●2004年6月21日 第1回MKCRセミナー

発表者:Dr. Jeffrey E. Hanes(ジェフリー・ヘインズ博士)
      Director, Center for Asian and Pacific Studies, University of Oregon/
        Associate Professor of History, University of Oregon

      (オレゴン大学アジア太平洋学研究所所長/オレゴン大学準教授)
        サブ・プロジェクト
a8リーダー

題目:Osaka versus Tokyo:
    The Cultural Politics of Local Identity in Modern Japan
    (大阪対東京:近代日本におけるローカルアイデンティティの文化政治学)

日時:2004年6月21日(月)17時〜18時30分
会場:武庫川女子大学中央キャンパス
    中央館(中央図書館棟)7階708教室(C-708)

 6月21日、あいにくの台風6号直撃でした。大学は終日休講でしたが、午後には台風も通り過ぎ、MKCRセミナーは予定通り開催されました。
 当日になって出席を断念された方も多く、出席者は20名足らずでしたが、興味深い発表内容に一同熱心に聞き入りました。

 ヘインズ先生
 会場の様子


発表要約
(協力:大学院文学研究科・岩田順氏)
 『大阪学』において、その著者大谷晃一帝塚山学院大学教授(当時)は、自身がこの全く新しい"Osakaology"―「大阪学」という学問領域の創始者であり、産みの父親であると宣言した。この「大阪学」(Osakaology) は、大阪を研究対象として地域に特別・固有の現象を見付け、それらの現象を徹底的に調査し、数量化し(「できたら数字がほしい」と大谷は言う)、主観的印象や地域ショーヴィニズム(排他的な愛国主義)に由来する疑いのあるものを排し、ついにはそれら現象の起源までをも突き止める客観的な「社会科学」であるという。しかし、これを当初学部での講義として用意・発表した大谷は、このままの形では(学生を始め)一般には受け入れられないと判断し、あくまで自分の目標は大阪を理解することにあるとしつつ、まずは大阪を東京と比較する「東西文化論」とする事によって解りやすく興味あるものにする工夫をした。こうして出版されたのが、最初に挙げた『大阪学』、同じ年の『続大阪学』、そして『大阪学―世相編』を含む、いわゆる大阪学3部作であった。
大谷は、文化というものは地域を核として時代を超えて生き続けるものという信条を持っており、その限りでは、近世の大坂、近代の大阪という表記さえ統一したいと述べている(講義では同じ発音で済む)。大谷は『大阪学』の序文において、この一冊で、大阪のすべてを正確につかむことができるはずである。大阪を知的に語ることができるだろう、と自賛する。
 この本に続き大阪朝日新聞社が旗持ち役になって発行した『大阪学―21世紀編』の序文でも、21世紀の大阪はどうなっているか皆知りたがっている。その為には、大阪を徹底的に調べ、記録し、分析せねばならない。地域およびそこにおける経験に根づかない根拠のない理論、概念は不要である、と述べている。しかし「大阪学」(Osakaology)は、それがある地域の優位性についての論証不能な信仰を前提にする限り、一種の"砂上の楼閣"になりかねないとはいえないだろうか。なぜなら、そこに見られる理論も概念も、大谷の宣言とは裏腹に、まさに「大阪学信奉者たち」の創り上げたものといわざるを得ないからである。彼等の進めた帰納法は、最初から大阪とその住人達に内在する文化的アイデンティティを探し出す目的で、地域特性を同定し、カタログ化する為に地域データを収集し分析する方法なのである。明らかに、地域の持つある特別なオーラの様なものを掴もうと狙っている。
 私がここで時間をかけて「大阪学」に言及した理由は、「大阪主義」(Osakaism)とでもいわれるものの裏に潜むショーヴィニズムを暴くこと、同時にそれをもって、近代日本における地域アイデンティティをめぐる文化論争を、さらに大きな視野から検討しなおす手がかりとしようとする意図からである。Ron Tobyの先駆的研究の特徴をなしている、「民俗誌学的ケース・スタディ」の型に沿ったものであるといえる。
 地域論の観点からすれば、"Osakaology"はやむ事を知らない覇権争いの過程で、最も最近に大阪の地域的排他主義者達が東京にしかけた反撃の一つに過ぎない。しかも、大谷およびその他の自称大阪主義者たちが、大阪人に真に内在するアイデンティティを明らかにするどころか、実はそれを創り上げているのは先述の通りである。彼らが「確実に世代から世代に引き継がれる地域特有の習慣・慣例の累積、即ち伝統の形成過程を追跡する」ことで得たとして大文字で大書するOsaka Tradition(大阪の伝統)なるものは、実は、種々の怪しげな要素、民衆の知恵、説話、迷信、郷愁、そして固定観念などをかき混ぜて作った刺激の強いカクテルに過ぎない。なかでもこの'擬似社会科学'の性格を最もよく表しているのは、それがありきたりの文化現象を'内在的文化特性'が客観的に表出されたものと軽率に断定する点である。大阪学者たちは、大阪文化は大阪人の血管の中を流れているとか、それはDNAに刻み込まれているとか、いずれにせよ、大阪人は彼らが住む場所の消しがたい刻印を背負っているという共通の前提から研究を進めている。

