今回からしばらくの間、僕の音楽遍歴について書いていこうと思う。音楽遍歴を書くことは、つまりは僕のバイオグラフィーを書くことになるわけで、ということは、そのなかには音楽だけでなく親との関係や葛藤、女の子との恋や失恋、友だちとのあれこれ、それに僕とは切り離せない格闘技との関わりなど、さまざまな思い出や出来事を書いていくことになるわけで、であるならば、僕はこれから過去の自分の恥ずかしい部分をカミングアウトしなければならないことになるわけで……。要するに、僕にとって音楽は生活の一部であり、音楽について書くことは僕自身を書くことになるということを僕は言いたいのである。
それではまず、時間を1960年代の中期まで戻すとしよう。
僕が生まれたのは茨城県と栃木県の県境、古くて暗くて因習的でせせっこましい小さな城下町だった。僕は物心つく頃からこの街が大嫌いだった。家庭的に少々複雑だったという理由もあるかもしれない。父親の仕事が自転車とバイクの販売修理業で、いつも知らない人たちが家に出入りしており、それが子供心ながら欝陶しく感じていたからかもしれない。典型的な田舎町らしく、隣近所の眼が常に光っており、事あるごとに好奇心の眼を向けてくる。僕の父親は変り者で(それは子供の僕でもよく理解できた)、ヤクザというか遊び人に近い人間で、本業に精を出すということはほとんどなく、賭け将棋、花札、チンチロリンといった博打ばかりやっている人間だった。だから僕の家族はいつも周囲の人たちの噂の種になっていたような気がする。僕はそんな街の人たちが大嫌いだった。
たしかに父親は遊び人だった。だから家はいつも貧乏だった……ように思う。というのは、当時の僕にとって家の経済的情況は生まれたときから当たり前に思っていたから、自分のうちが貧乏だという実感がなかったのである。友だちや近所の家と比べたりしたことがなかったので、実際の話、僕の家が貧乏なのか裕福なのか、もし貧乏だとしたら、どの程度の貧乏なのか――。そういうことが子供の僕には皆目わからなかったのだ。それでも小学生の3年くらいになれば徐々にわかってくる。少なくとも、僕の家には友だちの家ならばどこにでもあると思えるものがなかった。中学生になる頃まで家のテレビは白黒だったし、掃除機が我が家にやって来たのも随分後のことのように思う。母親はいつも箒で部屋を掃除していた。僕は毎日毎日、薪で風呂を沸かしていた。それがあの頃の僕の仕事だったのだ。食事のおかずは魚ばかりだった。鰯や秋刀魚、ときには鯖。いつも丸ごと焼いた魚ばかりで、父親は「頭から全部食べなきゃ大きくならない。○△の□×ちゃんは頭を食べるからお前と違ってでかくなるんだ。頭も食べられないお前は、だからチビなんだ」と毎日のように言っていた。
僕にとって当時の最高のご馳走は母親が作ってくれるカレーだった。それもひき肉で作ったグリコ・ワンタッチカレーだ。肉がないときには魚肉ソーセージで作ってくれた。僕はひき肉よりも魚肉ソーセージで作ったカレーの方が好きだった。だから、いまでもたまに家で魚肉ソーセージ入りカレーを作る。でも、どういうわけか、あの頃母親が作ってくれた味には遠く及ばない。カレーの日は2週間に1回程度、なぜなら父親はカレーが大嫌いだったので、母親は父親の機嫌がいいときにしかカレーを作ることが出来なかったのである。必ずカレーが食べられるのは誕生日だった。だから僕は誕生日がいつも待ち遠しかった。それ以外、家の夕食の食卓は魚、魚、魚、うどん、魚、刺身、魚、うどん――という具合だった。
