 紫綬褒章の喜びを語ったときは焼酎のコップを片手に上機嫌だった=98年10月(クリックで拡大) |
今月2日、72歳で亡くなった漫画家、赤塚不二夫さん。「シェーッ」「これでいいのだ」「レレレのレ」…天才的なセンスのギャグの産みの苦しみに酒は欠かせなかった。
赤塚さんにお会いしたのは1996年春。映画「トキワ荘の青春」の公開を控えて宣伝を買って出た。
「何でも聞いてよ」。人なつっこい笑顔。シャイな表情を隠すように右手には焼酎のお湯割。隣には妻の眞知子さんがいた。なぜ取材の席に奥さんが同伴しているのか、ほどなく分かった。
「トキワ荘はさ。神様の手塚(治虫)先生を慕って、みんな田舎から出てきて、兄弟みたいだったんだよ。酒? 酒なんか飲む金ないよ。キャベツをかじって水を飲んで。当時は酒より映画。みんなよく勉強していたよな」
赤塚さんは話しながら、ときどきロレツが怪しくなり、眞知子さんが常備するティッシュでヨダレをぬぐう。典型的なアルコール依存症だった。
「手塚先生の情報量はすごかったよ。戦後間もないころ、漫画の中に高速道路なんかが登場しちゃうんだから」
トキワ荘は藤子不二雄の両氏や、石ノ森章太郎さんらを続々と輩出した。
 「赤塚不二夫展」の開幕で藤子不二雄(A)氏とともに乾杯する赤塚さん=97年10月(クリックで拡大) |
赤塚さんも62年、少年サンデーで連載を始めた「おそ松くん」で一躍スターに。以後「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」とヒット作を量産し続けた。
当時を知る編集者は「おもしろいギャグやアイデアを捻り出すため、豪快に街に繰り出しては酒を飲んでいた」と振り返る。トキワ荘時代には、めったに飲まなかった酒に頼るようになっていった。
そうした中、87年に再婚したのが眞知子さんだった。キューピッド役は前妻の登茂子さんで「籍を入れて、アルコール依存を治してほしい」という思いがあったという。
しかし、97年12月に自宅で吐血して食道がんが判明してからも、赤塚さんは好きな酒を手放さなかった。
アルコールを抜く治療で酒を抜くこともあったが、退院しては飲み、「ノーメル(飲める)賞だな」とギャグを飛ばした。
2000年には急性硬膜下血腫で手術。02年には検査入院中に脳内出血で緊急手術をするなど長い闘病生活を送った。
眞知子さんの献身的な看護で、呼びかけに反応するまでに回復したが、その眞知子さんは06年7月、くも膜下出血で他界。そして、前妻の登茂子さんも赤塚さんが亡くなる3日前の先月30日に死去していた。
2人の妻を追いかける形で旅立った赤塚さん、天国でも飲み続けているのだろうか。
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赤塚さんの葬儀日程は前妻、登茂子さんの葬儀を終えた5日にも発表される。葬儀委員長は、トキワ荘の仲間だった藤子不二雄(A)さん(74)が務める。
一方、東京都青梅市の青梅赤塚不二夫会館には3日、記帳台が設けられ、猛暑の中、通常の2倍にあたる約400人が訪れた。ファンは喪章をつけた「バカボンのパパ」の像の前で「シェーッ」のポーズを取って、記念撮影するなどして故人をしのんだ。
ZAKZAK 2008/08/04