathers, and it has been practised
in our own time by D. H. Lawrence. Lawrence
is considered by his disciples to have enunciated
all sorts of new wisdom about the relations
of men and women; in actual fact he has gone
back to advocating the domination of the
male which one associates with the cave dwellers.
Woman exists, in his philosophy, only as
something soft and fat to rest the hero when
he returns from his labours. Civilised societies
have been learning to see something more
than this in women; Lawrence will have nothing
of civilisation. He scours the world for
what is ancient and dark and loves the traces
of Aztec cruelty in Mexico. Young men, who
had been learning to behave, naturally read
him with delight and go round practising
cave-man stuff so far as the usages of polite
society will permit.
One of the most important elements of success
in becoming a man of genius is to learn the
art of denunciation. You must always denounce
in such a way that your reader thinks that
it is the other fellow who is being denounced
and not himself; in that case he will be
impressed by your noble scorn, whereas if
he thinks that it is himself that you are
denouncing, he will consider that you are
guilty of ill-bred peevishness. Carlyle remarked:
'The population of England is twenty millions,
mostly fools.' Everybody who read this considered
himself one of the exceptions, and therefore
enjoyed the remark. You must not denounce
well-defined classes, such as persons with
more than a certain income, inhabitants of
a certain area, or believers in some definite
creed; for if you do this, some readers will
know that your invective is directed against
them. You must denounce persons whose emotions
are atrophied, persons whose perceptions
are limited, persons to whom only plodding
study can reveal the truth, for we all know
that these are other people, and we shall
therefore view with sympathy your powerful
diagnosis of the evils of the age.
Ignore fact and reason, live entirely in
the world of your own fantastic and myth-producing
passions; do this whole-heartedly and with
conviction, and you will become one of the
prophets of your age.
(読者の中で、当代の思想的指導者になりたいという大望をもし抱いている若者がおられたら、適切なアドバイスがなかったために私が若い頃陥ったある種の過ちをさけることを希望する。
ある事柄(主題)に関して自分の意見をまとめたいと思った時、私はいつも、それについて調査・研究し、種々の議論について各方面から比較考量し、そうすることによってバランスのとれた(妥当な)結論に到達しようと試みてきた。しかし私はその後、このやり方はあまり適切ではないことに気づいた。天才は調査・研究の必要なしに、その事柄を理解する。彼の見解は(教皇のように)威厳があり、その説得力は論証よりも文学的スタイルによっている。意見は一方的である必要がある。なぜなら、意見の一方性は、強さの証拠と考えられる'激しさ'を助長するからである。民衆が恥かしさを感じ始めた(彼らの)偏見ないし感情に訴えかけ、またそれをいくらか新しい、口では言えない倫理の名のもとに行なうことは、不可欠である。結論に到達するためには証拠が必要だと考える、頭が鈍く屁理屈を言う精神(知性)をけなすのもよい。とりわけ、なんであれ、最古のものを最新の物として並べ立てられなければならない。
