ここでは、弊社代表を務める小島一志のコラムをご紹介します。格闘技ジャーナリストとして20年にわたって活動してきた小島ならではのコラムを毎月お届けします。今月は「LET IT BE I LOVE ROCK!(5)
中 学に入学してトム・ジョーンズを知った!」をご紹介します。小島ならではの、ジャーナリスティックな視点が冴え渡ったコラムをどうぞご覧ください。
LET IT BE
I LOVE ROCK!(5)
中学に入学してトム・ジョーンズを知った!
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●大いなる年、1970年
今回は、まず1970年という年について書いてみたい。
1970年といえば「EXPO’70」大阪万国博覧会が開かれた年である。日本は高度成長期の真っ只中にあった。三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯基地で割腹自殺を図り、日本赤軍による日航機「よど号」ハイジャック事件が起きた。アメリカのニクソン大統領はベトナム戦争の泥沼に深く入り込み、韓国の独裁政権が近隣諸国の不安を煽る一方で、金日成率いる北朝鮮は「楽園国家」の喧伝に躍起になっていた。世界は米ソを軸に冷戦が深刻化し、後にこの年は「不吉な世紀末の始まり」とさえいわれるようになった。
僕はまだ小学5年生で、スポーツ少年団に入ってサッカーに夢中だった。現在進行形で少年時代を送っていた僕にとって、1970年がどんな年かなんて考える暇も頭もなかった。それは、当時の大人たちも同様だったのではないだろうか? その時代の意味は、その時代が「歴史」になってからでないとわからない。ただ、あれから30年以上の年月が過ぎ、僕も大人になったいまとなれば、1970年がいかに大いなる年だったかは実感として理解することが出来る。
特に、現在日本国内の世論を沸騰させている北朝鮮に関する諸問題(拉致事件と、それに関わったとされる「よど号」ハイジャック犯問題。さらには北朝鮮に渡った在日朝鮮人配偶者たちの帰国問題など)の根源が、この時期の北朝鮮によるプロパガンダと、それに朝日新聞を始め多くのメディアが踊らされた結果であることを思えば、やはり1970年が持つ意味がきわめて大きいことを認めざるを得ない。
思い出してみれば、あの頃僕が通っていた小学校の先生たちは、何かにつけて、「北朝鮮は貧富の差もなく、みんな平等で天国のように美しい国です」と僕たちに語っていた。大人たちは、まるで大合唱でもするかのように、韓国は悪い国で、その韓国を操っているアメリカはもっと悪い国だといっていた。反対に、北朝鮮は天国で、北朝鮮と友だちのソ連や中国は正義の味方だとも……。少なくとも学校の先生などのインテリは、異口同音に北朝鮮を絶賛していたものである。
そうじゃなかったのは僕の父親くらいだった。父親は何かといえば「北朝鮮も中国もソ連も共産党の〈赤〉連中はみんなダメ!」「北朝鮮が天国だなんて全部ウソ。本当は絶対に地獄なはずだ!」などと繰り返していた。僕は学校の先生と父親の意見が正反対なので少し悩んだが、当然のように先生たちの言葉を信じた。いま考えれば、北朝鮮に関してだけは父親の言葉は正しかったことになる。
1970年についてもう少し僕自身の記憶を辿るならば、上に書いたような出来事以外にも思い出す事柄は少なくない。格闘技についていうならば、この年、世界チャンピオンとして華々しい活躍を見せてきた〈ファイティング原田〉が引退を発表し、原田のライバルだった〈海老原博幸〉も、ハードパンチャーの〈藤猛〉もリングを去った。一方で、「貴公子」とうたわれた〈大場政夫〉が弱冠21歳にして世界王者に君臨したのもこの年だった。
TVのスイッチをひねれば〈コント55号〉がブラウン管のなかを跳び回り、しかし人気絶頂だった彼らの冠番組『コント55号の野球ケン!』が低俗との批判に晒されて打切りを発表して大騒ぎになった。また、毒性の高い人工甘味料である「チクロ」が社会問題になったのも1970年だったはずだ。
