2006年01月15日

あけましておめでとうございます

 年始、京都。正月六日、実写版ハード・コア。
 左から、ロボ男(ゴリくん)、牛山(カエル)、右近(わたくし)。
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2005年12月20日

カニ温泉

 ちょっと体調崩して、那覇と島、行ったり来たりしてました(島には病院などない)。
 で、一二週間カニ食べに城崎まで行ってきます。
 御用の方は携帯メールfilthy-canal@ezweb.ne.jpまで。
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2005年10月25日

初秋

 今日、少し言葉を研ぎ澄ます。久しぶりのことで、なかなかやり方が思い出せず、若干とまどう。悲しみで肝が黒く染まる。生きることと書くことが真逆にある。見たまま、あるがまま、と心に念じて、長靴と鍬を持ち、畑へ出かける。雑草ごと土を返して、枯れ草を積み、盛大に燃やす。釣り竿持って港へ行き、ムルーを四つ釣る。北浜(ニシバマ)へ居候の女の子を迎えに行く。

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 誰もがこの島を楽園と呼ぶ。実際私も島を愛している。彼女は存分に休めたろうか? 私と同じくこの島を愛してくれたろうか? この二週間、ほとんど毎日、酒を飲んでは夜釣りに出かけ、港で倒れている私や、ひとの家の土間で勝手に寝ている私、星を見に浜へ出かけたはいいけれど、酔っぱらって波打ち際で水死体のように浮かんでいる私を介抱して、引きずってでも家に連れ帰り、布団で寝かせてくれた。今日の最終で内地へ帰る。今回の彼女の旅は終わったのだろう。目的は果たせたろうか? いい島だったか? 憶えていれば、いつかまた、訪ねておいで。焦ることない。島はどこにも行かん。お姉、きみが憶えてさえいれば。

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 私は彼女の小さな額にキスをする。それから両手の指の一本一本に。私は彼女の膝の上で眠る。彼女が私の髪を梳く。たぶん私はいつも泣いているのだろう。「マキさん、だめだよ、お酒飲み過ぎちゃ」、「うん、うん」。私はご機嫌で、愛してる、愛してる、何度も心のうちでそう呟く。夕方に、最終の船を見送る。汽笛を合図にスイッチを切る。次の瞬間から、彼女の顔も名前も思い出せなくなる。毎週のように繰り返される悲劇。私はつくづく馬鹿なのだと思う。

 鍬と長靴を持って畑へ出かける。おからと生ゴミ処理機で作った肥やしを撒き散らす。もう一度土を返して、幾つか畝を作る。

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2005年10月09日

絵日記

 私がこの島に来て、民宿の手伝いなどしながら、半自給自足の暮らしをするようになって、二ヶ月と少しが経つ。

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 お客さんの写真を撮ってあげるのも、私の仕事です。

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 この島には、世界一美しい海と夕日と星空のほかに、何もないものだから、空の様子や風向きなどを見て、その時々で自分が一番美しいと思うところへ、旅人を案内します。

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 リゾートアイランドとしての慶良間だけではなく、美しくも、素朴で哀しい琉球の島々での暮らしを僅かにでも知ってもらいたく、お隣のゲルマ島(人口90人)のタケ爺のところへ、やはり若い旅人を連れて行って、半音ずれた三線を聴かせたり、唄ったり、あるいは大昔に録音された那覇の放送局のラジオなど聴きながら、ごろりと昼寝したりします。

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 この夏は、毎日大勢の旅人を出迎え、また見送った。私は私の愛したこの島を、訪れてくれたすべての旅人に、私と同じほどに愛してほしかった。

 旅人たちが島を去って行く。皆、旅の途中なのだ。私は彼らのうち、ただの一人の名前も、顔も、憶えていない。島で暮らすということは、そういうことなのだと思う。私の旅は終わった。私はすでに旅人でない。

 アザナムイの展望台で、波の音を聴く。ミーニシが吹いて、明日からはサシバの舞う季節。島の人々ですら、退屈と孤独を嫌い、ある人は那覇へ、ある人は内地へ、一人また一人と去っていく。私はこの島に居て、毎日港で釣り糸を垂れながら、船の着くのを待つ。ガイドブック片手に上陸してみたはいいけれど、人影もなく、案内所もなく、店の一軒もない、リゾートとは程遠いクソ田舎のこの島の港で途方にくれる旅人を待つ。
「おーい! 泊まるとこ、決めてねえの?」
「えっ?」
「決めてねえなら、ウチ来なよ。何にもかまっちゃやれねえけど、布団と便所とシャワーがあるぜ」
 
 今日の獲物はビタロー三匹に二キロのタマン。

「ねえさん、魚好き?」
「え? はい、まあ…」
「そんなら今日はメシ付で一泊2500円!」
「いいんですか?」
「じゃ、決まり。ちょっと待ってて」

 釣り道具を片付けて、ビクを上げる。上出来。上等。完璧。天才!
 後ろに知らない旅人を乗せて、原付バイクでたったの七百メートルしかない島の集落を走る。

「ねえさん、内地のひと?」
「Y県です。島の方ですか?」
「おれ? 横浜!」

 やはり私は、彼女の顔も名前も憶えてはいられないだろう。毎日旅人を出迎え、送り出す。島で暮らすということは、孤独に堪えるということなのだ。
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2005年10月04日

ハイサイ!

 なんだかいろいろ心配、ご迷惑おかけしてごめんなさい。今、慶良間の阿嘉島という、人口三百人かそこらの島で、毎日海で魚を釣ったり、貝を獲ったりしながら暮らしています。

 ここは世界一美しい島です。
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2005年06月26日

無題

 なんか、疲れたなあ。帰る家なく依る木もなく。自分で選んだやり方だから、今更恨み言などありはしないけれど、まあ、疲れた。
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2005年04月07日

あのね

 忙しすぎて家にも帰れない日が、幾日も続いた。毎日店で寝泊まりした。たぶん俺にはもう無理だって、何度もパニックを起こしながら、思った。一晩中私を抱きしめていてくれたTちゃんという小さな、けれど本当の名前を持った命があって、私は眠る前、それから起き抜けに、その娘のいい匂いのする額にキスをした。とにかく地獄みたいに忙しい、半狂乱の一週間が終わって、しばらく改装の為に店を閉めることになった、その最後の晩にも、やっぱり私はあの娘にキスをした。何故だかあの日も、いや、全部が終わって、あとは工事業者の来るのを待つだけになった、あの日にも、やっぱり私はあの店で眠ることになって、そしてあの娘は泣きながら私の頭を抱えて、でも私の無理に客席で眠ろうとする姿勢がヘンだよって、涙の出るくらい笑って、いつか資材の搬入が始まり、私は優しくあの命に触れられ、起こされ、二人して、宇田川のあの店を出た。私は教えてあげた。スキップ、ジャンプ、空中で両足を前後に振って、ワン、ツー! こうやって勇気を出すんだ。知ってる? サローヤン。ウィリアム・サローヤン。彼の小説に教えてもらった、特別なやり方。元気を出すんだ。ガッツだよ。生きるって、死ぬことから、逃げ続けることなんだ、生きること、死ぬこと、同じ現象に二つの呼び名がある。憂鬱になることはある。不安になることもある。怖いことも、みっともなくて生きていたくないって思うこともある。でも、勇気出して、張り切って、さ。真似してごらん! スキップ、ジャンプ、ワン、ツー! ほら、恥ずかしくなんかない。きみはおれを怖がらなかった。嫌わないでいてくれた。親切にしてくれた。髪に触らせてくれたし、何日も抱きしめていてくれた。だから教えてあげる。特別な方法。スキップ、ジャンプ、ワン、ツー!
 私たちは、渋谷のあの、ハチ公前のスクランブルで抱き合った。
「Tちゃん? すごくいい匂い。マジで女の子って素敵!」
 精一杯に抱きしめて、あの娘の頬にキスをした。それから、じゃあねって、最後にもう一度さらさらした不思議なあの頬に触れて、さて、サングラス。サルバトーレ・フェラガモ。きちっとスタイルを整える。
「愛してるよ。きみだけじゃない。みんな、愛してる。愛してやることの他に、何が出来るってんだ? 見える? 俺には翼がある。他には何もない。愛してる。精一杯にやってるつもりなんだ」
「お兄ちゃん、きっと帰ってきて。わたし、大好きなんだよ。みんなも大好きなんだ。だから、帰ってきて。特別なやり方? もっとたくさん教えてよ」
「うん。きっと、帰ってくる。だから泣いちゃダメ。ね、だからTちゃん、笑って。きっと帰ってくるよ。俺も精一杯に愛してる。他にやり方を知らない。愛してる、愛してる。走ろう。俺がイカレてるって? イカレてるのは俺じゃない。他のみんなさ。Tちゃん、俺が愛してやる。だから泣いちゃダメだ。元気出せ。花も買ってあげる。抱きしめてあげる。そういうのキモい? おっかない?」
「ううん。やっぱり俊さんのこと、わたし大好きだ」
「そんなら、走ろう。張り切ってやろうぜ。俺だって最近憶えたばかりなんだ。まだ全然様になってない。でもいつか、格好良くやれる時がくるさ。ね、だから、スキップ、ジャンプ、空中で、ワン、ツー!」
 泣いちゃダメだ。私はお別れのキスをした。あのさらさらした不思議な頬に。その命を心の底から愛おしいと思った。



