ここでは、弊社代表を務める小島一志のコラムをご紹介します。格闘技ジャーナリストとして20年にわたって活動してきた小島ならではのコラムを毎月お届けします。今月は「LET IT BE I LOVE ROCK! (4)」をご紹介します。小島ならではの、ジャーナリスティックな視点が冴え渡ったコラムをどうぞご覧ください。
「LET IT BE
I LOVE ROCK! (4)」
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中学時代の話に入る前に、今回は番外編という形で幼稚園時代のことを書いておきたいと思う。少しばかり音楽から話題が逸れるかもしれないがご容赦いただきたい。話は1960年代の中頃に戻る。
僕が物心が着いた頃――いま僕が思い出すことが出来るもっとも遠い時代、それは僕が幼稚園に入園した4、5歳の頃である。そんな1964年前後の話だ。うっすらとした記憶のなかで、それでも鮮明に頭のなかで踊っているメロディーがある。それは〈梓みちよ〉の「こんにちは赤ちゃん」と〈舟木一夫〉の「高校三年生」だ。いつもどこかでこれらの歌が流れていたような気がする。たとえば近所のお肉屋さんへお使いにいったとき、隣の電気屋さんでテレビを見ていたとき、必ずといっていいほど「こんちには赤ちゃん」と「高校三年生」が僕の耳に飛び込んできた。ただ、僕はといえば幼かったからという理由もあるかもしれないが、これらの歌をちっともいいとは感じなかった。それよりも、父親がいつも家のステレオ(例のビクターの4足スタイルのヤツだ)で聴いていた村田英雄の歌の方がずっと好きだった。
父親はいまでも当時のことを言う。酒を飲む度、鬼の首でも取ったかのように繰り返すのだ。「夜、布団に入って俺が村田英雄の『白虎』を歌ってやると、一志はいつも涙を流して聴いていたもんだ……」と。父親の前では「そんなこと覚えてなんかいない」と憮然としながら応えているが、正直いうと父親の話は嘘ではなかった。村田英雄の歌のなかでも、特に「白虎」は好きだったし、その哀愁を帯びたメロディーと愛国的な歌詞はいまでもはっきりと思い出すことが出来る。何故、父親が歌う「白虎」を聴くと涙が流れてしまったのか? いまもって理解できないが、やはり「白虎」が持つ物悲しい雰囲気が恐かったのか、それともそのムードに感動したのか、そのどちらかだろうと思う。
さて、僕が通っていた幼稚園は「観音寺幼稚園」といって、名前どおり大きな石造りの観音様が庭に建っているお寺だった。本質的に人見知りが激しく内気な僕は、毎日毎日幼稚園に通うのが嫌で仕方なかった。いつも途中まで母親に連れていってもらった。幼稚園が近づくに連れて僕は母親の手を強く握り締めた。「子供なのにあんなに力があるなんて私はびっくりしたよ。それほど幼稚園が嫌なんじゃ、かわいそうに思ったしね」と、僕が大きくなってからも母親はよく言ったものだ。しかし現金なもので、幼稚園に着いてしまえば僕は一転して人格が変わった。急に元気になって剽軽な子供に変身するのだ。一人っ子だった僕は(弟が生まれるのは僕が中1になったときだ)みんなと遊ぶのがこの上なく楽しかった。
幼稚園の思い出といえば、何といっても「竹登り」である。当時、幼稚園の裏庭には大きな竹林があって、そのツルツルした竹を誰が一番高く登れるか競うのである。誰もが自分専用の竹を持っていて、それを「これが俺のシンショウだかんな」と宣言するのだ。そうすれば、その竹は宣言した者以外は登れなくなるという暗黙の了解があった。つまり、「自分のもの」という意味で「俺のシンショウ」といったわけで、「シンショウ」が「身上」の意味だというのは大きくなってからわかったが、何故、幼稚園児が「身上」などという古い言葉を使っていたのかはいまだに不明である。
ところで、僕は中学に入る頃まで体育や運動が大得意だった。特にかけっこでは負けたことがないし、運動会のリレーではいつもスターだった。クラス対抗戦に出れば「○人抜きをした」といってはクラスメートに英雄扱いされたし、町内対抗戦に出場すれば翌日から近所の話題の的だった。しかし、そういった称賛の言葉のなかには僕の心を錐のように刺すムカつくものも少なくなかった。それは「カズシちゃんは小さいのによくやった」「背が低くくても凄いよね」という言葉である。子供心にも、僕は「小さいから特別扱いされているのかな……」といつも不満だった。