たしかに僕は、引退の記者会見に臨んだ〈ファイティング原田〉の顔がやけにデコボコだったこと、その反面、新チャンピオンの〈大場政夫〉がとてもひ弱そうに見えたことを覚えている。そして『コント55号の野球ケン!』が突然終わってしまったことは、僕にとっても猛烈にショックな出来事だった。なんといっても『コント55号の野球ケン!』は徹底的にエッチな番組だった。欽ちゃんや二郎さんが綺麗な女性タレントと野球拳をやって負けたら衣服を一枚ずつ脱いでいくというこの番組。ときには女性タレントが下着まで脱いでしまうというショッキングなもので(下着を脱いだとしても、バスタオルを身体に巻くので何も見えないのだが……)、それはそれは興奮する番組だった。
また、学校でも「チクロ」は大きな話題だった。先生や親には、もう駄菓子屋のお菓子を食べちゃダメだといわれ、僕たちはこれからいったい何を買い食いすればいいのか途方に暮れたものである。いつしか「チクロ」は悪者の代名詞になり、例えばクラス内の不良たちを、陰で「あいつらチクロだかんな、ヤバイぞ」なんて具合に使ったりしていた。
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音楽に関していえば、まず僕の耳にうるさいように入ってきたのが〈三波春男〉の大阪万博の歌だった。「こんにちは〜、こんにちは〜 世界の国から〜」というフレーズが日本全国に溢れていた。「もう、うんざりだよ!」って叫びたくなるほど、この歌はいつでもどこでも流れていた。TVやラジオはもちろん、運動会でも盆踊りでも、なにかといえばこの歌に合わせて踊ったり騒いだりパレードしたりしたものだ。まさに日本全体を万博の集団パニックに導いたのがこの歌だった。
ところで、いま資料を見ると1970年の日本レコード大賞は〈菅原洋一〉の『今日でお別れ』となっている。もちろん、この歌が流行した記憶は僕にもある。でも僕の印象では、記念すべき第1回の日本歌謡大賞を取った〈藤圭子〉の『圭子の夢は夜ひらく』の方がずっとインパクトが強かった気がしてならない。
〈藤圭子〉といえば〈宇多田ヒカル〉のお母さんとして近年有名だが、お母さんの方がずっと社会的な注目を浴びていたように思う。もちろん時代が違うから一概には比較できないだろうが、1970年当時、〈藤圭子〉の人気というか存在感は異常だった。何といっても〈藤圭子〉は暗さと不幸の象徴だった。戦後の復興期から高度成長時代へ、常に右肩上がりの日本社会にあって、ずっと日本国民が置き忘れてきた戦前戦後の暗い思い出のシンボルが〈藤圭子〉だった。
とにかくメディアを通して伝えられた彼女のプロフィールが凄まじい。いわく、「小学校を卒業するとろくに中学にも通わせてもらえず、家で待つ目の見えない母親のために、身体の不自由な父親とふたりで全国を放浪しながら歌を唄って日銭を稼いだ」という典型的な不幸譚――。『圭子の夢は夜ひらく』は、そんな暗く不幸な〈藤圭子〉のイメージが凝縮した歌である。
同じ親子でありながら、〈藤圭子〉と〈宇多田ヒカル〉のメディアを通したイメージは笑ってしまうくらい正反対である。アホかと思えるほど能天気で天真爛漫な娘と、世間の不幸を一身に背負ったような母親。いまさらながら、これも時代のせいなのだろうかとため息をつく思いがする。僕についていえば、正直ふたりともどうでもいいのである。娘の〈宇多田ヒカル〉にはまったく興味がないし、母親の〈藤圭子〉も当時から好きではなかった。子供ながらも、あの暗さが何ともいえず息が詰まったものだ。
それでも僕はいまでもはっきりと覚えている。〈藤圭子〉をTVで初めて見たとき、「何て美しい女性なのだろうか!」って僕は心底感動した。色白で人形のように整った面立ち、愁いを含んだ大きな瞳。少々厚化粧ではあるものの、とにかく〈藤圭子〉は美人だった。
繰り返すが、僕はこの年小学5年生だった。そして、その2年後の1972年――1970年の熱い息吹の余韻が残るなか、小学校を卒業し中学に進学した。
●麻丘めぐみ、南紗織、アグネス・チャン
僕が中学生になった1972年について、少しだけ書いておきたい。
