邪馬台国論争の出発点は、中国の文献『三国志』のなかの、『魏志倭人伝』の記述である。
 ところが、最近の邪馬台国論争は『魏志倭人伝』ばなれが、いちじるしい。『魏志倭人伝』に書かれていることと、まったく無関係に、邪馬台国を論じているのである。
 『魏志倭人伝』に書かれている事物で、考古学的に検証できるものは、ほとんどすべて、北九州を中心とする地域から出土している。
 それでも、かなりな考古学者たちが、考古学的な事実をまったく無視して「邪馬台国=畿内説」をとなえたりしているのである。
 『魏志倭人伝』は3度にわたり「女王国」は「伊都国」の南にあった、と記している。「伊都国」は現在の福岡県糸島郡の地である。また、邪馬台国の戸数は、七万余戸であった。
 糸島郡の南の、人口の多いところといえば筑後川の流域しかない!!

1934年生まれ。京都大文学部卒。元産能大教授。季刊「邪馬台国」編集責任者。数理文献学という独自の手法で古代史解明に取り組む。『吉野ケ里遺跡と邪馬台国』(大和書房)『吉野ケ里「楼観」からの報告』(毎日新聞社)など。

 魏書東夷伝をはじめとする中国の史書は、漢帝国以来の王朝と倭の首長たちとの外交を記している。行き詰まった邪馬台国所在地論争を打破するには、正体不明な三角縁神獣鏡の分布論や、後の豪華な古墳文化に引きずられない視点が求められる。
 卑弥呼を王とする倭国は、魏帝国と正式の外交を行う友好国であり、その都が置かれた邪馬台国には外交の証しが多く残っているはずである。私は、中国王朝が臣下や版図(勢力範囲)の首長たちに贈呈した後漢鏡や素環頭鉄刀などの権威を帯びた文物の分布が濃厚であり、かつ中国都城を意識した集落構造をもつ地域こそが、邪馬台国の所在地であると考えている。
 後漢鏡と鉄刀が集中して出土する神埼地域の中心集落である吉野ケ里集落は、中国古代城郭を意識した特殊な構造をもち、北内郭と南内郭の存在は、邪馬台国に存在した倭国王卑弥呼の宮殿と、伊支馬など邪馬台国の長官たちの居住区を想起させるのである。

1952年生まれ。國學院大文学部卒。佐賀県教育庁文化課主幹。1986年から始まった吉野ケ里遺跡発掘調査に調査主任として携わる。『吉野ケ里遺跡 復元された弥生大集落』(同成社)『吉野ケ里遺跡発掘』(ポプラ社)」など。

 日本の古代国家は、一般にいわれているように7世紀後半に成立した律令国家をもって確立した。こうした列島の統一政権である律令国家が、どのような成立の道筋を経たか、3世紀には列島の大部分を統一した政権があったのか、なかったのか、によって日本列島における国家形成の道筋が、全く異なってくる。
 邪馬台国の時代というのはそうした時代であり、卑弥呼の都(御家拠)した邪馬台国の所在地問題は、日本列島における国家成立の謎を解く極めて大きな課題である。
 ただし、「魏志倭人伝」が主題として描く倭人社会の政治状況は、卑弥呼(邪馬台国)を中心とした勢力と卑弥弓呼を(狗奴国)を中心とした2つの政治勢力が別個に存在していることを明記しており、倭地を統一した勢力の存在は記していない。このことから見ても、3世紀に、日本列島を統一した政権の存在は考えられない。
 邪馬台国は、日本列島の一地域それも九州北半部における部族連合の盟主であり、卑弥呼はそこに都を置いたと理解するのが素直な解釈であろう。

1939年生まれ。熊本大法文学部卒。佐賀女子短大学長。元県教委副教育長。吉野ケ里遺跡をはじめ県内の遺跡発掘・整備の指揮を執る。『邪馬台国と吉野ケ里』(共著、学生社)『倭国大乱と吉野ケ里』(共著、山川出版社)など。

