魯迅の『狂人日記』と中国の「食人」の伝統
私は中国関係の本は前から少しづつ集めて持っていたが特別に中国という国に対して深い関心を持っていたわけではなかった。ところが春江一也氏の小説『上海クライシス』(集英社)を読み、その後杉本信之氏の『大地の咆哮 元上海総領事が見た中国』(PHP研究所)を読んでから、俄然中国に対する興味が深まった。春江氏は中国の地方政府の実態はマフィアだと書いていたが、杉本氏の本を読んでそれが確認された。地方政府がマフィヤそのものであるなどということは、日本人には到底想像もできない事柄であった。そういう国が今や大国として世界で存在感を高めてきているのだ。そしてたまたま歴史家の岡田英弘氏の本を何冊か読むようになってから私は中国及び中国人についての認識を改めさせられることになったのである。最終的に中国についての私の認識を決定的に改めさせる原因となったのは、冷凍ギョウザ事件に対する中国側の対応とチベット暴動に対する中国政府の対応のあり方であった。この二つのことによって私は中国政府は基本的に信用できないと判断するようになった。
先日来日した胡錦涛主席は冷凍ギョーザ事件について日中両政府の共同捜査を進展させるようなことを言っているが、このまま有耶無耶にしてしまおうというのが本心であろう。中国人は自分の非を認めないと指摘されているが、冷凍ギョーザ事件は正にその見本であった。残念ながらわが日本の福田首相には中国側に手厳しいことを言うだけの腹はないから中国側のペースに引き入れられるだけで終わってしまうだろう。日本の首相として、かつての日中戦争における日本の非を認めた上で、現在の中国側の非をきちんと指摘することが日本の国益と日本人の生命・安全を守るのが福田氏の義務なのだがピーナツのような小者には無理だったのであろう。
ところで今私は岡田氏の『やはり奇妙な中国の常識』(ワック)を読んでいる。岡田氏の本を読んだのは,同じ出版社から刊行されている『このやっかいな国、中国』が初めてであったが、この本によって私の中国に対する目が大きく開かれたのであった。例えば私たちが学校で漢文として習うものは、中国人が日常話す中国語とは全く関係のない文章であることを私はこの本によって初めて知ったし、この漢文が中国という国家の運営の為には不可欠なコミュニケーションの手段であって秦の始皇帝が行なったとして世界史で習う「焚書坑儒」は官僚機構のコミュニケーション手段としての漢文の内容統制・整備の為のものであったこともこの本によって初めて知ったのであった。そして「科挙」とは、中国皇帝国家の官僚としての能力で一番重要な漢文作成能力の選抜試験であったということも初めて知った。これらの本を読むと、とてもじゃないが中国人などとは付合いたいとは思えなくなる。われわれ日本人からすると、人品・性格がとにかくいやらしいのである。日本人の異質性など中国人と比べたらかわいらしいものだ。
さて『やはり奇妙な中国の常識』に魯迅の『狂人日記』からの長い引用が出ていた。中国人の「食人」、つまり「人肉食」の伝統について説明する為に引用されていたのだ。引用文は竹内好氏の翻訳したものであったが、翻訳というものについても関心があったので。私は中央公論社の文学全集の一巻として高橋和巳氏が翻訳した魯迅集を持っていたので竹内氏の訳文と比較してみた。『狂人日記』は一人称で書かれているのだが、竹内氏は「おれ」、高橋氏は「わたし」と訳していた。内容に則して判断すると、岡田氏が引用しているように竹内氏の「おれ」の方が適していると思う。
ところで『狂人日記』のおれは、食人という言葉を何度も繰り返して書き、自分がその対象になっていると妄想している。われわれ日本人には食人などということは天から思いも及ばないことであるが、おれは以下のように日記に書いている。
「四千年来、絶えず人間を食ってきた場所、そこにおれも、なが年暮らしてきたんだということが、きょう、やっとわかった。・・・・・・・
四千年の食人の歴史を持つおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。」(ちくま文庫P35)
狂人が書いたこの文章の意味は、果たして何だったのだろうか。高橋和巳氏は魯迅集の解説で『狂人日記』に触れて次のように書いている。
「たとえば過去の中国の制度が、人に養われる者が人を治め、表に礼教を説きながら、人に養われる者が人を養ってくれる者を圧迫し踏みにじってきたことに気づいたとき、彼はそれを『人が人を食う』というかたちに無限化しつつ、自分の口もまた、知ると知らざるとにかかわらず血に汚れているのだと考えた。」(P479)
高橋氏は『人が人を食う』を単なる文学的表現として解釈しているように思われるが、中国の歴史を知る岡田氏はそうではない、食人は中国の歴史的事実・伝統だったと言う。
「ここに繰り返される『人間を食う』という表現を、単なる比喩だなどと日本人の常識で考えて、『中国の古い社会制度、とくに家族制度と、その精神的支えである儒教倫理の虚偽を暴露するという・・・・モチイフによって書かれた作品である。』などと中国文学の専門家でさえ言ってすましてしまうが、『狂人日記』はそんな生やさしいものではない。中国には四千年の食人の伝統があり、中国人は野蛮な人食い人種なんだぞ、と魯迅は告発しているのである。
中国の歴史は魯迅の言うとおりりで、『食人』の二字の書かれていないページはない」(P86〜87)
なお岡田氏は1960年代の文化革命の時期にも食人が行なわれていたことを、紅衛兵のリーダーの一人が体験記で語った文章を引用して示している。
また岡田氏によると中国では日本では考えられないような人口減少が起きたりしているそうだ。
「一八四年の黄巾の乱から百年近くも中国の統一が回復しなかったのは、人口の極端な減少が原因であった。戦乱のために農業がストップし、深刻な食料不足になって、中国人の大部分は餓死し、中原(黄河の中流域)は千里、人煙をたったといわれる惨状だった。」(P23)
「人口の極端な減少」とは具体的には5千万人を超える人口が5百万人台へと十分の一にまで減ったのである。この過程でも食人が行われたに違いない。
高橋和巳氏の小説を大学時代に沢山読んだが、彼がもともとは中国文学者であることを後になるまで知らなかった。残念ながら高橋氏も、食人の伝統を知らなかったのだから中国史については深い理解をもってはいなかったのである。岡田英弘氏の書いたようなことは今でこそ日本でも受入れられるが、昔は中国共産党政府は現在とは正反対の評価を受けていたのだから、中国史の真実は隠されていたのだ。日中両国の歴史認識の統一などということが言われるが、例えば中国における食人の歴史に日本が触れたりしたら共同研究など完全に決裂して、協議も何もあったものではないだろう。中国の食人の伝統がそうであるように、日本にとっては南京事件は中国人からどうこういってもらいたくないことである。こういったからといって私は日中戦争について何も反省する必要がないといっているのではない。中国人は極端に攻撃的な性格、自己正当化の性格を持っているから気をつける必要があるのだ。こういうことを福田首相も腹に収めて胡錦涛主席と会談すれば良いのだが、それだけの見識もないだろう。
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- 魯迅の『狂人日記』と中国の「食人」の伝統(2008.05.10)
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