この年の話題は、何といっても内閣総理大臣〈田中角栄〉に尽きるだろう。学歴なしで日本の頂点に上り詰めた〈田中角栄〉は、『日本列島改造論』を引っ提げて一躍国民のヒーローとなった。その人気は近年の小泉ブームの比ではなかった。その数年後、彼がロッキード事件の主役として急転直下、犯罪者に成り下がるのだが、当時はそんな予感さえ見えないほどに〈田中角栄〉は時代の寵児そのものだった。あまりに〈田中角栄〉が人気のため、彼のソックリさんが何人もTVに登場するほどだった。
また1972年といえば人気ドラマの『時間ですよ』が思い出される。3枚目の〈堺正章〉と超清純派の〈浅田美代子〉のコンビが新鮮で、現在では完全に妖怪化してしまった〈森光子〉が上手に下町の女将さん役を演じていた。銭湯を舞台にしたこのドラマは毎回必ず女性のヌード・シーンが見られるため、僕たちはその一瞬のシーンを見逃すまいと両目を凝らしてブラウン管の前に正座したものだった。ちなみに『時間ですよ』のなかでも、何度か〈田中角栄〉のソックリさんが登場し、人気を博していた。
さて、中学に入学して、僕の音楽に対する好奇心は一気に大爆発した。それまではTVから流れてくる歌謡曲と、父親が好んで聴いていた音楽だけが僕のすべてだった。しかし僕はすでに気付いていた。この世には僕が知らない「音楽の世界」があることを。小学生の頃、母親が経営するおにぎり屋の近所のスケートリンクに流れていた音楽。従兄たちが夢中になってエレキギターを弾きまくっていた英語の歌――。もう僕は歌謡曲なんかに満足できなくなっていたのだ。
そうはいうものの、中学に入りたての春、相変わらず僕は歌謡曲しか知らない世間知らずのガキだった。ちょうどその頃、〈麻丘めぐみ〉〈南紗織〉〈アグネス・チャン〉の3人娘がデビューした。僕の周りの男たちは必ずといっていいほど3人のうち誰かのファンになった。そうでない人間は何らかの欠陥を持っていると噂が立つくらい、この3人娘は大人気だった。ちなみに、女の子たちといえば、この頃デビューした〈郷ひろみ〉〈西城秀樹〉〈野口五郎〉の「新御三家」に群がっていた。
でも、僕は全然興味がなかった。小枝のように頼りなさそうな〈麻丘めぐみ〉に魅力なんて感じなかったし、シンシアなんていうニックネームがついていた〈南紗織〉のどこがいいのか理解できなかった。
第一僕は、現在はもちろん当時から好きになる女性の絶対条件が「色白」である。どんなに美人でも色黒の女性は許容範囲の外なのだ。たとえギンギンギラギラの真夏でも、真っ白な肌を保っている女性が僕は好きである。褐色の肌は健康的というが、たとえ病的でもいいから僕は真っ白な肌の女性が好きなのだ。だから最近流行ったヤマンバ風のコギャルなんて最低最悪だし、ひと頃一世を風靡した〈安室奈美恵〉は色黒すぎてお話にならない。というわけで、僕にとっては〈南紗織〉も問題外だった。
〈アグネス・チャン〉に関してはさらに論外だった。あの不安定な裏声。か細くキーキーした気持ち悪い声は、すでに発声段階で歌手失格だと断言する。僕は中学1年のガキだったけれど、〈アグネス・チャン〉の声だけは絶対に許せなかった。さらにいえば彼女のカマトト振りには呆れ返っていた。何かといえば「香港では〜」「中国では〜」という決まり文句。〈アグネス・チャン〉がTVに出る度、僕は「そんなに香港は偉いのかよ!」と向っ腹を立てていたものである(いま考えればアグネス・チャンが遠因なのかもしれない。僕はずっと以前から香港映画が好きではない。台湾やタイは好きだけど香港は嫌いなのだ。一度、取材で香港に行ったことがあるが、全然いいところだとは思わなかった。その原因がアグネス・チャンにあることを、僕は最近気が付いた)。
以上が僕の本音であった。しかし、当時の僕は人前で本音を主張出来るほど強くはなかった。柔道部の先輩たちはほぼ全員が3人娘のうち誰かのファンだったし、暇があれば彼女たちの話題で盛り上がっていた。僕が中1の頃、3年生の柔道部員は5名しかいなかったが、3年生の先輩に「お前は誰のファン?」と訊かれたら、その先輩が好きな歌手の名前をいわなくてはいけないという暗黙の約束があった。