  邪馬台国問題の深化に考古学はどのように寄与するのであろうか。『魏志』を要とする文献史料からの研究は既に大樹を離れ、枝葉の剪定(せんてい)に力を注いでいるかの如(ごと)くである。
 吉野ケ里遺跡の発見、発掘、そして整備へと進む中、あらためて邪馬台国問題とは何なのか、どこから発生したのか、あらためて問う必要がある。考古学者の中には邪馬台国近畿説で確定したかのような発言が多くなりつつあるが、そこには「木を見て森を見ない」研究現象が独り歩きしているようである。
 今回のシンポジウムにおいては文献古代史の立場から研究者により翻弄(ほんろう)されている『魏志』を確実に手の中につかみ、考古学の成果を『魏志』の世界の中で浮かび上がらせることに意を注ぎ、今後の邪馬台国を含む倭人世界の像の一端に迫ってみたい。

1946年生まれ。早稲田大大学院修士課程修了。東京・共立女子学園校長。國學院大兼任講師。文献史学を軸に日本古代史を読み解く。『邪馬台国論』(校倉書房)『古代農民忍羽を訪ねて』(中公新書)『卑弥呼』(三省堂)など。

 私は20年間、大和の中央部・桜井市で、「邪馬台国は何処(いずこ)」とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
 代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
 であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に100メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
 では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。

1947年生まれ。同志社大文学部卒。前・奈良県教委文化財課長。邪馬台国畿内説で最重要候補地とされる纏向遺跡の発掘調査を手がけた。『遺跡が語る古代史』(共著、東京堂出版)『発掘のロマン最前線』(共著、毎日新聞社)など。

 今、九州内外を問わず著名な考古学者はほとんど畿内説である。考古学の世界では畿内説が九州説を圧倒している。しかし、私たちはその時代の遺跡を大和との比較でなく、九州内で正当に評価してきただろうか。特にクニの基礎となる集落規模の復元にはまだ研究の余地があるのではないだろうか。
 吉野ケ里遺跡は幸いである。全部を掘ることができたから。私は筑紫平野のモザイク様に一部しか調査されていない遺跡を、何とか繋(つな)ぎ合わせて、集落の全貌(ぜんぼう)を復元してみた。
 その結果、北部九州には奴国あるいはそれ以上の集落が存在することがわかった。その集落を地図上に置いてみて、文献の予断を交えず、考古学的手法によるクニの単位を認めることができた。
 九州で奴国よりも大きな単位であれば、それが魏志倭人伝に書かれないはずはない。そここそ投馬国であり、邪馬台国である可能性が出てくる。私は筑紫平野の北・南に投馬国・邪馬台国を求めたい。

1956年生まれ。早稲田大第一文学部卒。文学博士。福岡県小郡市埋蔵文化財センター技師。朝鮮系無文土器など日本の弥生文化に大きな影響を与えた朝鮮半島からの移入文化を研究する。『弥生時代 渡来人と土器・青銅器』(雄山閣)など。

 昨今、北部九州の伊都国連合の時代から、倭国乱を経て、大和を中心に女王卑弥呼を共立する邪馬台国連合が誕生したとみる論者が多い。
 しかし、『魏志』倭人伝では、倭人の武器に矛(ほこ)や鉄鏃(ぞく)が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の一遺跡の出土数にも及ばないほど貧弱である。
 さらに、諸国を監察する「大卒」が伊都国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれば、『魏志』倭人伝にいう「倭人」や「倭国」、「女王国」は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。東の海の向こうにいる倭種の話ではないから「倭人伝」。そう考えれば、「倭国乱」も「邪馬台国」も、北部九州での事柄だということになる。
 邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志』倭人伝との整合性のなかで考えるべきである。

1957年生まれ。同志社大大学院修士課程修了。考古学専攻。関西外国語大教授。破壊の危機にひんした鳥取県妻木晩田遺跡の保存運動に取り組んだ。『吉野ケ里 繁栄した弥生都市』(草思社)『考古学はたのしい』(小学館)など。