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北京五輪野球:星野監督、あの「大口」はどこへ

 「何とか(銅)メダルを取って帰りたい。頑張ります。それ以外に言えることはありません」

 敗将となった星野仙一・日本代表監督には、今や「燃える男」と呼ばれたかつての姿はない。ぐったりとした様子でベンチから出た星野監督は「スンちゃん」ことイ・スンヨプらの体を軽くタッチし、金卿文(キム・ギョンムン)監督にお祝いの言葉をかけた。星野監督は記者会見で「韓国は強い。これからは“韓国は日本よりも弱い”などと言わないでほしい」と語った。継投について質問が集中すると、星野監督は「岩瀬を使い続けたのはわたしの判断で、わたしのやり方。結果的には韓国にとってよかったのでは」とシニカルに答えた。

 セ・リーグの中日と阪神で3回の優勝を飾った「闘将」星野監督は、日本にとって五輪野球史上初の金メダルを目標に掲げ、日本野球界の象徴的な存在だった。星野監督は強いカリスマ性で選手団やその周辺を掌握し、日本プロ野球界から積極的なサポートを引き出した。シーズン真っ盛りのプロ野球界から精鋭メンバーを選び、代表チームを構成できるようにし、本選のライバル7カ国の情報を手に入れるため、スコアラーはもちろんコーチを随時、海外の試合に向かわせた。

 「できる努力は惜しまない」というのが「日本野球金メダルプロジェクト」のモットーだった。日本のファンは、こうした星野監督を野球代表と同一視し、一挙手一投足に目を見張ってきた。「狙うのは金メダルだけ。9戦全勝で優勝する。歴史の1ページを飾りたい」という星野監督の「金言」に、日本人は期待を胸いっぱいにふくらましてきた。

 ところが、星野監督は2度の韓国戦で送れを取ると、性急な投手交替で戦術上の弱点を露呈した。火消しに出て韓国のバッターに立て続けに打たれ、失点を許した岩瀬は、中日時代の「教え子」だ。

閔鶴洙(ミン・ハクス)記者

【ニュース特集】2008北京オリンピック

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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