考えてみれば、その頃から自分が小さいということに対するコンプレックスを抱き始めていたのかもしれない。だから、僕は「小さいのに偉いね」などという周囲の言葉に対しては徹底的に反抗した。といっても子供の反抗はタカが知れていた。どんなに誉められても絶対に無視して返事をしないというのが僕の唯一の反抗手段だった。大人たちは僕を可愛げがないと思っていたかもしれない。誉められてもブスッとしている僕に対し、あからさまに不快な表情を浮かべた大人もいた。僕はそんな大人の狡さというかあざとさが大嫌いだった。つまり、僕はすでに幼稚園児の頃からひねくれた嫌なヤツだったのだ。
話を竹登りに戻す。運動神経がよかったのと、体重が軽かった(僕は中学に入るまでずっとクラスで一番か二番程度に小さくて痩せ細った子供だった。ところが中学に入って急激に太りだした。柔道を初めてからもっと太り、空手を始めたら贅肉の上に筋肉がついてさらに太ってしまい、そのまま現在に至っている)という理由で、僕は竹登りが大の得意だった。いつも誰よりも高く登れた。だから僕の「身上」は一番太くて高い竹だった。
その他の思い出といえば、みんなで一緒に昼寝をしたことくらいである。僕は昼寝の時間が好きではなかった。第一、全然眠くないのに何故寝なくてはいけないのか、僕には理解できなかった。それが不思議なもので、みんなで布団に入り、先生の歌などを聴いているととたんに睡魔が襲ってくる。瞼が重くなり、呼吸が大きくなる。すると今度はこう思ったものだ。「お昼寝の時間は最高だなあ〜」昼寝は一転して最高に幸せな時間に変化するのである。
それからもうひとつ、次に紹介する思い出も忘れることができない。ひょっとしたら、現在の僕があるのもこの「事件」がきっかけかもしれない。それほど僕にとって大きな出来事だった。それは粘土工作の時間のことだった。僕は一生懸命にヘリコプターを作っていた。僕の隣で作業をしているフサオちゃんは粘土工作が得意で、やはりヘリコプターを作っていた。僕は小さなライバル心をフサオちゃんに抱き、フサオちゃんより上手に作ってやると心に誓っていたのだ。そしてやっと完成間近というとき、工作に飽きてそこら辺を遊び回っていた3人の園児がワイワイはしゃぎながら僕の方に走ってきて、アッという間に僕のヘリコプターを踏みつけていったのだ。原型をとどめずぺちゃんこになった粘土には彼らの靴下の痕がくっきり残っていた。僕はじっと何も言わず粘土を見つめ続けていた。悔しくて腹が立ったけど何故か涙は出なかった。だからといって、その3人組に文句を言ったり、ましてや殴ったりすることもできなかった。相手は3人だし「ワル坊主」で有名なガキ大将だった。喧嘩しても勝てないのは明白だったし、それ以前に不満を口に出すことさえできなかったのである。唇を噛み締めて、じっと心で耐えることしか出来なかったことに、僕はずっと腑甲斐ない自己嫌悪を感じ続けてきた。「何故、正義が悪の前で勝てないのか?」子供だから漠然とした不条理感でしかなかったかもしれないが、それだけを、僕はそれから何年も何年も自分自身に問い続けてきた。
しかし、考えてみれば答えは簡単だった。たとえ正義でも、力がなくては何の意味もないということに過ぎないのだ。あれから約15年後、極真会館に入門した僕は総本部の道場で大山(倍達)総裁が口にした言葉に、眼から鱗が落ちる思いをしたものである。
「力のともなわない正義なんて無能なだけだよ。逆に正義のない力はただの暴力だ。本物の武士は、毎日毎日剣の技量を磨き続け、常に刃を研ぎ澄まし、それを粗末で貧しい鞘のなかに隠しておくものだ。そして本当に自分にとって大切なものを守らなくちゃならないときにだけ刀を抜けばいい。しかし、いったん刀を抜いたならば、一撃で敵を討たなければならない。一刀両断で敵を殺すんだよ。それが真の武士の心意気というものだ」
いまでも眼に浮かぶ、あの汚い靴下の痕がついたぺちゃんこの粘土。僕は、二度と不正に対して口をつぐむまいと心に決めた。たとえどんなに困難なことがあっても、自分の主張を心に隠しておくような臆病にはならないと決心した。仮に勝てない喧嘩だとわかっていても、僕は自分の尊厳を守るためには逃げずに闘う(もちろん用意周到さはいうまでもない。精一杯勝てる手立てをしてから喧嘩をするし、たとえ負けたとしてもいつか必ず復讐する)。たとえフラれるのがわかっていても、好きな女性がいればつまらぬ戦略や策略など用いずに正面から好きだという(その結果、恋愛に関しては連戦連敗という不名誉な記録を作ってしまったが……。そしてフラれても決して諦めないのが僕の強いところでありバカなところだ)。
たとえ僕が間違っていたとしても、絶対に自分に嘘はつかない。そのためにも絶対に強くなる! そんな、強くて正直な自分でありたいと思うようになった心の原点が、幼稚園時代の「粘土事件」であった。
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幼稚園時代、つまり5歳頃、僕は父親の強引なまでの勧めで「剣舞」というものを習うようになった。
記憶では、幼稚園時代の僕は何故か無性にピアノに興味を持っていた。まわりの友人(特に近所の女の子)でピアノを習っている子が何人かいたから、その影響だったかもしれない。それよりも、それこそ子供心にピアノを弾くということがとてもカッコよく思えたのかもしれない。ピアノを習っている子の家へ遊びにいくと、そいつは必ず僕の前で「猫踏んじゃった」を弾いた。それが何ともカッコよかったのだ。近所のアッちゃんという女の子は、まだ幼稚園児だというのに「エリーゼのために」を弾いた(曲の名前はずっと後になって知ったのだが……)。それはもう、魔法を見るようなショックだったのを覚えている。だから、僕はピアノ教室に通いたいと何度も母親に駄々をこねた。母親は賛成してくれたのだが、問題はあの父親である。予想したとおり、「ピアノなんていうものは女がやるもんだ。男には男だからこそやるべきものがある」とか「〈芸は身を助く〉という言葉があるように、習って得するものじゃなけりゃやるべき価値がない。ピアノなんか巧くなっても何にも得しない」などとわけの分からない理屈を並べたて、僕のピアノの夢は簡単に潰えてしまった。
もっとも僕も簡単に諦めたわけではなかった。僕は、ピアノが駄目ならオルガンを習いたいと言った。何故なら、ピアノ教室に比べてオルガン教室の月謝が遥かに安いということを知っていたからである。僕の提案に母親はさらに乗り気になった。母親なりに一生懸命、父親に説得してくれた。だが、それでも父親は首をタテに振らなかった。反対に、父親はこう切り出した。「それじゃ、最近警察署の道場で剣舞教室が始まったから、剣舞ををやれ」。その理由は、「剣舞なら、巧くなったら将来先生になってお金が稼げるから」ということと「おまえはチャンバラごっこが好きだから剣舞が合っている」というものだった。当然、僕は納得しなかった。ピアノだって上手になれば、将来先生にだってなれるだろうし、お金だって稼げるじゃないか。チャンバラごっこは遊びだから好きだけど、踊りなんてやりたくない! 僕は正直、墓穴を掘ってしまったと後悔した。ピアノをやりたいと言わなければ、剣舞なんてやらなくて済んだのに……。しかし、突然のように父親の頭のなかに芽生えた剣舞教室は急激に父親の頭全体を支配し始めたようだった。最初のうちこそ「ピアノやオルガンをやるんだったら剣舞を習え」という代替案に過ぎなかったものが、日を置かずして「絶対、剣舞教室に通え」という命令に変化してしまったのだ。
実は、当時の父親は週一程度の割合で、地元の警察署で柔道の指導員をやっていた。ヤクザのような生き方をしている人間が警察署で警官にものを教えるということそのものがすでにお笑いなのだが、それを言うならば、高校時代に暴走族でバリバリやっていた僕のバカな友人がいまは警察で白バイに乗っていることを考えれば何ということもないのかもしれない。つまり、警察もヤクザも同じだ! というふうに理解すればよいのだ。それはそうと、父親は自分が警察の道場に通っている関係から剣舞教室の情報を耳にし、実際に剣舞を見学することで僕に学ばせたいという思いが強くなったに違いない。こうして僕は嫌々ながら剣舞教室に通うことを余儀なくされてしまった。それでも、僕は僕でしたたかだった。父親に条件を出したのである。父親の話によると、当時、警察署の道場では柔道や剣道以外に剣舞と古武道(居合道)の教室が少年・一般向けに開設されていたという。そこで僕は剣舞をやるならば古武道も習わせてほしいと主張したのである。その背景に、例の「粘土事件」があったことはいうまでもない。
僕の条件について父親は反論できなかった。というより言葉が詰まってしまったのをいまでも覚えている。何故なら、居合は父親が言う「将来役に立つもの」にも「男らしい習いごと」にも十分に当てはまるからだ。結局、父親は僕の申し出を拒否することができず剣舞と居合を学ぶことを了承した。というよりも、父親としては僕の条件を呑んででも剣舞をやらせたいという強い思いがあったのかもしれない。
ちなみに、それでは何故、古武道ではなく剣道や柔道をやらなかったのか? という疑問が読者の間に起きるかもしれないので、それについて答えておこう。まず剣道だが、当時、剣道を学ぶにはたくさんのお金がかかるという噂が僕たちの間で広まっていた。面や胴や小手など、防具はとても高価で、「剣道をやっている奴はお大尽で坊っちゃん」というイメージが定着していた。剣道にしろ柔道にしろ、または剣舞も古武道も、警察の教室でかかる月謝は恐ろしく安かったと記憶している。だから父親は僕が剣舞と古武道の2つを習うことを認めたとも言えるのだが……。そうはいっても剣道は別にお金がかかる。僕の家は貧乏だ――というわけで、僕は最初から剣道を諦めていたのだ。
柔道については少々複雑な話になる。これは僕が中学に入学してから、何故に最初から柔道部に入らなかったのか? ということにも関係するのだが、簡単に言えば父親に対する反発以外にないだろう。1960年代は柔道が大流行した時期である。東京オリンピックで柔道が正式種目になったということと大きな関係があると思う。当時の柔道人気は、ひところの極真空手ブームや近年のK−1ブームを遥かに凌ぐ勢いがあった。何故なら、TVでは「姿三四郎」「柔道一代」「柔道水滸伝」といったドラマが目白押しだったし、歌謡界でも美空ひばりの「柔」や村田英雄の「姿三四郎」始め、柔道関連の歌がヒットチャートを賑わしていたほどだったからだ。
それに僕は物心がついた頃から父親が柔道をやっていたことや、ある大きな大会で優勝したことなどをいつも聞かされていたし、そんなこんなで柔道については幼稚園に入った頃からすでに大きな興味を持っていた。第一、僕は東京オリンピックが開催されたとき5歳だったわけだが、神永選手がヘーシンクに押さえ込まれて負けてしまったときの光景をTV越しではあったがしっかりと眼のなかに刻み込んだ覚えがあるのだ。そして、どうしようもなく悔しかったのも覚えている。それに、あの「粘土事件」以来、僕は強くなるために柔道を習いたいと思ったことも一度や二度ではない。しかし、幼稚園児ながらすでに僕は父親の「正体」を見破っていたのだと思う。あの遊び人そのままの父親に毎日接することで、徐々に僕の心のなかで父親の存在が欝陶しいものに、またはつまらないものに変化していったような気がする。だから、僕は父親がやっていた柔道を学ぶ気がしなかったのだ。柔道は好きだけど、そして本心ではやりたいのだけれど、父親の姿を思うと嫌になってしまう……。そんな感じだった。
というわけで、僕は程なく剣舞教室と古武道教室に通うことになった。剣舞は火曜日と土曜日、古武道は金曜日だったと思う。ここでは、とりあえず古武道の話は脇に置いておいて剣舞の話をしてみたい。剣舞とは「詩吟」に合わせて踊る舞いのことをいう。詩吟とは漢詩を節をつけながら詠じることで、感覚的には結婚式などでよく謡われる「た〜か〜さ〜ご〜や〜 」などという節に似ているだろう。または能や狂言で流れる舞曲にも近いかもしれない。剣道の道着のようなものを着て縦縞の入った小倉の袴を履き、晒の帯を巻いて日本刀を脇に差し、頭には鉢巻きをして踊るのだ。これが正直言って面白くもなんともなかった。本当につまらなかった。自分の番を待つときは正座していなければならないし、ましてや剣道場だから床は板張で、足は痺れるし脛は痛いし、それだけでも僕は嫌だった。やっと自分の番がきたと思えば、腰が落ちてないとかつまさきの方向が違うとか、背筋が曲がっているとか視線がおかしいとか、果ては気合いが入っていないとかやる気がないとか、何から何まで注意の雨嵐。
稽古を見ている親たちは満足そうにしていたけれど、特に僕の父親などはもともと盆踊りから日本舞踊から踊りが大好きな男だったから、それはいつも嬉々として眼を輝かせて稽古を見ていた。しかし当の本人はハナからやる気なんてまったくないのだ。稽古をしていても何ひとつ面白いと思える要素がないのだから、それは当然だろう。たとえ刀を振り回しても、居合ならば強くなれる実感はあった。しかし剣舞は所詮踊りなのだ。踊りなら強くなれるはずがないだろう。たとえば伝統空手の選手が何万回型を繰り返して上手になったとしても、全然実戦では通用しないのと同じ理屈である。だから僕は毎週、火曜日と土曜日が来るのが嫌で仕方なかった。土曜日などは、幼稚園から帰ると友だちの家に逃げ込んだものである。それでも父親に見つかって、ほとんど毎回休むことなく僕は警察署の道場に連れていかれた。
それでも、剣舞の稽古が1年を過ぎ2年を越える頃になると、少しばかりではあるが剣舞の面白さのようなものが分かりかけてきた。というよりも、上級者になると手に持つ刀のレベルがアップしてくることがわかったのだ。入門当時は、木刀を使い、しばらくたつとそこら辺の玩具屋で売っているような安い刀で稽古するようになる。しかし上手になると模擬刀と呼ばれる本物に近い刀を持つことができる。そして初段になれば真剣(本物の日本刀)を差せるようになるのだ。もちろん真剣とはいっても刃は潰してあるのだが、それでも本物の刀を持てるのだ。それはとても素晴らしいことのように僕には思えた。ちなみに大人の場合、有段者になれば刃を潰していない本物そのままの真剣を持って舞うことが許される。それが僕には憧れだった。
数年後、僕は小学校の低学年になっていたが、いつのまにか教室のなかでは上級者の一人になっていた。段をもらい、「名取」の資格を得て、僕は「荒木岳龍」という芸名をもらった。何だかわからないが、僕は剣舞をやるときだけ荒木岳龍という名前になるらしいのだ。すっきりしなかったが、それでも何となく偉くなったようで嬉しかった。
そして憧れの真剣も手にすることが出来た。真剣を初めて手に持ったときの喜びを忘れることは出来ない。ずっしりとした重さ、そして吸い込まれるように輝く美しい刃……。その頃、すでに僕は居合の方は辞めてしまっていたので、真剣を持てた喜びは相当なものだった。そして僕はその頃からいくつものコンテストに出場するようになった。東京・九段会館で行なわれた全国大会で僕は敢闘賞をもらった。そのときの僕の舞はTVの3チャンネル(教育テレビ)で放映された。また、長野の松本城や福島の会津城などでも演舞を行なって地元のTVに映ったりもした。
結局、僕は小学5年生まで剣舞を続けた。最終的に剣舞を辞めた理由は、教室の先生が高齢になって引退しなければならなくなり、その後継者もいなかったからというものだった。無理をすればその流派の別の教室に移ることもできたのだが、その頃、父親はとっくに剣舞に対する情熱も冷めており(父親は当時、民謡に夢中になり自分で三味線や尺八の教室に通っていた)、表面上は残念な顔をしながらも内心では喜んで剣舞を辞めたのだった。
ひとつ剣舞時代の思い出がある。これは幼稚園時代の「粘土事件」に続く、いやひょっとしたらそれ以上に大きな出来事だったかもしれない。小学校に入った頃、僕は剣舞道場に行く度イジメに遭うようになっていた。それはとても陰湿なイジメだったと思う。何といっても見学にきている親たちの前での行為なのだから。稽古の間、10分程度の休憩時間があった。それと稽古が終わって着替えるとき、ふざけっこをしているふりをしながら、僕は数人の目上のヤツらに集中攻撃をされた。表面上はキャッキャッと笑い声を上げながら、僕の耳元では「死ね」と脅す。親の眼が届かないことをしっかり計算してつねったり殴ったりする、そのずる賢さ。多分先生や親たちもまったく気がつかなかったと思う。僕は僕でイジメられているなんてカッコ悪いことは言いたくなかったから、精一杯イジメられながらも遊んでいるふりをして誤魔化していた。
しかし、日を追うごとにイジメはエスカレートしていった。その陰湿さにとうとう我慢できなくなった僕は、思い切って父親に剣舞を辞めると宣言したのだ。当然、父親は承知するはずがない。その理由をしつこく僕に糾す。でも僕は一切イジメのことは口にしなかった。ただ、「○△君や△×君が嫌いだから」とだけ答えた。そして先生の前でも同じことを僕は言った。多分、先生にはイジメについてピンと来るものがあったのかもしれない(断言するが、父親は最後までイジメについては分からなかったはずだ。父親はきわめて鈍感な人間だからだ)。結局、僕が名指しした子供たちは教室を退会することになった。こうして僕はイジメからやっと解放されることになったのだ。
この話には後日談がある。中2の頃、僕は同級生のWという女の子が好きになった(といっても、まだ恋愛感情までには至っていなかったと思う)。Wも僕に好意を持ってくれた。すごくいい娘だった。勉強もできたし優しかったし、何しろとても可愛かった。徐々に仲良くなっていった。そして「両想い」一歩手前という段階まできたとき、何かのきっかけで彼女が自分の家族の話をした。その話を聞いて僕は驚いた。なんと彼女の兄は、あのとき僕をイジメた主犯客だったのだ。僕より一学年上でテニス部に入っているという。もちろん、この話を聞いて僕の彼女に対する気持ちは急激に冷えてしまった。理屈に合わないことはわかっていた。彼女と彼女の兄は兄弟といっても別な人格だし、兄のイジメの罪は妹にはまったくない。けれど、そんな理屈はどうでもよかった。気持ちが失せてしまったのだから仕方がない。僕はその後、パタリとWを無視するようになった。心ではいけないと思いながらも、そうすることしか出来なかったのだ。ただ、その理由を彼女に話さなかったことがよかったのかどうかはいまもって分からない。
その日を境に僕の復讐計画は始まった。それから数日後、僕はテニス部が練習しているコートに足を運んで彼女の兄という人間を捜した。幸いなことに、彼女の兄は決して大柄でもなく強そうでもない普通の中学3年生だった。当時の僕は、柔道をやっていたとはいってもまだ喧嘩(腕力)には自信がなかったので、あまり相手が強そうだと復讐することが困難になってしまうと内心心配していたのだ。しかしあの程度ならば何とかなるかもしれない。そう思った僕は、さらに数日後、部活が終わって下校時間になった頃合いを見計らって彼を〈トレーニング・コース〉に呼び出した。たしか呼び出す理由は、「あなたの妹のことで話を聞いてもらいたい」というものだったと思う。Wの名前を利用することには少し躊躇いがあったが、目的のためには手段など選んではいられない。
ちなみに〈トレーニング・コース〉とは、学校の敷地内ではあったが木が茂った林のなかに設けられたフィールド・アスレチックのことである。陽が落ちれば森のなかといった感じで薄暗く、何をしても簡単には分からない。僕に呼び出されたWの兄は腑に落ちない顔をしながらも、まさかこの僕が数年前、毎週イジメていた人間だなんて思いもしなかったはずだ。大きなコンクリートの土管の脇でことの経緯について話をする僕の前で、見る見る顔色がかわった彼は、一瞬怯えの表情を見せたがすぐに狡そうな顔に変わって、こう脅し文句を吐いた。「俺をやったら3年の連中がおまえをフクロにするぞ」。しかしこの脅しは僕には通用しなかった。それなら僕には柔道部の先輩がついていたからだ。別な機会に書くが、当時の僕の中学の柔道部は不良たちの巣窟といってもよく、喧嘩ならば負けなしといったヤンキー予備軍がひしめいていたのだ。 僕が黙っていると、脅しが効いたとでも思ったのか、彼は「へえ〜、あのときのチビがおまえか」と薄ら笑いを見せた。同時に「相変わらず生意気なんだよチビが」と言いながら僕の胸ぐらを右手で掴み掛かってきた。僕は彼の言葉が終わらないうちに彼の髪の毛を掴んでいた。髪の毛を持って背負い投げを掛け、倒れても髪の毛を手放さず、左手で髪の毛を捻ったまま右手で相手の顔面を何度も何度も叩いた。最後には絞め技を掛けて、苦しがる彼の顔面に思い切り痰を吐きつけた。これが僕の初めての本格的な喧嘩だった。ハッと気がついたとき、僕に押さえ付けられたまま、彼は泣きながらゲロを吐いていた。それでも僕は叩くことを辞めなかった。このままだと殺してしまうかも……。そう感じたときやっと僕は立ち上がった。
これが小説やドラマの世界なら、このときの僕の心は虚しかったり自己嫌悪に悩まされたりするのかもしれない。だけど現実の僕は違っていた。心の底から沸き上がる勝利感。「ざまあみろ!」といった征服感。ただ一瞬だけ、そこに転がっている男の妹でクラスメートのWの悲しそうな顔がよぎったとき、何とも言えない気まずい感覚が僕を襲った。僕の復讐はそれだけでは終わらなかった。彼から昔僕をイジメていた仲間の名前を聞いた僕は、彼を通じて再び〈トレーニング・コース〉に呼び出した。「柔道部の先輩の利根山さんも、場合によっては助っ人してくれるって言っているかんな。逃げるなよ」と釘を刺すのも忘れなかった。返り討ちに遭うのだけは真っ平だったからだ。
利根山というのは、当時僕の中学では最強といわれたワルで、決して番長という感じじゃなかったが、それでも実は「ウラ番」だという噂もあるほどの有名人だった。柔道でも県大会で3位に入ったほどの猛者だった。翌日の同時刻、Wの兄とともに2人の人間がやってきた。最初から怯えていた。きっと僕が恐かったのではないと思う。僕の裏にいると思っている利根山さんが恐かったに違いない。僕は彼ら3人に土下座をさせた。そして足で彼らの頭を思い切り踏みつけていった。何度も何度も踏みつけては唾を吐きつけた。このときも、僕の心にはこれっぽっちも罪悪感も気まずさもなかった。それほど残酷になっている自分に驚くこともなかった。ただ、昔やられたことをいまやり返しているだけだという思いしかなかった。自分は正しいという思いもあった。
この件があってからだろう。僕は「やられたら必ずやり返す」ということを座右の銘にするようになった。1回やられたら1回返すのではない。1回やられたら3倍にして返すのが僕の身上になったのだ。この姿勢はいまでもまったく変わっていない。幼稚園時代の「粘土事件」と、この「剣舞イジメ事件」が遠因であるのは明白だが、まさに「三つ子の魂百まで」といったところだろうか。
話は剣舞時代に戻る。いま考えてみると、剣舞をやってよかったことは歌舞伎や狂言などの伝統文化というものに対する理解が比較的向上したように感じることだ、などとカッコいいことを書いてはいるが、実際、僕は歌舞伎と狂言は好きではない。しかし能や舞(幸若舞)は好きだ。第一、詩吟や舞楽の韻律がとても心地よく感じられるようになった。音楽というものに接するにおいて、剣舞を学んだ経験は決して小さくはなかったといまでは思っている。それよりも、この頃の経験の一つひとつが現在の僕という人間の人格をほとんど作り上げてしまったことに、いまさらながら驚かされる次第である。
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- ◆BACK NUMBER:
- 2000年7月 「格闘技界を考える[1]」
- 2000年8月 「格闘技ジャーナリズムの確立を期す」
- 2000年12月 「地に堕ちた空手の権威」
- 2001年2月 「息子のこと」
- 2001年4月 「芦原英幸について」
- 2002年4月 「格闘技と私の関わり」
- 2002年6月 「LET IT BE ●人々―人間〜その1」
- 2002年7月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(1)
●人々―人間〜その2」
- 2002年8月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(2)
- 2002年9月 「LET IT BE I LOVE ROCK!(3)
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小島一志 (こじま かずし)
1959年、栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒。元『月刊武道空手』編集長。古武術、柔道、極真空手の有段者。著書として『最強格闘技論』『新世紀格闘技論』(ともにスキージャーナル)、『黒澤浩樹 ザ・ラストファイト』(光栄)、『格闘技別 肉体鍛錬バイブル』(高橋書店)、『必ず使える護身術
─ ディフェンス・ミッション』『格闘家に告ぐ! 実戦格闘技論』(ともにナツメ社)、『「格闘技」史上最強ガイド』(青春出版社)、小説『拳王
─ 復讐』(PHP研究所)などがある。 |
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