ここでは、弊社代表を務める小島一志のコラムをご紹介します。格闘技ジャーナリストとして20年にわたって活動してきた小島ならではのコラムを毎月お届けします。今月は「LET IT BE I LOVE ROCK!(6)
“悪の巣窟”柔道部」をご紹介します。小島ならではの、ジャーナリスティックな視点が冴え渡ったコラムをどうぞご覧ください。
LET IT BE
I LOVE ROCK!(6)
“悪の巣窟”柔道部 @
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●アホな“先公”が作り上げた運動部至上主義と派閥主義
前回も書いたが、僕が入学した中学は県下有数のマンモス校だった。とにかく1学年だけで10クラス、500人近い生徒がひとつの校舎にひしめいていたのである。生徒の数が異 常に多くなれば、その分だけ不良というか「落ちこぼれ」の数が半端でなくなるのも自然の成り行きである。当然、学校側は「落ちこぼれ」対策に四苦八苦することになる。しかし、結果的に学校側が取った唯一の手段は、「生徒たちを運動部に入れて遊ぶ時間を極力少なくする」というものだった(公立学校の教師のレベルがそれだけでも窺い知れるというものだ)。
だから学校の方針として、生徒たちは必ず何らかのクラブ(部活動)に所属しなければならなかった。なかでも学校側は運動部への入部を露骨な形で生徒たちに強制した。少なくとも僕が入学した当時、運動部に入っていない生徒は学校側から「問題児」のレッテルを貼られたも同然の扱いをされた。天文部や英会話部、科学部、演劇部などの文化部が存在し、立派に活動しているにもかかわらずである……。たとえテストの成績が良くても、運動部に入っていなければ一人前に見てもらえないという空気が明らかに存在していたのだ。
そんな学校側の姿勢の影響で、クラスのなかでは各クラブごとに派閥が出来ていた。これは何も僕のクラスに限ったことではなく、あらゆる学年、クラスで同じような派閥が存在していた。もちろん、派閥は運動部だけに限られており、圧倒的に少数派である文化部に所属する生徒たちは自分たちで徒党を組むこともなく、ただひたすら余計者、半端者の扱いをされていた。一方、野球部やサッカー部といった花形的なクラブの連中の派閥は大きく、その結びつきも異様なほどに強かった。
彼らは常に派閥ごとに行動し、彼らの振る舞いはきわめて傲慢だった。たとえば朝礼や運動会の練習のとき、クラスの枠を越えて全校的に生徒が集合することがある。ちょっとした休憩時間になると、野球部のヤツらはまるで硬式ボールのように強固な輪を作り、ひとつにまとまっているのだ。別なところに目を向ければ、サッカー部の連中も同様に全員がツルんでいた。彼らはみな同じような風貌をし、同じ表情をしていた(野球部の連中は全員丸坊主、陰気で狡そうな顔をしていた。サッカー部のヤツらはみんなボサボサの半長髪で薄っぺらな能天気面をしていた)。そして、時たま一般の生徒たちを睨んだりして自分たちの結束の強さを誇示するのだ。
僕の観察によれば、派閥の大きさや団結力は各クラブごと異なっているように見えた。そして、そこには一定の法則が存在しているように思えた。つまり大会での活躍が目立つクラブほど、派閥のパワーが強いということになる(その代表的な派閥がハンドボール部であり体操部だった)。逆に、たとえばバレーボール部(当時、バレーボール部は柔道部と並んで不良の吹き溜まりといわれていた)のように大会の成績が芳しくないクラブの場合、派閥の結びつきも弱い。それでも例外はある。それが野球部とサッカー部だった。
僕が中学に入った時代、野球部やサッカー部は特に甚だしい活躍をしていたわけではなかった。せいぜい地区の大会でベスト8に入賞するかどうかという実力に過ぎなかった。にもかかわらず、いまも昔も野球やサッカーはメジャースポーツである。万年補欠でどんなに醜男でも、野球部員だというだけで女の子にチヤホヤされるという風潮が確実に存在した。それがレギュラーともなれば、たとえどんなにバカでもアホウでも女の子に不自由はしなかった。もっとも、そんな「バカ男」に群がるのは、ほとんどが「バカ女」ばかりではあったのだが……。
それでも時たま、美人で性格もよくて、おまけに勉強も出来るという一級品の女の子が野球部やサッカー部の「バカ男」に夢中になってしまうというケースもあった。ところがそんな場合に限って、その女の子を僕が密かに憧れていたりするのだ。「彼女が野球部の●▲にラブレターを出したんだって」なんていう噂を耳にしたとたん、僕は何日も食事もノドを通らなくなり、夜も眠れなくなるのである。そしていつしか、僕の怒りは野球部やサッカー部の連中を憎むことに集約されるようになるのだ。