1960年代の日本は全国的にみな貧乏だったという。でも、みんながみんな貧乏だったとは思えない。たしかにクラスのなかには金持ちのボンボンもいた。夏も冬も半ズボンで肩からサスペンダーを吊し、お決まりのように白いソックス姿で登校していた。家はコンクリート作りで屋根が平らで箱のような形をしていた。広いベランダがあって庭は芝生で、鼻がめくれ上がった洋犬がワンワン吠えていた。シャッターのついた駐車場に納まっている車はアメ車で(当時、高級車といえばメルセデスでもBMWでもなく、やたら車体が大きいアメリカ車だった)、通学路の途中にそいつの家があるため、僕は毎日2度は必ずその家を見なければならなかった。ところが僕が6年になった頃、そのボンボンが急に転校したという噂を耳にした(その友だちは5年になるときのクラス替えで別の組になっていた)。それから程なく、そいつが住んでいた家の庭は草ぼうぼうになり、アルミサッシで出来た窓ガラスは割られ、いつしか幽霊屋敷のようになってしまった。僕が「諸行無常」というものを実感した最初の経験がそれだった。
このボンボンの話は別として、たしかに僕の周りはみんな貧乏だった気がする。だけど僕ほど、親から欲しいものを買ってもらえない子供はいない――、そう当時の僕は思い込んでいた。いま考えてもそれは半分以上正しかったと思う。それほど、僕は親に何かを買ってもらったという記憶が非常に少ない。たとえば、あの頃爆発的にブームだった怪獣のプラモデルも、欲しくて欲しくて、でも買ってもらえなかった。周りの友だちが全員買ってもらい、持っていないのは僕だけだということを父親に証明できて、初めて父親は重い腰を上げるのである(ちょっとしたものならば父親に内緒で母親が買ってくれたが、父親にバレる可能性のあるものは、あとで母親自身が怒られるために母親も買えなかった)。だから、僕が何かを買ってもらう場合、いつもクラスで最後だった。要するに、我が家はただの貧乏ではなく父親がケチだったわけである。
そんな父親の(博打以外の)道楽が音楽だった。1960年代半ば、当時では非常に高価で珍しいセパレーツタイプのステレオが家にあった。やたら大きくて家具のように木目で出来ていて、4本の足がついた直方体のやつだ。布張りのスピーカーからはブルブルするほどの重低音が響いていた。ターンテーブルの蓋を閉めるとビロードで簾のついたラメ入りのカバーを掛ける。ステレオの上にはビクターのトレードマークである瀬戸物製のダルメシアン犬が誇らしげに鎮座していた。父親は仕事や博打をしていないときには(仕事はほとんどしたことがないのだが……)必ずと言っていい程ステレオの前に寝転んで音楽を聴いていた。いつもは大嫌いな父親が、ステレオの前にいるときだけは何故か優しく、僕もそんな父親の近くで音楽を聴くことが好きだった。多分、父親は寂しがり屋のため、独りでステレオの前にいるのが嫌だったのかもしれない。だから、そんなときだけ優しくなったに違いない。
★ ★
少し話が脇道に逸れるが、父親は若い頃から柔道を学んでいた。父親が言うには、当時(戦前戦中)は国家の政策として若者が武道を学ぶことを奨励していたらしく、父親の世代の人たちはほとんど例外なく柔道か剣道を学ばされたそうだ。父親の実家は栃木の大農家で、父親は10人兄弟の末っ子、父親の父親(僕にとっては祖父ということになるが、僕が生まれたときにはすでに他界していた)は昔気質の頑固者で夏と冬の2回、家の庭にゴザを引いて息子たちに柔道の試合をやらせたという。10人中、男の兄弟は8人、とは言っても長男と末っ子の父親の年齢差は15(長男は程なく試合には出なくなったというが)、試合となれば末っ子の父親は体力的に最も割が悪く、毎回こてんぱんにのされた。特に父親よりも2つ年上の兄は乱暴者で、わざわざ木の切り株の上に父親を投げ付けたり髪を掴んで石に押しつけたりもしたという。父親はそんな仕打ちが忘れられず、旧制中学を卒業して上京したのちも兄への復讐を誓って講道館に通って柔道を学んだ。