天才になるためのこの処方箋に、新奇性は全然ない。これは、われわれの祖父の時代にカーライル(1785〜1881)によって、我々の父親の時代にニーチェ(1844〜1900)によって、そして現代の我々の時代にD.H.ロレンス(1885〜1930)によって、実際に使われた手である。ロレンスは、彼の信奉者(崇拝者)によって、男女の諸関係についての、あらゆる種類の、新しい知恵を体系的に述べたと考えられているが、事実はその逆であり、彼は(石器時代の)穴居人と結びついているあの男性支配の擁護(唱道)へと立ちもどったのである。彼の哲学によれば、女性は、労働からもどった英雄(勇士)を休息させるための、ある種の柔かく肥えたものとしてのみ存在する。文明社会は、女性にそれ以上の価値を認めることを学習してきたが、ロレンスは文明の価値をいっさい認めないだろう。彼は、古来の、正体不明なものを探しもとめて世界を駈けめぐり、メキシコでアズテカ人の残虐性の名残りを(見て)慈しむ。行動することを学び続けてきた若者たちは、当然ながら彼の作品=小説など)を喜びをもって読み、この種の穴居人の真似を、上流社会の慣習が許す範囲で実践する。
天才になる(である)ための秘訣の最重要要素の一つは、告発の技術の習得である。あなた方は必ず、この告発対象になっているのは自分でなくて他人であると読者が考えるような仕方で告発をしなければならない。そうすれば、読者はあなたの高貴な軽蔑に深く感銘するだろうが、告発の対象が他ならぬ自分自身だと感じたと同時に、彼はあなたを育ちの悪い偏屈な人間だと非難するだろう。
カーライルは言った、「イギリスの人口は二千万、その大部分は馬鹿者。」この科白を読む者はだれでも皆、自分はその例外者の中の一人だと決めこんで面白がる。諸君はまた明確に定義されうる集団、たとえば年収いくら以上の人々とか、ある特定地域の居住者とか、ある特定の教義の信奉者等々を告発してはならない。つまりその場合には一部の読者は必ずや、諸君の悪罵が自分に向けられていることを知るだろう。諸君はその情緒が萎(な)えた人々、視野が限られた連中、こつこつ勉強してはじめて真理を知りうるタイプの人々を告発しなければならない。つまり我々は皆、この種の人々が自分以外の連中だと知って、安心して諸君による現代の悪弊の強力な告発に共感するわけである。
あえて事実と理性を無視し、あなた方自身の幻想的で神がかった情念の世界の中だけに生きなさい。確信をもって大まじめにこれを実践しなさい。そうすれば、あなた方は間違いなく時代の預言者の一人になれるだろう。)
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/GENIUS.HTM
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実証的で論理的な科学的知性を重んじる理知の人ラッセルの、カーライルやニーチェやロレンスに対する批判は痛烈である。私はカーライルやニーチェやロレンスのあの断定的な預言者のような名文句に陶酔するほうなので、冷徹なラッセルの言葉を常にその解毒剤としてかみしめるようにしている。
11.中国を敵視するなかれ
石橋湛山を読んでいると、戦前・戦中に書かれた文章とは思えないほどリアリティがある。そのまま現代日本を批判する言葉として通用しそうだが、これはそれだけ現代の日本が戦前に近づいたということだ。
「週刊文春」(3/16号)によると、麻生太郎外相は昨年12月に訪米したとき、「日本も核武装する必要がある」と述べたらしい。これは国務省、国防総省でそれぞれ行われた会談で、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防相に別個に述べたのだという。
<常任理事国は核兵器をもっている。インドやパキスタン、北朝鮮も持っている。中国や北朝鮮が安全保障上の脅威となるのであれば、日本も核武装すべきではないか>
麻生外相は3月4日に金沢で行われた講演会でも、国と国とのつきあいを子どもの喧嘩にたとえて、こう語っている。
<やられないためにはどうするか。逃げるか闘うかですよ。他に方法はありません。学校は3年間行ったら卒業できるかもしれない。しかし、国となりゃ、お隣りさんはずっとお隣さんだ>
麻生大臣には「お隣さんだから仲良くしよう」という発想はない。だから「逃げるか闘うか」の二者択一になる。ところで日本なりアメリカが核兵器で北朝鮮を攻撃したらどうなるのだろう。死の灰は日本にも降りかかってくる。つまり、日本もまた被爆するわけだ。日本が北朝鮮を核攻撃するとき、それは日本が自滅するときである。
中国敵視の麻生外相がおなじくタカ派の安部官房長官とともに人気を競い、憲法改正を口にして次期首相の最有力候補になっているのが日本の現状である。彼らに限らず、中国を敵視する論調が目立ってきた。こうした傾向も戦前の状況とにている。湛山は昭和6年9月26日の東洋経済新報の社説にこう書いている。
<支那は、我が国にとって、最も古い修好国であり、かっては我が国の文化を開いてくれた先輩国でもある。時に両国の間に戦いの交えられたこともないではないが、それはすこぶる稀な事件であって、過去千数百年の日支の国交は類例少なき親睦の歴史を示した。
而してこの親睦は、将来もまた永久に継続することが、両国の利益であり、必要であることは疑いない。しかるに最近十数年の両国の関係は、残念ながら大いに親善とはいい得ない。殊にこの二、三ケ月の状勢は、日本が中村大尉事件を騒げば、支那の首脳者は、日本の支那における陰謀を云々するという有様で、感情の疎隔はほとんど極端にまで達したかに見ゆる。而して奉天においてついに遺憾至極の不祥事まで爆発した。何故両国の国交は近年かように円満を欠くか。(略)
戦いの要道は、敵を知り、我を知るにあるといわれる。これ平和の交際においても同様だ。しかるに我が国民の支那に対するや、彼を知らず、我をも知らず、ただ妄動しているのである。(略)
即ち満蒙なくば我が国亡ぶというのである。もしそれが本当なら致し方はない。いかなる危険を冒しても、前に挙げたる第一の手段に訴え、支那を抑えて、満蒙を奪取する。こういう結論に導かるるであろう。活力ある国民は、座して死を待ち得ぬだろうからである。しかし記者の意見は、かねて右の人々とは全く違う。(略)
満蒙はいうまでもなく、無償では我が国の欲する如くにはならぬ。少なくとも感情的に支那全国民を敵に廻し、引いて世界列強を敵に廻し、なお我が国はこの取引に利益があろうか。それは記者断じて逆なるを考える>
結局日本は中国を敵視し、これを侵略して、欧米の列強を敵にまわし、300百万もの自国民と、2千万人ものアジアの人々に死をもたらしてしまった。こうした悲劇がどうして起こったのか、石橋湛山がいうように、それは国民が愚かだったからに他ならない。