 旅行屋に電話する。石垣島のコテージを借りた。しばらく、南の島に行ってくる。帰ってくるつもりだ。ただ、今は何も考えるべきじゃない。今から羽田のホテルに向かう。
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2005年03月26日

詭弁

 Uさんに頼んだヘルプの女の子は、抜群だった。Mちゃんといった。薄茶色のカラー・コンタクトレンズ。ルイ・ヴィトンのハンド・バッグ。女子大生だって。少しチビだけど、きれいな髪をしていて、おしゃれで、きゃあきゃあうるさくって。E店だろ? あんな山だらけの田舎にただ一軒のショッピングセンターの中で、こんな子が? 私とSさんはさんざんUさんを罵った。
「いや、E市もね、今じゃ立派なモンですよ。そりゃあ、都会じゃないけどね」
 それから私とSさんは、一日中さんざんはしゃいで、張り切って、
「ねえ、なんか違うお店みたいじゃない?」
「うん。すっげー、イカス。Sさん、こんな素敵な店なら、おれ全然まだ何年だって、続けたってかまわないぜ」
「何言ってんのさ。俺だってな、店ごと売られたってかまわねえっつうの!」
 馬鹿な大人が二人。私たちは仕事中、一日中、笑い合った。
「ねえ、Mちゃんだっけ? その目、コンタクトレンズ? すごくきれい! 洒落てんなあ。流行ってんの? ねえ、この店、どう? また応援に来てくれる?」
「はい! ここ時給もいいし、忙しいですけど、なんでそんな女の子続かないのか、私、家が近所だったら、きっと普通にここで働いてますよ」
「聞いたかよ、Sさん! 感動ってこういうもんだぜ!」
「でも、更衣室ないしさあ…。むっさいのばっかでしょ。忙しいし。油臭いし。おまけに、超ダンディ」
「今日はちげーよ。素敵なお店。ねえ、Mちゃん、きっとまた来てね? こう、なんつうかね、Sさん?」
「潤いだな。Uさん、来週もお願いしますよ、ほんと」
「何だか二人ともノリがいいねえ。まかせといて。つうかうち、ほとんど女の子だしね。ランチ・タイムなんて、厨房まで全部女の子だよ」
「E店は有名なんですよ? 可愛い女の子ばっかりだって。学校のミスコンで二位だった子とか…」
「マジかよ! Sさん、この宇田川はファックすぎる。おれE店に移籍していい?」
「俺のが先だっつうの!」

 私はそれから幾度もMちゃんと話した。彼女も熱心にたくさんの空虚な質問をした。私はずっと笑っていた。二度、便所で吐いた。

 十二時少し前に、Sさんと二人、店を閉める。シャッターを下ろして鍵をかけた瞬間、レバーのがちゃりと戻る音が聞こえる。自然、自然か。
「ほんとに大丈夫? 来週も週六で入れちゃったけど、いけそう? つうか今日、帰れる? まだ電車ある?」
「ええ…」
 電車など、ない。表参道のバーへ。お金は無駄にしちゃいけないから、ええと一杯六百円だとして、まあ最悪十杯、そのくらいにしておこう。でないと働いたぶん、みんな無駄になってしまう。私はだいたい一日働くと、一万二三千円になる。半分は借金の返済。残りの半分で生活する。始発で帰ろうか、それとも朝から出勤しようか、そんなこと考えながら、夜の渋谷を歩く。昔は苦手だったこの街が、年取って、最近、気に入りだした。無邪気な子供ばかりの街だから、緊張せずに済むせいかもしれない。少なくとも、中華街よりはマシだ。あの街は、私のもっとも多感な青春の六年か七年をむさぼり、実際過ごした年月の五倍は年を取らせた。なのに不思議なことだが、私はやっぱり永遠に横浜の男なのだ。神奈川県民には特別な臭いでもあるんだろうか? 私に実感できるのは、たとえば渋谷、恵比寿、六本木、そういう界隈にいる人たちの服装だ。女の子はいい。なにしろみんな私の理解を超えていて、ただぽかんと口開けて、間抜け面をさらし、指をくわえて見ている、そのほかに、私には何か考えたり、何かをする余地なんて、どこにもないんだから。だけど、男たちは? 洒落ていて、スタイルが良くて、何が自分にお似合いか、ちゃんと理解したうえで、見事にビシッときめている。誰も彼も、ちゃあんと様になっている。ただ、少し、華やか過ぎるんだな。私の好みと少し違う、とまあ、その程度の話なんだけれども。

 ゲーテ、ルソー、サルトル、カミュ。カミュ? 私は自然に「異邦人」を思い出して、深夜にもやっている古本屋で、カミュとゲーテの文庫をいくつか買った。それからモームの長編。それらをバーに持ち込んで、数ヶ月ぶりに訪れたそのバーのカウンターの隅で、じっと読書を始めた。私のほかに賑やかなひと組の客だけがいた。男が三人、女が二人。どこかの飲み屋の女と、男は極道者に見えた。私は全然気にならなかった。何しろ途中ブランクがあったとはいえ、十五で始めたバー通い。十三年経った。私はちっとも変わっていない。
「お久しぶりです。すみません、なんか賑やかで。こんな時間には珍しいことなんですけど…」
「いや、全然。悪いけど電車乗るの、忘れちゃってさ。営業ってまだ五時まで?」
「はい。いや、片付けして帰るの、九時頃ですから、いつも通り、ゆっくりしていってください」
「そう。悪いけど、頼むよ。ええと、金は一万円しかないから、それ超えて飲みそうだったら、止めてね。もう、前みたいに、電話して、誰か呼ぶってわけにもいかないもんでさ。電話も持っていない」
「はい」
 五人組のうち、ひとり、坊主頭に眼鏡の一番年嵩らしい男が、幾度も私のそばにきて、声をかける。べつに不快でなかったから、適当に彼の質問に答えて、あしらっておいた。どうやら極道者に見えたが、学習塾の経営者であるらしい。私は少し興味を持った。ただ彼はひどく酔っているようで、品性の欠片もなく、およそ私には想像もつかないくらい、下品で肉体的な話ばかりをする。私の興味を持ったのは、学習塾をやるくらいだから、きっと学卒だろう、何が専門かわからないけれど、万が一にも、ひょっとして、あの”書き方”というやつを、知っているかも知れないと、そういうことだった。けれど彼は飲み過ぎだった。ひどく酔っていた。
「案外たのしいものですよ。こう、十三歳くらいの女の子をね、いじくるの、いえ、いやらしい意味じゃないんです。犯罪とか、そういうのではないんです。なんていうかな、頭の中をね、こう…」
 恐ろしく不愉快だった。この男には知性ってものがないんだろうか? 咄嗟に殴り倒してやろうかと思ったけれど、それが周囲から異常に思われることも、私はちゃんとわかっている。彼をたしなめて、自分の席に帰す。
「悪い、おかわり、もらっていい? あとね、ちょっと気分が悪い。二階、使っていいかな? ちょっと一人でいたい」
「ごめんなさい、ほんと。珍しいことなんです…、ウオトカ・トニック。トニック、少なめで?」
「うん。ありがとう」
 私はそのバーの二階席のソファがどうしても好きになれなかった。深く、柔らかなソファ。窓辺にもたれて立って、ああ、星はない。小さな窓だから、月も見えない。ただ夜の気配と、冷たい空気、薄赤い照明だけがある。カミュ。アルジェ、アフリカ。草原。太陽とそれに焼かれる砂。私は何も知らない。ただ空想の自由だけがある。パリ、百年前のパリ。百年前のカリフォルニア、アルメニア語の小説。ゲーテのいかにもドイツらしい、憂悶。ホメロス。空想こそが私を回転させる最初の一撃。現世と私の人間を繋ぐ、矛盾した特別な方法。
 そのうちに、少し気分が良くなってきた。昔、あの人は言ったものだ。
「ねえ、きっと向いてないのよ。この国が。こういう環境全部。アメリカ、行かない? サンディエゴ。きっと若い”お爺さん”、あなたも気に入ると思うわ。まだ私の知り合い、大勢あそこに残っているし、お金も二人で二三年暮らすくらい、全然平気よ。ねえ、アメリカにしましょう?」
 私は拒絶した。
「そんならきみは、アメリカへ。おれは、そうだな…、北海道がいい。昔ウトロにいたことがあるんだよ。子供の頃、ひとりで。そうしよう、きみはアメリカ。おれは北海道だ…」
 いつの間にか、少し眠ったらしい。



