今月は「人々―人間 その2」ということで、先月に続いて書いていく予定だった。しかし、突然気が変わってしまった。急に音楽について書いてみたくなったのだ。もう何年も、いや何十年も前から、僕(この項については一人称を僕として書いていこうと思う)は音楽について書いてみたいと思っていた。にもかかわらず、いつしか日々の繰り返しのなかにそんな気持ちも埋もれていってしまった。それをいま、僕は突然思い出してしまったのである。タイトルの「LET IT BE」そのまま、気ままに、そして思いつくまま書いてみたいと思う。
40年に及ぶ(月日は恐ろしいスピードで過ぎてしまった…)僕の人生のなかで、いつも音楽は僕の心のなかにいた。僕にとって音楽は、決して「趣味」などと他人行儀に言える代物ではなく、かといって「人生」などと臭いレッテルを張るようなものでもなかった。いつもいつも僕の心のなかに生きていた――。音楽は僕の喜怒哀楽のなかにいた。ときには激しいビートに身を委ね、またあるときは心に迫るバラードに心を震わせた。中1のとき親に買ってもらったあの懐かしい中古のトランジスタラジオ、アルバイトで初めて買ったポータブルステレオ。一晩中引き鳴らしたヤマハのフォークギター。きっと、これだけは言えるだろう。僕にとって音楽はとても大切なものだということだ。そして、音楽は僕自身が自ら求めていく対象だった。
まず、僕はこれまでの人生を振り返るように、自身の音楽遍歴とでもいえるものを書いていこうと思う。こうすることで、小島という人間を(プラスもマイナスも含めて)少しでも理解してもらえればうれしいと思う。その前に、少しだけ現在の日本の音楽について言及しておきたい。僕の音楽に対する基本的な姿勢をわかっておいてほしいからである。その意味では、今回は「序章」ということになるだろう。少々堅苦しく、ときには強引、傲慢めいた文章になるかもしれないが、しばらく付き合っていただければ幸いである。
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ここ数年、僕は現在の日本の音楽シーンについて暗澹というか怒り以上のものを感じ続けてきた。たしかに日本のポップミュージックは戦後以来、常に欧米の物真似に終始してきた。それはいまも昔も変わらない。それでも、少なくとも1980年までの音楽は、ただの物真似でない「日本らしさ」とでも言おうか、日本人の魂というコアのあるものだったように感じる。そしてほとんどの楽曲には作り手や歌い手のメッセージが生きていたし、リスナーたちは音楽にそういったメッセージを求めていた。しかし近年、特に1980年代を挟んで1990年、そして2000年代と、つまり「J−POP」という訳のわからないへんてこな造語が生まれるとともに日本のポップスは巨大な産業に組み込まれ、あたかも電化製品やボールペンのように資本主義コングロマリットに支配される一商品に成り下がってしまったのである。
現在、自らの足を使って自分が本当に聴きたいと感じている音楽を捜している若者は何人いるだろうか? レコードショップに並んでいる膨大な数のCDのなかから、まるで宝物でも見つけるように未知の音楽との出会いを求めている人間は何人いるだろう。アマチュアやインディーズミュージシャンたちのコンサートに足を運び、黄金を探り当てる努力をしているヤツらは何人いるだろう? 薄っぺらなアイドル俳優や中身のない整形女優たちが演じる学芸会のようなTVドラマのなかから繰り返し流れてくる、聴きどころを計算し尽くしたようなあざとい歌だけが本物の音楽だと信じ、広告代理店とメーカーが結託したCMで流される、やたら「サビ」だけが際立つアンバランスこの上ない音楽に感動する若者たち――。
音楽を聴くのに何の努力も必要としない、TVから放出されるだけのCMソングやドラマのテーマ曲。さらに、これらの音楽はビジュアル(映像)をともなうためにより鮮明な印象をリスナーの脳裏に焼き付ける。心理学的に言うならば、まさにサブリミナル戦略そのものだ。リスナーは、企業によって洗脳されたマウス以外のなにものでもない。彼らが音楽を聴くために行動すること、それはただTVのスイッチを押し、茫洋と画面を見ているだけなのだ。完全なるビジネスに成り下がった音楽産業によって洗脳された彼らは、TVの画面から飛び込んでくる胡散臭い音楽にこれっぽっちの疑問すら持とうとはしない。 現在、日本の音楽シーンを賑わしているR&Bと呼ばれるジャンルやヒップホップ。これらについては後々言及していくことになるだろうが、少なくともJ−POPのラインのなかで流通しているこれらのジャンルの楽曲はブリキのように薄っぺらで単なるまがいもの、模造品、コピー商品以外のなにものでもない。「CHEMISTRY」「平井堅」だとか「清貴」だとか、さらにいえば「宇多田ヒカル」らが歌うR&Bがいかにコピー商品に過ぎないかは、メジャーマイナーを問わずアメリカ国内に溢れている本場のR&Bを一度でも聴けば明白である。なにも「ダイアナ・ロス」や「アル・ジャロウ」などのアーティストの名前を出すほどのこともないだろう。