 いったいなぜ大阪学者は、大阪のオーラなるものを熱心に捻り出し、大阪と東京の比較にこうまで奔走するのだろうか。大谷は恐らく、それによってこの二つの都市のそれぞれの文化的特質に光を当て、ひいてはそれが世人の大阪への興味を一層かきたてることになるからだと説得するだろう。しかし、何ゆえ彼らはより近くの京都や神戸を比較の対象にせず、遠くの東京を選ぶのだろうか。私は、その理由は唯一、彼らの文化政治学にとって東京を選ぶのがより好都合だったに過ぎず、さらにいえば、大阪学者達のその栄光ある大阪人としてのアイデンティティが、彼らの議論から歴史的展望を失わせてしまっていると考える。大谷が時代を超えた(タイムレス)ものとされるその議論は、実はお互いに入り組み重なり合う、時代によって劇的な変化を遂げた論説の組み合わせに他ならないのだ。かつて徳川時代以前には、遠く離れた二つの地域のどちらの習慣がより優れているかという、より穏やかな比較論がゆったりと続けられていた。それが後に、東京と大阪のどちらが一位でどちらが二位かという狭い意味の優劣論争になったのである。この議論は近代史型のもので、これらの都市を厳しい二者択一的な競合関係に追い込む。大阪の場所的優位性とその文化の優位性への盲目的信仰に陥った大谷を始めとする大阪学者たちは、この後者の競合関係論を前者の比較論にまで持ち込んで、地域文化の競合関係は一元的かつ永続的議論であるという幻想を作り上げているのである。彼等が開拓したと称する地域を対象とした社会科学に、明らかに間違った基礎づけをしてしまっている。
 大阪学者が特有の文化現象だと挙げるものの多くで、生粋の大阪人に本来的に備わった根本的な文化的特徴であると証明できるものはほとんどない。むしろ、近代史における東京と大阪の競合に付帯して生起した現象をなぞっているというのが実態である。私はむしろ、遥かな昔から東京との間に埋めようもない文化のギャップがあったと思わせ、大阪文化の特徴を幻想化し続けるよりも、この東京・大阪の競合関係を近代国民国家としての日本に顕著な文化政治学な典型現象とし、歴史的展望の中に置いて見ることを提案する。
 現在大阪学者たちが大阪主義(Osakaism)の時間を超えた特徴とする文化的特性を、大阪・東京間の近代政治・文化上の競合関係に現れた症候の集合体だと定義できると考えている。これは、1868年の明治維新のあと、時の指導者が持ち込んだもの、江戸が首都・東京として蘇り、大阪が2番目の都市へと格下げされたところから始まったのである。

 明治時代、国民国家・日本が東京を首都に指名し、政治権力と文化的主導権をそこに集中し始めた時、この競合関係は着実に過熱し始めた。それを煽り、推し進めたのは、国家が認定した「東京中心主義」である。近代国民国家の首都としての東京は、国家の政治および文化を具体的に象徴するものであった。それは単に、家族国家の家長の席を意味するだけでなく、国という家族の象徴となったのである。一つの市としての国家を想定するなら、首都はそのような市の中央広場に当たる。ひとたび、東京人たち(Tokyoites)が、日本の伝統の守護者としての象徴的地位を―伝統なるものの大半は近代国家が自国文化の優位性を宣揚するために作り上げたものである―意識しはじめると、たちまちイデオローグたちが日本の"中央広場"の急ごしらえの演壇に上がり、大阪の欠点をあげつらい始めたのである。
 今や東京の中央政府指導者たちの冷たい眼差しを浴び、さらに排他的な東京人の侮蔑の眼差しにまで曝されるようになると、かつては巨大な商業集散地だった大阪の住民たちは追い込まれ、被抑圧心理を抱くようになる。明治初期にはまだ沸き始めだった東京・大阪の文化的ライバル関係はやがて沸騰し始める。明治も後期になると、文化的優勢を鼻にかけた東京人たちは大阪人を類型化し、彼らを侮蔑し、果てには大阪文化を劣等で異常なものとして否定するに至った。しかし、東京が国家における政治・文化の優勢強化に熱中していたまさにその時、大阪は国の経済面における優位性を着実に打ち立て、再び政治および文化両面にわたる挑戦に立ち上がったのである。