 昇りきらない太陽が、額の奥でがんがん唸る。目が痛い。さあ、確認しろ。オムニ・ゴッドのジーンズ。革靴はジョンストン・マーフィー。もらい物のシャツに、安物の上着。眩しすぎて、目が痛いなら、サングラスもある。サルバトーレ・フェラガモ。顔はむくんでいないが、身体のバランスが少し悪い。軽すぎる。真っ直ぐ歩けない。どこかでコーヒーを飲もう。それから私の一日を始める。まずは歩くことだ。はじめはゆっくり、だんだんと速度を上げて歩くことだ。そしてコーヒー屋を見つける。三十分ほど考え事をしよう。仕事について、それから彼の書き方について。歩きながら考えることもできる。

 当面、今の仕事を辞めるわけにはいかない。が、この頃すこし身体がきつい。いい加減、肉体労働は無理なのかも知れない。いや、無理ではないが、別のやり方を想像してみるのも、無駄とは言えまい。しかし私にどんな仕事が出来るっていうんだろう。募集はある。私も募集広告の半分くらいは、条件を満たしている。たとえば、そう、たとえば、今手の中にある無料求人誌。こんな募集広告をデザインする仕事を、ほんの短い期間だけ、やったことがある。職場の人は皆親切で、なんにも知らない私にいろいろ教えてくれた。営業の人が仕事を持ってくる。一枚の紙に、大まかな原案、クライアントの希望とやらが書いてある。わからないことがあれば隣の席の人に聞けばいい。私は自分の知っている求人広告をぼんやりと思いだし、まあたしかこんな感じだったよな、と適当に文字の大きさを揃え、ほら、私だって昔はこんな文字だけ書くような横着はせず、きちんとHTMLやらスタイルシートやらを駆使して、文字や行間の一ピクセルにまで細心の注意を払って、自分のページを作っていたものなのだ。大体の感じくらいわかる。クライアントご希望のロゴマークを添え、文面に関して具体的な指示が無かったので、やはり過去に見た求人広告の文面がどんなものだったか思い返し、しかしそれは大抵「楽しい仲間が待ってます! 誰だって最初はみんな未経験! 明るくて、やる気のあるあなたのガッツを待ってます!」とかそういう白痴じみた奇声に似ていて、どんなに条件がよくとも、私はそんなところで働きたいとは微塵も思わなかった。が、なにぶんそういう類の文句はこの手の求人募集広告というやつには付きものだし、案外クライアントとやらは、営業の人の持ってきてくれた紙っぺらには書いてなくとも、そういう白痴じみた奇声を好む若者に働いてもらいたいのかもしれない。そう思って、少なくとも私の知識の範囲内で、一般的だと思われる発狂した文面でひとつと(しかしこれにも少し工夫は必要で、こういう広告に惹かれるような人は、たぶん字面の読みにくい点などが僅かにでもあれば、意味を誤解しかねないし、あるいはその内容を全然理解できない可能性もあるだろうと考慮して、濁点の位置などには相当気をつかった)、もうひとつ、いわゆる淡々としていて、それでいて怪しくない、短く事務的な中にも多少の知性を感じさせる、ごく普通の言葉で書いたもの(私は大抵こういう文面の募集に応募し、そして働いてきた)の二つを作って、その部屋の責任者らしい人のところへ持って行った。
「あの、いちおう二つ作ってみたんですけど、何しろこういうの始めてでして。無知なもんで」
「はい。いや、どっちも全然OKですよ。憶え早いですねえ。この二つ、そのままクライアントに送っちゃいましょう。じゃあ次はこれ、イラスト付きなんだけど、絵は描けます?」
「いや、全然。描けといわれりゃ描きますけど、たぶんすっごい変ですよ」
「じゃあね、この、ほら共有フォルダに、うちのデザイナーの描いたのと、あとまあ、イラスト集、みたいなものですけど、ありますから、適当に選んで、入れてみてください」 そんなふうにして、私はその日、二十くらいの広告を作った。ただ座って、コンピューターの前にいて、クライアントと応募者の心理を想像し、常に二種類以上のものを上司に確認してもらいながら。
「なんだあ、未経験だなんて言って、即戦力じゃないですか。まあフリーター長いみたいですし、いろんな仕事もしてらっしゃったみたいだから、きっと、要領いいんでしょうね? うちは長期でも大歓迎ですから。よかったら、考えてみてください」
 こんなふうに一日ぼんやり座っていて、みんなに親切に仲良くしてもらって、適当にお喋りして、時給は千四百円だった。私は何か違和感を覚えたし、失礼を承知で言わせてもらえば、少なくとも私にとって、こんなのは労働とはいえない。労働というのは、全力で笑い、怒鳴り散らし、かけずり回って、終いにはくたびれ果てて、何もかも投げ出してどうでもいい気分になり、そして僅かばかりの金をもらい、その金で酒を飲んだり、恋人にネックレスを贈ったり、娘がいるならドレスを買ってやって、妻には花束を、そうして一日が終わり、また次の一日がやってくるかも知れない、そういうものだ。べつに信念なんかはないけれど、たぶん長いこと、私に限っていえば、そんなふうにしか労働ってものをしてこなかったし、そのやり方が今や私の一部になってしまっているのだ。だから何かを非難しようなんて気分は毛頭ない。ただ私には、走り回って大汗かいて、罵り、笑い、抱きしめ、熱狂、狂騒、単純に精神と肉体を酷使する作業。そして異様な程の疲労と虚無。そんなものこそが、働くってことなのだ。生きるために働く必要があるなら、働くことは生きることだ。まあ、即断する必要はない。仕事について考える時間は、まだたくさんあるんだから。

 さて、書くことについて。このところ小説からずいぶん離れていた。労働とその為の準備、或いはトリートメントに完全に忙殺されていた。人々が奇妙に私に対して親切であったせいもあるかも知れない。私はそういう状態で、小説について考えたりしないし、絶対に書かない。私は”調整”に注力する。他のことは考えない。”調整”さえ済めば、あとは素早く軽やかに、頭脳と肉体が反応して、生活、書くこと(私にはその二種類のスイッチしかない)どちらについても結果を出してくれる。私のスイッチは労働と生活の側に押されたままだった。今は、永久にそのままでも構わないと思える。永久にOFFの側に…、ああ、確かに、それでも構わないと思える。



 携帯電話から知り合いすべての番号を消し、ヒントになりうるようなメモを捨ててから、どのくらい経っただろう。三人だけ残しておいたのは、彼らが全員男性であり、小説について知識や意見を持った人だったからだ。彼らの言葉を必要とするときが来るかもしれない。そして三人とも私の電話に出なかった。ずいぶん遅れて、彼らのぶんも消した。未練、だったのかも知れない。とにかくあの日、あの時以来、私の名前を知らない者は完全に、そして永遠に私に無関心であり、私の名前を知る者は、やはり同じように無関心であるか、嫌悪するか、軽蔑する、それは妄想でなく、また想像でなく、私は諦めたわけですらなかった。事実として受け入れる必要があった。もしも私に不幸なんてものがあったとすれば、私は自身があの時、あの瞬間まで、決してひとりで生きてきたわけではないと、知っていたことだろう。私は名前のあるすべての命の好意と親切、努力の為に、その瞬間まで、生きてこられた。その事実を知っている。にも関わらず、あの時より先、永遠に誰とも会話せず、目を合わせず、真実を語らず、救いを求めず、完全に独立したひとつの死骸になるという、それも事実と状況が、他に私に方法を残さなかった為に、それを受け入れなければならなかった。最後に私が人間として話したのは、いつだったろう? 誰だった? 
「それって、本当なのかなあ。全部あなたの勘違い、思い過ごしなんじゃない?」
 知らないわけではないだろう? 私は誰にも怒りや憎しみを顕わにしたことがない。そういうフリをすることが最善である場合に、演技はしてきた。けれど私は絶対に誰も憎まない。怒らない。軽蔑しない。すべての命を愛そうと常に意識してきたし、だからこそ、本当は誰も愛していない。私は怒鳴ったり、誰かを罵ったり、絶対にそういうことはしない。私がそうするときは、憎しみと嫌悪があまりに大きすぎて、どうしても我慢がならず、相手を殺し、その縁者のすべてを殺し、憎悪に焼かれたその己の心をきっと許せず、だから発狂しても構わないと、それほどの覚悟が出来たときだ。人を傷つけるのは、それくらい苦しいものだ。勇気がいる。屍の上に立って尚、己の幸福に生きるのには、努力がいる。彼彼女、ひとり残らず、それを選んだ。私は今でもただ皆に申し訳なかったと、そう思っている。