日本のヒップホップミュージシャンはどれもみな同じ顔、同じスタイル、同じパフォーマンス、ただニューヨークのスラム街に満ちている黒人たちのラップをそのまま日本に持ち込み、強引に日本語をくっつけただけの代物だ。「ケツメイシ」「麻波25」「KICK THE CAN CREW」「リップスライム」……。彼らの音楽性の違いなど、いったい、どうすれば付けることが出来るのだろう。みんな出来損ないのストリート・パフォーマーじゃないか。第一、ラップは半ばメロディーを無視し、リズムによって成り立つ「語りの歌」である。そしてそのリズムは完全に英語そのもののリズムなのだ。英語の韻を踏み、小気味よいシャッフルによって主張する新しい音楽形態であり、別な意味で言えば「英語による詩の朗読」がラップだといってもいいだろう。しかし、日本の(自称)ヒップホップミュージシャンたちは、そんなことにはお構いなしだ。本来英語で歌ってこそ意味のあるヒップホップを、何の疑問もなく日本語にし、日本語ではしっくりこないと思えば英語の単語だけを当てはめて歌う。彼らの歌をアメリカ人はほとんど理解できないという。なぜなら彼らの英語の歌詞は意味不明だからだ。つまり、彼らの歌詞のなかにある英語は言葉ではなく、単なる意味のない「飾りもの」でしかないのだ。
1960年代、ロックを日本語で歌うということについて、多くのミュージシャンは試行錯誤し、リスナーたちも彼らの試行錯誤を真正面から受けとめた。現在、何気なく日本語で歌っているロックは、「はっぴいえんど」や「フォーク・クルセダーズ」ら先達たちの実験と挑戦のもとに成り立っているのである。だが21世紀のいま、日本人はラップを日本語で歌うことに何の疑問も感じなくなってしまった。ただひたすら黒人のようなファッションに身を包み、黒人ラッパーのパフォーマンスを猿真似することで精一杯。楽曲そのものは「69BOY,S」や「ジェイZ」「THE RULE」らのコピーでしかない。にもかかわらず、ほとんどの日本人はあいかわらずTVから流れてくるR&Bやヒップホップこそが本物だと疑いもしないのだ。一歩、たった一歩だけ踏み出すだけで、もっと素晴らしい世界を発見することが出来るのに彼らは何もしない。そして、言うのだ。
「音楽に理屈なんていらないぜ。いいと感じたものがいいんじゃん。別にアメリカとか本場のものなんか関係ねえよ。俺がいいと思えばそれでいいじゃん」
僕はそんな奴らの顔面に上段回し蹴りをブチ込んでやりたいと思う。僕はそういう言い訳が大嫌いである。音楽に限らない。絵画や文学などの世界もそうだし、スポーツの世界も同様だ。僕たち自身がアーティストや競技者でなく、ただのファンとしてそういう世界に触れようと思ったとしても、学ばなければならないことはたくさんある。努力したり勉強しなければならないことは山ほどある。サッカーのワールドカップもそうじゃないか。本当にサッカーを楽しもうとするならば、サッカーというスポーツを勉強したり、ルールを学んだり、さらには戦略や戦術といったものまで研究するに越したことはないだろう。顔にペンキを塗って観客席で旗を振り、試合後には酔っ払って川に飛び込むのが本当のサッカーファンのすることではないことぐらい誰にでもわかるだろう。格闘技についても同様だ。ただ選手たちの派手なド突き合いやKOシーンが見たいだけならK−1の興行にでもいけば十分だ。もっと緻密なインサイドワークやテクニックの妙味を理解してこそボクシングを本当に楽しむことが出来るのだ。何の知識も経験もない人間がピカソやダリの絵を観ても感動などすることが出来ないのは当然ではないか。せいぜい、「幼児が描き殴った絵」ぐらいにしか思わないはずだ。たった一回聴いただけで「ホルスト」や「ドビッシー」の曲に涙することなど出来やしないだろう。アート(あえて芸術とは言いたくない)やスポーツなどクリエイティブなものを理解するためには努力が必要なのだ。
だから僕は言う。TVのドラマから流れてくる主題歌がいいとか、どこそこのコマーシャルで歌っていた誰々の曲がいいだとか、お笑いタレントがしゃべくっている番組で歌っていたミュージシャンこそが本物だなどと思っている人間は、すでに音楽産業によって洗脳されたマウスでしかないのだと。
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多少、感情的に書いてしまったきらいがある。しかし、それでもこれだけは言えるだろう。現在の日本を覆っているほとんどのポップミュージックは、もはや大衆の文化でも芸術でも娯楽でもないと。J−POPはただ消費されるべき「商品」に過ぎないのだ。もちろん、もう何十年も前から音楽は産業だったし、プロミュージシャンは商品としてのレコードとコンサートチケットによって生計を立てる商人だった。しかし、明らかにそれだけではないものをミュージシャンは持っていたし、レコードに収められた楽曲にはミュージシャンなりの魂やメッセージが込められていた。
