二〇 邂逅(かいこう)と別離
敗戦後の千歳基地には、南下するソ連への戦略体制の整備を急ぐ米軍への協力と、多くの兵員の復員、武器弾薬類の廃棄という二つの任務を手際よく進めなければならず、多忙をきわめる毎日であった。その間、士官クラスの人達の復員も進み、日ごとに残留する者が減っていった。
私は、司令の大橋恭三大佐から、
「君と芳澤少尉(父君が外交官でワシントン(公使)、オタワ(大使)に勤務した関係でアメリカンスクールに学び、英語がうまい)は残留してくれ」
と、言われた。
こちらも、帰っても大学に復学することになるだけのことで、のんびりと構えていた。
米軍からは一見して気むづかしそうな中年の空軍大佐がやって来て、兵器類の焼却と海底投棄する作業を指示した。投下用の爆弾、航空機から発射する魚雷といったものは弾薬庫から引き込み線で入って来る専用の貨物列車に積み込んで小樽まで運び、舟で沖合の海底に投げ込むのである。
この作業は、些細な取り扱いのミスで大爆発事故が発生することがあるので、神経を使ってやった。
戦闘機、爆撃機などの航空機は、ガソリンをかけて火を付けたら容易に燃やせるのだが、つい数日前まで大事にしていたのを燃やしてしまうのである。この時は、本当に敗れたとの感慨に胸が熱くなる思いがした。少年兵のなかには、涙で顔じゅうをクシャクシャにしている者もいた。
そうしたとき、第二千歳基地を巡回中に、見なれない対潜水艦哨戒機が一機、滑走路に着陸しているのを見付けた。この頃は、すでに、占領軍の命令で、軍用機はいっさい飛行することが出来ず、止むを得ず、どうしても必要な場合は、練習用の「白菊」という機で、尾翼に白い吹流しをつけて飛ぶことだけが許可されていた。この基地には航空機の整備をする要員は配置されていない。それをいまごろ、こんなのがどうしてやって来たのかと、いぶかしく思って近づいて行ったところ、
「おい、武藤君じゃあないか」
と、言うのでよく見ると、学友の角野一郎君であった。
角野君は鹿児島の旧制高校で同じクラスで、しかも寮も同じだったから、思わぬ奇遇に驚いた。私と同じく二年前に海軍に入り、それ以来の再会であった。
話によれば、降伏後、日本海方面に国籍不明の潜水艦(あとでソ連の潜水艦のほかにいないということになったが、ソ連側は強く否定しつづけた)が出没して、外地からの引揚者をのせた船、また日本から朝鮮に帰国する人を乗せた船が攻撃されて撃沈されるので、その護衛、監視のために、GHQ(占領軍総司令部)の命令で内地から飛来して来たとのことであった。
戦争中、米軍の潜水艦に攻撃されて撃沈される日本の船舶が多かった。そこで潜水艦対策のための航空機は日本のほうがすぐれていた。そうしたことで対潜水艦哨戒機を持っていたのである。
戦後も、日本海に出没して引揚船などに無差別攻撃を加えていたのは、明らかにソ連のものであった。ウラジオストクにあった潜水艦から、日本海のわが方の船舶は容易に標的にされる。南樺太、満州、朝鮮からの引揚者が故国を目前にして海の底に沈んだ数は多かった。
角野君のほかに同僚もいるので、あまり長話しも出来ず、機体のそばでしばらく立って話しただけで別れた。まさか、これが最後の別れになろうとは夢にも思わなかった。この後の事は、私が復員して学業に復帰してから知った。角野君の乗機はここから離陸したあと、日本海方面に向かったところエンジンが不調となり、海中に墜落して、全員殉職したとのことであった。整備員が復員していないので機体が不調のままで飛び立ったからであろうと思われる。
あれから三〇年が過ぎた昭和五〇年、兵質警察本部長で神戸に居たときのことである。本部長室で、角野君の弟さんの訪問を受けた。神戸市役所の水道局の課長をしていた。角野君との最後の別れの模様をくわしく話してあげて、心からのお悔やみを申し上げた。弟さんも亡兄の思い出を話され、そのなかで、
「兄は、皆さんのように恵まれた環境で勉強して旧制高校に入学したのではございません。神戸の夜間中学で苦学し、昼は、給仕のような仕事で、学資を自分で得ていました。高校、大学も奨学金で学んでいたのです」
と、語ってくださった。
私は、これを聞いて、こちらは親の仕送りでのんびりと通学したうえ、夜ともなれば遅くまで飲んで回っていたのにもかかわらず、こうして生き長らえているのに、角野君のように逆境に育った人が志半ばにして、しかも、戦争が終わったあとで奇禍にあうとは、なんと人生は不公平なるものであろうかと思った。出来ることだったら、あの時、私が角野君の代わりにあの飛行機に乗ってやっておけば、こんなことにはならなかったであろうに、としばらく言葉も出なかった。
