さまざまな霊障について

星椎水精先生のコラム|先祖供養

肉体

肉体は、地球の神から戴いた制服である。この制服は、大切にしなければ、すぐに傷むし、風化してしまう。表面が酸化すると、老化も早いし、内臓が酸化すると、あっという間に死に至る。そのために血液は、弱アルカリに保たれているが、口から入る食べ物が、強い酸性だと、細胞が酸性になり体全体が硬直化してしまう。暴飲暴食は、体を硬直化することにもなる。そして、内臓の一部の老化だけで死に至らしめることになり兼ねない。
しかし、地球の制服である肉体を支配しているのは、一つの魂ではない。体の中にある遺伝子という形の先祖の魂である。この中には、大酒のみや博打好き殺人狂、自殺者、武士などマイナスのものもいれば、職人建設者官吏大名などのプラスのものもいる。どの家庭もこれらの先祖は成仏されていないために、本人の魂とは別の先祖が入れ替わることが多い。プラスの先祖が強い場合、比較的、家は平和である。しかし、平和だからといって安穏としていると、突然、その平和が崩れてしまう。マイナスの先祖が強い場合、家は荒れて手の施しようもなく、最後は絶家に至るようだ。
自分の健康には人一倍気を使っている人が、突然、癌の恐怖に慄く。これを理解するには、己の肉体は、己だけの魂が占有しているのではない、ということに気がつかねばならない。
ここでの浄霊は、プラスの先祖、マイナスの先祖の両者に均等に行われている。従って、肉体に大きな影響を与えることが出来る。ただ、忘れてはならないことは、自分の身或いは、自分の家庭を助けるための浄霊であってはならない。これを考えての供養は、自分の家庭や自分の肉体に改善がなされない。大半のものが落胆するのは、この意識が強いから供養が続かなくなるようだ。そこに大きな浄霊の意味が隠されている。供養をする、と言うことは、純粋に先祖のためであり、先祖を尊敬することにある。全てが自分の家庭、自分の肉体のためであってはならない。肉体に秘められた意味には、先祖だけではなく、宇宙への尊厳が根底にある。ここを理解しなければならない。

  

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澄んだ心の目

澄んだ心の持ち主からのメールが届いたので紹介したい。

『 前略、
先日は私の高祖父の父Sの浄霊を行って下さり誠に有難うございました。また、毎日素晴らしい内容のコラムを執筆していただき誠に有難うございます。
8月1日は、11時になると間もなく体に異常を感じました。胸が上に持ち上げられ、逆らわずにしていると、喉のあたりから異物が出る感じがしたので、咳き込んでしまいました。それから何分たったのか定かではありませんが、瞼に力が入り、目の周囲が痙攣してきました。その時見えたのは、暗闇と深い洞窟のような穴でした。あまり良い感じはしませんでした。次に白い龍が左上に上昇するのが見え、五弁の花びらが右回転しながら光を放つところや、空間全体がオレンジ色でまぶしくなり、遠くに白い光を放つ白い扉など、不思議なものが色々見ることが出来ました。15分で瞑想を終え、ほっとしましたが、喜びはあまり感じませんでした。浄霊のことを姫路さんにお聞きしたところ暗闇と洞窟の意味することは、当人の長年さまよっていた苦しみとのことで、目から鱗が落ちました。てっきりブラックホールに流されたかと思っていたので、無事に成仏出来たとのご報告に心底安心致しました。先祖が良くなることは楽しいと思えるひとときでした。
さっそくですが、次の浄霊の依頼をさせていただきます。父の姉で、入浴中に脳か心臓のどちらかの病気で亡くなったと聞きました。あまり良い亡くなり方ではないと思いますが、私の夢に出て来た様子は、元気そのものでにこにこしていました。たぶん、私に期待してくれているのだろうと思います。
お盆前、ご多忙のことと存知ますが、どうかよろしくお願い致します。ありがとうございました。   敬具   』