結局、この感情は女性にモテない少年時代を送った僕のトラウマなのかもしれない。それは十分に理解しているのだが、それでもあえて僕は断言する。野球部やサッカー部に入って女の子にチヤホヤされたり学校側から特別視されて有頂天になっているようなバカは大嫌いである。「ケッ!」といいながら唾を吐きかけてやりたいくらいだ。
話がだいぶ脱線してしまった。そうだ、中学の運動部の話だ。
ちなみにクラブに関しては、教師たちの間でも変な力学関係が存在していたようだ。県大会などでいい成績を収めているクラブの顧問はいつも偉そうに肩で風を切って歩いていた。授業中には竹刀や物差しなどを持って生徒を叩いたり怒鳴ることしか出来ないような落第教師のくせに、顧問をしているクラブの成績がいいというだけで、すべて自分の手柄だとでも思っているのだろうか。それとも、クラブの成績がいいと校長や教頭の覚えがよくなるということなのだろうか。
もっとも、その校長や教頭からして、ただの年功序列、トコロテン方式でなっただけのボンクラばかりだし、彼らの頭のなかは保身意識しかない。定年までつつがなく過ごしたいという鉄の意志から来た「ことなかれ主義」で一杯なのだ。僕は当時から学校の教師が嫌いだったが、何よりも校長や教頭という偉そうな顔をしたオッサンが大嫌いだった。彼らがバカかどうかは、朝礼の時の訓話を一度でも聞けば一目瞭然である(僕はいまでも公立の小・中学校の教師の90パーセントはアホばかりだと思っている。だから僕は息子を私立に行かせたのだ)。
また話が脱線気味になってしまった。
そんなわけで、当時クラブの成績がちょっといいという理由だけで偉そうにふんぞり返っていた教師は、ハンドボール部顧問のEと野球部顧問のSだった。そして僕はこのふたりの顔を見るとゲロを吐くほど不愉快になった。
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――こう考えると、僕は子供の頃から随分と嫌なヤツだったような気がする。
何の理由もなく、ただ頭から押しつけるような官僚主義的な権力や権威が僕は本能的に嫌いなのである。ただ決してタテ型の人間関係が嫌いなわけじゃないし、いわゆるピラミッド型の封建的思想というものに対しても批判的な意識は持っていない。30年近く柔道や空手といった武道の世界に身を置いてきたわけだから、むしろ体育会的な考え方は性に合っているといってもいいだろう。
僕が我慢できないのは、筋や道理が通らない一方的な押しつけである。表面的には「健全な青少年を育成するため」などという看板を掲げながら、実は単に生徒たちを締めつけて自分たちの利益を守ろうとするだけの教師たちのエゴと保身意識。それが僕には堪らなかったのである。だから中学時代、僕はいつも学校の体制にムカついていた。教師としての能力もないくせに虚勢を張るだけの「先公」が僕は憎かった。
そうはいっても僕の場合、映画やドラマの主人公のように破天荒なヒーロー主義に酔うほどバカじゃなかったし意気地もなかった。だから僕の場合、そんな不満や怒りはいつも心のなかにだけあった。決して口に出して教師を批判することもなかったし、陰で友人たちに教師の悪口をいうこともなかった。もっとも、僕の不満や怒りが理解できるヤツなんて僕の周りにはひとりもいそうもなかったし、もともと僕は友人なんて信じてなどいなかったからだ。
それでも、僕は目立たないような小さな抵抗や反抗を繰り返していた。たとえば、クラス全員で写真を撮るという時、シャッターが落ちる瞬間に後ろを向いてしまったり、クラス対抗の合唱会の時、わざわざ音程を外して大声で歌ったり……。いまとなれば笑ってしまうほど馬鹿馬鹿しいことばかりだが、僕にとっては、権威を押しつける教師と、そんな教師に従順にシッポを振っている連中に対する精一杯の抵抗だった。
そんな僕に対して、教師はもちろんクラスの連中も不快感を感じたに違いない。いつも教師に反抗的態度をとっているような落ちこぼれでさえ、僕の行動に対して露骨に不愉快そうな目を向けた。きっと彼らには僕の怒りなど理解できるはずもないのだから当然といえば当然だった。そして「先公」にへつらってばかりいる優等生のヤツらは正面から僕を批判した。時には「こんなことしていると内申書が悪くなっちゃうぞ」などと忠告するヤツもいた。しかし、僕はいつも知らんぷりしてやり過ごしていた。