戦後のどさくさ期、東京には愚連隊がはびこっていた。父親もいつしか愚連隊の一員になって喧嘩に明け暮れていたという。父親の本拠地は飯田橋だが、それでも池袋だけには足を踏み入れなかったと父親は語る。「ブクロには空手の大山がいる!」これは当時の愚連隊たちの合い言葉になっていたらしい。ある年の夏、父親が帰京すると村は夏祭りの真っ盛りだった。田舎ではいっぱしの顔役になっていた父親のすぐ上の兄は、父親が着ていたアロハシャツを無理に借りて祭りに出ていった。そこで隣村の地回りヤクザと喧嘩になり、半殺しの目に遭わされて帰ってきた。父親は、心のなかでは「ざまあ見ろ」と思ったが、せっかく東京で買ってきた舶来のアロハがボロボロにされたのでは腹が納まらない。そこで父親は竹製の横笛ひとつ持って(武器にしようと思ったらしい)兄の報復に出ていった。結局、ヤクザ4人を相手にし、全員の肩や肘の関節を柔道の逆技で折って、巴川(栃木の市内を流れる一級河川)に放りこんできた。一方、父親も相手のドスで腹を一突きされており、幸いにも晒で腹をグルグル巻きにしていたので生命に別状はなかったが、もし晒を巻いていなければ確実に死んでいた。――以上の話は、そのとき父親が虫の息で駆け込んだ蕎麦屋の主人(当時、父親の恋人の父親)から僕が直に聞いた話である。ちなみに、この事件の後、兄は父親に頭が上がらなくなり、それは現在も続いている。
父親はいつも言っていた。「柔道は空手より強い。しかし大山さん(大山倍達)の空手には勝てないかもしれない」と。父によれば、それほどあの頃の大山倍達の名前は東京中に知れ渡っており、力道山よりも強い男としてその筋では有名だったという。上京したての頃、父は飯田橋を仕切っていたYという遊び人とステゴロ(素手同士の喧嘩)でタイマン(1対1)を張ったという。Yは九州出身で空手使いとして知られていた。そのYと、空襲で廃墟になった四谷のビルの屋上で闘ったが、父親曰く「空手なんて踊りのようなもの」で、組みついたら一発で相手は吹き跳んで階段から転げ落ちたという。その後、父親はYと親友(義兄弟の杯を交わしたと父親は言っていた)になり、小学生時代の僕も何度かYと会ったことがある。そういうわけで、僕は小学生時代から柔道の世界に足を踏み入れ、その後、極真空手に入門したのである。遊び人でグータラで博打好きの父親ではあるが、僕はそんな父親の影響を受けながら育ったことだけは否定できないようだ。音楽に関しても、やはり僕は父親の影響を大きく受けてきた。特に小学生の頃の僕にとって、音楽はそのまま父親が聴いていたものだった。
★ ★
基本的に僕の母親は音楽音痴と言ってもいいだろう。父親の影響でいつ頃か民謡などを始めたのだが、とにかく母親の歌は音程が外れ、体のどこから声が出ているのかわからないほどである。ジャイアンの女性版とでも言えばわかりやすいだろうか。最近では、しばしば友だちとカラオケに行っていると聞くが、スピーカー越しに母親の歌を聴かされる母の友人に僕は心から同情する。対して父親は歌が巧かった。子供心に、たとえば風呂のなかで口ずさむ父親の歌を聴きながら感動したことを覚えている。
僕がまだ幼稚園の頃、父親はいつも村田英雄の曲を唄っていた。ちょうどその時期は村田が売出し中で、演歌といえば三波春男か村田英雄といった時代だった。最近、村田が亡くなったが、僕は彼が死んだというニュースを聞いてずっしりと下腹が痛くなるような空虚感を味わったものだ。村田英雄はもともと浪曲出身の歌手で、その張りのある渋い低音が彼の歌の魅力といってもいいだろう。父親も、若い頃、浪曲にはまった時期があるらしく、「俺は本当は浪曲師になりたかったんだ」とよく言っていた(もっとも、父親はことあるごとに、「競輪選手になりたかった」とか「警察官になるはずだった」などと言っていたが、実際には「本当ならばヤクザになるはずの男」だったと僕は思っている。それを身内からヤクザを出しては小島家の恥ということで、父親の兄弟全員が総決起し、生命を懸けて父親を悪の世界から引き戻したといわれている)。