実に下らないことなのだが、たとえば〈麻丘めぐみ〉ファンの先輩に「誰のファン?」と訪ねられたら、必ず「麻丘めぐみです」と答えなければならないのだ。もし、間違って「アグネス・チャンです」などというものならば、僕たち1年坊主は投げ技の特訓相手にされてしまうのである。だからといって過剰に反応してもいけない。「自分は麻丘めぐみの大ファンです。最高ですよね、出来ればキスしたいくらいです」とか「麻丘めぐみを恋人にしたいです!」などと余計なことを口にしようものなら、僕らは絞め技と関節技の特訓相手にされてしまうことになる。
だから、僕は〈麻丘めぐみ〉ファンの先輩に対しては「どちらかといえば麻丘めぐみが好きですかね」と答え、〈南紗織〉ファンの先輩には「南紗織がいいですかね」などと、小さな疑問符つきで応じていた(当時の柔道部がいかに荒れていて悪の巣窟だったかについては前回も触れている。柔道部に関しては後の機会に詳しく触れるつもりである)。
クラスのなかでも、やはり3人娘は大人気だった。前述したように、中学に入った僕はすでに歌謡曲に食傷気味で薄っぺらな女性歌手には何の興味も感じてはいなかった(ところがそれから1年後、〈桜田淳子〉がデビューすると、僕は彼女の大ファンになってしまった。ファンなどと生易しいものではない。とにかく熱病にでも罹ったかのように、寝ても覚めても〈桜田淳子〉、頭のなかの99パーセントが〈桜田淳子〉に占拠されてしまったような情況に陥ることになる。これについても後の機会に触れたい)。
それでも、僕は友人たちに変り者扱いされるのが怖くて、一応は〈麻丘めぐみ〉ファンということにしていた。しかし、内心では彼女のデビュー曲である『芽ばえ』にしても、代表曲になった『私の彼は左利き』にしても、いいと思ったことなど全然なかった。繰り返すが、その頃の僕は歌謡曲がバカのように思えてならなかったのである。その嫌悪感は異常なほどだった。僕自身、第2次性徴期に入ろうとしていた時期で、少々反抗期の気味もあったかもしれない。
●トム・ジョーンズ
いままでの自分が知らない新しい音楽を捜し始めた僕だったが、なかなかその世界の糸口が見つからなかった。ハッと気がついたとき耳に飛び込んでいる未知の音楽。しかし、いざその音楽について知ろうとすると、まるで蜃気楼のように跡形もなく消えてしまう。僕はいつも音楽に飢えていた。
そんなある日のことである。日曜日の夜12時過ぎだった。普通ならば、翌日の(柔道部の)朝稽古に備えてすでに布団にくるまっているはずだったのだが、その日は何かの都合で僕はまだ起きていた。すでに父親は酒を飲んで寝ていた。母親だけが6畳のお茶の間で縫い物をしていた。僕は母親の前に腰を下ろし、母親と世間話(もしくは父親の悪口や愚痴のいい合い)をしながら、何とはなしにTVのチャンネルを回していた。すると、突然びっくりする音楽が僕の耳を襲った。
初めて聴く英語の歌――。まさにアメリカ的な雰囲気に満ちたスタジオのなかで(実際にはイギリスだったのだが)、ひとりの大男がマイクを軽快に操りながら唄っていた。短いアフロヘアー、長いモミアゲ、そして一見ゴリラのような顔つきをした野性的な男だった。ちょっと見ただけでは白人なのか黒人なのかわからない。白いシャツに黒いスラックス。激しく腰を振りながら唄う彼のもとに客席の女性たちが押し寄せる。その男の頬にキスをしたファンは嬌声を上げながら踊り狂う。自分が手渡したハンカチでその男が汗を拭うと、歓喜の声でハンカチを取り戻そうとする女性ファン。とにかく何もかもその光景は僕にとって衝撃だった。
そして彼が唄う曲は、そんな光景以上に僕を激しく打ちのめした。ドラムスが刻むアップテンポのリズム。跳躍するエレキベースのうねり。さらにトランペットなどのブラスの響きと黒人女性たちの甲高いコーラス。しかし、それらの複合的な音のなかで、その男の声は少しも色褪せることなく圧倒的な存在感を示し続けていた。
