小島一志コラム


「LET IT BE 
I LOVE ROCK! (3)」


 小学4年生の頃、一時母親が小さな食堂というか居酒屋のような店を経営していた時期があった。店といってもその実態は昼間からやっているおにぎり屋さんといった程度のものだったが、母親としてはぐうたらでろくに仕事もしない父親に生活費を期待しても仕方がないと思ったのだろう。それにしても、外に出て働いたことのない母親がよく思い切ったことをしたものだと思う。もっとも母親が仕事を始めたとはいっても、ことは母親の思惑どおりには進まなかった。ヤクザな父親は母親が働いてくれるから安心してますます仕事をしなくなったし、ますます博打熱が激しくなっていった。
 夜、母親がお店で働いている頃、僕の家はまるでヤクザ映画そのままの"賭場"になっていた。父親はステテコ姿にサラシの腹巻を巻いて「カブだ!」「オイチョだ!」と啖呵を切っては有頂天になっていたし、家にやってくる人たちの風体は見るからに怖いおっさんそのままだった。だから僕は夜、父親と一緒に家にいるのがたまらなく嫌だった。ある日など、父親が地回りのヤクザに内緒で賭場を開いたという理由で、ほんまもんのヤクザが数人で家に乗り込んできたことがあった。畳に日本刀を突き刺して、兄貴分のヤクザが「今日は倅がいるから勘弁してやるけど、後できっちり落とし前をつけてもらうかんな」と父親に言い放った脅し文句をいまでもよく覚えている。それに、あの時の日本刀の抜き身がユラユラと青光りしていた光景は忘れられない。
 ところで母親の店は宇都宮にあり、僕が住んでいたY市からはかなり離れていた。だから僕は、電車か父親の車でないと行くことが出来なかった。僕は学校から帰ると、週に3回はランドセルを放り出し、そのまま駅に走った。ひとりで電車に乗るのはスリルがあってとても楽しかったのを覚えている。母親のもとにいくと、僕はおこづかいをもらって必ずのように近くのアイス・スケートリンクにいった。もともと僕は幼稚園の頃からローラースケートが得意だった。僕のローラースケートは4つのタイヤがついた金属性の草履のようなヤツで、ベルトで靴に固定させて滑った。自宅の近所に中学校があったので、日曜日はいつも学校の渡り廊下で滑ったものだった。回転ストップやバックなどはオチャノコサイサイ、小学2、3年生の頃にはジャンプだってこなすことが出来た。アイススケートはローラースケートと要領が違ったが、それでも慣れてしまえば何ということもなく上手に滑ることができた。初めの頃はフィギュア(スケート靴)を借りていたけれど、いつしかホッケー靴になり、最後には母親にねだって中古のスピード靴を買ってもらった(もちろん父親には内緒でだ)。
 僕が初めて外国のポピュラーミュージックを聴いたのはこのスケートリンクでだった。リンクではいつもBGMとして場外スピーカーから音楽が流れていた。時には聴き慣れた歌謡曲だったり軽音楽(当時、イージーリスニングと呼ばれたクラシック風のインストゥルメンタル・ミュージック)だったりしたが、時折、聴いたことのないリズムでギターやドラムスの音が流れていた。それがやたらと僕の耳の奥に残った。そして、その音楽が流れてくると何故か僕は張り切ってスピードを出したくなったものである。テケテケテケテケとかズンズンズンズンッとか、その軽快なビートに僕は惹かれていった。しかしまだ子供だった僕は、自分からその音楽の正体を探ろうとするほどの気持ちはなかった。それでもスケートリンクに行く度に、僕はいつもの音楽が流れてくることを心待ちにするようになっていた(数年後、それは〈ベンチャーズ〉のナンバーだということがわかった)。