僕はよくテレビやラジオの浪曲番組を見せられたり聴かされたりしたのだが、正直言って「浪曲ってカッコイイな」と子供ながら感動していた記憶がある。まだ幼稚園か小学校1、2年生の頃の話である。特に広沢虎造の浪曲は迫力があった。『森の石松』や『国定忠治』などの股旅物はストーリーもわかりやすく、思わず聞き惚れてしまうことも少なくなかった。そして私の父親は虎造の浪曲の真似が実に巧かった。当時の僕の耳ではどっちが本物か偽物かさえわからないほどだった。話は村田英雄に戻るが、そんな父親の浪曲好きの影響もあってか、僕も浪曲系の歌手である村田が大好きだった。ライバルの三波春男は村田と対照的にキンキラキンの派手さが売り物で、三波も浪曲出身とはいいながら、彼の女性に媚びるような笑顔とやたら伸びる高音が僕は嫌いだった。あの村田の男らしい声が幼稚園児の僕の脳髄を強力に刺激したのである。
とにかく父親はいつも村田の曲を唄っていた。そして、あのビクターのステレオではいつも村田の歌が、それもボリューム全開で流れていた。村田英雄といえば、『王将』や『人生劇場』が有名だが、僕個人としては明治時代の壮士・川上音次郎をテーマにした『白虎』がナンバー1で、続いて柔道物といわれた『姿三四郎』『柔道一代』『柔道水滸伝』などが好きだった。
★ ★
ここでしばらく僕の音楽観について触れておきたい。これについては、後々書くこともあると思うので簡単に済ますが、俗にポピュラー・ミュージック(ポップス)と呼ばれるジャンルには大きく2つの系統があると思っている。ひとつは『アーティスティック・ミュージック(芸術志向の音楽)』であり、もうひとつが『エンターテインメント・ミュージック(娯楽音楽)』である。これらを厳密に分類するのは困難だが、本質的に言うならば、ミュージシャン本人が自分の音楽についてどこまでこだわりを持っているか、その違いに尽きると思う。
極端な言い方をすれば、たとえば歌手の場合、自分自身で曲を作り、編曲もし、レコード録音に臨んではミキシングやエンジニアリングにまで口を出し、演奏者の選定も自ら行ない、アルバムのカバーをどうするかといったことにも自ら関わろうとする歌手。それだけではなく、自分が唄う歌は(商品であることを認識しながらも)自分のメッセージやテーマをぎりぎりまで優先させようとする姿勢を持った歌手。これが、『アーティスティック・ミュージック』の範疇に入る歌手である。対して、自分が唄う曲は他人が作り、唄い方や振り付けもすべて周囲のスタッフの指導に委ねている歌手。当然ながら自分がリリースするシングルレコードの楽曲についても、自分が選んだり作ることは皆無といってもよく、アルバム制作に関しては、ほとんどの場合、シングル先行戦略によってある程度シングルの楽曲がたまったらそれらをまとめてアルバムに仕立てあげる。カップリング曲を含めたシングル発売以外の楽曲は、たとえば他の歌手のヒット曲のカバーだったりして、アルバムには何ら統一性がない。そこにあるのは、いかにしてテレビ媒体を利用して顔を売り、人気のあるうちにレコードを売りまくろうかという姿勢だけである。最後に売れなくなったらタレントとして潰しが効けばめっけもん――。それが『エンターテインメント・ミュージック』に属する歌手である。
1970年代中期、ソングライターと呼ばれるミュージシャンが台頭し始めた頃、僕は荒井(松任谷)由実がいくつかのメディアで語っていた言葉をいまでも鮮明に覚えている。
「(吉田)拓郎や(井上)陽水、泉谷(しげる)がフォークで、矢沢(永吉)がロックというなら、私はなんなんだろうね。フォークでもロックでもないし……。でも、これだけは確実に言えると思うよ。拓郎も陽水も矢沢も私も、うちらはみんな『こっち側』の人間なのよ。『あっち側』の連中とは絶対に違うの。その一線だけはうちらずっと守ってきたからね」
荒井が言った『こっち側』と『あっち側』、これはまさしく僕が言いたい『アーティスティック・ミュージック』と『エンターテインメント・ミュージック』のことを意味していると思う。そして前回書いたように、1990年代から2000年代に掛けて、日本の音楽シーンが最悪の方向に向っていると僕が危惧する原因のひとつは、J−POPという訳のわからない造語の登場とともに、この相反する2つの系統が業界やメディアの商業的戦略によって(そもそも、その戦略の象徴がJ−POPという名前である)恣意的にミックスされてしまった点にある。ひとつの例を挙げてみる。最近の歌手は誰も彼もみんな歌詞を自分で書いているという。宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、倉木麻衣、小柳ゆき……。数え上げたら切りがない。とにかく誰も彼もである。酷いのになると作曲まで自分がしたと言い張る人間も出てくる始末だ。前述の宇多田も浜崎も、最近では堂本剛まで、いまやJ−POPの歌手は全員ソングライター気取りである。それで、さも自分がアーティストであるような言動を繰り返す。みんな異口同音のように繰り返す。
いい加減にしてほしいと僕は思う。そんな簡単に歌詞にしろ曲にしろ作れるはずないではないか。特に作詞をしていることになっている歌手に言いたいのだが、あなたたちは曲よりも詞を軽んじているのではないですか? 曲さえ良ければ歌詞なんて何でも売れてしまうと思っているから、「私が作詞しました」などと言えるのではないかと僕は思う(もっとも、それを実際に目論んでいるのは歌手本人よりも周囲の頭のいいスタッフたちなのだが……)。極論をいうならば、僕は彼らが詞なんて絶対に書いていないと思うし、作曲だってしてないと断言する。正確な意味での作詞や作曲は、たとえ『平成の歌姫』とおだてられている宇多田ヒカルでさえ、絶対にしていない。俗にソングライターといわれる歌手たちは、そのほとんどの場合(まともなソングライターならば)アマチュア時代を経験している。アマチュア時代に作詞や作曲のトレーニングを積むのである。最初は自己満足に過ぎない楽曲制作が、何度も試行錯誤を繰り返しながらその能力をレベルアップさせていく。アマチュアからインディーズとしての活動を経て徐々に多くの人たちに認められていくのだ。メジャーデビューのきっかけは色々あるかもしれない。ストリートパフォーマンスをしながらスカウトに見出だされたり、何度も何度も自分の楽曲をレコード会社に送り続けて認められたり、コンテストに出場したり……。アマチュア時代はソングライターという高度な能力を必要とする人間にとっては欠かすことのできない大切な経験なのだ。しかし、たとえば宇多田の場合、そんなアマチュアとしての時期があったのか? 13や14歳で突然デビューした彼女のスタイルは過去のアイドル歌手たちと何ら変わらないではないか。僕はただそれだけをとっても彼女が本当のソングライターだとは思わない。彼女のバックには大掛りなシステムが存在し、何人ものスタッフたちがいるはずである。スタッフの中にはいわゆるゴーストライターもいるに違いない。
ゴーストライターはなにも出版界だけの専売特許ではないのだ。1970年代の頃から、たとえソングライターとして一世を風靡した歌手でさえ、ときには作詞のゴーストを依頼するケースがあることは公然の秘密だった。きれいな言い方をするならば、ゴーストライターというよりも自分のスタッフが推敲したといえばいいだろうか。たとえ本人が本当に詞を書いたとしても、色々な理屈を付けて、最終的には一行でさえオリジナルの原型が残っていないということは業界の常識である。作曲についてはもっと巧い逃げ道がある。「曲は本当に本人が書いたけど、アレンジャーに編曲してもらいました」といえば、すべてが許される世界なのだ。たとえば1970年代の井上陽水の楽曲に『あかずの踏み切り』という名曲があるが、本来アコースティックな曲にもかかわらず、星勝という名アレンジャーの手に掛かるとまったく別のロックになってしまった。キーも違えばコード進行もリズムもまったく異なる曲に変化してしまったのだ。僕はこの曲を聴いたとき、全然別な歌だと信じて疑わなかったものである。