「先公の下僕になって優等生振りやがって。だけど、お前らにはテストで1点でも負けやしねえからな――」
「偉そうな顔しやがってバカ先公が。オメエらろくな大学も出てねえくせに偉そうにしてんじゃなえよな。俺は絶対、この中学のすべての先公が出た大学よりもずっと上の大学に入ってやるよ」
実際、僕は中学の3年間を通じて、常に学年中10番を下らないテスト成績を維持し続けた。その後、僕は県下でトップクラスの進学校に進み、早稲田大学に入学することになるわけだが、その原点が中学時代の学校や教師や、それらにひたすら従順な優等生に対する「悪意と敵意」であることは間違いのない事実である。
僕の根っからひねくれ曲がった反抗心が、僕自身を受験戦争に駆り立てたのである(普通、僕のように反体制的な生徒はグレて勉強もしなくなるけれど、その点が僕の場合ずいぶん変わっていたといえばいえるだろう)。
とにかく、僕は現在でも中学時代には何ひとつ良い思い出を持っていないし、少なくとも僕が卒業した中学は史上最低最悪の学校だったと思っている。その大きな理由のひとつが、押しつけがましいクラブ制度と、いま書いた「運動部至上主義」といった空気なのである。ちなみに、先日、中学時代の同窓会の通知が届いた。もし僕が出席したら、学校や教師を批判する演説を声高に打つだけでなく、気に入らないと思っていた連中を挑発してぶん殴ることは明白なので、僕はその葉書を即座に破り捨てた。
●優等生の集まりだった卓球部
さて、僕はそういった学校の空気に反発を抱きながらも、だからといって文化部に入るほど図太くもなかった。というよりも僕は最初から柔道部に入ることに決めていた。幼稚園の「粘土事件」以来、ケンカに強くなることに執念を燃やしていた僕にとって、中学に空手部やボクシング部がない以上、消去法的にも僕が入るべきところは柔道部以外なかったのである。しかし、柔道部に入部するためには大きな障害が2つあった。そして、それらは僕にとってどう考えても乗り越えられるような代物ではなかったのである。
第1の障害は、当時の柔道部があまりに荒れていたことである。柔道部は学校中の不良たちの巣窟と化しているという情報が、中学に入学してすぐに僕の耳に入ってきた。しかも柔道部にいる不良たちは一線級の不良で(二線級の不良はバレーボール部。三線級は水泳部ということになっていた)、その実態たるや劇画の『愛と誠』に出てくる不良たちレベルだという。ちなみに『愛と誠』は当時大流行していた梶原一騎原作の学園マンガで、たしか『少年マガジン』に連載されていたと記憶している(その後、『愛と誠』はドラマ化され、映画にもなった)。
ストーリーは、一匹狼でニヒルな高校生の主人公が愛する少女との間の葛藤に悩みながら番長グループとの抗争に明け暮れるというもので、主人公と絡む不良たちの怖いことといったらなかった。まるで本物のヤクザ以上で、どう見ても高校生には思えなかったものである。
そんな凄い不良が、高校ではなく僕が通う中学にいるというのだ。それも大勢で徒党を組んでいるという。しかもその不良たちは全員柔道の使い手だというから恐ろしい。そこかしこから入ってくる「柔道部悪の巣窟」情報に、僕は激しく打ちのめされてしまったのである。
第2の障害は父親が柔道経験者だったということである。僕にとって父親は、その存在自体が障害だった。物心つく頃から、僕の生活は父親に振りまわされ続けてきた。以前も書いたかもしれない。僕の父親は、たとえば映画『男はつらいよ』の寅さんと、劇画『じゃりんこチエ』のテツと、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両さんを足して3で割ったような人間である。傍で見ている分には愛敬もあって面白い人間かもしれないが、実際に付き合ってみればどれだけ大変か! 想像していただければ理解してもらえるだろう。そんな無茶苦茶な父親と付き合っていくための最善の方法は、可能なかぎり父親と距離を保つこと――それが僕の選択だった。
以前も書いたように、父親は青年時代から東京の講道館で柔道を学び、関東大会で入賞するなど、それなりの実力者だった。僕が幼稚園に通っていた頃は地元の警察署で柔道の指導をしていた程で、父親は何かにつけて柔道の話をしていた。もし僕が柔道部に入ったならば、父親は嬉々として干渉してくるに違いない。ひょっとしたら自分からコーチ就任を願い出るかもしれない。そして、あの父親のことである。どんな手を使ってでもコーチになってしまうかもしれない。