その男の名前は〈トム・ジョーンズ〉といった。そしてそのとき彼が唄っていたのが、当時全英ヒットチャート第1位に輝いていた『ラブミー・トゥナイト』だったのである。まるで初恋の相手にでも巡り合ったかのように僕は舞い上がった。音楽を恋に例えるならば、まさしく〈トム・ジョーンズ〉は僕の初恋の相手だったのかもしれない。この日を境に、僕は熱烈な〈トム・ジョーンズ〉ファンになった。そして〈トム・ジョーンズ〉を知ることで、僕は未知の世界に一歩踏み出すことが出来たように感じたのである。
ちなみに、〈トム・ジョーンズ〉はイギリスを代表するポップス歌手である。ウェールズ地方の炭坑夫の子として生まれ、実際彼もデビューまでは炭坑夫をしていた。しかし、その超人的な声量と情感溢れる唄い口で、〈トム・ジョーンズ〉は一躍イギリスのヒーローになったのである。1970年代初期、〈トム・ジョーンズ〉は〈エルビス・プレスリー〉のライバルといわれ、しかし彼はエルビスよりもセクシーで歌が巧いと一部の音楽評論家は絶賛した。ヒーローとなった〈トム・ジョーンズ〉には、エルビス同様、いつしか数々の伝説が生まれた。
たとえば、あるとき〈トム・ジョーンズ〉はカーネギーホールでライブを行なった。その日、ニューヨークは激しい雷雨に見舞われており、屋外は耳をつんざくような雷音と雨音に満ちていた。そして不幸にも雷がホールを襲い、突然停電になった。ライトが消え、アンプが消え、マイクのスピーカーも途切れた。観客は騒めいた。ところが真っ暗なホールのなかに、何故かトムの歌声だけは消えることなく、しかも停電前の音量そのままで流れ続けていたという。彼はマイクなしの生で唄い続けていたのだ。停電は約1時間にわたったが、その間ずっと〈トム・ジョーンズ〉の独唱は続き、ライトが再びついたとき、ホールは観客たちによるスタンディング・オベイションに包まれたという――。
この伝説は実話だといわれているが、その真偽なんて僕にはどうでもいいことだった。少なくとも、〈トム・ジョーンズ〉ならば、そんなことは簡単なことのように思えたし、それほど彼は超一流のボーカリストだった(ちなみに現在でも彼は現役で、相変わらずイギリスの国民的歌手である)。彼の歌の多くがイギリスのヒットチャートを賑わしたし、全米の音楽シーンでも度々彼の曲はトップに輝いている。僕がTVで観たのは、彼が司会を兼ねながら自らショーを演じる『ジス・イズ・トムジョーンズ』という30分番組で、イギリスで大ヒット中のものを、たしかTBSかフジテレビが日曜の夜に放映していたものだった。
僕はさっそく彼のレコードを集め始めた。毎月の少ないお小遣いを貯め込むと同時に、なんやかんやと理由をつけては母親から小銭を巻き上げ、ひと月に1枚のアルバム(LPレコード)を買うのが僕の楽しみになった。しばらくすると、小学校時代の友人の紹介で「小島に劣らぬ熱烈なトム・ジョーンズファン」という人間を紹介してもらった。彼は上野といい、200年近く続くという老舗の紬問屋のボンボンだった。
ところで、僕が入学した中学校は県内でも有名なマンモス校だった。全校生の数は何と1500名。1学年500名で全10クラスという恐ろしい規模だった。だから3年間通い続けて も、全体のほんの一部の人間としか知り合いになれない。もっとも僕は別に友だちがほしいと思ったことなどなかったし、表面ではチャラチャラとお調子者ぶってはいたけれど、いつも心のなかでは「一匹狼」を自認していたから、かえって人間砂漠のような圧倒的な人間の渦のなかに紛れ込むことが心地よかったりもしたものである。
それでも、僕は上野と知り合えたことがとてもうれしかった。少なくとも1年生の春に限っていえば、僕の周囲に歌謡曲以外の音楽を知っている人間はいなかった。ましてや〈トム・ジョーンズ〉の名前を知っているようなヤツはひとりもいなかった。僕にとって、〈トム・ジョーンズ〉ファンでいることはとても孤独だったのである。