 一方、母親の店に帰ると、店にあるステレオ(父親が買った例のビクターのヤツだ。その頃にはもっと新しいシャープの『白馬』という名前のステレオを父親は買い込み、お役御免になったビクターのステレオを陶製の犬ごと母親の店に持ち込んでいた)からはいつも音楽が流れていた。レコードの時もあるし、ある時はステレオについていたラジオから流れてくる音楽だったりした。1960年代中頃、日本の歌謡曲界は全盛時代を迎えていた。〈小川知子〉〈黛ジュン〉〈いしだあゆみ〉〈日吉ミミ〉といった女性歌手がヒットチャートを賑わし、男性歌手といえば、〈東京ロマンチカ〉や〈内山田洋とクールファイブ〉といったコーラスグループが人気で、演歌では〈森進一〉がデビューしたばかりだった。 母親は〈東京ロマンチカ〉の『君は心の妻だから』が好きだといって、レコードを買い込んでは何度も繰り返し聴いていた。僕はといえば、人前ではいつも〈いしだあゆみ〉の『ブルーライト横浜』が好きだといっていた。しかし本当は〈奥村チヨ〉の大ファンだった。特に『恋の奴隷』を聴くと何故か体中がゾクゾク、ムズムズしたものだった。とにかく子供心にも〈奥村チヨ〉はコケティッシュというか、少々エッチなイメージが強かった気がする。だから、僕は決して人前で〈奥村チヨ〉が好きだとは口にしなかった。第一次性徴期を迎えていた僕にとって、〈奥村チヨ〉は「禁断の魔女」のように思えたのかもしれない。
 それからもうひとり、その頃の僕が大好きだったのが〈ちあきなおみ〉だった。僕は〈ちあきなおみ〉の歌を聴いて心から感動したものだった。特に『喝采』はいまでも名曲中の名曲で、〈ちあきなおみ〉でなければ絶対に歌いこなせないと思っている。

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 ところで先月、僕はポップスには2種類あると書いた。"アーティスティック・ミュージック"と"エンターテインメント・ミュージック"である。そして僕のスタンスは前者にあるとも書いた。しかし現在のような糞味噌一色のJ−POP界においては、何が"アーティスティック・ミュージック"で、何が"エンターテインメント・ミュージック"なのか、分別することそのものがナンセンスかもしれない。何故なら、"似非アーティスティック・ミュージック"があまりにも溢れ返っているからだ。〈宇多田ヒカル〉や〈浜崎あゆみ〉といったインチキ・ソングライターはもちろん、とりあえず本当に自分で歌を書いているソングライターでさえ、あざとい曲作りに終始している現状。
 大体、詞や曲を作る前にタイアップ戦略が先行するなんて、僕には信じられない。〈小室哲哉〉がどれだけCDを売ろうが〈桑田佳祐〉が何度ヒットを飛ばそうが、先にタイアップありきというシステムに乗っている限り、僕は彼らをミュージシャンとしては認めない(ビジネスマンとしてはきわめて優秀であることを認めるにはやぶさかではないが)。まともな頭を持っていれば誰でもそう思うのではないだろうか。たしかにミュージシャンは歌を売ってナンボの商人ではある。だけど自分をアーティストであるというならば、冒してはならないギリギリのラインがあるはずだ。だから僕は〈小室〉や〈桑田〉の曲を"音楽"だとは思わない。絶対に思いたくはないのである。
 彼らの曲は誰にでも受けるツボを押さえた最大公約数の"商品"以外の何物でもない。僕に言わせれば、大量生産、大衆向けの中国鰻や中国製Tシャツと同じようなものだ。どれだけ売れたからといって、決して中国鰻は浜名湖産や四万十川産に比べて旨いという人はいないし、中国製Tシャツが着やすくて丈夫だという人はいないだろう。それと同じである。彼らの歌がこれから20年30年後、歴史に残ることはないだろう。何故なら、彼らかが作る歌はただの消耗品にすぎないのだから。
 近年レコード業界は不景気で、CDセールスは下降線の一方だという。一握りのビッグヒットとあまたの泡沫セールスCD……。「そりゃそうだろが」と僕は言いたい。だってその曲がヒットするかどうかなんて曲が出来る前に決まっているのだから。曲としての姿形がまったくないうちにタイアップ戦略が独り歩きし、その戦略が成功すればヒットの確率は100パーセント。こんないびつな音楽界は世界中に日本くらいだと思う。だから僕は 先月の原稿で書いたのだ。"似非アーティスティック・ミュージック"を聴かされるならば、良質な"エンターテインメント・ミュージック"の方がずっとマシだと。その意味で僕はいまでも〈ちあきなおみ〉の『喝采』は歴史に残る名曲だと信じているのである。