それは想像するだけでも全身身の毛もよだつ出来事である。また、僕が柔道部に入ることで、僕が父親を慕い、だから父親の影響を受けているのだと父親に勘違いされるのも真っ平だった。どんなことに対しても自分に都合よく理解してしまうのが父親である。寅さんを想像してほしい。僕は父親と接点を持つことでへんに勘違いされるのも御免だったのだ。
以上の理由から、僕は柔道部に入りたいけれど入れないというジレンマに陥ってしまった。結局、僕は柔道部入部を断念した。そして小学校時代の一時期、凝ったことのある卓球部に入ることにしたのである。
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当時、僕の学校の卓球部は男女合わせて100名近くの部員を擁するマンモスクラブだっ た。僕は2、3人のクラスメートと一緒に体育館におもむき、入部手続きを行なった。クラブの練習は原則として1日2回、朝7時から約1時間行なう早朝練習と放課後に行なう一般練習である。正式に入部手続きを済ました僕は、数人の友だちと誓い合った。「何があっても辞めずに卒業まで続けてレギュラーになろう」と。しかし、入部してたった1週間もたたないうちに僕の誓いは怪しくなってきた。
なんといっても100人近い部員がいる大規模クラブである。卓球部の練習は体育館の一 角で行なわれるのだが、もちろん体育館は卓球部専用ではない。体育館では体操部やフェンシング部の連中も練習しているし、雨の日ともなれば他のクラブの連中もやってきて体育館のなかはごった煮状態になる。たとえ晴れの日だからといって、卓球部員全員を収容できるほど体育館は広くない。第一、卓球台の数も限られている。たしか僕の記憶では男女合わせて10台程度しかなかったはずだ(そのうちの何台かは外の踊り場や渡り廊下の隅に置かれたりしていた)。
僕たち1年生は卓球台の周囲に円陣を組んで、ただひたすらボール拾いと「ファイトー! ドンマイー!」などと声を枯らしながら先輩たちへの応援に明け暮れていた。あとは全員でのランニングと素振りの練習である。1年生全員が石廊下に一列に並んで、「イーチ、ニーッ」と号令を掛けながら素手のままラケットを振る動作を行なうのである。それを100回も200回も延々と続けるのだ。だからといって先輩たちがそれぞれのフォームを矯正してくれたりするわけではない。ただ気合いが入っているかどうかだけを先輩たちは問題にし、僕たちの号令が少しでも小さくなると、即座に「腕立て50回、腹筋50回」といい放つのである。
僕たちがボールを持って卓球台に向かえる機会はほとんどない。唯一、早朝練習の時、先輩たちが来る前にボールを打てる程度であった。それでも先輩たちにボールを打っているところを見つかると、必ずといっていいほどやっかいなことになった。掃除もしないで生意気に! ということで、「放課後の練習が終わったらグラウンド10周!」などと命令されるのは日常茶飯事だった。それでも僕たち1年生は卓球に飢えていた。先輩に見咎められてペナルティーを課せられるのを承知で、僕たちは早朝練習の前にわれ先と卓球台へ向かったものである。
そんな日々が約1ヵ月過ぎた。僕たちの日課はまったく変わらなかった。2年生の新人戦が近付いてくると、ほとんどの時間を僕たちはボール拾いと応援に費やされることとなった。段々、僕はうんざりしてきた。
もともと自分から積極的に入ったクラブではない。小学校時代、友だちと行った卓球場は楽しかった。コカ・コーラを飲みながらワイワイ騒いだものである。1970年前後、一世を風靡したボウリングブームが一段落し、そのあとにやってきたのが卓球ブームだった。僕が住んでいた小さな町にも何軒かの卓球場が作られ、土曜日や日曜日はいつも満員状態だった。小学校高学年になり少し色気づいてきた僕たちは、他校の同世代の女の子たちが順番待ちをしていると、積極的に声を掛けて「一緒にやろうぜ」と誘ったものである。いわば僕らにとって卓球場は立派な「社交場」だったし、卓球は娯楽でしかなかったのだ。 もちろん僕は、卓球部に入部して、楽しく卓球が出来るなどとは考えていなかった。卓球も立派なスポーツだし、スポーツである以上は試合もあるし、練習がきついのは覚悟していた。ただ、僕は徐々に卓球に目的を見失っていったのだ。というよりも卓球に目的を見付けられないまま毎日だけを送っていたといえるかもしれない。
