二一  帰郷

我々がいた航空隊の庁舎に米軍が入ってくるにつれて、連絡、引継ぎ業務を続けていた場所も狭くなり、隊外にある施設に移転することになった。敗戦から3ヶ月近くにもなろうとする頃であった。
 敗戦直後、三千人近くいたのがわずか二〇人くらいに減ってしまっていた。こちらは復員しても大学に入るだけのことであるから、少し長くなっても、それほどのことはないので、のんびり構えていた。しカし食事の世話などをする下士官・兵の諸君は、早く復員して、もとの職場に復帰したり、家族の世話をしなければならない者もあったのに、黙々として、命に従って残留していたのには頭の下がる思いがした。
 
住み慣れた庁舎を去るとき、大橋司令が、星条旗を翻している本庁舎をふり返り、
 
「大石良雄の心境だ」
と、つぶやいたのが印象に残った。
 
浅野内匠頭の切腹、お家断絶のあと赤穂城を城受け取りに来た幕府側に引き渡して、残務整理の為、いったん城外の仮住まいに移るのであるが、この時、大手門を出たあと天守閣をふり返って立ち去る時、残月が中天に輝いている姿は、忠臣蔵の名場面のひとつである。
 
大橋司令は、このことを想起して、今に仇はとってやるとの決意で言われたのであろうと思った。この時は、月はかかっていなかったが、仲々きかせる場面であった。
 
わが国も目覚ましい発展を遂げたが、この日、庁舎を去る時、我々の誰もこんなに早くわが国が立ち直れる日が来ると予想した者はいなかったのではなかろうか。
 
仮庁舎に移転したあとも、米軍との連絡、接渉に追われた。なにしろ、北方最大の航空基地の施設をこまかく説明して、米軍側で引き続き使うものと、処分するものを区分して、処理しなければならないのである。近代的な戦争をやるのには、これほどの膨大な機械、技術が必要なのかと驚かされた。
 
こうした残務整理も終わり、やがて、北海道の原野にそろそろ小雪が舞いおりて根雪となる頃、私も、ここを去ることになった。もう残留しているのは、大橋司令のほか数名となっていた。
 
司令から、
 
「ご苦労だった。もう帰ってよい」
と、言われて、一年以上も住み慣れた懐かしい千歳をあとにすることになった。
 
それほど長い期間ではなかったけれども、ここでの出来事を振り返ってみると、まるで、三年か五年も居たかのように思える程であった。
 
満員の青函連絡船で一夜を過ごし、翌朝ようやく青森についた。ここで、太平洋側を通り、東京経由にするか、日本海側を通るか、どちらにするかを迷った末、東京は焼野原になっているので、混雑でどうにもならないだろうと思われたので、秋田、山形コースをとることにした。
 
ところが、ここもまた大変で、列車に乗り込めないのである。困っているところに、これを見兼ねたのか、機関車の中から、海軍から復員したばかりと思われる三〇歳前後の運転士の人が近寄って来て、
 
「不自由ですが、機関車の中でよかったら乗って行かれませんか」
と、言ってくれた。
 
地獄に仏とはこのこと、早速、機関車に乗せて貰った。勿論、初めて乗ったのであるが、運転室は狭いので、入る余地はなく、機関に罐焚きといわれる二人の若い職員が、石炭室から石炭をスコップですくい取って、真っ赤に燃え続ける機関室にほうり込む作業を、絶え間なく続けるすぐそばの狭い場所で、立ち続けていた。
 
運転室と機関室の間には連結器があり、線路が曲がったり速度が変わると、ガタガタとひどく揺れるのである。連結器に足をかけている時にこれが来ると、体ごとひどく揺れるのである。敗戦の復員の途中を、動く機関車の中で過ごすという貴重な経験をすることが出来た。
 
途中、秋田を過ぎた。北海道に向かう途中は美しい町並みであったが、こんどは一面に焼野原となっていた。あの時は、大阪あたりから一緒になった海軍の士官がいて、秋田に家があるので数日間帰省するといっていた。
 
“途中、秋田で下車して僕の家に一泊しないか”
と、誘われたのを辞退して赴任を急いだが、あの時の彼、そして彼の家はどうなったのだろうと、一年有余前のこと、その変わりかたに驚きながら通り過ぎた。

  *   *

日本海側を、混雑する汽車に揺られて復員の旅を急ぎ、ようやく滋賀県の米原で、東海道線に合流することが出来た。京都、大阪を過ぎ、やがて山陽本線に入ると夜になった。北海道を出て、これで三泊目である。
 
真夜中のこと、どうやら坐る場所を見付けてまどろんでいた私は、ゴトンという車輸の音と共に、“ヒロシマ”と、窓の隙間から停車駅の案内をする駅員の声に、ハッと目を覚ました。
 
米国の発表では、あと七五年間は植物が生える事が出来ず、人間も、勿論住めないと言われていたのを思い出した。
 
窓ガラスを開けて外を見た時の情景は、今でも忘れる事は出来ない。“ヒロシマ”と駅員は言っていたが、駅らしいものはどこにも見当たらない。ただ板張りの、粗末な田舎芝居の舞台くらいの、幅三メートル、長さ二〇メートルくらいの設備があって、薄暗い裸電球のついた五メートル程度の四角の柱が一本立っており、そのそばに水道の蛇口があるだけ。
 