霊感の強い人が良く見る白い龍は、霊界と人間界の中間で位置する守り神として有名である。ここに登場した白い龍も吉兆を表している。亡くなった人は、皆、天国に行くと誰もが思いたいであろうが、そのようなことはあり得ない。しかし、俗に天国と言うが、あれは、幽界の一部に過ぎない。霊界は転生の準備機関であるから、怠けている暇は全くない。あっという間に地球時間の100年は過ぎる。肉体がないために疲労はない。当然、病気もない。時間もあってないようなものである。
ここで成仏したS氏は、幽界の暗い場所でさ迷って、ようやく霊界へ行く許しを得た。白い龍の登場は、その喜びを周囲が表現したことによるものであろう。浄霊がいかに神聖なものであるか、この男性は、はっきりと理解したようだ。

  

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肉体の衰え

肉体は、自然の風化現象で確実に衰える。しかし、衰え方も急速に衰える人と緩やかに衰弱する人との差はある。強靭な体の人が、必ずしも長生きするとは限らないし、病弱な人が短命とは限らない。
20年前、東京オリンピックの水泳選手が私のところに相談をしに来たことがある。彼女は体力があり、若い頃は何不自由をしたことがないくらい強靭な精神と肉体を供えていた。その頃は、まだ栄養学は研究中で徹底されてはいなかったようだ。当時は、彼女は筋肉をつけるために肉食を主に食べていた。監督からもそのような指導があったようだ。ところが、水泳をやめてから、少しずつ体に変化が現れていた。あらゆる治療を試みたが、最期は精神的な病で自殺に至った。
あの頃のことを考えたとき、単に肉体的な衰えだけが原因ではなかったようだ。見るからにパワーがあり明るく、人に好かれるスターという感じだった。それだけにテレビでの報道があった際に、皆がびっくりしたのを今更ながら思い出す。
今であれば、適切なアドバイスが出来たであろうが、当時は、そのようなアドバイスが出来る状況ではなかった。それどころか、変な知恵を与えると言われて大変な目に合う。
それ以前のことで、30前の美しい女性が相談に来たことがある。彼女の血圧が、上が50、下が30という極めて異常な数値だった。見た目は、どこも悪くない感じだった。しかし、食事はまともに出来ず、家ではほぼ寝たきりであった。そこで、私は「先祖からの憑依ですよ」と言った。それきり、彼女は姿を現すことがなかった。
先祖のことを理解している人であれば良いが、理解していないものには、「馬の耳に念仏」である。肉体の衰えだけで、急速な衰弱を起こすのは、やはりあり得ないことである。勿論、酒の飲み過ぎやタバコの吸い過ぎは、肉体の急速な衰えを示すが、普通に過ごしているにも拘らず、肉体の急速な衰えが来た場合には、先祖からのお知らせ、つまり憑依と考えて間違いない。

  

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お盆の日

この盆休みに沖縄と北海道に行って見た。沖縄は、相変わらず米軍基地での問題で終戦にはなっておらず、戦没者は皆、(ここでの戦没者の浄霊を除いて)成仏されていない状態にある。したがって、観光客も親子連れが多く、その大半が子供の世話もろくに出来ない親ばかりであった。いわゆる餓鬼族という人種が増加しつつあるようだ。
さて、北海道はというと、あまり変わりがないようだが、沖縄に比べると土地を守る精霊がしっかりしているようだ。若者達の多くは、お墓参りに行っていない顔をしており、いずれこのような若者たちによって、少しずつ自然破壊が行われてしまうであろう。
宿泊したホテルでの花火大会で、姫路が「隕石が落ちる」イメージを受けてしまった。実際に隕石の大接近は、NASAでも認めている。それに応じた対応が日本人には全くない。もし、隕石が落ちるのなら、地球の清掃として、お墓参りも行かない餓鬼族の処分は行われ、ブラックホールに流される。
現在どの家庭も荒れているのは、ブラックホールに流されるであろう先祖の悲鳴であり、警告でもある。自分の家は大丈夫とか、1年に1回しか出来ない供養をしているようでは、隕石の襲来時には大慌てになってしまう。1日も早く先祖の供養を進めることこそ、先祖を助け、自分を助ける結果となる。お盆や彼岸は、そのような先祖との交わりの日でもある。私は、まず先祖のお墓参りに行き、それから出かけることにしている。