 ここで取急ぎ概観すると、1910年代、大阪の文化の自主性回復、首都への優位性を跳ね返す動きは、1920年代に入ると急速に言葉による戦争に発展し、1923年の関東大震災で東京が灰燼に帰するや、一時両者の勢力関係は逆転した。この運命の逆転は、それまで明治政府が促進して来た国家文化の主導権を東京に一極集中するというモデルに疑問が投げかけられるきっかけとなった。しかしこの時は1930年代の後半までに東京が再び政治的優位性を更新、文化の主導的地位も取り戻すことができ、さらに戦後になると止まるところを知らない「東京中心主義」の時代に入り、経済の面でもその優勢を確立という流れをたどった。しかし、大谷やその他の排他主義的文明批評家たちがいうように、大阪・東京間のこの競合関係は決して終わった訳ではなく、今日まで執拗に続けられている。すでに10年ほど前になるが、大阪のWEST END×YUKI が、東京のEAST END×YURIのオリジナル曲"Da. Yo. Ne."の東京言葉を辛らつに揶揄して投げ返した"So. Ya. Na."がリリースされたのが、その現象の簡潔かつ典型的な例であろう。東京が代表すると自負する文化を、彼らの顔に投げ返しているのである。大阪は今では東京の足元にも及ばないが(その地位は今は横浜に移った)、それでも皮肉なことに、隠然たる大阪主義の脅威は東京人を脅かす能力を依然として持っているようである。つい4年前にも、東京で大阪弁が大流行し、一部の識者に"伝染病"の様に恐れられた。
 以下では、なぜ東京と大阪の熾烈な競争関係が今日まで続き、なお人の耳目を引き、時には人をヒステリックにさえするのかを究明する。つまり、大谷と彼に追随する大阪学者たちが書き立てたのは'空想的な文化のギャップ'だと指摘するよりも、むしろ彼らが、東京・大阪間の競合関係の発生の由来を見誤り、その本来の意味を歪めてしまった事実を論証して行く。大谷はこの2都市の文化関係を遥かな昔に始まる、地域に根づいた文化の競合関係であると述べるが、私は、これを1923年(関東大震災の年)以降、近代国家の提灯持ちたちを守勢に追い込むことになった文化的決闘における一連の攻防現象としてとらえたいのである。大阪・東京間の文化戦争は、一時は大阪人が劣勢を撥ね返した事もあったが、かといってそれが文化の力のヴェクターを(ましてや政治のそれを)変えた訳ではないのである。逆に、大阪は2、3の局地戦に勝っただけで戦いには敗れる。しかし大阪のこの戦いは、ある重要な歴史的教訓を与えてくれる。つまり国民国家は国として文化的ヘゲモニーを確立することを切望する。しかし東京が大阪に対して優位に立った時、国がそれを勝ち取れたかというと、そこには疑問の余地が残るのである。

 大阪・東京間の文化的競り合いという内戦を分析する前に、いくつかの著名な理論に当たっておく必要がある。まず第一は、文化の類型化という課題で、これについては Michael Pickeringの刺激に富む著作から、ある洞察を引出して見たいと思う。
Pickeringは、学者というものは、類型化(ステレオタイプ)を分析的に脱構築することをほとんどせず、それを単に不合理もしくは有害と称して排除するだけだ。しかしこの類型化が現代にはびこっていることを考えると、もっとそれに注目する必要があると言うのである。
 彼のこの示唆に富む指摘は、我々が大阪・東京の競合をより良く理解する助けにもなる。Pickeringは、類型化とは"タイプ分け"、即ち通常優勢な"我等"が搾取される"彼等"を整理する為に作り出す「単純化」であるとする。しかし、類型化は通常"彼等"を明確にするが、また暗黙の内に"彼等ではないもの"(の何たるかを)をも示す。この我等/彼等間の力学がなければ、類型化もまた起こらないと彼は指摘するのである。重要なのは、類型化は二つのグループ関係という事実が発生する前に作られるのではなく、それ以前から存在する搾取の型を正当化するためにこそ作り出されるという事実である。第二に、類型化は日常生活に見られる文化的愛憎と論理的矛盾なるものとの関連の中で、秩序と統制を自然化する常識的戦略へのレトリックの作用として、言わば正常性と正統性の枠を維持する一種の儀式として働いていると彼は続けている。類型化は一見時間を超越するかに見せ掛けるが、それは当たり前のものとして常に存在するものでは決してない。それは歴史的な背景・根拠を持ち、常に文化の展開過程、変容する象徴された関係性の一部なのだ。彼の次の結論は、この議論にも重要な関係を持つ。すなわち、「ある社会のカテゴリーが類型化されると、それは神話的オーラを身に着ける。……類型化とは劇的な価値転換の歴史である」。

 国民国家出現以前には類型化はなかったと断言は出来ないが、近代の到来とともにそれへの条件が整ったことは確かである。日本ではそれはまさに明治時代であり、その時期、国の指導者たちは「国家の伝統」を創り上げることに腐心する。彼らは、何はさて置き、戦略的に誇張され、歪められ、崇められた社会的慣習というまがい物―日本の伝統を意図的に創りあげ、大書・宣揚したのである。Stephen Vlastosがその論文集の序文で述べるように、この様な作り上げの過程においては、"伝統"と"慣習"の間の重要な区別は蔑ろにされるのである。彼は"伝統"を第一義的に「上部構造組織およびエリートに特有のもの」と定義する一方、慣習を「一般的なもの、一般社会の諸々のグループに利用され得るもの」とする。Eric HobsbawmとTerence Rangerの言葉を敷衍して、「伝統とは固定的に押しつけられた慣行、一方、慣習は流動的であり、歴史に示される先例、社会的継続性、自然法が公認されるのを待つ間は幾ばくかの刷新を加えることも可能なもの」と彼は言う。「従って、伝統の創出は、少なくともその枠内の社会生活の相当の部分を不易不変のものとして構造化する」。そして「創り上げられた伝統は、それが主張する歴史的過去との連続性の大部分は架空のものであるという一事で、他の(純正な?)伝統と区別される」と結論付けるのである。私がここで、Vlastosの説を長く引用したのは、彼が"慣習"と"伝統"の間に明確に引く区別こそ、明治の指導者達が東京で文化的覇権を拡大せんが為に不明確にし、また現在、大阪の排他的地域主義者達が東京の文化のくびきから逃れんが為に不明確にしつつあるものだからである。その両者共、Pickeringの言う"表現の政治学"を通した類型化に終わっている。私の意図も、大阪・東京間の近代の競合関係の歴史力学を理解する為にそれぞれの類型化の中身を解明することにあるのである。