僕はここで、わざわざ誰の作詞が本物で誰の作曲が偽物かなどということを言いたいのではない。つまり、いつのまにか日本のポップス界は、表面だけ『アーティスティック・ミュージック』を装うことに慣れてしまったということなのである。さらに言うならば、近年では本当に曲を作っていると思われるソングライターでさえ、商業的成功ばかりを計算するためか、テレビ局や広告代理店とのタイアップのみに精を出すためか、歌詞のグレードが大きく低下しているし、作曲についても『聴きどころ』であるサビだけしか印象に残らない『カラオケ専用楽曲』『パクリ疑惑曲』が急増している。たしかに、僕はどちらかといえば『アーティスティック・ミュージック』志向が強い。しかし、大切なことはこの両者の違いをしっかりと認識することではないかと僕は思う。いい歌だと思えれば『エンターテインメント・ミュージック』でも喜んで聴いてきた。実際、中学時代には桜田淳子に夢中になった(これについては後で詳しく触れるつもり)し、いまでも僕は倉木麻衣やモーニング娘。(特に安部なつみ)が好きで、よくMDを聴いている。やはり、これも1970年代の話である。戦後の歌謡界の大御所といわれた藤山一郎という歌手があるラジオ番組に出演したとき、次のように発言した。
「本当の歌手というものはプロの作詞家と作曲家が作ってくれた歌を一生懸命に自分の物として唄うことに専念する人を言うんです。詞も書いたり曲も作ったり、それで歌も唄うということは、すべて中途半端になりやすいということで、本来の歌手の在り方ではありません」
当時はフォークソング全盛で、それに対するアンチテーゼを彼は投げ掛けようとしたのだと僕は理解している。たしかに藤山はクラシックの歌唱法を基礎から学んだ人で、歌手というより声楽家といっても通用するほど素晴らしい歌を聴かせてくれた人だという点については十分に認めている。それでも僕は彼の言葉に大きな疑問を感じたものだった。しかし、最近になってやっと彼の主張に耳を貸すことが出来るようになった気がする。つまり、詞を書くのも曲を作るのも結構であるが、歌手に求められるものは歌唱テクニックはもちろん、その表現力にこそあるという主張はまさに至言だと僕は思う。百歩譲って宇多田ヒカルが実際に作詞作曲を完璧にしているとしても、僕は彼女をアーティスティックな歌手としては認めない。なぜなら、彼女の歌があまりにも下手だからだ。声量は赤ん坊のように乏しく、ブレス(息継ぎ)の技術は素人同然である。レコードではエンジニアリングによってどうとでも誤魔化せるが、ライブの歌を聴けば最悪だ。きっと彼女はボイストレーニングなどしていないに違いない。少なくとも、最近のJ−POPの風潮を見るかぎり、藤山一郎は当時にあって、すでに30年後の日本歌謡界の荒廃を見越していたと僕には思えるのである。
――というわけで、話は僕の幼年時代、夢中になった村田英雄に戻る。村田は演歌といわれる『エンターテインメント・ミュージック』の範疇に入る人ではあるが、彼の歌には魂があったと僕はいまでも思っているし、彼の系譜は現在の北島三郎や八代亜紀、ひいては氷川きよしへと着実に続いていると思うのである(氷川きよしは単なる演歌界のアイドルではない。彼の歌には魂が流れているし、J−POPのソングライター気取りの連中より数段上のランクに位置する歌手だと思っている)。ちなみに僕は、とりたてて演歌が好きというわけではないが、村田英雄に続いて若い頃の北島三郎の歌は好きだったし、なんといっても、八代亜紀とちあきなおみの大ファンである。
今回は村田英雄のところで紙面が尽きてしまった。後は来月にご期待!
|