「卓球がうまくなったからといって、いったい何の得があるんだろう?」
「地味なシャツ着てくすんだ色の短パン履いて、卓球選手ってカッコイイのかな?」
別に僕は卓球部の練習がきついとは思わなかった。だから、そんな疑問も「逃避」だとも感じなかった。ただ、僕は何もかもにうんざりしていたのである。
それに、実際卓球部に入ってわかったことなのだが、卓球部の2、3年生たちはみな優等生ぞろいだった。学年トップクラスの成績を維持している先輩も少なくなかった。そして彼らはみな教師たちに従順だった。いつも礼儀正しく、教師の前では姿勢もよく、とにかく何から何まで「優等生」なのである。そしてそんな優等生は後輩に対しても優等生であることを押しつける。しかし、学校の体制や教師の声に無批判に従順であり続ける先輩たちの顔が、僕にはまるで「のっぺらぼう」にしか見えなかった。そんな優等生に比べれば、むしろ全校生に恐がられ忌み嫌われている柔道部の先輩の方がずっと人間らしく思えた。
ところで、当時の柔道場は校舎からずっと離れたグラウンドの隅に、小さな松の林に隠れるようにポツンと建っていた。石造りの蔵のような建物で、窓の外側には何故か鉄格子が掛けられていた。それは、まるで島流しの刑務所といってもいいほど不気味な建物だった。ほとんどの生徒はそんな不気味な柔道場には近付かない。唯一、野球部の連中だけがボール拾いのために時折足を向けるくらいである。
卓球部の先輩に命じられてグラウンドをランニングする度、僕はその柔道場が気になって仕方がなかった。ある日、僕はランニングの途中でスピードを緩め、フラフラと柔道場の窓に足を向けた。友人の制止を振り切った僕は、思い切って窓の外の鉄格子を掴んでなかを覗いた。果たして、そこではどんなに悲惨な特訓が繰り広げられているのか? 恐れと期待の入り交じった心で道場を覗いた僕の目に飛び込んできた光景は……、なんと「ジャンケン相撲」だった。
ジャンケン相撲とは僕らが子供の頃に流行した遊びである。数人ずつ2つのチームに分かれ、互いの代表がジャンケンをして、勝った歩数ずつ進んで敵を倒すという単純なゲームである。それを、なんと中学にもなった大人が(?)全員で夢中になって遊びほうけているのだ。一瞬、僕はこれは練習の一種なのかなと思った。「たしかに柔道も相撲も似ているからな。工夫してこういう稽古をしているのかも」などと僕は解釈したのだが、それは大きな間違いだということをすぐに理解した。
しばらくすると、3年生と思われる大きな体をした人が、はしゃぐように大声で「おーい、次はよ、馬乗りやっぺ! 馬乗り!」などといい出し、他の人はみんなで「賛成、賛成、大賛成!」などと応じているのだ。
僕はいったん窓を離れ、柔道場の周りを一周してみた。すると、今度は見張り番を発見してしまったのである。校舎(その1階の一角に職員室がある)を見渡せる更衣室側の出窓から、僕が見たことのある1年生(彼は入学直後に柔道部に入っていた)がオペラグラス(小さな双眼鏡)を両目に当てて、じっと外を見ていたのだ。
驚いた僕は、再びゆっくりと柔道場の周りを、今度はずいぶん遠巻きにランニングの真似をしながら歩いた。しばらくすると、期待どおり(?)職員室の方からひとりの大柄な教師がノッシノッシと歩いてくるではないか。たしか、彼は柔道部顧問のTである。思わず僕は松の木の後ろに身を隠した。すると今度は突然、すさまじい気合いが柔道場のなかから響いてきた。僕はまた、恐る恐る窓のなかを覗いた。すると、さっきまで嬉々として遊び狂っていた連中が、いまは何事もなかったかのように真剣な顔で乱取りか何か、柔道の練習に励んでいるのである。
この一件があってからというもの、僕の心は大きく変化していった。
噂では不良の溜り場で恐ろしいところといわれていた柔道部が、たしかに恐いけれど、『愛と誠』に出てくるような非情で冷酷な不良ではなく、むしろ愛敬のある不良が多いのではないだろうか? 顧問がいないときは遊んでばかりいることを知って、練習が楽だろうと思ったのが理由ではない。そんな破天荒で無茶苦茶なことをやっている柔道部の人たちが、エリートというか優等生ぞろいの卓球部に比べて魅力的に思えたということなのかもしれない。
いつしか僕は、卓球に何の魅力も感じなくなってしまった(考えてみれば最初から魅力など感じてもいなかったのかもしれないが……)。そして、事件は突然に起こった。