 大阪・東京の間で後に文化戦争にまで発展する彼らの反目について述べる前に、それらの文化・慣習の相違点について触れておきたい。大阪・東京の二者択一的な文化競争は、近代に端を発するというのが私の論理の重点であるが、両都市の誇り高き住民たちを分ける文化的差異の源が全てそこに有ると主張するつもりはない。16世紀の終わりに確立して以来、遠く離れたこの二つの都市は、大きく異なる歴史の軌道を辿る。徳川幕府の商業上の中心的貨物集散地としての大阪、一国の首都、江戸としての都市特性の、それぞれ大きく異なる環境の中、非常に異なった生活様式が発展して行ったのである。
 徳川将軍家に支配される"中央集権的封建国家"の首都としての江戸は、それ自体が都市階層そのものであり、大阪を含めた他者から見れば、政治権力と権威の源泉であった。しかし近代の東京と異なり、江戸が日本文化の源泉であると特に意識される事はなかったのである。
徳川体制にあっては、後の近代国民国家の指導者たちが行ったような、'集中化された文化的権威'の確立を狙う意図も手段も無かったのである。つまるところ、国の文化的主導権というのは、集権化された国民国家に固有の関心を映し出す、明らかに近代的な野心と言える。明治の政治家たちも国の文化の主導権を強化する為に、意図的に伝統なるものを創り上げたのである。近代国民国家としては文化の同質性が必須であったからである。
 明治の指導者たちが、近代初頭の日本を振り返った時そこに見たものは、彼らが切望する統一された国民文化ではなく、その達成にとって明白に危険な障害となる地方・地域の文化の多様性であった。江戸時代、大阪は政治的主導権は江戸に譲らざるを得なかったが、一方では、自分達の文化の特殊性を謳いあげるのは比較的自由だったのである。八百八橋で繋がるこの水の都は、徳川体制の貨物集散地として急速に豊かな都市となり、"食い倒れる"ことさえ可能なまでに豊饒な'天下の台所'となったのである。
その江戸期の大阪の活気ある町人の姿を井原西鶴が描き、また歌舞伎や文楽もその息吹・気風を舞台から伝えている。当時日本に居た外国人たちは、自分たちの目でみた大阪を、例えば、ドイツ人Engelbert Kaempferの言葉をかりると「娯楽と気晴らしに満ちた劇場的世界」だと証言している。生き生きした大阪人の気風がよく伺えるが、かといって彼ら大阪およびその近辺に住む者たちは、自分の住む町が江戸のライバルかどうか等、一切意識していなかった。方や江戸っ子たちは、大阪人を田舎者(軽蔑的に"上方贅六")と呼んで見下していたらしい。しかしそれは大阪人も京都人も一纏めにした、要は上方地方を対象にしたもので、ここから二つの事がうかがえる。すなわち、文化の衝突に発展するような、いわゆる'文化の違い'はどこにでも有ること、江戸との文化的競合も本来もっと広い地域のレベルで行われていたという事実である。
 むしろ江戸時代の大阪人は、江戸人に対するステータス以上に'関西'での評判を気にしていたようである。大阪人が他の地方の人に自分の町を紹介する時は、自分たちの都会人としての面を強調し、また大阪に古い「難波」という特別な名称を与えて、かつては帝の居ませる都の一部であった遠い昔の郷愁に結び付けていた。大阪人が自分たちの町を秘かに古い都、京都や奈良と比較していた事はすこし意外であるが、それは大阪を優れた文化都市として目立たせる為の懸命な努力の表われで、自分たちの町が江戸に較べて優れているかどうかなど云々する意義も認めていなかったという事に他ならない。