この愚かさを現代の私たちは笑うことができない。問題は私たちがこの教訓をどれほど学び、このアジア蔑視・敵視の「大日本主義の幻想」からどれほど抜け出しているかということだ。明日の日記で、戦後の石橋湛山の発言を拾ってみたい。
12.戦後の石橋湛山
石橋湛山(1884〜1973)は敗戦を東洋経済印刷工場が疎開していた秋田県横手町で迎えた。8月17日の日記にはこう書いている。
<考えてみるに、予は或意味に於いて、日本の真の発展の為に、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何等予に悲しみをもたらさざる所以である>
湛山にとって敗戦は想定内の出来事であり、問題はこれからの日本をどうするかということだった。彼は言論活動だけではなく、政界に出ることを決意する。鳩山一郎が率いる自由党に入党し、第一次吉田内閣には蔵相として入閣した。
彼は蔵相として財閥の解体に反対し、占領軍駐留費の削減をGHQに要求する。さらに対米一辺倒の考えをとらず、公然とGHQの政策をも批判する石橋湛山は、米国にとってかなり煙たい存在だったようだ。
1947年、彼が衆院議員に当選すると、すかさずGHQは彼を公職追放にした。これには湛山の国民的人気を警戒した吉田首相の意向もあったのではないかとされている。
1951年追放解除になった湛山は吉田茂との抗争を開始する。そしてついに1954年鳩山内閣を実現する。2年後の1956年12月、鳩山首相引退のあとを受けて、彼はついに首相の座に着いた。そのときのプレスクラブでの演説を一部引用しよう。このとき湛山はじつに72歳だった。(湛山は宿敵東条英機と同じ年に生まれた)
<私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取ることは絶対にしません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる位置にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。(略)
米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で望みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです>(昭和32年1月25日)
不幸にして病に倒れ、2ヶ月後には首相の座をしりぞいたが、その後健康が回復して評論活動を続けた。彼がとくに主張したのは、日中ソ平和同盟の締約であり、日本憲法の擁護だった。東洋経済新聞の昭和43年10月5月号に発表した「日本防衛論」は彼の遺言だといわれているが、その中に次の言葉がある。
<重ねていうが、わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりではなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方を持った政治家に政治を託すわけにはいかない。政治家の諸君にのぞみたいのは、おのれ一身の利益よりも先に、党の利益を考えてもらいたい。党のことより国家国民の利益を優先して考えてもらいたいということです。
人間だれでも、私利心をもっている。私はもっていないといったらウソになる、しかし、政治家の私利心が第一に追求するべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間にわき上がる信頼であり、名声である>
最近、中国を敵視し、これをテコにして憲法をかえようとする論調が目立ってきた。こういう状況だからこそ、湛山の平和主義に注目したい。政治家も湛山の言葉に耳を傾けて欲しい。武力によってではなく、友愛によって近隣との平和を実現していきたいものだ。
13.雇用不安に怯える軍人
私たちは戦前の職業軍人はいつも人気者だったと思いがちだが、実はそうでもなかった。とくに世論が軍縮に傾いていたあいだは軍人株は暴落していた。不人気の原因は給料が安かったこと、それからいつ首を切られるかもしれない不安定な職業だったからだ。
給料が安いことについては、軍隊の中に「貧乏少尉のヤリクリ中尉のヤットコ大尉で百十四円、嫁ももらえん」という戯れ歌まであったという。1931年(昭和6年)9月18日に勃発した柳条溝事件のとき外相を勤め、のちに首相になった幣原喜重郎は、「外交五十年」にこのころを振り返って、こう書いている。
<陸軍は、二箇師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大てい大佐止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。若い娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢が一ぺんに落ちてしまった>
その上、朝日新聞はじめ多くの新聞や雑誌がしょちゅう軍部の批判をしていた。当時の新聞は戦時中の軍部賛美の紙面からは想像もできないほど無遠慮に政府や軍部を批判している。前に日記で石橋湛山の「大日本主義の幻想」を引用したが、このくらいのことは湛山でなくても、多くの新聞や雑誌が書いていたわけだ。
たとえば昭和3年に軍部がしかけた張作霖爆殺事件を、新聞は「満州某重大事件」として冷ややかに報じた。事件の背景に日本軍の謀略があることを見抜き、軍部の扇動にはのらなかった。またその後におこなわれた数次の軍縮会議においても、朝日、毎日(東京日日)などの新聞はこぞって政府当局軍縮案を支持し、軍部の軍拡路線を批判していた。
<憲政の癌といわれる軍部の不相当なる権限に向かって、真摯なる戦いの開かれんことをわれらは切望する>(昭和5年5月15日、毎日新聞社説)
<政友会も、政党政治の立場からは、民政党ともにこの機会に年来の懸案であり、わが立憲制度のがんである、この問題の解決をなすべきではないか>(昭和5年5月1日、朝日新聞社説)
不景気の中で人々は軍事費の削減を望んでいた。軍閥を「癌」にたとえる新聞の論調に、世論は同調した。これに意を強くして、石橋湛山も昭和6年7月4日の東洋経済社説に「軍閥と血戦の覚悟」と題してこう書いた。