僕自身、これまで自分の名前で何冊もの本を書いてきた。自分が本当に書きたい内容と出版社が求める内容の間にギャップが生じることは少なくない。単純に言えば、僕が純粋に書きたいものの正体は「僕のメッセージ」であり、別な言い方をするならば「僕の魂」である。しかし、出版社が求めるものはマーケットを計算した上でのより売れる、つまりより商売になる「商品」なのだ。その両者のせめぎ合いを経て出来上がる僕の本は、当初僕が考えていたものとは少しばかり違うけれど、完成度はさらに高くなるし、グレイドもアップする。なぜなら、両者がそれぞれの立場で相手を理解し、この矛盾する問題の解決に精一杯努力するからだ。もし、両者の調整が失敗に終わった場合、出来上がる僕の本は最悪なものになるだろうし、ひょっとしたら出版まで漕ぎ着けないかもしれない。
俗にクリエイティブと言われる仕事はみなそうではないか。いかに天才的な音楽家であっても、彼の作品が人に認められ、銭にならなければ何の価値もない。これは真理ではある。しかし、だからといってマーケットだけを重視し、完璧にビジネスのなかに作品を組み込んでしまったならばどうなるだろう。そこには芸術も、文化もなにもない。ただ消費されるだけの「大量生産される安皿」と何も変わらないではないか。同じ千円の値段ならばCDも安皿も同じだということになる。
少なくとも現在の日本のポップミュージックシーンは大量生産の安皿と同じような感覚でCDを扱っている。たとえ宇多田ヒカルが何百万枚のCDを売り尽くそうが、B'zが
ヒットチャート一位を10週間独走しようが、GLAYが東京ドームを満員にしようが、僕は断言する。そんなもの何の価値もないと。あるのは産業資本の勝利だけでしかない。産業資本の支配のもとで、TV媒体を最大限利用し、視聴者をサブリミナル戦略によって洗脳し、集団催眠状態と集団パニックを扇動して消耗商品としてのCDを何枚売ったところで、そこには文化もメッセージも魂もなにもない。
日本ほど音楽が完全に商業化されてしまっている国はないだろう。資本主義エンターテインメント王国といわれるアメリカでさえ、マーケットの操作と計算だけでヒットを生むことは不可能とされている。なぜなら、多人種・多民族国家であるアメリカは一人ひとりが強烈な個性を持ち、他人に迎合しないポリシーを持っているからだ。洗脳などという全体主義・ファシスト的なものを徹底的に嫌う市民たちは、常に自分発進で音楽を求めている。自分たちが生まれ育った環境を愛し、コミュニティーの証として自分たちの音楽が生まれてくる。古くはブルースやカントリーがそうであり、最近ではニューヨーク・パンクやヒップホップがそうである。「一億総宇多田ヒカル」とか「B'zのコンサートは全員
女性」などという全国的な集団ヒステリーは(戦争のような非常事態は別として)アメリカではありえない。
文化のない国は滅ぶという。かつてのソ連は体制が文化を弾圧し、そして国そのものが崩壊していった。現在の中国も北朝鮮も同様だと僕は思う。そして日本もだ。たしかに日本はかつてのソ連や中国、北朝鮮のような一党独裁による社会主義国家ではない。しかしかといって日本は欧米のような厳密な意味での自由主義国家でもない。ここは政治的なことを論じるのが本題ではないので詳しく言及するつもりはないが、少なくともいまの日本は多分に社会主義的色合いに満ちた自由主義国家だといって間違いはないだろう。何が「社会主義的」かといえば、国のベクトルが国民ではなく巨大な産業に向いているということだ。たとえば過去のエイズ問題にしろ狂牛病問題にしろ、またはバブル崩壊後の破綻企業の救済問題にしろ、政府の意識は消費者ではなく企業にばかり行っていたではないか。戦後最大の不景気で、多くの中小企業は倒産していったが、大企業については政府が税金を投入してでも倒産させようとしない。大手都市銀行しかり、巨大スーパーのダイエーしかりである。その意味では、日本は「産業社会主義国家」とでも言えるかもしれない。
このような「産業社会主義」的ないびつな日本社会だからこそ、何もかもが消費物と化してしまうのだ。音楽のように民衆に最も身近に接する文化でさえ、ただの消費物になってしまうならば、日本が滅びるのもそう遠くはないと僕は思う。決して大袈裟にいっているのではない。本当に僕はそう思うのだ。中国や北朝鮮の文化統制を笑っているときではない。そして、いまこそ僕たち国民一人ひとりが音楽について真面目に考えなければならないときだと思う。資本主義コングロマリットに組み込まれた消費物としての音楽にアンチテーゼを投げつけ、大衆文化としての音楽を取り戻す行動を起こさなければならない。僕たちの文化は僕たちの手で創り、そして未来に残していかなければならないのだから。
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