この地域の問題を考える場合、単に「隣国/隣族問題」「旧宗主国-植民地問題」としてでは処理しきれない特有の問題が存在しており、そこに照明を当てない限り、この地域の問題はうまく解決できません。
それは何かというと、それぞれの社会の体質です。
それぞれ蝕まれています。
ただでさえ、双方とも民族国家的幼稚性が抜け出せていないのに、その上に、このそれぞれの体質、及びその差異が加わることで、この地域の問題は非常にねじれ、ややこしくなってしまっているわけです。
(このような体質、及びその差異を生み出す要因・背景を突き詰めれば、人類の「根本問題」である物事の程度の「確定不可能性」(Uncertainty) に行き着き、両者はそれに対する (対照的な) 派生的分岐に過ぎない --- 「確定不可能」だからbalance重視で行こう→「和」、「確定不可能」だからひたすら露骨・強硬に行けばいい→「直」--- わけですが、それについては、また別所で述べることにしましょう。)
言うまでもなく、このような体質は、それぞれの地域・民族に、不可分に内在しているわけではありません。それぞれの地域の歴史的経緯ゆえ、たまたま現時点でこういう形となって現れているだけです。したがって、長期的には自然と解体されることになるでしょう。しかし、それを無駄に長期化・複雑化させることがないように、また無駄に反復することがないように、また人類の根本問題へとつながる思考経路のひとつとして、このことをしっかりと踏まえ、記憶・記録しておく必要があります。
日本列島の「和」の体質の問題点、及びその処方箋については、Linoのwebsiteに譲ることにして、ここでは朝鮮半島の「直」の体質について書いておきましょう。
この体質については、南北、すなわち韓国も、北朝鮮も、基本的に大差ありません。目糞鼻糞です。
(ただし、体制の違いにより、北朝鮮はその発露のされ方が限定的なので、以下、基本的に韓国について書いていきます。)
この体質を一言で分かりやすく表現するなら、(見境無き)「泥仕合的体質」です。誰でも思い当たるフシがあるでしょう。そして、その「泥仕合」を最も嫌うのが、「和」の概念に支配されている和人 (日本人)。この対極的な差異が、この地域をややこしくしています。
この体質の核となっているのは、言うまでもなく民族主義(Nationalism)
です。
日本も、大日本帝国が崩壊するまでは、やはり現在の朝鮮半島と似たような、「直」の体質が全面に出ていました。幼く、そして劣勢にある民族国家においては、単純・露骨・強硬な民族主義が噴き出す、それにより自己を防衛・鼓舞しようとする、その機制はありふれた世界共通のものです。
見方を換えれば、朝鮮半島の体質は、大日本帝国のお下がりだとも言えます。大日本帝国の「大和民族中心主義」は、敗戦により挫かれることになりました。しかし、植民地であった朝鮮半島/朝鮮民族は、そのつまずきから逃れることができたどころか、大日本帝国の「大和民族中心主義」を「朝鮮民族中心主義」へと看板を架け替えて流用しつつ、植民統治抵抗勢力と結びつきながら、さらに日本を踏み台 (民族主義扇動材料) にして、存続・強化させることが可能だったわけです。この種の「旧植民地民・旧被差別民・旧劣勢勢力の反転攻勢・つけ込み」もまた、holocaustの悲劇性を喧伝しつつ、Palestineの民から土地を奪い、抑圧することを正当化したり、覆い隠そうとするJew (ユダヤ人) (のある層)や、抑圧の歴史を喧伝しながらBlack Nationalismを燃え上がらせるUSAの黒人達 (のある層) を見ても分かるように、ありふれたものです。
日本列島の本州が弥生時代に移行した後も、北海道で縄文文化が続いた時代を「続・縄文時代」と呼びますが、この表現に倣えば、大日本帝国が崩壊し、日本列島が「穏健民族主義」に移行した後も、朝鮮半島では引き続き「強硬民族主義」が残り、「続・強硬民族主義時代」が継続していると、表現できるでしょう。ですから、南北問わず、朝鮮半島の日本やUSAなどに対する強硬な姿勢は、大日本帝国末期と強烈にダブります。
おまけに、朝鮮半島には、日本の「和」のようなまどろっこしい概念・作法が存在していませんし、日韓併合により、伝統君主(朝鮮王) もいなくなって身軽な状態なので、大日本帝国の時よりも、「直」の体質がより単純・露骨・強硬な形で噴き出していると言えます。「恨」「情」「パリパリ精神」「ベンチマーキング(という名のパクリ行為)」なんて言葉・概念で、その体質の一端を垣間見れます。
しかし、朝鮮半島の「直」の体質は、民族主義(Nationalism) を核としながらも、そこに留まりません。
日帝を断罪し、日帝統治に協力した「親日派」を断罪し、その後の軍政を断罪し、民主制・市民社会を獲得する営みこそが真の民族益に資することだ、といった形で、近代主義(Modernism)、民主主義(Democratism)
と結びつき、派生します。
この種の民族主義(Nationalism)
と民主主義(Democratism) の (無自覚な)
癒着
は、若い国家が、近代初期段階で陥りやすい状態ですね。大日本帝国でも、大正Democacyあたりまでは、そういう雰囲気があります。戦後も70年代以前の戦後前期、とりわけ日米安保闘争などは、そういう雰囲気が色濃く漂っています。こういう民族主義と民主主義(or 民主制)
が癒着した若い国家が窮状に陥ると、18-19世紀のFrance、20世紀の日独に典型なように、全体主義や民族社会主義が招請されることになります。社会主義はその一変態ですね。そして、多様化・混交化・富裕化が進んだ成熟した段階に社会・国家が至ると、民主主義(Democratism)
/ 民主制(Democracy) と、民族主義(Nationalism) との衝突・非両立性が露になり、自覚され、前者 (民族主義(Nationalism))
が修正を余儀無くされることになります。韓国も今まさにその段階に片足突っ込んでいる状況であり、今後従来的な民族主義(Nationalism)
が挫かれていくことになるでしょう。
また一方で、国家を経済的に繁栄させることが、国家・民族の優秀性を示すことであり、民族益に資することだ、といった形で、商業主義(Commercialism)
とも結びつき、派生します。
これは日本なども含め、程度の差こそあれ、ごくありふれたことですね。そして、これも民主主義(Democratism)
と同様、深化していけば民族主義(Nationalism) と衝突し、民族主義(Nationalism) が修正を余儀無くされることになります。
さて、まとめると、
これらを主として複合的に絡まり合った総体が、今日的な韓国の「直」の体質ということになります。
そんな韓国(朝鮮半島) と、「穏健化」が進み、「悪Balance主義」「悪独自主義」を孕む「和」の概念と結びついて「軟和化」に陥っている日本が、うまく噛み合わず、軋轢を生じながら歪みが温存・拡大されているのは、当たり前のことだと言えるでしょう。
このことをしっかりと踏まえ、また同時に、Globalization (地球規模調整) により、日本列島も朝鮮半島も、従来的な幼稚な民族主義に引きこもることが不可能になることを踏まえつつ、より上位の視座 (PM/EPN) から、この地域を眺め、諸問題に対処していく必要があります。