これからのオリンピックはどうあるべきなのか。北京五輪はそのことをさまざまな面で考える機会となった。この巨大で豪華な大会は、五輪運動のひとつの転換点となるのかもしれない。
近年の五輪で最も注目を集めた大会といえば、なんといってもこの北京ということになるだろう。
開幕前には人権問題が追及され、厳戒聖火リレーが注目の的となった。大会が始まると、その規模や施設の巨大さ、豪華さ、贅(ぜい)を尽くした開会式が目を奪った。競技の盛り上がりは上々だった一方、開会式の「偽装」演出が批判を受けたりもした。ホストの中国は金メダル一位となったが、それはまた国家を挙げての強化に対する疑問も呼ぶことになった。
つまりこれは、オリンピックの光と影を双方ともに浮き彫りにした大会だったのだ。そして、華やかではあったが、どこかに違和感を残したまま、十七日間が過ぎたように思われる。
違和感の元は、あまりにも強すぎ、むき出しにすぎた国威発揚の意識と、巨費をかけた豪華さの裏にひそむ空虚であろう。
確かにみごとな施設であり、破たんのない運営だった。だが、開会式の「偽装」のように、一皮むけばそこには自然でない作為も見えた。なんについても国家が前面に出てくる不自然さを感じないではいられなかった。
スポーツも五輪も人が主役のはずだ。なのに、常に国家が前に出ていたのが違和感の正体に違いない。また、巨大化し、ビジネスが支配してきた近年の流れも、今大会で極限近くまで行き着いたように思われる。それがまたいっそう違和感を増したのだろう。
次回はロンドン大会。二〇一六年も東京、シカゴなどの大都市が有力候補となっている。路線はさほど変わらないはずだ。ただ、あの違和感を見過ごしてしまうわけにはいかない。巨大で豪華で国家の威信をかけた大会が行き着くところまで行った後は、違う方向を考えてしかるべきではないか。
国家やビジネスやショーアップされた華やかさばかりが目立つのではなく、もう少し人間くさい大会。最先端の技術や施設を用いながらも、人のぬくもりが伝わってくる大会。たとえば、そんな方向である。二〇一六年の招致レースで、東京をはじめとする候補都市と国際オリンピック委員会が「北京後」にどう対応するのか、注目していたい。
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