それも、しまりが悪くチョロチョロと水が落ちている。
 
その先は、暗闇のなかに瓦礫が累々と広がっている。かつての広島駅の跡らしいものがあるだけで、人影はひとりも何処にも見当たらない。さっき居た駅員は何処へ行ったのだろうと見ると、板張の乗降口の端の所に飯場を思わせるような小屋があって、そこで、他の何人かと一緒に居るようであった。今更のように原子爆弾という兵器の、破壊力の凄さを見せ付けられる思いがした。
 
四日目の夜には何とか家にたどり着けるのではなかろうかと期待していたが、汽車は相変わらずゆっくりと動き、久留米駅に着いた時は既に暗くなっていた。
 
今なら北海道から福岡空港まで三時間位でひとっ飛び、タクシーで家まで二時間足らずで行ける所だ。久留米に“花畑”という小さな駅があって、ここから郷里に向かう旧式の簡易型の電車に乗り抜える事になっている。ここからいよいよ終点の“福島”(現八女市)に向かい、そこで降りて歩けば約一時間で実家にたどり着けるので、今夕遅くには到着出来ると思っていた。
 
ところが、いくら待っても福島行きの電車はやって来ないのである。秋の太陽は、早くも西に沈んで暗くなってきた。すると、急に人通りがなくなり、様子がおかしい。停電で電車が故障したのかなと思って、待合用の板の腰掛けの背に凭れかかって休んでいた。そこに、作業員風の、中年の男性が現われた。
 
「あんた、何処に行きなはるか(行きますか)」
 
「福島までです」
 
「福島行きの電車は、もう来ませんよ。久留米には占領軍の戒厳令が出ていて、夜間外出は禁止されていますよ。こんかとけ(こんな所に)おんなはると(いると)、MP(米軍の憲兵)に逮捕されますよ。よかったら、私と一緒に来なさい。泊めてあげますよ」
 
地獄に仏とばかりに、目的地を目前にして、ここから逆行して“久留米”から二つ先の“小郡”という所まで行き、更にしばらく歩いて、この人の親戚という主人だけ一人住まいの人の家に、一泊させて貰う事になった。話をしてくれたところによれば、この主人の身内が米国に移住し、その子が米軍の兵士で名古屋に駐留しており、先日、その人が訪ねて来たとの事であった。
 
同じ軍人でもこちらは敗戦国、あちらは戦勝国と、まさに落武者の心境であった。
 
ここでは晩と朝の飯に、風呂まで入れて貰い、翌朝、案内して貰った人と“久留米”迄また引き返して、“福島”を経由して午後の早い時刻に帰った。家では、敗戦三ヶ月も過ぎているのに、北海道からなかなか帰らないので心配していたようだった。
 
ふるさとの山河は、二年前と変わる事はなく、緑の山と澄んだ川のままであった。
 
だが、ここから戦場に赴いた人達は、いろんな運命の道をたどっていた。あの人がと思うような人が戦死していたり、シベリア送りとなっていたり、捕虜になっていたりで、留守家族の人達の心情を思うと暗澹とした心地であった。学友の消息も少しずっ分かって来た。学徒で召集されたのは殆ど将校で戦線に出るので戦死率も高かった。海軍に入った者で航空隊に入った友人も何人かいる。そのなかで特別攻撃隊員として二人、沖縄方面で米艦に突入している。あわれであったのはそのなかの橋本哲一郎君であった。
 
在学中は酒好きで、よく遅くまで飲んで回っていた。北朝鮮の元山にある基地で訓練を受けていた。
 
彼の隊は神雷特攻隊といわれ、親飛行機に複数の魚雷を積み込み、夫々の魚雷のなかに一人ずつ操縦入り、敵艦が近くなったところで、親飛行機から離れて、体あたりをかけるというものである。御両親が面会に行かれたとき、橋本君は数日前、既に出撃のため九州の鹿屋基地に進出していた。
 
元山基地で応待に出た彼の友人は、御両親に本当のことをお話しすることもできず、つらい思いをしたと言っていたそうである。出撃する時「自殺には一番良い方法だ」との言葉を残して飛び去ったそうである。
 
また、思いもかけない友人が悲運に倒れていた。田中好一君は理科だったので召集から除外され、こちらが彼から見送られて出たのであった。九州大学工学部に在学中、長崎の三菱造船所で兵器製造の作業にあたっていた。彼の宿舎を原爆が直撃したのである。あとで、ここぞと思はれる所を探したが一片の遺骨も残っていなかったそうである。大分県臼杵市の造船所のオーナーの長男で後継者になる予定であった。約一〇年後に大分に行く機会があったとき御両親をお訪ねした。その時、私の顔を見つめられ「好一も生きていたら、あなたのようになっていたでしょうに」と感慨深げに語られた。作家の故野上弥生子さんは親戚である。
 
田中好一君と同じ臼杵市出身の吉良公平君は、文科だったので陸軍に入り、将校として比島のレイテ島攻防戦で戦死した。米軍が占領した飛行場を奪回するために、輸送機で斬り込み要員を満載したグライダーを牽引し、このグライダーを飛行場に着陸させて、飛行場を占領しようとするもので、高千穂空挺隊といわれた。吉良君は着陸に成功したが、銃弾に倒れた。出発にあたり山下奉文大将は同君に軍刀を授けたとのことである。

【拡大写真】
 本哲一郎大尉 23歳
(戦死後二階級特進)
楠の葉末
(第七高等学校造士館戦没者遺稿・追悼文集)