  

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荒れた心

大津市膳所にお墓参りに毎年行くが、その途中でのことである。大津から膳所の駅までJR琵琶湖線に乗った。出てすぐに電車は、急ブレーキがかかった。しばらくすると、1番前車両のドアに何かが引っかかっていた。車掌は、引っかかったものを引き出すために、ドアの非常開閉器を押した。すると、そのドアだけが開いた。ドアに挟まった大きな薄いかばんが取られると同時に、茶髪の若者と女性が車両に入ってきた。車掌にお礼も言わず、平然と入ってきた男女に、皆は知らん顔を装っていた。
彼らは、その車両に間に合わないと見て、故意にかばんを挿入したようだ。軽犯罪にも匹敵するのだが、車掌も若者たちに何も言おうとしなかった。このような若者、というよりばか者が増えている。おかげで8分遅れとなったが、後方車両からの追突がなくて幸いしたが、本来は罰金ものであろう。
このような若者の家を見て見ると、相当荒れた家である。従って、そのような荒れた心で人々に迷惑かけても何とも思わないようだ。今後は、このような若者がかなりの勢いで増えてゆくと思われる。お盆なのに最低の行為であるお墓参りも行かないものたちは、先祖からの大きなしっぺ返しがやってくる。

  

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魂の誘い

こちらでの先祖供養のゴールは、最終的には自分の供養となる。つまり、自分自身の魂の浄化を行う。途中で供養を脱落したもの、或いは、自殺したものだけで充分というものは、自分自身の魂は汚れたままで死を迎えることになる。人間界の垢は、そう簡単には払拭出来ない。霊に関する諸々の事は、奥が深く、少し勉強したくらいでは理解できるものではない。「誘い」という自然の摂理で動かさされている状況を、人間は把握していない。これに伴って、人間の欲の追及が、不自然な状況を生み、最後は自分の考えた方向とは逆の道を歩む結果となる。
その入り口にあるここでの先祖供養には、人間が歩む自然な状況を把握するところでもある。先祖供養をして初めて経験する状況を、自分の力によるものか、自然の摂理と考えるのかは、「神からの試し」となる。欲の強いものは、魂も黒ずんで行き、欲のないものは、魂が白色化され、魂の浄化が始まる。要は、魂の流転は、この地上が最後ではないのであって、ここが次へのステップであると考えねばならない。ここでの先祖供養は、その礎になるための手段であり、「誘い」である。

  