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上野と友だちになってから、僕の〈トム・ジョーンズ〉熱はさらにヒートアップした。毎週土曜日か日曜日には必ずといっていいほど僕たちは互いの家に集まって心行くまで〈トム・ジョーンズ〉に聴き惚れた。彼のポスターを見せ合ったり、一緒に彼のサインの真似をしては、どっちが巧いとか下手だとかいい合ったりしたものである。歌詞を一生懸命に和訳して、手作りの歌詞カードも作った。ちなみに、中学時代における僕の英語の成績は常にトップだったが、僕は英語の下地を〈トム・ジョーンズ〉の楽曲の和訳で身につけたような気がする。僕と同様、上野も英語はクラスでトップを下ったことがないと自慢していた。
ところで、さっき上野の家が老舗の紬問屋だと書いたが、上野の家は本当に凄かった。外見は見るからに江戸時代の商人の店か旅篭といった感じである。重要文化財に指定されても全然おかしくないほどの風格が家全体から滲み出ていた。間口が5間近くはある玄関の格子戸を開けると、そこは土間で、その向こうに上がりかまちがあって座敷になっていた。要するに、時代劇に出てくる商家の店棚そのままの作りなのである。店の奥に木造の階段があって、階段の下は段々の和箪笥になっていた。テカテカと黒光りする階段を上がって奥にいった東側の8畳間が上野の部屋だった。それはまるで古い旅館の客間のようだった。
そんな純和風の上野の部屋のなかに、チョコンと小さな黄緑色のステレオが置いてあった。本体(プレーヤーとアンプ)と2つのスピーカーが別々になっている、いまでいえばミニコンポといったところだろう。プラスティック製で決して高価な品じゃないし本格的なものでもない。しかし、そのステレオが上野本人だけのものだということが、僕にはとても羨ましかった。僕が使っていたステレオは以前に紹介した父親の愛用品(シャープの「白馬」)で、たしかに上野のステレオとは比較にならないほど音もよかった。しかし、いかんせん、これはあの父親のものなのだ。上野の部屋にあったプラスチック製のオモチャのようなステレオ――。それは僕の憧れだった。
ところで上野と僕は同じ〈トム・ジョーンズ〉ファンとはいいながら、その志向は微妙に違っていた。僕は『ラブミー・トゥナイト』や『ディライラ』といったアップテンポの楽曲が好きだったのに対し、上野は『思い出のグリーングラス』『ラ・マンチャの男』のようなバラードが好きだった。それに、上野は何故かシングルレコードだけをコレクションし、一方の僕はアルバム専門だった。
中1の春から秋にかけて、僕と上野はいつも一緒にいた。まったくクラスは違うし教室も遠く離れていたのに、まるで僕たちは兄弟のように一緒だった。しかし、そんなふたりの熱い友情も長くは続かなかった。というよりも、僕たちは一度だって喧嘩などしたことなかったし、いい争いさえしたこともなかった。中学を卒業するまで、僕たちはずっと友だちだった。ただ、少なくとも〈トム・ジョーンズ〉を媒介とした密接な関係は1年の秋を過ぎる頃から色褪せていった。
何故なら、僕自身の心がいつしか〈トム・ジョーンズ〉から離れていったからである。いや、この表現は正確ではないだろう。僕はずっと〈トム・ジョーンズ〉のファンだし、それは現在も変わらない。正しくいうならば、パニック的な感情が沈静化して、次第に冷静な心で〈トム・ジョーンズ〉に接するようになったということだろう。
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相変わらず僕は〈トム・ジョーンズ〉の超人的なボーカルに打ちのめされ続けていた。しかし、中1の夏頃から他の洋楽も聴くようになっていた僕は、何となく〈トム・ジョーンズ〉に物足りなさを感じるようになったのである。最初のうちは自分でもその理由がわからなかった。「ひょっとしたら、これが浮気というものかもしれない」なんて自嘲しながら、他のミュージシャンの歌を聴いたりアルバムを買ったりしていた。何といっても〈トム・ジョーンズ〉は僕にとって「初恋」の相手なのだから。ところが、それが決して「浮気」ではないということに僕は気づき始めるようになる。
いまとなれば、その理由がはっきりとわかる。要するに、僕は自分自身のこだわりとしてソング・ライターが好きなのである。音楽は基本的に感情の表現手段だと思うし、それならば詞を自分で書き、曲も自分で作って、さらには自分で演奏もして自分で唄うのが理想ではないか? これは音楽に対する僕の信念である。