<この時勢は若槻首相の立場を有利にしているとはいえ、もちろんいささかも油断はならなぬ。軍閥の厳として存することは今なお昨日のごとくである。若槻首相は今回の軍縮会議においても、軍閥が若槻男爵の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支援するに違いない>
しかし、この湛山の期待はすぐに裏切られた。翌年昭和6年9月に勃発した柳条溝事件をきっかけに、世論が軍拡容認へと180度かわってしまったからだ。軍部批判をしていた朝日新聞も軍部の行動を支持し、むしろこれに慎重な立場をとる政府を弱腰だと批判するありさまである。この世論とマスメディアの豹変はどうしたことだろう。
背景の一つには、軍部の地道で巧妙なマスコミ工作があった。たとえば陸軍省はわざわざ新聞班を設けて宣伝をしていた。不買運動を組織して経営を圧迫する一方で、陸軍大臣が新聞の首脳部を官舎に招待したりして情を通じていた。また新聞社の方でも軍人を接待して経営の改善をはかろうとした。永井荷風は当時を振り返り、昭和7年2月11日の日記にこう書いている。
<去秋、満蒙事件世界の問題なりし時、東京朝日新聞社の報道に関して、先鞭を日々新聞(毎日新聞)つけられしを憤り、営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹にはなはだ冷淡なる態度を示していたりしところ、陸軍省にては大いにこれを憎み、全国在郷軍人に命じて朝日新聞の購読を禁止し、また資本家と相い謀り同社の財源をおびやかしたり。
これがため同社は陸軍部内の有力者を星ケ岡の旗亭に招飲して謝罪をなし、出征軍人慰問義捐金拾万円を寄付し、翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしという。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり>
昭和の不景気は産業界を直撃したが、軍部や新聞社をも苦境に陥れた。国民は最初、政府に緊縮財政をもとめ、これを押し進めた政府を支持したが、これに敢然と抵抗したのが軍閥だった。その表向きの理由は「軍縮は国を滅ぼす」ということだったが、失業と栄進のストップによる威信低下も大きかった。幣原喜重郎は、「外交五十年」にこうも書いている。
<今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う>
つまり、満州事変は軍部が組織防衛の必要から起こしたというのである。当時外相として軍部と交渉した当事者の言葉だから、おそらくこの辺りが真相ではないかと私も思っている。戦端が開かれるともはや軍縮は吹き飛んだ。軍人は生活の心配をしなくてよくなったし、新聞も飛ぶように売れた。そして国民は軍需景気に湧いた。半藤一利さんの「戦う石橋湛山」(東洋経済)から引用しよう。
<満州国ができることで国民経済もよりいっそう拡大されることを期待したからである。大恐慌時代に深刻化していた国民生活の不安と不満と息苦しさとが、事変で一挙に解決された。町工場がどんどん大きくなっていく。さらに希望的観測がうまれ、それが熱狂的な軍部支援となり、関東軍への全面的賛成へとなっていた>
ただこうした国民的狂騒のなかにあって、湛山は冷静だった。この軍需景気が一時的なものであり、さらに戦争の実際がどんなに悲惨なものになるかを示して、この熱病を冷まそうと孤軍奮闘した。昭和6年12月5日の社説「出征兵士の待遇、官民深く責任を知れ」にこう書いている。
<我が政治家や軍部当局や、また一般国民が軍隊を駆りて難に赴かしむることをはなはだ容易に考え、裏面の悲惨事は忘れてただ戦勝の快報に喝采するごとき軽薄な感情に動かさるるならば、その結果は、国家の将来にとって実に恐るべきものあるを知らねばならぬ>
しかし、こうした湛山の声はもはや国民には届かなかった。なぜなら、国民は戦線が拡大され、軍部の力で満州国ができることを期待したからだ。これによって、軍部が息を吹き返すが、自分たちの生活もまた改善されると期待したからだ。
もちろん国民のこの期待はやがて裏切られた。湛山が予言したように、満州国はできたが国民生活は次第に悲惨なものになっていった。そしてただ職業軍人と新聞社と軍需産業ばかりが景気のいい時代がやってきた。
14.柳条溝事件の真相
昭和6年9月18日、奉天北部の柳条糊付近で満鉄の線路が爆破された。爆破したのは河本中尉と部下6名だった。翌19日、石原参謀はこれを支那兵のせいにして、「こんな暴戻がどこにある。群がる蠅は払わねばならない」と集まった新聞記者に語った。
こうした謀略があることを、新聞記者たちは知っていた。その証拠に、朝日、毎日、電通、連合などは奉天に十名以上の特派員を派遣していた。つまり事が起こるのをいまや遅しと待っていたわけだ。そして起こった後は、関東軍の発表をそのまま事実として国民に流した。
中には事件の真相を知って馬鹿らしくなり、社命を待たず日本に帰った大阪毎日新聞の野中重成のような記者もいたが、多くの記者は謀略と知りながら、軍の発表を鵜呑みにして、「支那軍の謀略」と報告した。しかもその手際があざやかだった。
朝日の場合でいうと、社の飛行機を動員して京城に飛ばし、19日夜に奉天特派員の撮った写真を20日に京城で受け取り、空路広島へ。さらに飛行機を乗り継いで大阪へ、そこから東京に電送して、20日の午後には日支衝突の号外が街を駆け抜けていた。
一方で奉天の林総領事は19日未明に、本国の幣原外相に第一報で「事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらるる」と知らせた。外相からことの真相を知らされた若槻首相は直ちに閣議を召集して、南陸相を問いつめた。
「はたして原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防御せんとした守備にたいして攻撃してきたから起こったのであるか。すなわち正当防衛であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、わが国の世界における立場をどうするか」
南陸相は閣議で孤立し、「即刻、関東軍司令官にたいして、この事件を拡大せぬよう訓令する」という首相の発言で、陸軍は一転して窮地に立った。ところが、ここに強力な援軍があらわれた。
<機を誤らざりし迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表する。わが出先の軍隊の欧州をもってむしろ支那のためにも大いなる教訓であると信じる>(9月20日、毎日社説)