戦後殉職された方のことで、もうひとつ忘れられない思い出がある。
敗戦後の九月はじめのこと、尾翼に細長い吹流しをつけた「白菊」が一機着陸した。海軍軍令部(陸軍の参謀本部にあたる)の神重徳(かみしげのり)大佐の一行である。北方方面での米軍との関係の調整と、復員についての指導のためである。
神重徳大佐といえば、戦後すぐ殉職されたので、それほどに有名ではないが、“海軍の辻正信”といわれたほどの人物、開戦のとき、対米主戦論を展開し、部内の消極論を抑えて、開戦に持ち込んだことで知られる。秦郁彦著「昭和史の軍人たち(文春文庫)」にも名をつらねている。ドイツに留学し、ヒットラーの興隆期に、ベルリンの日本大使館の武官をしていたことの影響が大であったようだ。
しかし、米軍の反攻のために戦局が不利になってくると、今度は一転して、早期講和の方に変わり、東条英機首相を暗殺して、内閣を倒す計画までやっていた。しかし、決行前に内閣総辞職となったので未遂に終わり、神大佐は、連合艦隊の参謀に転じて東京を去ることになった。
神大佐がやったなかで、いまなお論議されているのは、巨人戦艦「大和」を沖縄に特攻出撃させることを発案したことである。昭和二〇年四月、瀬戸内海から出撃した「大和」は、沖縄本島の陸地に接岸して、四六センチの巨砲で米軍を撃ちまくるというものであったが、途中で米軍機の猛攻のために、奄美諸島の徳之島付近で撃沈されてしまった。昭和五〇年の半ば、東宝映画で「連合艦隊」が作成された。ここで俳優の佐藤慶が神大佐の役を演じている。
さきに述べたように、敗戦後に、はじめて神大佐にお目にかかることになった。私がいまなお忘れることが出来ないのは、数日後に東京に帰られるとき、大僑司令(大佐)と二人で神大佐の飛行機の離陸を見送ったことである。庁舎から、滑走路の近くに着陸していた乗機の「白菊」まで、大橋司令と談笑して歩いて行かれ、私はそのあとを、神大佐の随員四名と共について行った。
この日は好天、風のない北海道の初秋に相応しい、静かな日和であった。「白菊」はエンジンの音も軽く、本州の方を目指して離陸した。機影がやがて小さくなったので、大橋司令と共に司令部庁舎に帰った。
ところが、数時間後、大湊(青森)の要港司令部から、当基地と海軍省あての電報が入った。この飛行機が、津軽海峡の三沢寄りの地点にさしかかったとき、エンジンに不調を来し、陸地から一五キロの海上に不時着水し、全員機外に脱出した。これもさきの旧友角野君の場合と同じようにすでに機体を整備する要員が不足していたため十分な点検が行きとどかなかったのが原因だと思われる。
この頃となると、北の海は冷えこみ波も荒くなる。神大佐の指示で、陸地を目ざして泳ぎはじめた。
折よく、近くを通りかかった米軍の駆逐艦が救助にかけつけた。ほかの随員は救助されたが、神大佐だけは水中に沈んだのか、見つからなかった。この報は、当時の海軍部内にも衝撃を与え、死亡についていろんな説が入り乱れた。
開戦当時の主戦論者であり、「大和」出撃の立案者でもあったので、責任を感じて死を選んだのだろうとの説が多かった。私は、機中に乗り組まれるまで大変快活に話をされていたことから、あの時、死を選ばれたのではなく、なんとかして生きのびて、戦後のために努力をしようとの決意を持っておられたものの、疲労が蓄積していたために、体力がもたなかったのであろうと思っていた。
この時の状況を御遺族になんとかお知らせしたいものと思い、出身が鹿児島県の高尾野町であるとのことだったので、同県に在任中に探したものの分からなかった。
平成七年九月に、日本経済新聞の「私の履歴書」で、元三菱自動車工業KK会長の館豊夫氏が連載されていたので読んでいたところ、同氏夫人輝子さんが神(かみ)大佐の次女だというところが出て、
「事故では着水後、生存の機会もあったらしいが、白ら生を絶ったとも伝えられる」
と、あった。
私は、早速、
「私がこれまで思っているところでは、神大佐は決して白ら死を選ばれたのではなく、あくまで生き抜いて、責任を全うする決意だったであろうと思います」
と、当時の状況を詳細にお知らせした。
丁重な礼状が届き、心のこもった手紙を頂いたことと、それが神大佐の命日の数日前だったので、遺族の方々と共に墓参されたとき、墓前に供えておきましたとのことであった。私は、これで、長い間気になっていたことをやっと果たすことが出来た思いがした。