卓球部に入って2ヵ月が過ぎようとしていたある日の夕方である。いつものように僕たち1年生は試合形式の練習にいそしむ先輩たちを囲んで声を枯らしていた。すると、先輩が打ち損じたボールが僕の方に転がってきた。僕は反射的にボールを追った。すると何故か足がもつれてしまい、僕は間違ってそのボールを踏ん付けてしまったのである。クシャッという音が耳に届くと同時に、玉子を踏んだような不思議な感触を足の裏に感じた。そして、その感触はいいようもなく快感だった。ペチャンコになったボールを持ってきびすを返し、わけを先輩に話すと、「気合いが足りないからだ」といって僕は殴られた。その時、僕は思ったのだ。
「こんな玉子よりもちっぽけで、握っただけで割れてしまうようなボールになんか、俺は青春を賭けたくない!」
2発目のパンチを放とうとする先輩(2年生で、勉強の成績はいいけれどクラブでは万年補欠で、先輩や教師の前では従順のくせに僕たち1年生に対してはいつも嫌味をいったりペナルティを命じたりしていた、僕が一番嫌いなヤツだった)の腕を僕はおもむろに掴むと、「それじゃ卓球部を辞めます。お世話になりました」と大きな声で叫んで体育館をあとにした。
――こうして僕は卓球部を辞め、あの「悪の巣窟」といわれた柔道部に入ることとなるのである。
ただ、卓球部の退部と柔道部の再入部は簡単ではなかった。担任や学年主任の教師たちは学校の規則がうんぬんと騒ぎ立て、やれ諮問会だ三者面談だ、経過報告書を書けだの書式に則って退部届けを書けだの……、融通のつかないアホ教師どもが、僕の親も含めて色々な人間を巻き込んでの一大騒動に仕立て上げてしまった。
当然、父親にも僕が柔道部に入りたいということを知られてしまうことになる。とにかく、「もうどうにでもなれ! あとは野となれ山となれ!」といった思いで僕は柔道部に入ることになったのだ。
たしかに柔道部は「悪の巣窟」だった。不良の吹き溜まりだった。それでも、いま考えれば決して居心地が悪い場所ではなかったように思う。心残りなのは、思ったように柔道が強くなれなかったことだけだ。それに意外にも、僕は柔道部に入ることで、これまで知ることのなかった海外の音楽を知るきっかけを手にすることが出来たのである。
僕は柔道部に入部したおかげでロックに出会ったのだ。
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- ◆BACK NUMBER:
- 2000年7月 「格闘技界を考える[1]」
- 2000年8月 「格闘技ジャーナリズムの確立を期す」
- 2000年12月 「地に堕ちた空手の権威」
- 2001年2月 「息子のこと」
- 2001年4月 「芦原英幸について」
- 2002年4月 「格闘技と私の関わり」
- 2002年6月 「LET IT BE ●人々―人間〜その1」
- 2002年7月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(1)
●人々―人間〜その2」
- 2002年8月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(2)
- 2002年9月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(3)
- 2002年10月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(4)
- 2002年11月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(5)
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小島一志 (こじま かずし)
1959年、栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒。元『月刊武道空手』編集長。古武術、柔道、極真空手の有段者。著書として『最強格闘技論』『新世紀格闘技論』(ともにスキージャーナル)、『黒澤浩樹 ザ・ラストファイト』(光栄)、『格闘技別 肉体鍛錬バイブル』(高橋書店)、『必ず使える護身術
─ ディフェンス・ミッション』『格闘家に告ぐ! 実戦格闘技論』(ともにナツメ社)、『「格闘技」史上最強ガイド』(青春出版社)、小説『拳王
─ 復讐』(PHP研究所)などがある。 |
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