<事件はきわめて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶち壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたというまでである。事件は右のごとくはなはだ簡明であり、従ってその非が支那側にあることは、少しも疑いの余地がないのである。日本の重大なる満蒙権益が侵犯され、踏みにじられるとき、いかに日本が使命を賭しても、強くこれが防衛に当たるかという、厳粛無比の事実、不幸にしてそのときがついにきた>(9月20日、朝日社説)
若槻内閣はそれでも陸軍に「不拡大方針」を示し、公式声明を控えた。しかし、新聞の攻勢はさらにエスカレートして行った。朝日はしびれを切らして、24日の社説で「いずれの国家も自己防衛上緊急切迫のとき、他国の権利を侵害することあるも、それは国際法の許すところである」と、しきりに政府に軍の行動を容認せよと迫った。
軍閥に加え、マスコミが笛を吹き、国民世論が沸騰する中で、ついに9月24日、若槻内閣は関東軍の行動を自衛のためであり、軍事占領ではないとする公式見解を内外に発表した。これにたいして、翌25日の朝日新聞は「声明遅延の結果は事情に無知識なる外国新聞紙をして無用の憶測をたくましくせしめた」として、「当局の怠慢」を責め立てた。
「朝日新聞70年小史」(1957年)には「昭和6年以前と以後の朝日新聞は木に竹をついだような矛盾が往々感じれるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戦体制に入るとともに、新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と書かれている。
これに対して半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済)で、「沈黙を余儀なくされたのではなく、積極的に笛を吹き太鼓を叩いたのである」と書いている。まさにそのとおりである。そして大新聞が吹く進軍喇叭と太鼓に、多くの国民が踊ったのだった。
戦後このことを新聞はかくした。軍が横暴だったのでやむをえなかったと嘘をついたのである。戦時中さんざん嘘をついたので、嘘をつく習性が身にしみついてしまったのだろう。そしてこの調子の良い嘘に踊っていた国民も又、このあらたな嘘に騙されることにした。そのほうが都合が良かったからである。
15.哲学的日本を建設すべし
昭和6年9月に勃発した柳条溝事件は関東軍の全くの謀略だったが、ここから満州事変が始まり、日本は戦争の泥沼へと引き込まれていく。こうした時代の潮流のなかで大新聞が転向し、良心的知識人は沈黙したが、石橋湛山は果敢に抵抗した。
中国大陸への出兵に対しては、「帝国主義の出遅れであって、引っ込みのつかぬ夜明けの幽霊と一般だ。幽霊に手引きを頼む程危険なことはない」と警鐘をならし続けた。その言論がいかに正鵠を得たものであったか、歴史が実証している。まさに、福沢諭吉が明治の言論界の巨人だとしたら、石橋湛山は昭和の言論界を代表する巨人だと言ってもよい。
それではなぜ、石橋湛山はこの困難な時代にあって誤らなかったのだろう。それは彼の言論がたんなる時事評論というものではなかったからである。彼の言論の根底には彼の人生観や世界観があった。一口に言えば、哲学があった。
彼は「東洋経済新報」の明治45年5月号の「国家と宗教および文芸」のなかで、「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」と述べ、「国家主義」や「専制主義」を否定し、個人主義、自由主義に根ざした民主主義の重要性を強調した。
そして、彼は単に言論だけではなく、1919年(大正8年)3月1日に行われた「普通選挙法成立を求める日本最初の1万人合法的デモでも、副指揮者として先頭に立った。彼はだだの理想家ではなく、また夢想家でもなかった。当時のだれよりも経済的合理性を重んじる現実主義者だった。
世の中に威勢の良いだけの理想論や空理空論はいくらもある。しかし、湛山の根底にあるのは、自主独立の精神に立脚した強固な現実主義である。「東洋経済新報」(明治45年6月号)の「哲学的日本を建設すべし」という社論から引用しよう。
<実に我が国今日の人心に深く食い入っておる病弊は、世人がしばしば言う如く、そが利己的になったことでも、打算的になったことでも、ないし不義不善に陥っておることでもない。吾輩はむしろ今日の我が国には、余りに利他的の人多く、余りに非打算的の人多く、余りに義人善人の多いことに苦しみこそすれ、決してこれらのものが少ないとは思わない。
しからば吾輩の認めて以て我が国民の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己に付けても利他に付けてもその他何に付けても「浅薄弱小」ということである。(略)
善人ではあり、義人ではあるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが軽薄弱小であるのである。その自己が軽薄弱小であるが故に、彼らは他に気兼ね苦労し、馴れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰り言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を要求することができないのである。
しかしながらここに問題となってくることは、しからば我が現代の人の心は何故にかくの如く浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに掛けておるが故であると。(略)>
あたかも彼らのなせる処は、下手の碁打ちが一小局部にのみその注意を奪われて、全局に眼を配ることができず、いたずらに奔命に疲れて、ついには時局を収拾すべからざるに至らしむるようなものである。吾輩は切に我が国の国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ。自己の立場に対する徹底的智見を立てよ。而してこの徹底的智見を以て一切の問題に対する覚悟をせよと。即ち言を換えてこれをいうならば、哲学的日本を建設せよというのである>