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霊障とカルマ

最近は、霊感のある人が多くなっている。体験談も殆どがそのような人を対象に記載している。そのために、結果を求めるための先祖供養をするものが多くなってきたのは事実である。大勢の先祖を供養したにも拘らず、結果が出ないことを嘆いたり、たった一人の先祖を供養しただけで、がん細胞が消えたりと、その結果は誠に千差万別である。そこで、霊障とカルマの関係を図に表したので、参考にしてもらいたい。
下の2つの図は、左が一般的なもので、右が特殊なものである。横軸が年齢の推移で、縦軸が病巣などの障害の大きさを示している。グラフの実線がカルマで破線が霊障を表している。
人間の一生は、カルマの大きさで支配されている。従って、霊障をいくら取っても、本来のカルマが大きければ、それなりの努力をしなければならず、霊障を取ることによって、本来の仕事が比較的スムーズに行えるだけである。このことを理解しないで、安直に供養だけすれば自分の人生は花盛りと考えるものが多くなってきている。
極端に言えば、努力もしないで司法試験に臨むようなもので、結果は目に見えたものである。いわば、司法試験に臨むための環境が整っただけのことである。或いは、元々弱かった体は、霊障を帯びずに努力できることでもある。性格が、以前と変わらないのは、前世からの修正が出来ないことでもあるし、環境の悪い場所での生活は、それを改善すべき努力が必要である。そのことは、先祖の供養とは、あまり関係がない。
本来の先祖供養のあり方が分からないものにとって、先祖供養は何の意味もないことである。それなら、最初から先祖供養を望まなければ良いのだと、最近は言い含めている。ただ、途中での挫折するものは、自分が供養もされず、成仏が不可能だとの認識は持ったほうが良いだろう。
下の図にもあるように、霊障を取った部分のカルマは、その人本来の姿になってゆく。欲の強いものは、欲がむき出しになり、前世と同じ行動をとる。私の場合、霊障をいくら取ってもカルマが大きいので、そのカルマの解消するための努力は、普通の人よりも遥かに努力しなければならない。ただ、年齢の割りに肉体年齢は霊障を受けない分だけ、かなり若いといえるだろう。
右の図は、例外的にカルマより、霊障の方が大きい場合である。この場合、1体2体の浄霊だけで、その人の体調が大きく変わる様子を示している。
しかし、先程も言ったように、体調を変えようとしたり、自分の環境を変えるためだけに供養をしても、何の効果も出ないのは当たり前で、そのような気持ちで供養をしても、先祖は喜ぶはずもなく、本来の先祖供養とはかけ離れたものである。従って、こちらでの先祖供養から自然に離れてゆく。

  

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霊の訴え

肉体を持っているものは、口や手振り、視線で訴えることが出来るが、亡くなって霊となったものは、その苦しみを訴えることは難しい。
健康でパワーのある肉体は、霊も近寄ると傷ついたり弾き飛ばされたりするので、近寄りきれないようだ。しかし、肉体が弱まってくると、弱くなったその箇所はオーラが薄くなり、霊も簡単にそこから侵入する。一旦侵入が始まると、畳み込んで霊たちの侵入が始まる。それは病巣という形で肉体に異変を生じる。
先祖の誰かが、癌やリュウマチで亡くなったとき、同じ派動の肉体に変化するために、末裔が同じ病気を背負うことになる。そこには亡くなったものの意識が存在する。重い病で亡くなった場合では、その霊は幽界に留まるか、人間界でさ迷うかしながら、霊界への道を模索しているのである。霊界へ行くには、重い人間界での意識である欲を浄化しなければならない。欲の浄化には、余程、神とのつながりがない限り、清めてもらうのは、実に難しい。完全な浄霊が出来るのは、私を除いて世界中に誰もいない。
時に、釈迦の生まれ変わりなどと嘘を言って、浄化をするというものもいるが、自分の家の先祖すら浄化が出来てはいないようだ。これは、現在、日本に留まらず、世界中がこのような状態にある。
したがって、世界中の浮かばれていない霊たちは、集団での行動をとるようになってきた。それは、ともすれば地震であったり、大火事であったり、大水害であったり、集団殺人事件であったり、と大規模な災害に加担している。
何も分からないものにとっては、災害はいつ起こるかわからないものだ、と冷静な判断をするが、いざ、天変地異が身近で起こると、冷静な判断は出来なくなってしまう。目に見えない怖さと言うものを思い知ることになるだろうし、その時に気がついたのではもう遅い。
お盆が近くなると、霊が何を訴え、末裔に気づかせようとしているのかを理解しなければならない。もし、そのことが分からなければ、霊の怖さというものを少しでも頭に入れておく必要はあるようだ。

  