 春の嵐、強い雨。私はいつものあのスクランブル交差点に立って、”調整”の最後の仕上げに取りかかろうとしていた。そこからの五分間が一番重要なのだ。身体が軽すぎた。歩く速度が自分の想定していたものと全然違う。足だけがひどくゆっくり、なんとか前後しているが、両腕はだらりと垂れ下がったまま、動かない。首もやはり垂れたまま立とうとしない。傘がない。寒くはないが、サングラスが濡れて、目の中まで滴で濡れて、視界が悪い。動け、動けと、いくら激しく心の中で吠えても、いつか私は完全に歩くことを止めてしまっていた。雨。どしゃ降りといってよかった。冷たくない。風も強いが生暖かくて、凍えることはない。今、自分は人々の目に奇異に映るだろうか? 幸いここには大勢人間がいる。変人奇人、狂人の類も珍しくない。私は特別目立ちはしないだろう。まだ数分猶予がある。ここはどこだ? 道玄坂からセンター街へ、細い路地だ。通い慣れた道。私以外の誰もが傘をさしている。あと何分ある? 時計も電話も、携帯することをひと月くらい前に止めてしまっていた。どこかに、時計は? 視界が悪い。サングラスを外そう。少しはマシになる。プッシャー? 「何がいる? 何したい? 何必要?」こいつの名前、なんだっけ? 思い出せない。歯を食いしばって、全身に力を込めて…、だけどやり方が思い出せなかった。サングラスを外せ! 頭を小さく振るだけでいい。足下に落ちたそいつを踏みつぶして、粉々にしろ。そして時計を探す。時間がない。トリートメント、トリートメント。
 サングラスは落ちた。目の前の大きなガラス窓の中に自分が居る。半透明に透けていた。髪が肩より下まで伸びている。ぞっとする姿だった。なぜ透けている? 亡霊? 半日働いた後に、半日”調整”する。大量の薬といくらかのアルコール、時間、食事、睡眠。今日も完璧なはずだった。なぜうまくいかなかった? 潰瘍の薬、整腸剤、利尿剤、トランキライザー。時間の調節も完璧だった。酔ってはいない。薬の毒もうまく抜けている。いつもの自分のやり方。今日に限って、なぜ? スイッチを入れろ! レバーを下ろせ! まだ間に合う。
「あ、俊さん!」
 この子、誰だっけ? Aさん? そうだ。うちの店の最年少。十九歳。ひと月前からバイトを始めた。劇団をやってるって言ってた。何かそういう学校に通っているんだとも。女優志望。私の全然知らない世界。だけど、こんなにチビで、顔だってべつにこれといって目を見張るようなところ、あるわけじゃあないのに、この子、本当にうまくいくんだろうか? 肌はきれいだ。若さのせいか。声、話し方の小気味いいのは、そういう訓練のせいかも知れない。
 笑え! 目の前に小さな女の子がいる。私の名前を知っている。だから、笑え。私は誰だ? 誰よりも陽気で脳天気、いい加減で少し頭のイカれた兄貴。笑え! 軽口を叩くんだ。呆れられろ。笑って、笑われて。今それができなきゃ、本当に終わってしまう。笑うんだ。歩け。動け。嘘でもいい。スイッチを入れろ!

 あの暗い予感を覚えた。動けなかった。笑えなかった。たぶん私は泣いていた。鼻水だって垂らしていただろう。だとすれば、雨に救われた。私は彼女に申し訳ないと思った。誰だって、大人のだらしないところは見たくない。
「すまない。動けないんだ。調整がうまくやれなかった。今日もう働けない。Sさんに謝りにいかなきゃならない。Aさん、今日出勤? ごめんね、迷惑ばっかり」
「本当に具合悪そうに見える。俊さん! ねえ、今日は休んだって大丈夫ですよ。本部の人だっているし、うん、わたし店長さんに言ってくるから。お店目の前じゃないですか、ちょっと待っててね。すぐ戻ってくるから」
 おれ、もういやだよ。こんなふうに生きてるの。自己憐憫なんかじゃないんだ。本当に、心底いやなんだ。
 立ってることもできなかった。その場で尻餅ついて、正面のガラス窓の中で、どんどん自分の薄気味悪い姿が薄くなっていく。ここに自分はいない。書くことについて、ほんの少し思い出したせいだろうか? うまくいかなかった理由はなんだ?

 吐いた。食ったものも、飲んだ薬も、全部吐き出した。サングラスを拾う。深く掛けると滑稽に見えるデザインだ。浅く、鼻骨の下のほうに押しつけるように。こういう時の私の目は誰にだって見られたくない。
「Sさん、ごめん。どうも体調がよくない。今日は四人でも何とかなりそうじゃない? 二度とやらないよ。だから今日だけ、休ませて」
「大丈夫。だから来るべき週末の為に、ね。今日は帰ってください。ヤバそうだもん。気にしないでいいから。うん。今日は何とかなるって」
 私は笑い方を思い出しかけていた。笑おう。ごめんなさいって、言おう。怖がらせてはいけない。気味悪がられたくない。今できることは、笑うことだ。

 私は笑った、と思う。
 気絶していた。雨脚は弱まっていた。ずぶ濡れだったが、寒くはなかった。目の前に制服姿のAさんがいて、私は彼女の為にもう一度笑おうとした。サングラスを外す。
「ごめんね。忙しいかい?」
 彼女は何も答えなかった。私は片目の視力を失いかけていて、彼女は私のまだしも見えるほうの目を凝視していた。他人の好奇心。若いあなたの好奇の心を満たすべき何かが、この目の中にあるか? 狂人の目だ。それが面白いか? 役者を目指すくらいだから、そういう心が、感覚が、少し鋭敏なのかもしれない。
「気味悪いか? 何が見える? 面白いこと、何かあるか?」
 彼女は何も答えなかった。私のスイッチは、やはりまだ、生活と労働のその位置になかった。大失敗。もうこの場所に居られない。
「本当は、何してるひとなんですか?」
 彼女は微笑んでいた。なるほど、女優は無理かもしれない。だけどやっぱり女の子だな。特別な光り方をしていた。永遠に私と交錯することなど無いにも関わらず。
 私は今度こそ笑い方を思い出していた。確かに笑った。
「休憩かい? こんな天気だ。店の中で賄いでも食ってなよ。だけどまだ、あと数分、時間があるなら、手をくれないかな。まじないみたいなものなんだ。そこに、おれの他にも人がいる。怖いならいい。無理はしないでくれ。親切もいらない。本当に興味と好奇があるなら、手に触れさせて。少し、休みたいんだ。来るべき、週末の為にね」