やや力みが感じられるが、これは湛山28歳のときの文章である。湛山は東条英機と同年の生まれだが、軍隊のエリートコースを歩いた東条とは対照的な人生を歩んでいる。湛山はのちに身延山久遠寺法主になる宗教家を父に持ち、11歳で僧籍に入った。他家で修行をつみ、中学校を7年かけて卒業した。
そして一高に2度受験して失敗し、早大の哲学科に学んだ。早大に進学した彼は「徹底せる個人主義、自由主義思想家」と彼が墓碑銘に記すことになる田中玉堂という偉大な師に出会う。おそらく湛山がこうした道草をせず、一高に合格し、東京帝国大学を卒業していたら、彼は言論界の巨人とはならず、まったく違った人生を歩んでいたのではないだろうか。
軍国主義、専制主義、国家主義の横行する時代にあって、朝日、毎日といった多くの新聞や言論界が転向する中で、石橋湛山は逆境をものともせず、自由主義、個人主義の立場を崩さず、経済、政治、文化、あらゆる方面で正論を吐き続けた。その炯眼と精神力はじつに恐るべきものだ。
16.言論界に殉難者なし
関東軍の謀略で柳条溝事件が起き、ここから満州事変が始まった。そしてわずか6ヶ月後の昭和7年3月1日には満州国が発足した。これは政府中枢の国務院253人のうち130人が日本人という傀儡政権だった。これをでっち上げるために国民の世論を盛り上げ、大いにハッスルしたのが新聞だった。とくに毎日、朝日は凄かった。
毎日新聞は「守れ満蒙、帝国の生命線」の特集をして戦闘気分を盛り上げ、社内では「毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争」などと言われていたという。朝日はもまたこれに負けじとばかり、3月4日には「生命線へ花嫁、男子と手を携えて、満蒙の新天地へ」「一旗あげようと、目覚ましい満蒙景気、満鉄へ問い合わせ殺到」と書き立てた。半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済社)にこう書いている。
<近代戦はまさに大資本の絶好の活躍舞台であった。多くの飛行機、自動車、電送写真など特殊通信器材という機動力と最新機械力とをフルに動かせるのは朝日・毎日の両紙のみといっていい。ちなみに事変中の6ヶ月間に両者は臨時費をそれぞれ百万円消費した。当時の総理大臣の月給8百円と比較してほしい。
朝日の発表では、飛行機の参加台数8機、航空回数189回、自社制作映画の公開場所1500、公開回数4024,観客約一千万人。写真号外の発行度数131回であったという。もちろん毎日も映画を製作し負けずに観客動員を書けている。新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎えるという法則があると聞くが、それがものの見事に実証されている>
事変が起こるまで反軍の立場にあった朝日や毎日が、なぜ豹変したのか。なぜ軍部を応援し、事変の拡大に慎重な政府を叱責したのか、その答えがここにある。当時朝日新聞の主筆だった緒方竹虎は戦後、「五十人の新聞人」でこう回想している。
<今から考えて見て中央の大新聞が一緒にはっきりと話し合いが出来て、こういう動向を或る適当な時期に防げば防ぎ得たのではなか。実際朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の政治的関与を抑えるということを満州事変の少し前から考えもし、手を着けておけば出来たのじゃないかということを考える。
軍というものは、日本が崩壊した後に考えてみて、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。サーベルをさげて団結しているということが一つの力のように見えておったが、軍の方から見ると新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、出来たのじゃないかと多少残念に思うし、責任も感ぜざるを得ない>
事変が始まると、朝日と毎日は手を握るどころか、販売部数を増やすために熾烈な報道合戦を繰り広げた。事変を望んだ軍人も一種の月給取りに過ぎなかったが、残念なことに新聞人もまた月給取りにしか過ぎなかったわけだ。いや安全地帯にいただけにもっとたちが悪かったというべきだろう。
半藤さんは「言論界からは言論の自由を守っての殉難者はひとりもいない」と厳しいことを書いている。たしかに有力な言論人は抵抗しないどころか、お先棒をかついで回った。戦後彼らは口裏をあわせたように「軍部の圧力」を口にした。緒方竹虎は言論人の責任をしぶしぶ認めてるだけ良心的だと言えよう。
もっとも、殉難こそしなかったが、軍国主義を批判し、大陸侵略を非として、平和主義、国際協調主義の意見を臆せず吐き続けた人はいた。石橋湛山は1月16日の「東洋経済新報」の社説「満州景気は期待できるか」で、国民の熱気に冷や水を浴びせている。
<日本および世界経済の悩みは過剰生産力を擁して捌け場に困っている点にあって、決して生産力の不足ではない。満州開発がスラスラと都合よく運んだところが、それはむしろ今日の日本および世界経済を一層困らすことを作用するとはいえようが、今日の資本主義を生かす足しには決して役立たないであろう>
しかし湛山が主筆として社論を書いた「東洋経済新報」は経済専門誌であり、彼の言論人としての名声も多くの国民までは及んでいなかった。この点、「武士道」を書いた新渡戸稲造は国民的人気者の名士だった。
稲造は国際連盟で事務総長につぐ次長を勤めたあと、日本にかえって当時貴族院議員をしていた。満州事変が始まり、軍事色が深まるなかでも、彼は一貫して国際連盟よる国際協調と平和主義を主張した。
「わが国を滅ぼす者は共産党か軍閥である。そのどちらがこわいかと問われたら、いまは軍閥と答えねばならない」
「国際連盟が認識不足だというが、だれも認識させようとしないではないか。上海事変に関する当局の声明は、三百代言と言うほかない。正当防衛とは申しかねる」
こうした発言に対し、日本の新聞は「新渡戸博士の暴言を8千万国民は是認するのか」と一斉に攻撃した。たとえば昭和7年2月21日の日本新聞は大見出しで、「国論の統制を乱す新渡戸博士の暴論」と書き、時事新報は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、少壮将校ら立つ」と書いた。
当時70歳だった新渡戸は4月にアメリカに立ち、フーバー大統領と懇談し、アメリカ各地で講演し、ラジオにも出て、日本の立場を説明した。しかし、この年に5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。もし新渡戸が日本にいたら、間違いなく狙われていたことだろう。