 しかし1868年、時代が明治になると、日本の都市文化の優劣を競う勝負に決着が下った。近代国家の成立に伴う首都指名権争いに、明治の実力政治家大久保利通を担いだ大阪が破れたのである。大久保は大阪を海外通商に直接繋がる航路を有する港湾施設を持つ都市としてその経済的理由を前面に出す戦略に出たが、これが同僚政治家、前島密に潰されてしまう。前島曰く、大阪は地勢的に日本の中心に位置しておらず、極端に狭く、道路も狭小、これという立派な建物、公共施設もなく首都たるに全く相応しくない。だが彼は最後に預言的に付け加えた。江戸はその政治的特性を奪われると萎れて滅んで行くだろうが、大阪は将来を保証された商業的原動力を持っていると。彼の発言は正しく、数年にわたり大金を費やした港湾改良、大胆な工業化によって、大阪は商工業の巨大都市へと発展していった。しかしながら大阪はこの様に資本主義への挑戦でもその力を示したが、指導者たちを始め、これを表だって喜ぶ者はいなかった。都市としての成功に関らず、大阪が国という交響楽団の第一バイオリン奏者の地位を失ったのを知ったからである。
 あたかもこのような都市としての階級を大阪人に思い知らせる「商業資料」なるものが1893年に東京で刊行され、大阪には見られない近代文明の象徴なる事項が並べ立てられている。例えば、貴族、紳士、図書館、ガス灯、二頭立て馬車、洋服を着た女性……。また数年後、国有鉄道・観光産業委員会は外国人相手のガイドブックを発行、大阪の最大の魅力は、他の、京都、神戸、奈良といった素晴らしい場所への移動に大変便利・大阪はそこから外に出て行くのに理想的な都市として有名と紹介した。近代東京人が、言わば従兄弟都市をこうこき下ろしたのである。まるで大阪がなり得なかったものを充分に再認識させるかの様に。
この奇妙なまでに大阪を排除する動きは、まさに国の東京を中心にした文化的主導権の確立という歴史的意図に完璧に沿うものであるといえる。"文明開化"という歌い文句のもと、均質的日本文化を広める為に伝統を創り上げた明治の指導者たちは、今度は東京の住人達を徳性優れた文化の模範者に指定した。これに対して、世紀の変わり目、経済都市としての主権を取り戻した大阪人は反抗を再開する。
 大阪商船会社社長の中橋徳五郎は、日本の大都市の中で真の意味の都会(metropolis)たるに相応しい国際交易航路および国内鉄道路線という総合経済基盤を持つ大阪こそ間違いなく帝国商業活動の中心地であり、大阪こそ国の首都として宣言されるべきだとの考えを改めて持ち出した。さらに1910年代半ば、経済の好況を反映して経済力に自信をつけた大阪は、かつての都市間文化競争への斜に構えた態度を捨て、(積極的に)正面からの批判に出る。この態度の変化が最も先鋭的に見られたのが、1916年の秋、大阪朝日新聞が掲載した「自由論壇」(論説フォーラム)の中であった。同紙の英文頁に「大阪主義」と題する一連の奇妙な論説・論争が載ったのである。まず自称'東京人'は言う。「大阪人の頭の中は勤倹節約願望だけで一杯である、金儲けが上手く、全てを儲けに繋げようとする。大阪はどうしようもない程商業化された町であり、挨拶は今日は!でなく儲かりまっか?である」。このいきなりな粗野で傲慢な'東京人'の発言は、次の版以降、火花の散る論争に発展した。
 最初の反論は大阪人の地域同盟者「神戸人」なる人物の「誤解される大阪主義」という投稿から始まった。大阪人への讃歌を歌い、彼らを'大阪っ子'と呼び直すことで敬うべき昔の東京人と同じだという主張を行った。これに色をなした「もう一人の東京人」が、先の戦友(言友だろうか)の発言を補足する。大阪人は既に悪名高い"道徳性の欠如"を曝け出し、富みを全てに優先させるだけでなく、更にはユダヤ人や中国人と同じことをやり始める差し迫った危険性すらあると。
 この大阪人への(ユダヤ人や中国人にまで不当に向けられた)人身攻撃は、当然厳しい反論の的になった。"J.P.S"と名乗る投稿者が大阪人の援護に立ち上がったのである。彼は大阪人を非常に独立心に富んだ人達であると賞賛し、返す刀で東京人をそれと正反対、"公私を問わず、何をやるにも政府の御威光にすがるどうしようも無い奴等"と切って捨てる。この激しくなり過ぎた論争は、これを急いで中和しようとする同欄の担当者が、この論争は一部の余りに粗野な言わば'ウルトラ・大阪主義者'とでも云う者達が誤って根付かせた大きな誤解に基づくものと発言して終わる。
 この時期に"大阪主義"について論争が起きたのは偶然ではない。1916年の日本は経済繁栄モードの最中にあり、中でも大阪は繁栄していた。悪名高い成金とその取り巻き連中・新富裕階級の成り上がりの様が東京人の妬み、軽蔑、怒りの混ざった感情とぶつかったのである。大阪・東京間の競合関係は、この歴史的時点で新しいレベルに到達する。日本という近代都市国家家族内の言わば、長男と次男の骨肉の争いになる。この新しい競合関係が、やがて真にウルトラ・大阪主義と呼ばれるものになるのを疑う者は殆どいなかった。それほど、この完璧な文化類型は民衆の想像力を強く捉えてしまったのである。信じ難いことであるが、やがてこの大阪主義は東京優先主義を覆し、文化の主導権も取ろうとする危険な勢力として現れて来る。

繰り返しになるが、大阪・東京の文化関係でのこの変化の触媒になったのは、予期せぬ歴史的事件、関東大震災であった。この恐るべき災害が東京を灰燼に帰した時、都市の階層関係への疑問が提起されたのである。少なくとも、重要な三つの面から―人口、総面積、経済力―大阪は、1920年代には日本で最大の都市になり、1936年までその地位を保つ。震災復興への政府の巨額の投資が、東京人をして自分達の都市が過去の栄光を取り戻す事は確信させたが、しかし震災の中で多くの東京人はその居を大阪に移してしまう。その最も有名な例が谷崎潤一郎であろう。彼は直に、今の仮住まいの場所と東京の間の文化のギャップを書き立て始めるのである。

 1925年発行の『文芸春秋』に載った最初のエッセイ「阪神見聞録」で、谷崎は強いカルチャーショックを感じたことを明かしている。「大阪の人は電車の中で、平気で子供に小便をさせる人種である、―と、かう云ったらば東京人は驚くだろうが、これは嘘でも何でもない。事実私はさう云う光景を二度も見ている」。さらに彼は筆を進めて、他のとんでもない状景を描く。生後一年位の乳飲み子を面白半分で汽車の網棚に置く若夫婦、大阪の乗客たちの多くは他の乗客に席を空けようとせず、わざと自分の横に荷物を置いたりもすると。東京人に較べると大阪の市民たちは全く公徳心に欠けると言えないかと彼は大袈裟に問い掛ける。「私はいつぞや上方の食ひ物のことを書いたから、今度は人間のことを書いてみた。が、斯して見ると、人間の方はどうも食ひ物ほど上等ではないようである」。
 谷崎のこれらの発言を笑いながら、1925年までは自分達の文化の優位に自信を持っていた東京人たちも、20年代も終わりになるとその自信も揺らぎ始め、苛立ち始める。
谷崎が滑稽に描いた大阪の後進性が東京にまで押し寄せて来ているのではないか、大阪に生まれ、東京を本拠にして活躍していた大宅壮一もそう考えた。1929年大阪朝日新聞に書いたエッセイで、この優れた文化観察者は、大阪に新しく生まれた文化的風潮について説明した後、これを東京人の停滞した気風と比較する。初め、生まれ故郷の大阪で自分をエトランジェと感じた彼はやがて、この都市の"モダニスト"精神に釘付けにされる。彼はこの"モダニズム"を、第一次大戦後の繁栄の時代に大阪に根づいた"新しい消費者哲学"、そして"新しい消費者生活様式"であると定義した。大宅は大阪を"日本の米国"と命名し、大阪を資本主義時代における大衆文化、大量消費の本家本元、アメリカと比較するのである。

 アメリカの消費主義を詳しく調べた大宅はその分析を大阪に当てはめ、ついに"効率主義という福音"(gospel of efficiency)に辿り着く。そしてこの"実用主義哲学"は、日々の生活の厳しさに直面していたサラリーマンたちにまず受け入れられ、急速に資本主義的消費者達の信条となって行ったのである。これによってサラリーマンたちは、日々の基礎的消費の最大効率化を図るだけでなく、この信条を享楽生活の追求にも応用する。恐慌に見舞われた1929年においても、大阪の若旦那やサラリーマンたちはカフェやダンスホールで歌い踊り続ける。東京の同類者たちの生活と比較して、そのあまりの相違に大宅たちは驚嘆せざるを得ない。"東西中産階級に広がる差異"を追跡した大宅は、この根本的差異が発生したのはやはりあの関東大震災であり、それ以後東京の中産階級は着実に窮乏に追いこまれて行ったと書いている。さらに彼は、このような東京を第一次大戦後のドイツと比較、ドイツが膝を屈し、アメリカが立ち上がる様を東京の後退、大阪の進出という現況と対比している。
 大宅は大阪の消費文化の分析をもう一歩すすめ、それが一国全体に及ぼすインパクトを広く追跡した上で、1930年大阪朝日新聞に「大阪の東京化:東京の大阪化」と題した2番目の作品を発表した。東京の大阪化という刺激的な言葉を使って、大宅は東京人の自己満足の目を開かせようとしたのである。大震災以前は確かに東京は日本文化の源であり、東京人は日本人の代表であった。しかし、そんな時代は去り、今や大阪が商工業は勿論、消費文化面でも主導権を握り、まず東京を制し、やがて日本全国をその影響下に置きかねない脅威だとしたのである。さらに大阪の消費文化について観察を続けた大宅は、やがて考えの方向をやや変えて、六ヶ月後、大阪毎日新聞に「大阪文化が日本を征服する」という論説を発表した。そこで彼は、自分が今まで大阪を中心にした興味深い文化の発展、大阪主導による国家文化の新しい流れと規定したものを、大阪がもたらした先行きに不安を抱かせる文化気風だと断定しているのである。大宅は短刀直入に、アメリカ様式を採用した大阪の"新興文化"が、文化革命の先導者として日本全国制覇に迫る様を愛憎相反する筆致で描いている。

 このような展開のもと、大宅は関西地方、また日本の文化状況の全容を、歴史的展望に置いて見直している。関西地方・関西都市圏(大阪はその一部)が一千年以上事実上の"日本文化の博物館"であり続け、江戸期全体にわたり日本の文化を支配し、江戸はその"植民都市"として生き永らえて来た。この全てを変えたのが、明治時代の国家による、新しい"技術文明"を伴った"近代西欧文化"の導入であり、このことが文化主導権を関西から関東に移動させる結果になったと大宅は言うのである。西欧をモデルにしたこの新しい近代文化は、日本の首都・東京からスタートし、またその中で纏め上げられた。しかし、1923年の大震災が、この"文化の中心"を破壊し、まるで"国全体が頭脳を失った"様な状態にしてしまう。第一次大戦に踵を接して起こった関東大震災の後、日本は更に、ある重要な文化的選択という局面に遭遇すると大宅は言う。非常に大きな"二つの文化の型"が前面に現れて、その選択を迫ったのである。「一はソビエト・ロシヤを母胎とする社会主義文化」であり、「他は最大の成金国アメリカに発生した100パーセントの資本主義文化」である。日本ではまさに大阪の興隆に乗り、アメリカ資本主義が時流を掴むことになる。アメリカ文化を輸入し育てることで、大阪は第一位都市の残した文化の空隙の中に侵入して来たのである。大宅はこれを、"生活文化"、カフェ・ダンスホール、またデパートメントストア等、都市の夜景にきらめき出る新たな驚異の世界"関西人の持ち込んだ独特の成果"だとしている。関西私鉄ネットワークの"組織・計画・投資"の仕方を例にとって、大宅はこれこそ経済性、快適性、効率性の模範であり、これこそ大阪の文化的価値観の核を具体的に象徴すると述べている。これを東京の、大規模だが、痛ましいまでに不便なそれに較べ、わが国民が東京の理想主義的、装飾的文化を見捨て、大阪の実用、効率主義文化を選ぶのは時間の問題だと結論するのである。
 大宅は陰鬱な調子で続ける。大阪は東京の再建に大規模投資を続けており、事実上、関東の"関西化"(Kansai-ization)を成し遂げるであろうと。しかし最も重要なのは、彼が国民国家という共同体イメージの形成過程に新聞の果たした役割を論ずる Benedict Andersonの理論に手を加えて、大阪はこの支配権乗っ取りをメディアを利用して煽りたてていると指摘していることなのである。日本の近代印刷文化の中心にいる利を生かして、全国的販路を持つ大阪朝日、大阪毎日は大阪的価値観を宣揚し、大阪の『サンデー毎日』といったアメリカ様式の挿絵・写真つきの大衆雑誌が大阪の新しい"文化的生活様式"を色彩豊な紙面を通して喧伝していると。日本人が資本主義的消費主義に相応しい生活観を身に付けるのに時間はかかるまいと彼は予言し、これを"アメリカニズム/オウサカイズム"と名付けた。そして次のように書いた。この先端文化はまず東京を征服・統治し、次いでは日本全国を制覇するであろう、東京および東京人達が国家の文化の覇者としての正当な地位を取り戻さない限り……と。

 大宅は以後、あの「浪花エレジー」(1936年)という古典的メロドラマを作り、大阪を守銭奴と化した男たちが横行し、将来立派な母親となるべき女性達をモガ(modern girl)に堕落させる地獄界として描いた映画監督溝口健二と手を組んで、反大阪主義をエスカレートさせて行く。結局、大宅、溝口その他の批評家達は大阪の突然の頂上進出に不意をつかれ、恐怖心にかられて、文化的パラノイア、Pickeringの言う"倫理的パニック"に陥ってしまったのである。彼らは、日本第二の都市の歴史と慣習を認めて、"国民文化の二元化"を提唱することをせず、飽くまで普遍的で絶対的なものとして創り上げられた首都の擁護に走ったのである。
 大宅と溝口が、折角の"多元的文化国家"への可能性を卑小化し、大阪・東京の二者択一的文化競争を大袈裟に言いふらし、首都に荷担する道を選んでいた一方、あの影響力の大きなオピニオンリーダー、谷崎はその考えを変えていた。上方地方に対して(特に大阪に)公然と反感を表明した自分の過去の誤りを認めたのである。かつて大阪人の公徳心の欠如を鋭く衝いた辛らつな批評家が、1932年、『中央公論』に載せた「私の見た大阪および大阪人」で前言を撤回、自分の江戸っ子としての欠点を白状した上で、東京人が大阪を貶すのは大阪に欠点があると云うより、自分達の都市(metropolis)が首都という大都会に相応しい力を持っていないのでないかとの不安から出ていると書く。谷崎は言う。実際には関東よりも関西の方がより日本的であり、真に日本精神を体現しているのは大阪人ではないのか、よく議論してみる必要があると。
 かつて関西での自分を他所者と書いた谷崎は、今や大阪を第2の故郷と宣言し、自分がこれまで江戸っ子の排他主義に侵されていた事を認め、東京に叛旗を翻すことで贖罪を図る。かつて大阪人の下品な行動を書き立て、自分が生粋の東京人であることを演じた彼は、今度は東京人の独善性を吹き飛ばす狙いで、大阪人の積極的生き方の諸相を描き、大阪の緊密な近隣関係は、東京の無秩序に広がり薄まるそれと違い、真の地域共同体の意を体している。あの新聞を交換しあう習慣も、単にケチなのではなく、合理的、効率的かつ平等主義を表すものだ。往々にして悪く言われる大阪の知識階級は、東京の生気のない同類とは較べようもない程、雄雄しく進歩的である、等々。
 谷崎は大宅や溝口の容赦のない大阪文化批判からいささかの棘は抜くが、彼らが煽り上げた二者択一的競争意識に止めを刺すまでは行かなかった。さらにそれ以上に決定的だったのは、これに続く時代、国粋主義が全ての地域主義を押しつぶし、政府が超越的文化ヘゲモニーを統一体としての国家のみに付与した事であり、そのため、この大阪・東京の競合関係が一時背後に押しやられたに過ぎないという事実であった。だからこそ、太平洋戦争が終わるや否や、大阪人と東京人は直ぐに激しい争いを再開する。大阪人が再び曝されることになったネガティヴな類型化に対して、時の人気作家織田作之助はことさらに哀調を帯びた大阪の姿を描き、特にその中の一作『木の都』では、自分の愛する大阪を"生命の乏しい、灰色の工業都市"だと貶す連中と対決する。しかし大阪の文壇が彼を伝説の人物にする為に苦労して造り上げたといわれる話だと、哀れにも織田は東京で、彼の肺結核を治療した医者達の不親切かつ無能によって殺されてしまったのである―それが1947年のことであった。

 1961年、戦後日本経済の奇跡が到来した時、東京で一時的にみられた大阪弁の流行に苛立つ向きもあった様であるが、戦後の東京は争う余地のない政治・文化の中心となり、同時に「世界都市」にもなったことが、東京人をして、彼らが一時大きな関心を払った地域の優劣論争・地域アイデンティティの文化政治学への興味を失わせた。しかし大阪人たちにとってはそうは行かなかった。ましてや大阪主義者たちにとっては。彼らにとって東京は依然として大嫌いなものなのである。大谷晃一の『大阪学―世相編』のカバーがその全てを語っている。石井ひさいちの様式化した漫画は描く―ある民族学者(大谷自身か)が三人の外国人に大阪についての感想を尋ねている。最初の外人は「大阪ハNEW YORKニ似テマス」と意見を述べる。2番目は「香港にそっくりだネ」と云い、三人目の外人は「ダマスカスにも似てるヨ」と答える。当惑した民族学者は、メモを熱心に見詰めた挙句大阪弁で「似てへんのは東京だけか」と喋る。このユーモラスな筋書きでは、逆説的にニューヨーク、香港、ダマスカスを想起させる真の「世界都市」は東京ではなく大阪なのである。事実、この国の本当の大都市は大阪だと見做す大谷は、この本の序文で、「もちろん対象は大阪だが、もっと広くしたこともある。当然ながら大阪もその中に入る。大阪だけとなると視野が狭まるためである。あるいは『日本学―世相編』としていいかも知れない。」と述べている。現実的に文化のヘゲモニーを東京と争う事が出来なくなった大谷とその他の大阪主義仲間たちは、地域に基づいた文化アイデンティティ論議の攻撃方法を換えてしまったのである。
 文化の面からいえば、日本は(東京ではなく)大阪の拡大版である、と彼ら自身を信じ込ませ、それを我々にも説得しようとしている。今、このようにまげられた考え方、首都―東京の文化的覇権を否定する理論は人を唖然とさせるものであるが、同時に「戦略的本質主義」を楯にしたスピバック的防衛方法に縋ることの魅力も考え合わせると、納得のいくものでもある。しかし結論的にいえば、大谷が大阪の優位性を主張することは、彼の東京中心主義拒否にも劣らず、充分文化的倣岸と言われるに値している。

 大谷の主張が認めようとしない東京中心の国家文化が"自然の理"に反すると同様、大阪学者達たちが擁護する大阪中心の地域文化なるものも、地域の慣習のごた混ぜが「時代を超えた伝統」に成りすましたものに過ぎない。とは言え、この文化の覇権争いに破れた者たちが、文化的優位性についての勝手な思い違いを、最終的には地域文化の自主権主張(local cultural autonomy)への価値ある動機付けに上手く転換した事にはある程度同感せざるを得ない。東京中心主義のみが支配し統治する戦後の、日本国民国家の淀んだ文化的雰囲気の中では、大阪学は歓迎されるべき抵抗の戦略として、正当に認知されて然るべきものなのかも知れない。

〔主要参考文献〕
1)大谷晃一『大阪学』(東京:経営書院、1994年)
2)大谷晃一『続大阪学』(東京:経営書院、1994年)
3)大谷晃一『大阪学 世相編』(東京:経営書院、1998年)
4)朝日新聞社会部編『大阪学―21世紀編』(大阪:葉文館出版、2000年)
5)Michael Pickering, Stereotyping : The Politics of Representation(Hampshire, UK and New York : Plague, 2001)
6)Stephen Vlastos, ed., Mirror of Modernity : Invented Traditions of Modern Japan (Berkley : University of California Press, 1998)
7)谷崎潤一郎全集:第20巻(東京:中央公論社、1982年)
8)大宅壮一全集:第2巻(東京:蒼洋社、1981年)

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