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朝の出来事

スタッフの姫路が感じた朝の出来事を今回は取り上げて見た。

『 2008年8月4日の朝方、時間にしてAM600過ぎ頃、まだ就寝中の私の耳に突如として、ものすごい落雷音が聞こえ、その音の凄さに驚き目覚める。
その時間帯に母親は、朝の炊事中で、彼女の話しによると台所から見て、北西に雷が落ちたみたいで、あまりの凄さにてっきり家の角に落ちたかもしれない、・・どうしようかと思ったらしく、本人には「怖かった」と後々恐怖を話していた。我が家の愛犬も、余りの凄さに思わず母親に助けを求めたらしい。振り向くと、母親の後ろで固まっていたとの事。
そして、凄い雷には「落ち」があり、それは近所のみるからに無神論者の人の庭の小屋に落ちたみたいで、今までその様なアクシデントの無い家に、硝子が割れていた(実際の被害は目にみえて大きかったみたいです)と言う話を聞いた瞬間に、「あっ、これは神罰にちがいない」と私は確信しました。そこの家は私が見ただけでも、とても荒れていて、家自体はとてもりっぱで、俗に言う「裕福な家庭」ですが、痴呆症で亡くなる人は出るし、子供は家庭内暴力っぽいものがあるみたいで、きっと本当のところはまだまだ何かと問題を抱えていそうで、ご先祖が全然成仏していない事も確かで、・・でもそれすら分かりそうもなく、人事ながら「大変だろうな」と思うのです。
そして、その情況等を星椎先生に話すと、「その通り、それは神罰だね」と仰り、妙に納得させられました。皆さん、霊障同様に神罰も怖いものです。神を決してあなどってはいけません! 』

これは一種の天からの咎めである。それと同時に、先祖も咎められている。そして、先祖は末裔にも天からの咎めを要請していた。現在の日本にしても世界中の家族は、何らかの咎めや制裁を受けている。地球を大切にする心がない。そして、身近な先祖をも大切にすると言う基本的な心も失いつつあるようだ。

  

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見える感覚

見えるとは、どういうことなのかが理解できる内容のメールが届いたので紹介したい。

『 拝啓 星椎先生、アトランティス神、アトランティス協会スタッフ御一同様
先日は、私の大叔母を浄霊していただき誠に有難うございました。心より感謝申し上げます。
今回感じる事がありましたので、浄霊の報告と次の浄霊の依頼をさせていただきます。当日は三分前から瞑想を始めました。十一時になると間もなく涙が出て止まらなくなりました。うれしい以外にいろいろな感情が混ざった涙だと感じました。それから五分ほどたつと、前方から白い光が見え、その光がこちらに向かって来ました。頭から胸が重く、温かく、ジリジリと心地良い感覚がしばらく続きました。大叔母の姿は見えませんでしたが、成仏出来たのだと分かり、涙がでるほど安堵しました。一人でも星椎先生に救われることは、凄く有難いことですが、私の場合、今まで四十七人も浄霊していただいているので、感謝をしても感謝の念が足りず、忸怩たる思いを噛みしめているところです。次の依頼ですが、私の高祖父の父をお願いいたします。無欲で供養させていただきますので今後ともよろしくお願い致します。 』

ここにあるように、無欲での供養が、先祖とのつながりを導いている。先祖と末裔の心が繋がっているので、その気持ちがお互いの波動を一致させ、映像と言う形を生じさせている。
とかく、先祖の気持ちを汲み取ることの出来ない末裔は、仏壇やお墓の前だけで手を合わせているが、その手を合わせたときに、左手の先祖と右手の自分に熱いものを感じることが出来るのだろうか。殆どが、手を合わせるという形式だけに終わっているのではないだろうか。
供養と一言でいうが、浄霊という神聖な行事を、他の宗教団体と同じように考えている傾向が多いが、そのような考えを持ったものたちの申し込みを殆ど断るように指示している。
本当の供養に目覚めたときは、自然な形で先祖の方から、このような光となって現れてくる。それが見えるということである。滝などに打たれて、霊などを見ようとすることが、いかに邪道であるのかが分かるだろう。それは、人間の欲に繋がってゆき、最後は悲惨な結果を招く。

  

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