翌8年3月、日本は国際連盟脱退。同年9月、71歳の新渡戸は腹痛を訴えアメリカで倒れた。そして10月16日、ビクトリアの病院で、アメリカ人の夫人に看取られて永眠。日本の行く末を案じていた新渡戸は「いま死にたくない」と漏らしていたという。
17. リットン調査団と湛山
満州事変が起こると、国際連盟はこれが連盟規則・不戦条約違反ではないかと疑い、リットン調査団を日本、満州、中国に送ることにした。日本政府はこの調査団を受け入れた。調査団は2月29日に日本を訪れた。
しかし、この調査団を迎える日本の世論は冷ややかだった。軍部の一部にはコレラ菌をつけた果物を差し入れて、一行を病死させようという計画があり、実行されたが、失敗したのだという。半藤一利さんは、「戦う石橋湛山」のなかでこう書いている。
<結果は失敗に終わったからよかったが、それが実現したら、ということを考えるとき、当時の軍部がいかに国際政治を無視して狂気に走っていたか、非文明的であったかが想像されて、背筋に冷たいものが走る>
湛山は「日支衝突の世界的意味」という調査団宛の書簡を3月5日に「経済新報」に載せ、3月7日にはこれを英語に翻訳したものを調査団に手渡した。もとより湛山は「満州国不要論」を展開し、日本帝国主義の軍拡路線に批判的だった。書簡にもこう書いている。
<記者は、日本の経済が満蒙に特殊権益なくせば存立せずなどとは信じない。しかしいかに異論は存するも、国民多数の感情が大陸侵出を望める大勢は阻止し難い。・・・
日本は。その国民主義的ないし帝国主義的感情から大陸に侵出せんとし、支那国民はまた同様の感情から、日本の侵出を阻止し排斥せんとする。衝突はここにいやでも起こらざるをえない>
しかし、この書簡のなかで、湛山は日本のそうした行動もまた、列強の帝国主義的政策から生まれたものであると断じ、列強を強い調子で批判した。
<人類のためにあたえられたる地球の上を勝手に分割して、自己の所有なりと潜称するのみならず、他国の住民の労力が間接に彼らの領土内に働きかくることさえも拒絶している。・・・
彼らはかようにして、日本の満蒙侵出どころの程度ではない。恐るべき侵略主義、帝国主義、国民主義により世界の平和を攪乱しつつあるのである。日本が世界のこの現状に刺激せられて、いわゆる自己防衛のために、せめては満蒙に経済的立場を作らんと急るも決して無理ではないではないか。
列強は口を開けば支那の門戸開放をいう。これも誠に可笑しい話だ。もし、支那の門戸開放が世界人類のために善き事なれば、なぜ彼らはまたインドの、満州の、フイリピンの、南米の、その他彼らの本国とすべての領土の門戸開放をせぬのであるか。
支那の門戸開放とは、つまり支那に対する列強の侵略に機会均等を与えるということに他ならなぬ。記者は、かかる馬鹿馬鹿しき帝国主義、見え透いた利己主義を、お互いに根本から棄てぬ限り、かりに当面の支那紛争は一時鎮定し得たとて、いつかまた必ず再燃するほかないと考える。しかして世界はさらに第二の大戦を繰り返すに至るであろう。
記者は前にもいえるごとく、日本が従来支那に対してとれる政策を是認する者ではない。けれどもその理由は、ただ、日本が列強の尻馬に乗りて、自己もまた帝国主義政策をとることを不利益なりと信ずるが故である。支那調査委員は、願わくば世界の真の平和のため、これに着眼せんことを希望する>
湛山はじつに堂々と西欧の帝国主義政策の非なることを批判している。そしてこれの尻馬にのって騒いでいる日本の現状にも触れ、これを放置すれば「第二の大戦を繰り返すに至るであろう」とまで予言している。
リットン調査団は10日に及ぶ日本での調査を終えて、満州へ旅だった。そのあいだにも、満州では日本軍が地歩を固めていた。そして、昭和7年3月1日に満州国が建国されたわけだが、これを承認する国はなく、連盟規則・不戦条約違反だとする声がさらに高まった。
日本政府は国際世論の悪化を恐れて、表向きは満州国の承認を保留していた。しかし、当時の犬養内閣は3月15日の閣議で、満州国に対する政策を極秘裏に決定していた。
<新国家にたいしては帝国として差し当たり国際公法上の承認を与えることなく、でき得べき範囲において適当なる方法をもって各般の援助を与え、もって漸次独立国家たるの実質要件を具備するよう誘導し、将来国家承認の気運を促すに務むることに決定したり>
こうした事情を知らない軍部やジャーナリズムからは、政府が弱腰だという批判が起こった。たとえば毎日新聞は満州国承認に否定的な国際連盟から脱退せよと論陣を張った。3月30日の社説にはこう書いている。
<試みに増殖力旺盛にして、内に発展力充実せる民族があるとせよ。この民族が一方に広漠たる大領土を有して人口稀薄に苦しめる国家より抑えられ、狭小の地域に過群生活を強いられねばならぬとは、それが人類世界の真理といえるだろうか。・・・
わが国が連盟参加国たるがゆえに、不当の決議をつきつけられ、よし空疎であるとしても、文字の上において規約違反国として指弾さるるがごとき形勢があるとすれば、わが国がこれより脱退することもまた止むを得ないのである>
こうした連盟恐れるに足らずという世論が沸騰するなかで、犬養内閣はしだいに孤立して行った。国際世論に遠慮して満州国承認を宣言しない内閣の姿勢が国民には弱腰としか見えなかった。そして5月15日、事件は起こった。首相官邸で夕食中、犬養首相は海軍の青年士官らに襲われ、「問答無用」と射殺された。
18. 5.15事件と湛山
満州国承認を先延ばしする政府に業を煮やして、海軍の青年士官が首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。軍部の肩を持ち、政府の弱腰に批判的だった新聞も、この暴挙にはこぞって反対した。16日の朝日新聞の社説を引こう。
<言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、また軍律に照らしても、立憲治下における極悪行為と断じなければならぬ。・・・あるいは一図に今の世を慨し、今の政党に愛想をつかし、今の財閥に憤ったからだといっても、立憲政治の今日、これを革新すべきの途は合法的に存在する。短慮にも暴力革命を起こすべき直接行動に出ずることは、その手段において断じて許すべきではない>
軍部の中枢部もこれを遺憾とした。しかしその論調は青年士官を弁護するものであり、同時に自己弁護的である。海軍大臣大角大将は「何が彼ら純情の青年をしてこの誤りを為すに至らしめたかを考えるとき、粛然として三思すべきである」と発言し、陸軍大臣荒木貞夫大将も次のような談話を発表している。
<これらの純真なる青年がかくの如き挙措に出たその心情について考えてみれば涙なきを得ない。名誉のためとか利欲のためとか、または売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったことである>
全体の論調は、青年士官たちの行いは間違っているが、その心情については同情すべきものがあり、こうした止むに止まれぬ行為を誘発した現下の社会状況については、政府にも責任があるということだろう。これに対して、湛山は「東洋経済新報」5月21日の社説にこう書いている。
<帝国の軍人が私に団を作り、白昼帝都の諸所を襲撃して爆弾を投じ、ピストルを放ち、あまつさえ首相官邸に乱入して、首相を射殺せりという事件は、ただに我が国において、未曾有のみならず、世界においてもまた、少なくとも近代の文明国家においては、未聞の変象である。そもそも何が彼らを駆ってかかる行動に出でしめたか、けだしその一つは、彼ら個々人の思想教養の浅薄なりしにあろう>
それではなぜ、こうした思想教養の浅薄な行動があたかも英雄的行動としてもてはやされるのだろう。それは社会全般が浅薄・短慮になっているからではないだろうか。湛山の持論は社会が暴力的になりつつあるのは言論の自由がないからだということだ。
<記者はその第一の原因として、毎々説くごとく、我が国における言論の自由の欠如を挙げなければならぬ。けだし言論の自由は、一面において、しからずんば鬱積すべき社会不満を排泄せしめ、その暴発を防ぐ唯一の安全弁なるとともに、他面においてはまた社会の最も強力なる教育手段だ。・・・
わが国においては外交についても、軍事についても、重要なこととしいえば、ほとんどことごとく言論の自由が封ぜられている。ために世の中にどれほど誤れる知識を撒布し、偏狭なる思想を養成し、また社会改造進歩を阻めるか計り難い。思慮浅き血気の青年が往々にして埒を外れた行動に出ずるゆえんあるといわねばならない>
湛山は乱を起こした青年士官にいささかも心情的な同情をよせない。その行動のみならず、思想心情を浅薄幼稚だと批判している。しかし、彼の主張は顧みられなかった。青年士官の行動に同情した世論は、彼らの処罰を軽微なものにする圧力になった。
犬養内閣が倒れた後、5月26日に、元海軍大将の斎藤実が内閣を組織した。そして日本はますます軍人の跋扈する、「言論の自由」のない全体主義国家になって行った。青年士官の思想はますます浅薄幼稚になり、これが2.26事件を誘発し、やがては軍国日本は太平洋戦争へと泥沼に落ちていった。
19. 満州国承認と湛山
満州国承認をしぶる犬養内閣にしびれを切らして、海軍の青年士官が立ち上がった。これが5.15事件である。新聞は青年士官たちの行動は批判したが、その心情には理解を示した。「承認しない政府も問題がある」ということだろう。
これを妄動・軽薄と切り捨てる湛山のような意見は少数派で、当時の世論は決起した士官に同情し、一刻も早く満州国が承認されることを求めていた。たとえば毎日新聞は6月1日の社説「満州国への援助、承認が先決問題」でこう書いている。
<直ちに新国家援助の効果的実行手段として、まず新国家を承認し、相互の国家意志によって、事業の遂行に当たるべきことを主張するものである>
朝日新聞も「満州国承認が必要でもあれば、また当面の急務でもある」と書いた。そして6月14日には、衆議院本会議で、「政府はすみやかに満州国を承認すべし」という満州国即時承認決議が「満場一致」で可決されている。
それでも犬養内閣のあとを受けた斎藤実内閣は、満州国の承認をしぶっていた。これによって、日本が国際的に孤立し、列強と摩擦が起きることは避けられなくなるからである。しかし、7月6日に満鉄総裁の内田康哉が外相になってから雰囲気が変わってきた。内田外相は8月25日の衆議院本会議でこう発言した。
<万蒙の事件というものは、わが帝国にとっては、いわゆる自衛権の発動に基づくものであります。それゆえに天下にたいして何らはずるところがない、わが行動はまことに公明正大なものであるという自信をもっているのであります。・・・
わが行動の公正にして適法であるということはこれは何人も争わないところであろうと思う。いわんやわが国民はただいまの森君のいわれました通りに、この問題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹することにおいては一歩も譲らないという決心を持っているといわねばならない>
すかさず翌日の朝日新聞はこの外相発言を擁護し、「いかなる結論も現実の事実を無視することを得ないのである」という現状認識を示し、「もはやその信念において動くほかはないのである」と、政府に満州国の「即刻承認」を求めている。
こうした世論に押されて、ついに政府は9月15日、まだリットン調査団の報告が発表される前に、満州国承認に踏み切った。国民はこれを歓呼して迎え、翌日の朝日新聞は、「真に大成功といわねばならぬ」と書き、毎日新聞は「世界史上に輝く、日満議定書調印」と喜びを新たにしている。そして、中国の抗議に対しては、「身から出た錆、悟らぬ支那」と高みから一蹴してみせた。
これに対して、湛山は9月24日、東洋経済新報に社説「満州国承認に際して我が官民に警告す」を載せて反論した。
<第一には我が国の国際的立場の悪化が起こり、第二には満州国国民の反日運動を激成し、第三には我が国自身の経済を損傷する危険が醸成される。なかんずく、我が国軍の駐屯のごときはこの弊害を最も強く醸し出す危険があり、記者の早くより絶対に反対し来ったところである>
しかし、湛山のこの警告は、満州国承認でわきたつ世論にかき消された。その後の日本は湛山の警告通りに進んだ。そして、「国を焦土にしてもこの主張を徹する」という内田外相の発言が、荒唐無稽なものでなかったことを国民はやがて知ることになった。
(参考サイト・文献)
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_ishibashi.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8
「昭和の歴史7 太平洋戦争」 木坂順一郎 小学館
「石橋湛山評論集」 石橋湛山 岩波文庫
「戦う石橋湛山」 半藤一利 東洋経済社