 私は小さな彼女の手を握り、混濁した意識の中で、精一杯に会話を試みた。
「×××ジュンに似てるっていわれません?」
「それ、どういう意味? 褒めてる? 励ましてる? 嘲ってる? テレビの人? おれテレビ、持ってないから、わかんないよ」
「いちおう、褒めてる系、ですね。言われません?」
「言われたこと、あるかも知れない。Nの店で、Hの店で。どの街の、どんなバーでも、バーだからこそ、バーでだけ、おれは案外人気者なんだ」
「なんで?」
「わかんない。礼儀正しくて、揉め事を起こさず、金は必ず払うからだろう」
「いいお客さんってこと?」
「だねえ。おまけにおれはバーを愛してる。きっときみが家族や恋人、憧れの誰か、想うくらいに、バーを愛してる。そこで知ることのできる題材を愛してる」
「本当は、何してるひとなんですか?」
 彼女は数分前より、いっそうきれいに微笑んだようだった。不思議だ。私こそ女性蔑視の代名詞。にも関わらず、ここ数日、こういう特別な、別種の輝きに弱い。
「おとつい、近所の庭で、木蓮かこぶしか、わからないけれど、あの葉のない樹木に産毛の蕾の開いているのを見た。庭木程度なら鮮やかで気持ちのいいものだ。大樹に育つと、気味が悪い。夜に見るとぞっとすることがある。とにかく、梅は終わりだ。桜の季節。近所の椿の首はみんな落ちていた。水仙は土のよいところでは、まだ元気だ。ミモザ。今日のお詫びに、何か贈り物、しなきゃならない。ミモザの黄色と香りは好きかい?」
「それってなあに? お花の話? 趣味なんですか?」
「いや、正直、興味ない。音楽のCDとかのほうがいい?」
「ねえ、俊さんって…」
「逗子に帰る。今日は迷惑かけた。失敗は今日だけだ。二度と許されない。これから帰って、トリートメントだ。今のおれ、おっかないか? 耐えられないほど不気味か?」
「許容範囲です。一緒にいて、恥ずかしくはありません」
「ニュー・ムーン・ドーター。新月の娘? 何か特別な言い回しなのかもな。初々しいとか、再生とか、何か英語圏の人間にだけわかる意味があるのかも知れない」

 小さいひと、そんな目で、好奇心を剥き出しに、他人を見るべきじゃない。本気で私を殺すつもりなら、話は別だけどね。そうでないなら、教養、品性、少し足りないな。もちろんきみには時間がある。私にはない。私は逗子に帰る。半日かけて”調整”をする。きみは二度と今日の私を思い出さないだろう。これが実は死骸だなどと、想像もしないだろう。私は全力でそのように”調整”する。



 少しテンションが上がりすぎた。久しぶりに、こちら側に来た。レバーは自然とON側に。楽しくて、書きすぎた。これから先、ずっとひとりで生きねばならない。切り替えの度に、私は猛烈に老いてゆく。なるだけ早く、どちらか心を決めねばならない。この繰り返しは間違いなく私を殺す。もう今日は止そう。眠らなきゃならない。小さいひとの為に、私にとって特別な名前を持った、幾人かの為に、自分自身の命と可能性の為に、この部屋で、私はひとり猖狂する、必要がある。
posted by kawai toshio at 05:51| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月15日

長くなりすぎたみたいでいっぺんに載せられないから続きは後日

 何故だか突然電車の中で、昔のやり方を思い出した。ここ数ヶ月、ずっと忘れていたやり方を。
 泣き言、言うな。俺の命は一日一回転。朝にはいつも、何もない。けれど、タフだ。世界の誰よりも。鋼の身体と、唯我独尊。愉しい時代があった。愛と善に満ちた時間が、僅かだけど、そんなに遠くない過去に、おれにもあった。それを思い出せ。そのときおれはどんなだった? デカダンスなどクソ食らえだ。おれは誰よりも強靱な肉体と、特別合金製の心を持った、本物の怪物。狂人であったとしても構わん。感性など殺してしまえ。センチメンタリズム、儚く神秘的な、オリーブ少女的世界? クソ食らえだ。この生命力をみよ! 命とはこういうものだ。

 思い出した瞬間に、職場の上司に連絡した。今月後半のシフト、おれ週六日、朝から閉店までの通しで構わん。社員のあなたばりに、出勤するよ。バチッと組んでくれ。信用できないかも知れないが、ひと月くらいは大丈夫さ。で、Sさん、週に一度か二度、半休取れるでしょう? まかせとけって。やってやるよ。エンジンさえかかりゃあ、おれは止まらんよ。安心して。絶対に仕事中は酒を飲まない。おれはつくづくタフに出来ていてねえ。ひとの心配をよそに、フル回転してみせる。



 帰路の電車の中に、懐かしいNちゃんを見つけた。私たちは互いを認識しながらも、気付かないフリを続けた。彼女は私のような人間が嫌いだった。いい加減で、自分に甘く、他人にも甘い。いい歳こいた、このオッサン、なんでこんなにだらしがないのさ? そういう神経質なところのある子だった。だから仕事も辞めてしまった。こういう私を受け入れる、職場に、その責任者、或いは全体の雰囲気に、嫌気がさした。私はすべてを思い出しかけていた。それはそれで、構わない。何故って? そういうものだからさ。
「あれ、ひょっとして、Nちゃん? 懐かしいねえ」
 相変わらずのにやけ面。すっからかんの、虚栄の抱擁。
「あー! 俊さん? まだ生きてたんですか?」
 いーい台詞。素晴らしい言葉。娘っこよ、軽蔑すべき私はまだ生きておりましたよ。私はただこの子の終電の横須賀線で、疲れ切って、うつむいて、尚、ピコピコと携帯電話でメールを書いていないという事実に、感動しました。必死にヘッドホンで、音楽に聴き入っていた。思い詰めたような目で、じっと自分の足下を睨んで。世界は完全に狂っている。私はそのことあなたに教えてあげたくて、抱きしめてあげたくて、けれどそれって、とんでもなく迷惑なことだから、歳とりすぎたのか、そういう分別の為に、私はやっぱり昔のように笑って、
「Nちゃん、目立ってるぜ。も少し普通にしたほうがいい。酔ってるわけじゃないんだろう? いつか必ず幸福になる。相変わらず、お人形みたいに、きれいだねえ」
 言葉に出した瞬間に、絶望する。いや、発狂する。あの子、少し驚いたような顔をして、それから、やっぱりうつむきがちに微笑んで、恥ずかしそうに、でもリモコンの停止ボタン押してくれた。私はこれで最後だってくらいの気持ちで、勇気を出す。
「きずつけたかね、おれのもの言い。ごめんね、なにしろ、今でもこんな調子」
 最後に彼女に会ったのは、いつだったっけ? 去年の夏に、私の多摩川に飛び込んで、溺れて、数キロ下流に流される、その直前に? 
 とにかく、彼女は、私よりずっと早く電車を降りた。



 恋愛について、四十枚書くと約束したのに、書けませんでした。全部、私の怠惰が原因です。生きてるだけで、ひとを傷つける。男も女も。ただ私がだらしないという、まったくくだらない理由の為に。信用と信頼の違いについて、酔って私に説いたのは、チャーチンだったか? 台湾人のあの青年は、まっこと無垢で、ほとんど白痴に似て、けれど”力”ばかりは眩いほどに輝いて。もういやだ、生きていたくない、と思わないでもない。でも、ダメ。許さない。恥辱と侮蔑の中に生きる義務がある。泣き言はやめろ。自分で選んだ。負い目の完全に消えるまで、いけるとこまで突っ走れ。鋼の心臓、オイルの血。おれは怪物。生まれてこのかた、人間であったことなど、ただの一度もない。



 書こうと思ったんです! 大量の嘘を! だけどあのひと、ひとつだけおれのこと褒めてくれた。
「いつも、じゃあねって、お別れするとき、すっごく悲しそうな目をするでしょ? ちょっと衝撃的なくらい」
 それからあの子、私に十万円、手渡して、
「これはね、あなたが幸せになる為のお金です。絶対に幸せになってください」
 いや、その前の晩に、私は泣いたんだっけ? 苦しくて、申し訳なくて、泣いたのだ。もういやだって、弱音を吐いたのだ。そしたらあの子、
「こんなかわいそうなひと、放っておけるわけないじゃないですか…」
 私は十万円握りしめて、遠く奥羽へ逃げ出しました。毎日酔っぱらって、宿の女将さんにもさんざん迷惑かけて、ほんの十行だって書けませんでした。それから? それから? 本当の話を。そう、ほんとの話を書こうとしました。私の全部を、正直に、今度こそ、自分を救う為と、それが他人に役立つかもしれないって信じて。確認の電話を、何年も前に離れた女のひとにしました。おれのことを書く、今度こそ本気だ、死にもの狂いで書く。だから教えてほしい、あの頃、十年も昔、あなたがきっと、本気で、心底愛した私は、どんなだった?
「はかない感じ。ほかの誰よりもね、透き通ってて」
 無理。もう書けない。どだい、無理な話だったのだ。私は小説屋向けの男じゃない。生存本能、強すぎる。



 だから、もう泣き言は言うな。毎日一時間でも二時間でも長く働いて、毎月一万円でもいいから、借金を返せ。「火の鳥」の三木の台詞を? やめろ、泣き言は。あれも苦しんだ。程度と才覚の足りない、私も。