以前も書いたが、現在の日本に溢れている「偽ソング・ライター」を僕は決して認めない。J−POPという言葉は大嫌いだし、〈宇多田ヒカル〉も〈浜崎あゆみ〉も〈倉木麻衣〉も、さらには〈小室哲哉〉や〈桑田佳佑〉もみんな「偽ソング・ライター」か「パクリ・ソング・ライター」だと思っている。
つまり彼らも彼女らも、ただの歌手なのだ。「ただの歌手」ということならば、つまり「アーティスト」ではなくて「エンターティナー」または「ボーカリスト」であるということを彼ら自身が認めるならば、僕は〈浜崎あゆみ〉も〈倉木麻衣〉も嫌いではない(むしろ僕は倉木麻衣のファンである)。しかし、もし彼らが自分をソング・ライターといい張るならば、僕は彼らよりも「エンターティナー」としての姿勢を堂々と貫いている〈氷川きよし〉ら演歌歌手の方をずっと認める。
つまり僕がいいたいことは、何もかもソング・ライターでなければならないというのではない。ただ、ソング・ライターが理想だということである。そういう意識を、僕は中1の夏頃から色々な洋楽に接することで養っていったのである。
しかし、僕の意に反して〈トム・ジョーンズ〉はソング・ライターではなかった。プロが作る詞と曲を、プロとして唄うボーカリストなのである。つまり、彼はアーティストではなくエンターティナーなのだ。そういうことで、僕は〈トム・ジョーンズ〉を知った後で、〈ビートルズ〉や〈エルトン・ジョン〉といった素晴らしい本物のソング・ライターと出会ってしまったのだ。それでも僕は、〈ビートルズ〉や〈エルトン・ジョン〉がミュージシャンとしては〈トム・ジョーンズ〉より上だとか優れているとはいわないし、断じていいたくはない。ただ……。
とにかく僕は、中学に入学し、ほどなく〈トム・ジョーンズ〉を知って新しい世界の扉を開いたのである。
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- ◆BACK NUMBER:
- 2000年7月 「格闘技界を考える[1]」
- 2000年8月 「格闘技ジャーナリズムの確立を期す」
- 2000年12月 「地に堕ちた空手の権威」
- 2001年2月 「息子のこと」
- 2001年4月 「芦原英幸について」
- 2002年4月 「格闘技と私の関わり」
- 2002年6月 「LET IT BE ●人々―人間〜その1」
- 2002年7月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(1)
●人々―人間〜その2」
- 2002年8月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(2)
- 2002年9月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(3)
- 2002年10月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(4)
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小島一志 (こじま かずし)
1959年、栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒。元『月刊武道空手』編集長。古武術、柔道、極真空手の有段者。著書として『最強格闘技論』『新世紀格闘技論』(ともにスキージャーナル)、『黒澤浩樹 ザ・ラストファイト』(光栄)、『格闘技別 肉体鍛錬バイブル』(高橋書店)、『必ず使える護身術
─ ディフェンス・ミッション』『格闘家に告ぐ! 実戦格闘技論』(ともにナツメ社)、『「格闘技」史上最強ガイド』(青春出版社)、小説『拳王
─ 復讐』(PHP研究所)などがある。 |
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