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日本に奪われた石塔の返還求め運動推進 /利川

「マンヒョン山五重石塔」返還運動を起こしたイ・サング、イ・インス両氏

日帝が1918年に搬出…「時間はかかるだろうが、絶対に放棄しない」 

 「一目で分かりました。写真では何度も見てきましたから。しかしどこにも“韓国から持ってきた”という説明はありません。人知れず見知らぬ土地に建っている塔を見て、感情が込み上げてきました」

 2005年、利川文化院のイ・サング院長(55)は東京の由緒あるホテル、「ホテルオークラ」を訪れた。ホテルの横にある大倉集古館の裏手に入っていくと、韓国様式の石塔が目に飛び込んできた。まさしく、高麗時代に造られたと推定されているマンヒョン山の五重石塔(写真)だった。京畿道利川市にあったこの石塔は、日本統治時代の1918年10月に日本へ運ばれ、以来90年間、他国の地にたたずんでいる。

 イ院長は準備の末、今月16日に利川地域の各団体を集め「マンヒョン山五重石塔返還・汎市民運動推進委員会」を結成し、共同委員長に就任した。同委員会には利川文化院、韓国芸術文化団体総連合会利川支部(利川芸総)、利元会(利川出身の元老の集まり)、利川YMCA、利川環境運動連合、利川市持続可能発展協議会などが参加している。

 イ院長が「先鋒」なら、塔の返還のための研究は利川文化院のイ・インス事務局長(61)の担当だ。「1970年代、壇国大のチョン・ヨンホ教授から“利川の塔が一つ東京にある”という話を聞きました。しかし、生きることで精一杯だった時代のこと、塔に没頭することはできませんでした」。その後、在日韓国人の雑誌などを通じ1996年に塔の所在が分かったが、事務局長が本格的に塔に関心を持つようになったのは、2000年代に入り利川市の歴史を整理し始めてからのことだった。

日本が略奪した高麗時代の五重石塔の返還のために立ち上がった利川文化院のイ・サング院長(右側)とイ・インス事務局長。/写真=パク・スチャン記者
 マンヒョン山の五重石塔は、搬出の過程が細かく記録されており、日帝の文化財略奪史をよく示す証拠でもある。この石塔は1918年、日本軍と取引のあった富豪、大倉喜八郎が奪っていった。その数年前、景福宮における王世子(皇太子)の居所だった資善堂がまるごと持ち去られたが、大倉はその張本人であり、持ち去った資善堂を東京の自宅に据えた。大倉は家を改装して博物館を開き、第2代朝鮮総督・長谷川好道に手紙を送って「朝鮮の見事な塔」を置きたいと頼んでいる。

 大倉は平壌にある石塔を求めたが、総督府では「人が大勢往来する道にあり、人目を引く」という理由でこれを拒否、代わりに利川郷校の近所に建っていたこの石塔を送った。この塔は3年前の1915年、日本が韓日合邦5周年を祝うために景福宮で開いた「朝鮮物産共進会」の会場を飾るためソウルに移されていた。総督府は「合併した両国の国民の同化と親交を増進するのに利益となる」という説明も付けている。

 しかし、石塔の返還は簡単ではないと見られる。大倉財団側は「塔の返還問題はよく分からない。(塔の問題について)検討する計画はない」という立場を取っており、韓国政府の積極的支援を期待することも難しい。しかし二人はあきらめないという。イ院長は「利川に塔が戻ってきたときの“場所”からまず用意しておきたい」と語った。

 「日本を脅して解決する問題でもなく、時間がかかるでしょう。発泡スチロールに写真を貼った臨時の塔を作ってでも、本物の塔が戻ってくることを祈っています」

利川=パク・スチャン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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