 最初にKさん、二万円。これはあんまり倫理にもとる。Nさんとこは、二人合わせて五万くらいか? 甘えてばかりでごめんなさい。Tさんには四十万。今になって解る。いろいろな意味が。たぶん正しく思い出せてる。Mちゃんに二十万。おれ、最後まで名前で呼んであげられなかった。なんだか気恥ずかしくて。あなたの無垢が、怖くって。
 あの酔っぱらいのひと、まだ生きてるかしら? 五万円。何の縁もないのに、ただ私に。ウェーブ通りのホフゴブリンだったか? 愉しい夜だったねえ。絶対今ごろ、死んでるんだろうけど。
 Oのとこは? たくさん迷惑かけたけど、借金はなかった。いろいろ大変みたいだ、想像するの、きみらに失礼だろうから、止めておく。それから、マー、全部でいくらだい? 五百万くらい? さすがにそれは無理だろうから、とにかく生きてみせますよ。何だって許してくれるひとだから、ちっちゃな命ふたつ、それだけ頼みます。死のうなんて、二度と絶対いけませんよ。
 最後に、父、母。役所のひとに頭下げてまで、保険証つくってくれた。必ず責務を、果たせるところまで果たして、謝りにいきます。確かに私は不出来な息子だったけれど、これ以上、絶対他人に迷惑かけません。



 だから、やっぱり泣き言はよせ。後悔するな。反省もするな。苦しいなどと、微塵も思うな。そいつがスイッチになる。全能なる創造主は、私に目的を与えず、ただ強靱で冷徹な機能をのみ、与え賜った。運命を全うしろ。精神科医だって、新興宗教の勧誘屋だって、私のこの虚栄の心を虜にできない。
 私はもっと、単調で退屈な機械、不死の鳥。何度でも、恥知らずに”自然に”甦ってみせるさ。今でもまだ、これ見てるひとがいるならば、それは、あなた、私の子だ。きみらのその、些細な好奇心を満たす為、私は生きている。重苦しければ出て行け。信用できぬなら去れ。おれの子どもたち! 見せてやる、人間のさらに退屈な様を!



 怠惰や弱さはひとの性。私は今これ見てる、すべてのひとの知性を信じてる。生活よりも、理想の刺激を愛した、甘えん坊の子どもたち。



 神様なんて、在るのか無いのか知らないが、在るならそれは、ひどく悪戯ずきで、残虐を好む化け物に違いない。先日、偶然に老犬を拾って、それだって、今の私の心には、よほど苦しいのに、さらなる試練を、いじわるを、私に与え賜る。

 やっぱり深夜に、私はいつもの坂道を下る。不謹慎だけど、明日は仕事も休みだし、深夜にひとり、安酒飲んで、好きな小説でも読みながら、ぐっすり眠ろうとする計画は、そんなに邪悪なものだろうか? お金は大事にしないといけないから、バーは止そう。ほうら、健全じゃないか。たったの五百円。なのに、何故こんなに後ろめたい! 強烈な罪悪感。
「だからね、そう思う時点で、飲酒に罪悪感を感じるってこと自体、異常なんですよ。少なくとも十年、本当は一生止める覚悟が決まるまで、断酒なんてするべきではありません。失敗の度に、そういうあなたの感覚は強くなっていきます。動機づけが必要です。仕切直しましょう。覚悟が決まったら、また来てください。手助けできると思います。それから、私の立場でこんなこと言うのは、不適切だとは思いますけれど、あなたはまだ、限界じゃないように見えます。言い方は悪いですけど、落ちるところまで、落ちないと、若い独身者のあなたには、無理です」
 なるほどよく言った。確かに私には、まだ私が正常で、目の前のあんた、薄ら禿のチビ、自ら望んで精神科医になった、あんたのほうが狂って見える。そういう気持ちのあるうちは、まだお呼びじゃないってことなんだろう。私は自分の問題の本質がなんであるか、ちゃんと理解している。そのことについて考えるとき、一滴の酒も必要としない。私は冷静に自分の弱点(いつかそれは、人格そのものになってしまったが)を理解している。解決の為に必要な努力も。知る力だけがあって、実行する能力がない。知に誠なく、行為、行為…。
 そんなこと考えながら、いつもの十字路を越えて、急な坂道を下っていると、いや、こういう時の私の思考は、もう少し複雑なのだけれど、今、あえて書かない。とにかく考え事しながら歩いていると、この頃慣れ始めた、あの独特の感じ、全身が神経そのもののようになって、音や匂い、その他あらゆる外界の現象に対して、敏感になり始めた。道端に子供用の学習教材? 積み木やカード、おもちゃの時計なんかの散らばっているのを見つけた。とんでもなく不吉な感じがする。身体が震えて、じわっと目頭が熱くなる。イヤホンを外す。こいつも依存だ。しばらくは音楽禁止。闇夜の静寂に、女の金切り声。悪趣味な神様のいたずら。冗談じゃない。私はたくさんの問題を抱えている。そいつを全部、明日にでも解決してみせなきゃならない。煩わしいことはごめんだ。もう手一杯なんだよ。だけど、声のほうに駆けだしていた。路地の途中のゴミ捨て場の前で、女が子供を蹴飛ばしていた。もの凄い怒鳴りかただった。
「何回言ったらわかるんだよ! ふざけんじゃねえ! おまえ、何回言ったら…」
 私はつとめて冷静に、状況を考えた。我が子を殺す母親だっている時代だ。こういうことだって、不思議じゃない世の中なんだろう。きちがい女め! 私は、それどころじゃあないんだよ。
 だけど女は、それこそヤクザ同士の喧嘩みたいに、足下の小さく丸まった身体を、殺意を込めて、本気で蹴り上げているように見えた。私は女の片腕と腰を掴んでいた。
「いや、なんていうか、通りすがりなんですけどね、子供を蹴ったりするな。おれは何にも知らない。だけど、子供を蹴ったりしないでくれ…」
 女の抵抗は、私のうっすらと、たぶん無意識に想像していたよりもずっと強く、そして俊敏だった。私は少しうろたえた。どうしよう? 育児ノイローゼ? だけど足下の子供、女の子だろうか? そんな、育児とか、そういう歳には見えない。小学三年生くらい? 目の前の女、きっと母親だろう、発狂してる。べつに怖くはない。考えろ、考えろと、ほんの数秒思考した後に、やむを得まい、と自然に腹をくくって、きちがい女を、その両腕ごと、無理矢理抱きしめて、子供と反対の方向に、路地を数歩、よろよろ歩いていた。手のひらの動きだけでは、制御できないと思ったからだ。女はもう叫ばなかった。ただ、嗚咽しながら、暴れ続けてはいた。私は心底困り果てた。なんだこれ? 冗談じゃない。どうしろってんだ? いたずらにもほどがある。私自身、膝をついて、その場に崩れ、倒れ込んでしまいたかった。だけど、ああ、まだちゃんと見てはいないけれど、子供、ひょっとして怪我してるかも知れない。どうする? 気合いを入れろ。何とかしろ。私こそ、叫びたかった。視界の隅で小さな光がちらちらと輝いていた。小動物の機敏に横切る気配を幾度も感じた。もう限界なんだ。勘弁してくれ。全部を一挙に解決する方法。女を殴り飛ばしてやろうか? 考えた途端、腕の中の女の首の、ぞっとするほどか細く、顔の小さいのを、腕の中に感じた。おれみたいな大男が、今、横着して殴り飛ばせば、こんな状態のこのひと、あっけなく倒れて、アスファルトに頭打って、死んでしまうかも知れない。そういう姿がありありと想像できた。考えろ、考えろ。
 私は小さく細いそのひとの身体を左腕に抱いて、引きずるように、子供の側に近づいて、空いた右手をその子に差し伸べた。
「立てるか? お母さん、今ちょっとイカれてるみたいだ。でももう、怖くない。全部終わったし、解決した。安心していい。痛いところがあるなら言え。大丈夫だ。もう怖いこと、なんにもない」
 女の子は立ち上がって、二三歩、後じさった。私と腕の中の母親を凝視している。その心理を想像するのは止そうと思った。病院で見てもらうべきか、彼女自身が判断すればいい。ああ! 苦しい! だけど女を引きずって、数歩進んで、無言の少女の手を握る。
「大丈夫だ。怖くない。全部終わったんだよ。痛いとこ、ないか? 苦しければ、これから医者に連れて行ってやる。痛いとこ、ないか?」
 少女は、無言。私の能力を超えている。困り果てた。どうすりゃいい? 警察。前に犬のとき、お世話になった交番へ? 一番無難な方法だ。まだ正常。頭、冴えてるじゃないか。だけど今度は相手、犬じゃない。たとえ今、狂っていようと、人間だ。自我の在処を、意思を確認しなきゃならない。腕の中の母親に、声をかける。
「すぐそばに、交番があります。そこへあなた方親子を連れて行こうと思う。不都合ありますか? 警察の面倒だけは、とか、そういう理由がありますか?」
 腕の中で私を見上げた、ヒステリーだかノイローゼだか知らないが、三十半ばくらいの女は、なんで私はそれまで気付かなかったんだろう? なかなか美しい女だった。泣き濡れて、目は血走ってはいるけれど、みなりも悪くないし、この辺りの住人だとすれば、金持ちであるのかも知れない。ますます困った。事情を尋ねることは出来ない。「近所の方ですか?」という質問は、「ご主人は?」や、「同居してる他のひとは?」と同じであり、そんな風に質問を始めれば「こういうことは頻繁に?」、「他にお子さんは?」という長い、彼女の苦痛を語る旅路になりかねない。こういう状態の女性の、そんな身の上話を聞くという、生活の蹂躙を、刹那主義的な救済の光を担うに私は相応しくない。夫がいるならそのもとへ。同居の父母でもいるなら、そのもとへ。それが分別というものだ。なのに、それを訊ねることができない。けれど私には、己の価値観と美意識とを、自然にたとえ一瞬でも好意を抱いたひとに押しつける悪癖があって、好意を抱けぬ者は無視する、愛おしい者には、瞬間に全霊を捧げる(依存?)という、ひどい悪癖があって、そんな自覚があるものだから、なのに、ああ、不思議だ。私はまだ良識人ぶって、このひとに、夫か父母かほんとに信頼できる友人か、誰か今この状況を一番によい方法で、解決できる相手がいるのなら、今すぐに、必ず正確にそのひとに電話するよう、彼女を説得した。

