二二  補筆

平成九年七月半ば、畏友柳下良二氏(八六歳)が死去された。国際情勢についての情報の分析にあたっておられたとき知り合った。その博識と理路整然とした意見には、深く印象に残るところがあった。
 
また、同氏は、昭和一一年二月二六日、陸軍の皇道派の青年将校が起こした二・二六事件にかかわって起訴された。私は、初めのところでも書いたようにこの時はまだ中学一年生であったが、いまでもこのことは深く印象に残っている。
 
柳下氏は、暴発した青年将校のような過激思想を持っていたわけではなく、たまたま当夜は週番士官であつたため、事件に巻き込まれることになった。私は柳下氏とは、このことについてはなるべく話題にしないほうがよいと思って避けることにしていた。柳下氏も同じようであった。同氏は私の机のそばで黙々と仕事をされていた。
 
ただ、事件のあと、蒙古軍の軍事顧問をしていて敗戦となり、張家口から引き揚げて来られる時のことを話されたことが印象に残っている。これは令息の公一氏の手紙にも出てくるが、引揚列車が出るのに白分だけ残り、遠くからの引揚者の誘導をされたことである。この時のことを同氏は、
 
「家族と駅頭で別れるとき、女房に、途中で子供に万一のことがあったら、せめて真新しい下着に取り替えてやって、見苦しくないようにしてくれ、と言って別れました」
と、私にポツリ話されたことがある。
 
最後のサムライといえよう。このようなときの振る舞いで、人間の真価が問われるものである。令息からの手紙を添えて、同氏を偲びたい。

公一氏からの手紙

父柳下良二の一生は、子供の目からみても波潤万丈のものでありました。

陸軍士官学校卒業後、歩兵三聯隊勤務中、二・二六事作に遭遇いたしました。当日、週番士官であったにも拘わらず、部下の機関銃隊を安藤大尉の指揮にゆだねたことが、反乱軍を利したとして罪に問われ、軍法会議により禁固四年の刑に処されました。

その後、蒙古軍の創設に関与することを条件に、刑が半減され、昭和一四年渡蒙しました。爾来、終戦まで六年間蒙古軍の軍事顧問として家族ともども蒙古に在住。このことが、中国革命、文化大革命によっても影響されない、戦後のモンゴル人民共和国との民間外交に生涯をかけるきっかけとなりました。

戦後、無一物で引揚げ、混乱期に子供七人を育てることは、潔癖で融通の利かない父にとっても大変なことだったと思います。幸い陸士の先輩・友人方のお世話で、駐留軍G2、引き続き内閤調査室で、情報分析の仕事につくことができ、安定したひとときもありました。

忘れがたい父の思い出は、昭和二〇年八月一五日敗戦当日の姿です。終戦と同時に貨物列車での引揚げが始まりました。われ先に列車に乗り込む人々に背を向け、平時は背広姿の父が、軍刀をさげ拳銃をつけての完全軍装に身をかため、既に略奪、放火の始まった張家口駅頭にひとり立ち、奥地の包頭、厚和(現フホホト)から部下の方々が戻るのを待ちました。やがて無蓋貨物車が動きだした時、蒙古政府の高官夫人方の「公ちゃんのおとうさんも一緒に帰ればいいのに。あれでは死んでしまうよ」という言葉に無性に悔しい思いをしました。父はそのまま三昼夜立ち尽くしたとのことですが、無事、包頭・厚和からの藤城さん、桶田さんたちと合流。天津までの途次線路が爆破され、私たちの列車が、引込線で復旧を待つ間に、後続の父達の列車も追いつき、沢山の列車の一輌一輌をのぞきこみ、私たち家族を捜しあててくれました。

あとで振り返ると、このときの部下の皆さんとの信頼関係が、父を蒙古会の会長に推しあげ、やがてモンゴル協会での活動へつなげることになったのではないかと思います。自由にものが言える時代になってから、父に、「あのときの勇気はなんだったのだろう?怖くはなかったか?」と聞きますと、「怖かったさ、あれは勇気ではなくて責任感だったのだろうな。自分が育て、自分の命令で派遣した部下たちを置いて帰ることは、全く考えられなかった。」とのこと。私たちは、父ほど真面目でないし、時代もまたすっかり変わっておりますが、こうした生き方は弟妹たちそれぞれに、少しずつ影響を残してくれたように思います。

父は生前よく、「白分にとっては戦後のすべての時が、余生のようなものだな」と言っておりました。栄達とか経済的豊かさとは、全く無縁の一生でありましたが、多くの先輩・友人に支えられ、愛してやまないモンゴル人民共和国から最高栄誉の北極星勲章を頂くなど、まずは充実した生涯ではなかったかと思っております。


平成九年真夏の七月、旧制中学明善校(久留米市)の同級生の、松井一彦君が、大手町の勤務先に訪ねて来た。
 
同君は、始めから軍人を志し、海軍兵学校に入った。あと、各地を転戦して生き残り、戦後、勉強をやり直して弁護士になった努力家である。
 
戦中派の我々が顔を合わせると、話は白然に戦時中のことになる。沖縄のことについてこれまで出たが、関連した話が松井君からあったのでふれておくことにしたい。
 
松井君は、こちらが学業半ばに海軍に入った昭和一八年には、既に海軍兵学校を卒業していた歴戦の軍人である。
 
戦艦大和を主力とする第二艦隊(司令長官は伊藤整一中将)の沖縄への軍艦による特別攻撃の時は、第二一駆逐隊に所属する駆逐艦「初霜」の、通信士(海軍中尉)として乗り組んでいた。このほか、前部機銃群指揮官なども兼務していた。

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     戦艦大和
(戦艦大和の排水量は7万3000トン。当時、米国の最大の戦艦アイオワが4万2000トンであった)

昭和二〇年四月六日午後、瀬戸内海の徳山沖から出航している。大和のほかに巡洋艦矢矧(ヤハギ)と駆逐艦八隻の合計一〇隻であったが、かろうじて、帰還することが出来たのは、松井君が乗艦していた「初霜」と、「雪風」「冬月」「涼月」(いずれも駆逐艦)の四隻のみであった。あとの六隻はすべて撃沈された。
 
作戦計画では、沖縄で米陸軍の主力が集中している沖合から陸地目がけて突き込み、艦を座礁させて砲弾を撃ち込むというものであった。
 
ところが、豊後水道を南下しかかったところで、早くも米軍の潜水艦に発見され、つづいて、大隅海峡にさしかかったところで米軍哨戒機に発見されることとなった。かくして、米軍機は、日本艦隊がやってくるのを手ぐすねひいて待っていたのである。
 
大和は翌四月七日には、米軍機約三〇〇機の集中攻撃を受け、同日午後二時頃、奄美諸島沖合で撃沈されてしまった。大和の乗組員は、三、三三二人であったが、救助されたのは、二六九人のみで、あとは海の藻くずとなった。
 
私は、「鹿児島県警に勤務していたとき、奄美諸島の徳之島の南端にある大和の慰霊碑に詣でたことがある」と言った。
 
松井君は、「本当はあれに書いてある位置とは違うんだ」と言ったが、現地の警察署長(陸士卒)も同じことを説明してくれた。
 
大和が沈没したあとも、松井君の初霜ほか二隻は艦隊による特攻作戦を行うため沖縄に急いだが、午後四時すぎ作戦中止と大和の生存者を救助して帰投せよとの命令が来たので引き返して救助にあたった。

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    再び学窓へ
(昭和21年、筆者)