 『喝采』を作詞作曲したのは〈ちあき〉ではない。しかし彼女は『喝采』の歌詞を噛み砕くように理解して自分の心に溶かし込んでいた。曲にしても原譜に忠実ながらも〈ちあき〉ならではの唄い回しで情感を加えていた。かくして『喝采』は〈ちあきなおみ〉でなければ絶対に唄いこなせない完璧なオリジナルと成り得たのである。

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 話は1960年代に戻る。1960年代は50年代から続いて映画が全盛時代を迎えていた。僕が住んでいたY市にも映画館が3つもあった(小学生の低学年の頃にそのうちの2軒が閉館し、最後の"遊楽館"という名の映画館も1970年代を迎えてすぐに潰れてしまった)。僕はよく遊び人の父親に連れられて映画館にいった。特に前日、父親が母親とケンカをした時、父親は必ずのように僕を引っ張って映画館に向かった。ただ、いつも映画館に直行するということはなかった。その前にはいくつかの儀式があったのだ。
 父親のお決まりの"ぶらぶらコース"は次のようなものだった。まず、パチンコ屋に入る。その頃のパチンコは自動でなく、小さな穴に玉を1個ずつ入れる台だった。「当り」もせいぜいチューリップが1つか2つ程度だった。父親はいつも100円分の玉を買うと、 大体1、2時間は玉を弾いていたものだった。左手に数個の玉を握って次々と小さな穴に玉を送り込み、リズミカルにバネを弾いていく父親の姿に、僕は微かな憧れを抱いたものだった。そして僕は、騒がしい店内で床に落ちている玉を広い集めるのが習慣だった。玉をたくさん集めて父親に渡すと父親は煙草の煙を吐きながら誉めてくれるのだ。僕はパチンコ屋でも流行の歌謡曲を存分に聴いていた。そして〈奥村チヨ〉の歌が流れ始めると野球帽を深く被り直して俯きながら耳を澄ましたものである。
 ひとしきりパチンコを楽しんだら父親は「久保田」という名の食堂に入る。この時、運がよければ父親は数箱の煙草をポケットに納め、僕は数枚の板チョコを手にしていた。「久保田」は見るからに労働者専用といった食堂で、いつも陽に焼けた髭面のおっさんたちで賑わっていた。ところが、ここの焼きソバは絶品で、僕は「久保田」に行くのがいつも楽しみだった。「久保田」の焼きソバには豚のホルモンがこれでもか!というほどたくさん入っている。太い中華麺が少しゴツゴツしていて、それでたっぷりとソースが絡まった脂ギトギトの焼きソバを口にすると、僕はえもいえぬ陶酔感に包まれた。ちなみに「久保田」はいまでも健在で、実家に帰ったときは必ず焼きソバを食べている。父親は焼きソバをつつきながらビールを飲み、労働者風のお客さんたちとガヤガヤ雑談を交わす。そして僕は焼きソバを食べ終えると、そんなおっさんたちの顔や着ているものを観察するのが好きだった。
 パチンコを弾き、ビールを飲み、そしてやっと父親は映画館に向かう。
 父親は映画なら何でも好きだった。邦画も洋画もOKだったが、比較的時代劇をたくさん観た記憶がある。父親は〈嵐寛十郎〉や〈長谷川一夫〉〈坂東妻三郎〉らが好きなようだったが、僕としては東映の〈市川歌衛門〉や〈片岡千恵三〉の方が好きだった。何故なら大映や松竹の作品に比べて東映の時代劇はきらびやかで華があったような気がしたからだ。〈市川歌衛門〉や〈片岡千恵三〉の演技はまるで歌舞伎役者のように大袈裟でわざとらしいところが玉に瑕だったが、それでも彼らが映画のなかで身に着けていた着物はいつもキンキラキンで眩しいほどだった。それに彼らの立ち回りはすごくスペクタクルでワクワクしたのを覚えている。特に僕は〈市川歌衛門〉の『旗本退屈男』が大好きだった。
 それから邦画といえば〈高倉建〉を外すことは出来ない。僕はいまでも〈高倉建〉の大ファンだが、1960年代に父親と観た『網走番外地』シリーズが僕にとって〈高倉建〉の原点である。当時の〈高倉建〉は、『網走番外地』シリーズと、〈藤純子〉主演で一世を風靡した『緋牡丹博徒』の相方として売出し中だった。僕は『緋牡丹博徒』に出ていた〈高倉建〉も大好きだった。妖艶な〈藤純子〉もよかった。最近、『極道の妻たち』で名前を売った〈岩下志麻〉や〈高島礼子〉など足元にも及ばないその華麗さと演技力は素晴らしかった。そして映画のなかで〈高倉建〉〈藤純子〉に絡む〈鶴田浩二〉がまた渋くて最高だった。映画のなかで"お竜"役の〈藤純子〉が歌う挿入歌もよかった。
 ただ音楽という視点で見るならば、やっぱり邦画よりも洋画だった。1960年代は現在ほどアメリカ映画が日本に進出しておらず、フランス映画やイタリア映画の方が比較的認められていた時代だった。『第三の男』『鉄道員』『禁じられた遊び』そして〈アラン・ドロン〉の名を一躍広めた『太陽がいっぱい』など、当時のフランス映画やイタリア映画は質が高かったような気がする。僕としては、洋画は字幕を読まなくてはならないため結構億劫だったが、それでも邦画に比べて凄いと感じたのは、洋画には作品のなかでいつもきれいな音楽が流れていたということだった。『第三の男』など前述した洋画は、いまでもストーリーとともにメロディアスなテーマソングがすぐに僕の頭に浮かび上る。映画を観ていて字幕が追いきれなくなることも少なくなかったが、そんな時は目をつぶり、流れてくる音楽に耳を傾けているだけで僕は幸せな気分になれた。
 洋画といえば、1960年半ばに世界中を席巻した一連
のイタリア映画があった。マカロニウエスタンである。イタリア製西部劇をマカロニウエスタンというのだが、正直言うと、僕が初めて心から感動した映画がマカロニウエスタンだった。小学5年生になったばかりの頃、僕は父親の車で母親の店に行った。客が沢山いて僕たちは母親に相手にされず、仕方がなく父親は僕を連れて宇都宮の映画館に入ったのだ。そこで観たのが〈クリント・イーストウッド〉主演のマカロニウエスタン『荒野の用心棒』だった。とにかくカッコいい映画だった。埃臭いニューメキシコの廃墟の町、そこにやってくるマント(ポンチョ)姿の流れ者。眼にもとまらない早撃ちの妙技、そして日本映画のような勧善懲悪ではない虚無的なストーリー、そして何といっても胸を打つ素晴らしいテーマミュージック。
 『荒野の用心棒』は〈黒澤明〉の『用心棒』のコピー作品として知られている。しかし、少なくとも僕の感想としていうならば、『荒野の用心棒』はオリジナルを遥かに凌駕した名作だと思っている。粗筋も微妙に変え、全体的にクールな雰囲気を醸し出していた。現在まで、僕は最低でも20回以上は『荒野の用心棒』を観ている。ほとんど主人公の台詞をそらんじられるくらいだ。そして〈黒澤〉の『用心棒』も5、6回は観ている。それでも僕が当時抱いた『荒野の用心棒』に対する感動は変わらない。
 『荒野の用心棒』は当時、無名だった〈クリント・イーストウッド〉の出世作として知られている。しかし僕が凄いと思ったのは、イタリアのポップス界の巨匠といわれた〈エンニオ・モリコーネ〉が作ったテーマミュージックである。作品のなかで常に流れていた『さすらいの口笛』、そして緊迫した場面になると始まる『皆殺しのメロディー』。拳銃の音が響き、流血シーンや暴力シーンに彩られている映画にもかかわらず詩的な印象が後々まで残るのは、やはり〈エンニオ・モリコーネ〉の音楽の功績に違いない。『荒野の用心棒』を観てマカロニウエスタンにはまった僕は、それから積極的に父親をせかしては映画館に足を運んだ。『夕日のガンマン』『真昼の死闘』『星空の用心棒』『荒野の1ドル銀貨』『南から来た用心棒』『怒りの荒野』……。〈クリント・イーストウッド〉以外にも〈フランコ・ネロ〉〈リーバン・クリーフ〉〈ジュリアーノ・ジェンマ〉といった俳優のファンになった僕は、同時にマカロニウエスタンのなかで流れていた音楽に強烈に惹かれていった。
 こうして僕は小学5年生の秋、生まれて初めて自分の小遣いでレコードを買った。『マカロニウエスタン大全集』という3200円の2枚組LPである。嬉しくて嬉しくて――、僕はそのレコードを抱き抱えながら眠ったものだった。そして、何とレコードジャケットにボールペンで「小島一志」という名前を書いてしまったほどである。このレコードはいまでも家の倉庫のなかにしまってある。僕にとって数少ない宝物のひとつだ。

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 音楽にまつわる小学生時代の思い出は以上のとおりである。ただ、もうひとつグループサウンズについて少し触れておいた方がいいと思う。
 いままで書いてきたように、小学生時代までの僕は父親の音楽的嗜好の影響が強かった。そのため、父親が好まなかった音楽についてはてんで無知だった。それらの代表がグループサウンズである。テレビではいつしかエレキギターが大流行し、ブラウン管からは何やらやかましい歌が響いていた。それらが宇都宮のスケートリンクで流れていた音楽に似ていることは知っていたが、どうも同じとは言いがたい違和感を僕は抱いていた。簡単にいえばスケートリンクで流れていた音楽はインストゥルメンタルであるのに対し、テレビから響いている音楽には詞があった。だから僕はグループサウンズの楽曲を「変な歌……」程度にしか思わなかったのである。
 ところがある日、事件が起きた。学校から帰ると父親は何故かハイテンションで大騒ぎ状態だった。いぶかしがる僕に対し、父親は「今日、テレビに孝夫たちが出るんだぞ」という。父親の話に要領を得ない僕は母親に詳しく話を聞いた。母親によれば、父親の甥っ子たちがグループサウンズのグループを作り、テレビ番組の『勝ち抜きエレキ合戦』に出場するという。『勝ち抜きエレキ合戦』はグループサウンズのブームに便乗した番組で、素人のグループを毎週何組か登場させて競わせ、5週間勝ち抜けばプロにしてあげるというお手軽な定番企画物だった。そこに僕の従兄たち(3人兄弟全員)が出場するというのだ。当時は、いまよりもずっとテレビの世界は視聴者に遠く、"テレビに出演する"ことは凄い名誉だった気がする。
 その日、父親はお祭騒ぎで僕や母親を引っ掻き回し、夜7時、僕たちは正座をしてテレビに向かった。番組が始まり、僕たちが息を殺していると本当に従兄たちがブラウン管の向こうから出てきた。4人グループで、そのうちの3人はたしかに僕が知っている人たちだった。そしてすぐに演奏が始まり、1分程度で終わった。父親は興奮して大絶賛!「勝ち抜き間違いねえよな〜」と叫んでいたが、僕は冷静だった。どう見ても従兄たちの演奏は下手糞だった。宇都宮のスケートリンクで聴いた音楽には遥か及ばず、それが音楽なのか、それとも雑音といったほうが正しい表現ではないのか? とにかく下手だった。案の定、従兄たちのグループは不合格となり、従兄たちがブラウン管に映っていたのは合計2分以内という期待はずれの1時間だった。
 しかし、その日を境にして僕は少しだけグループサウンズに興味を持つようになった。テレビでは〈タイガース〉が大人気で、続いて〈テンプターズ〉や〈スパイダース〉が女の子たちの嬌声に包まれていた。たしかに〈タイガース〉の曲は歌謡曲的で耳当たりがよかった。〈沢田研二〉は歌が巧いと思ったし(僕としてはジュリーよりもトッポの方が好きだったが……)、『花の首飾り』『モナリザの微笑み』は僕の耳のなかでいつもリフレインしていた。
 それでも僕は、何故かそれ以上グループサウンズに夢中になれなかった。理由はわからない。少なくとも当時の僕は、グループサウンズが好きになれない理由を深く考えることはなかった。それでも、グループサウンズから何かインチキ臭い思いというか贋物に近い思いを拭い去ることが出来なかったことだけは事実である。その大きな原因は、やはり宇都宮のスケートリンクで聴いた音楽(その頃はまだ、それが〈ベンチャーズ〉の曲だということは知らなかったが)にあることもまた事実だった――。



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