 子供の抱きしめ方がわからなかった。今にして思えば、ただ腰を屈めて、そっと握った手を引き寄せてやるだけでよかったのだろうが、その時には、子供はあんまり小さすぎて、果たして巨漢の私にどう抱いてやったらいいものか、考えがつかなかった。それで、仕方なしに、ずっと左手で母親の細い手首を握り、右手に少女の手を握り、気象学だか創造主だか、どちらのいたずらか知らないが、またしても雪の夜に、港のそばの高台の、暗がりの中に、ただじっと、月極駐車場のブロック塀に、己の鼻の当たるほどに近づいて、私は佇んでいた。
 どうやら女の子に大怪我の気配は無いようだった。また、この小さなレディの一見、茫然自失の瞳、真実には麻痺の、その瞳から、どうやら今夜の如き彼女の母の振る舞いは、一度や二度のことではなさそうだった。小さな手のひら握りしめて、ただじっと、彼女の母の携帯電話で連絡してくれた先の、相手の迎えを待つほかになかった。
 女は少し正気に戻り始めたようで「ごめんなさい。夫に電話をしました。今、湯河原だそうですから、この時間でも、二時間はかかると思います。家は、すぐそこですから、ええ、本当にご迷惑をおかけして…。できればお家に戻りたいんです。すごく寒い。この子のこと、いたわってあげなきゃいけません。暖かくして、少しでも母親らしく、この子の父親の迎えの来るまで、励ましてあげなきゃいけません。おかしいかしら? あら、大きいんですねえ? わたしまだ、おかしいですか? あなた心配なすって、薄気味悪く、思っているんでしょう? でも、大丈夫なんです。この子にも、あなたにも、本当に申し訳ないんですけど、平気なんです」
 そこまで言って女はまた泣き始めて、毒の抜けた、本当の女の哀れを誘う、惨めったらしい泣き方で、
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも私、大丈夫です、どうかおうちに戻らせてください」
 私は全くの独断で、これはまずいと思った。私の悪い癖だ。見ず知らずの女の、極限に近い精神の状態にまで、私の経験と価値観を押しつける。永久に誰も、他人を尊重できない。
「寒いなら、私の上着をあげます。二時間くらい、どうってことない。電話でこの場所を伝えたんでしょう? 待ちましょう。上着はお子さんにやることにして、あなたは大人なんだから、なに、わたしは体温、高いタチなんです。二時間ばかり、我慢してください」
 彼女は大いに泣き出した。狂乱。私には彼女に語るべき言葉も無ければ、励ましをする資格もない。ただ、少なくとも、この瞬間に、自己主張をする傲慢だけは、避けうるだけの良識(?)を、強さを持っていた。苦しい、のは、己の中で飼い慣らせ。おれは男だ。継続の努力、不屈の闘志、無くとも僅かにこの瞬間のみは、耐えねばならん。なぜなら、なぜなら? アーニー、いんや、キタカタ先生。おれは男だからです。生活の欲も、食欲も性欲も、失ったというより、私には全然最初からなかったようです。私はかたわの雄で、今はただ一分でも長く生き延びて、一円でも多く借金を返す、そんな目的の為に生きている、ほんとに間抜けな浮浪者に過ぎません。今は? いや、永久にそうでしょう。だけどこの瞬間、目の前の母娘を守ってやりたい! 二時間だけでもいい。私に出来ることは? 己を吐露して胸襟開かず(人々は私が”化ける”と言った。私の本性の醜く退屈で、ひとによっては衝撃的なのは、魅力とはいえまい。まさに私は”化ける”のだ。怪物なんだよ。ただ、悪意は微塵もない)目の前のひとを困らせずに、だけど全身全霊でもって、思いやってあげる、最良の手段は?

 そう、まさに運命というやつは、創造主とやらのいたずらは、当然人知を超えて残酷だ。私はこの母娘、哀れに潤んだ四つの黒い瞳を、雪の舞う路地に予感した、その時以来、暗中模索、ただがむしゃらに抱きしめているほかに、方法などなかったわけだけれど、なあに、最初から全部、彼らにはお見通しだったのだ。私のジーンズの左の尻ポケットには、サローヤンの「ワン・デイ・イン・ニューヨーク」があった。私は予感の最初から、母娘に、ロージーとローラを感じていた。彼女にかける言葉はない。私にできることは? 嗤われたって、てんでかまわない。今自分にできる努力を、全力でもってやることこそ、誠意、善なのだ。
「ええと、時間つぶしにね、この文庫をあげます。ひょっとして、今のあなたに相応しくない、退屈なものかも知れませんけど、物語の真ん中当たりで、作家は男ですから、やっぱりあなたの気に食わないかも知れないけれど、母親と娘の関係の話があります。本当は男の為の、父親の為の物語です。でも、ねえ、ほんの少し、この人の人間観察は、本物ですから。私は信用できなくったって、この本は信用してください。結末はね、内緒。たとえあなたに理解できなくたって、知ることできなくったって、感じることはできますよ」

 長い、長い時間。私はくたびれた。しゃがみ込んで、すっぽり腕の中に、まだ時折思い出したようにすすり泣きをする痩せた女を抱いて、その先に延ばした両手で、小さな女の子のもっと小さな肩を掴んで、ただじっと待つほかになかった。三人とも沈黙しきっていた。私は女のすすり泣きのひどくなった時に、一度だけ、やはり禁忌を犯して、声をかけた。
「あなたはね、自分の娘の前でだけ、強ければいいんです。本当は世の中の誰よりも弱い。そんなのみんなわかっています。子供の前でだけ、強くなさい。虚勢でかまわない。本当は泣き虫だって、全然かまわない。娘さんの前だけ、でいいんです…」

 いつか曉に、まだ雪は止まなかったけれど、彼女の夫が、臙脂色のダイムラーで、互いにぼろぼろ傷ついた、彼女と愛娘とを迎えに、やってきた。私はできるだけ簡単に、事情を説明した。通りすがりであること。警察に行くよりは、あなたに連絡することを彼女が望んだこと。家に帰りたがったが、私が見知らぬひとの家に上がり込むわけにはいかない以上、二人っきりにするのはまだ不安だったので、寒い中、申し訳ないが、こうして我慢してもらったこと。お子さんの怪我の様子は、私には判断できないけれど、時間に余裕あれば、あなたの意思で、医者に診せてほしい。子供は特別なものです。大人どうしのわだかまりなんて捨てて、真剣に、命懸けで、考えてやってください。もちろん、私には、全然、さっぱり、ですけど。感覚の問題ですよ。あなたと、その奥さんよりも、ええ、こういう私の、無神経なもの言いよりも、この子の安否のほうが、遙かに重要だって、そんな気がするもので。
 彼の幾つかの質問は、全然私の心を動かさなかった。だから私は一つも答えなかった。「あの、せめてお名前だけでも…」
「名前? べつに何にもしちゃいないよ。殴ったり蹴ったりできないように、彼女と娘さんを掴まえていた。寒いだろうと思って、そばにいた。指一本触れていないとは言えないけれど、べつに何にもしちゃいない。名前? 名前だって?」
 私は軽やかに、スキップ踏むみたいに、ほんとに軽やかに、一歩、坂道を下った。それからぺっと道路に唾を吐いた。
「それじゃ。くれぐれも、暖かく」
 振り返らなかった。粉雪舞う、いつもの坂道を下る。信じられないくらい、軽やかに。元気だしなよ、女たち。レディとレディ。私は何にも知らない。あなたたちがとっても魅力的な生き物だってことの他に、何も知りたいとは思わない。くたばってしまえ! スキップ。おれにはまだ翼がある。自由っていうんだ。スキップ。パンでも買おう。バターも。玉葱とコンソメのスープも作ろう。スキップ!



 ある日の夕方に、私は通い慣れた宇田川町のドトールで、ブレンドMサイズをすすりながら、ゲーテのウェルテルを読んでいた。十五分早く、渋谷に着く。仕事の前に、コーヒーを一杯やる。最近決めたやり方だ。お酒よりは薬。薬よりはカフェイン。まあ私にとっては、金額さえ違わなければ、何でもいいんだけれど。仕事の前に自分を整えておくことは、絶対に必要なのだ。気持を落ち着ける、というのではない。力強く、がちゃんと大きなレバーを倒して、軽薄で陽気な、見かけのわりに親しみやすくて、ちょっと変な兄さん、そういう自分に切り替える。努力はいらない。無理して装っているわけではないんだから。好きで、自然と毎日やっていることだ。ただ、準備はいる。

 私はいつだって店に人が足りないときは、本部の人間にこう頼む。
「いや、仕事なんて出来なくたっていいんですよ。女の子をお願いします! 派遣でもヘルプでも、なんでもいいから、若い女の子で!」
 私は社員で店長のSさんとよく話す。
「なにしろうちは、ダンディすぎんですよ。週末にこの箱で、たったの二十四席のこの箱で、十二時間で三百人回そうってのに、店員全部、メンズ。これはね、お客も働く方も、相当苦痛ですよ」
「そうそう。俺もマジで限界。潤いって、必要だよねえ。でもさあ、女の子、誰も働いてくれねえんだもん! この前派遣で来てくれた子に聞いたんだよ。なんで全国でも特にうちだけ、女の子、続かないのか。時給千二百円でも、考えものだって、言ってたね。やっぱ更衣室、無いのがいけないのかなあ…」
 私たちは笑い合う。私はこの人よりずっと昔からこの店にいる。店長は四回替わった。所帯持ちの社員で、ひと月以上続いたひとは、一人もいなかった。実はSさんにもいろいろ苦労はあって、先日またこの店は売られた。店も人も、全部一緒くたに。私なんかは全然かまわないことだけれど、Sさんは正式な社員だし、三十四歳で、三歳と六歳の娘さんがいて、千葉のマンションのローンも、まだ山ほど残っている。しかもSさんは最初から、この店で数字出して、なるだけ早く買い手を見つける、そういう役割で、やってきた人なのだ。数字は出した。買い手も見つかった。やっとお役ご免、次こそ自分に相応しい、安住の地へ、会社は導いてくれるだろうと、そういう希望でいっぱいだったのだ。それが金曜に売却の話が持ち上がったと同時に決まり、三日後の月曜に、出向なんて生易しいものではなく、さあ、お前は今からうちの社員じゃない。退職だ。買い取り先はS県一のパチンコ屋。今日からお前、そこの社員だ。
 そんな非常識、あるだろうか? Sさんは気さくで諧謔を知っていて、仕事もできるし、キャリアもある。なにしろR系の社員、ようするにガストの店長を何年もやっていた、と言えば読者にもわかってもらえるだろうか? あそこの人使いの荒いのは、飲食業界長い連中なら誰でも知っている。注文すれば料理は三分で出てくる。飲み物なら、一分だ。おまけに二十四時間営業で、なのに社員は一店舗に一人。そういう環境で、何年も鍛えられてきた人だ。今のうちの従業員も、古いのも新しいのも含めて、みんな彼を尊敬しているし、慕っている。私も彼が大好きだ。私みたいなくそったれの酔っぱらいを優しく使ってくれるのも、全部この人の人柄に依る。
「じゃ、今週末はまたUさんに頼みましょうよ。あの人のE店、従業員の三分の二は、女の子だって」
「なっ! 俺だってこんなダンディ・ハウスじゃなきゃ、店ごと売られたって全然構わないんだって。このセンター街に骨埋めてやるっつうの。ああ、でもUさん、おっかないだろう? あの人本部でも有名なんだよ。前の前の店長、Yさん、辞めさせたの、あの人だよ? あ、俊くんは知ってるか」
「いいじゃないですか。あの人、今べつに暇でしょう? E店の店長べつに居て、監督だか何だか、そんなのしてんでしょう? おれ二三度組んで仕事したことあるけど、全然いやな人じゃないですよ。ね、おれ電話しますよ。今週、あの人付きだけど、Eから誰か、素敵な若い女の子、お願いしましょうよ。潤いって、大事じゃない?」

 私はドトールの三つ並んだ狭いボックス席の、あろうことか真ん中に座っている。他に席がなかった。右手の席には女が二人。もの凄い勢いで、こんど派遣されることになった銀行について話している。ずっと証券畑だったのに、よりによって、R銀行、でもね、これで心おきなく、株ができる。父親のコネクションだとか、ドルの取引についてだとか、そんな話を熱心にしていた。強そうな女たちだった。自信に満ちて、金も唸るほどあって。左手はいかにも渋谷らしい、派手で下品で意味不明、そんな女の子二人。右手の組みより、五つくらい若そうだった。私が席に着いた瞬間から、突然声を落として、静かに振る舞っている(読者は知っているだろうか? とにかく狭いのだ。両隣の女二人と私の肩の隙間は五センチ足らずしかない。それが渋谷、宇田川町)。私はまだゲーテを読んでいた。不思議なことに、右手のキャリア・ガールたち、一生私みたいなクソたれなんて、歯牙にもかけない、すごく素敵な女の子たちに、何かが欠けている。何だろう? 暖房の効きすぎた店内で、両側をぎゅっと若い女に挟まれて、身動きならない私は、ふと考える。品性、かね。日本人、かも知れない。いや、彼女らの素敵なことには違いないんだけれど。その点、左手の若い組みは、私の好みに合った。二人とも(十八か、そのくらいだろうか?)、私が震える手でカップを掴む度に、ちょいと目線を本から上げて、店の時計を見上げる度に、緊張を顕わにして、押し黙り、手元の鞄を掻き抱き、ちらと私の表情を盗む。田舎者の純情、本能というものは、こうでなければねえ。私はウェルテルの物語の、あの青春炸裂、猛烈な書簡体の物語の、お気に入りの一節にたどり着く。
「九月三日
 ぼくだけがロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外のものを何も識らず、理解せず、所有してもいないのに、どうしてぼく以外の人間がロッテを愛し”うる”か、愛する”権利がある”か、ぼくには時々これがのみこめなくなる」
 私は物語の結末を知っている。読者も知っているだろう? ウェルテルはアルベルトに借りた拳銃の、いや、ロッテの手ずから埃の払った、聖なる銃弾の一撃で、己の頭蓋を貫いて死ぬ。私はその本を閉じる。コーヒーを飲み干す。煙草の最後の一服を終える。立ち上がる。本当に狭い客席だ。左手で少女のふたり、びくりと身を奮わせるのを感じる。一声かけてあげようかと思ったけれど、止めた。どちらの組みも、まあ結局、私とは全然関係がない。私はカップと灰皿をカウンターに返して、水を一杯もらう。まだ四肢の震えが止まない。少し頭が混乱していて、調整は充分とはいえない。アルコールはだめだ。そう決めた。振り返って店の時計を見て、時間を計算する。医者からもらった薬を、三種類ほど飲む。酒よりはマシ。なあに、二時間も汗を流して働けば、ちゃんと皆の知ってるおれになる。それにしても、品性…、生来のものか、環境によるものか…。芸術とは関係などあろうはずがないけれど、他人を判断するのに、好悪の条件に、品性…。私は働きに出かける。
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2005年03月06日

むっだい 無題

 ヤバい。この感じ。もう限界だ。耐えられん。
posted by kawai toshio at 05:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする