一九  カーチス・ルメイ

敗戦後の、千歳の出来事について述べておきたい。
 
北東空の復員と、占領軍の受け入れは、順調に進められたといってよいであろう。
 
だが、国内の海軍の部隊で、すべて順調に進んだとは限らない。九州、大分の宇佐基地にいた第五航空艦隊では、司令長官の宇垣纏(マトメ)中将(さきの千歳の宇垣中将とは別の人)が、昭和天皇がポツダム宣言を受諾するとの御詔勅を発せられるや、残存していた爆撃機彗星七機に爆装を命じ、沖縄付近の米艦めがけて突入、体当たりした。これまで部下の多くを特別攻撃隊員として戦死させていたのでそのあとを追ったのである。この報に驚いた海軍省では、直ちに海軍大臣の名で、全軍に布告を出し、このようなことに追随しないように命じた。
 
内容は、
 
一、連合国軍に降伏することを皆、断腸の思いでいる。海軍には卑怯、不忠の心を持つ者はひとりもいない。
 
一、しかし、戦争終結の命が下されたのであるから、全軍は粛々とこれに従ってもらいたい。
 
というもので、これにならう者が出ることを戒めるものであった。続発すると、連合国側との交渉に、支障を来すことになることを危倶したものであった。
 
千歳基地も敗戦直後は、さきに述べたように、ソ連軍が急速に南下する形勢にあったため、米軍は、戦闘機を主力とする空軍部隊を配備して対抗した。しかし、ソ連が国後島を占拠したあと、北海道には上陸する気配を見せなくなったことで、北方での米ソの陣取りは一応終わった。この間、日本側は降伏命令が出ているために全く手を出す事が出来ず、米ソの駆け引きをただ眺めているだけの状態であった。
 
九月にはいり、米軍の戦闘機部隊が本土に引き揚げるのと入れ代わりに、今度は、Bー29を主力とする長距離航空機が飛来して、北方方面の偵察を始めた。北方のソ連軍の戦略的配備を探知するためである。また、ヨーロツパでもソ連と西欧諸国との軍事境界線付近で、同じように対立が険悪になっていた。
 
この頃、千歳基地に、カーチス・ルメイ少将の搭乗するBー29が飛来した。戦争が終了した時は、グアム島にあった第二一爆撃機集団の司令官で、第五〇九混成部隊(原爆投下部隊)の責任者も兼ねていた。我々には、何の目的で、まで来たのか良く分からなかったが、あとで知る事になった。右のポケツトに小型のピストルを入れて、ブルドッグのような獰猛な顔をして、いつも葉巻をくわえており、年の割りには老けてみえた。
 
ある日、本庁舎内の廊下をひとりで歩いて通っていたとき、二階の寝室から降りて来たこの人物とはったり鉢合わせになつた。二人の若い士官と何か話しながら歩いていた。例によってピストルを入れ、銃把をポケツトからはみ出させて、いつでも射てるような姿勢だった。こちらは、あの原爆投下、東京大空襲をはじめ、無差別爆撃をやった元凶なので、そっぽを向いてすれ違ったが、いつ抜き射ちでやってくるかも分からず、あんまり良い気分ではなかった。
 
このカーチス・ルメイという人物は、グアムに飛来する前は、ヨーロッパ戦線でドイツの都市の絨毯爆撃を始めた元祖である。米空軍の欧州派遣軍に所属していた第三〇五爆撃航空軍司令官であった。
 
このとき、ルメイは三八歳で大佐であった。相手の戦意を喪失させる情容赦をしない戦法は効果をあげ、米空軍内でも注目されることになった。短気なうえに、人遣いが荒いので「鉄の尻」(ironbullocks)とニックネームをつけられていた。彼が名をあげたのは、昭和一八年七月のドイツの港町、ハンブルグヘの猛爆であった。
 
長距離爆撃機の集団を、梯形の編隊にする戦法をとった。防御力と集中力を持たせる為である。これで七日間に亘って、連続して市民の居住地域の上空から、爆弾を集中的に落下させた。絨毯爆撃といわれるやり方である。まず四角形の四辺の線に焼夷弾を落下させて、外に逃げられないようにしたうえで、次にその中を目標にして、雨あられと爆弾を落とすのである。こうして、四角形のなかのドイツ人は、老若男女を問わず、皆殺しにされるということになる。頑丈な、石とセメントで作られたハンブルグの町も、これで廃墟となり、五万人が殺された。次のルメイの目標は、エルベ川に沿った磁器の産地として有名なドレスデンで、ここでも三万五千人の市民が犠牲になった。
 
こうした実績を認められて、ルメイは、ヨーロッパ戦の終了を待たず日本攻撃の第二爆撃機集団の司令官に抜擢されて、昭和二〇年一月、サイパンにやって来た。ルメイは、前任の司令官が軍事目標ばかりを攻撃する方針をとっていたのを、消極戦法として批判されたので、ドイツで成果をあげたルメイを少将に昇進させて交代させ、これまでの戦法を一変させて市街地を爆撃する作戦に切り替えさせた。ドイツと異なり木と紙で出来ている住宅地を絨毯爆撃されるのであるから、被害は大きい。三月一〇日の東京の下町地域のBー29編隊による空襲では、一夜にして約一〇万人の死者が出た。
 
ルメイの理屈によると、
 
「個人の住宅であっても、入居している者が軍需工場に勤めておれば、それは工場の一部と同じことだ」
 
ということであった。これでいけば、すべての住民が、軍となにかの関係があるのだから、どこでも爆撃出来ることになる。当時、全国の大、中都市のほとんどが焼き払われたが、それを指揮したのが、このルメイであった。
 
昭和二〇年七月、グアム島に原子爆弾投下のための第五〇九混成部隊が編成された時、ルメイはその責任者となった。綿密な調査の結果、広島、新潟、小倉、長崎が目標になり原爆投下を指示した。
 
二発目でわが国は降伏することになった。
 
この時ルメイは、
 
「軍人は、味方の損害を出来るだけ少なく、それでいて、敵に大きな損害を与えることを願うものだ」
 
と、語った。
 
ルメイは、千歳基地の二階に居住していた。その真下の一階に私の部屋があった。何の目的でここにいるのか、我々はもちろん知るよしもなかった。数日後に、彼が搭乗したBー29は飛び去った。
 
このあと米国側のニュースは、ルメイが日本の北海道からワシントン郊外の空軍基地までの無着陸飛行に、米人として初めて成功し、トルーマン大統領がホワイトハウスで晩餐に招待したと報じた。ルメイは千歳基地で、飛行機の整備をやりながら気象条件などを検討し、太平洋横断飛行の準備をして、条件の整ったところで、燃料を満載して飛び立ったのであった。
 
彼の一行を含めて、米軍の将兵の勤務ぶりを見ていて感心したのは、平常の場合は階級の区別なく、一緒になって飛行機の整備、準備から気象条件の検討をやっていたことであった。日本軍だったらとてもそんなことはしない。勤務していないときでも、階級の差は歴然として存在しており、これが組織の能率的な運営に支障をもたらしていた。また、米国人の未知、未開のものについての冒険心、開拓者精神に直接ふれて感銘を受けた。
 
占領国の日本からワシントンまで、無着陸飛行をやったのは、彼等の一行がはじめてであった。場あたりを狙った無謀な方法でやったのではなく、周到な準備と綿密な研究の結果、成算ありと見て断行したのである。数日間そばで見ていて「負けた」ということを実感した。
 
ルメイは帰国後、中将に昇進のあと、戦略空軍司令官、大将となって米陸軍参謀長となった。
 
ソ連との関係が緊迫した時、ソ連を目標にした原爆投下計画を立案したが、それによると開戦になったら直ちに、第一次攻撃目標に設定したソ連の大都市に七〇〇発をまず一斉に投下する計画を立て、ソ連の独裁体制を消滅させることを期していたということである。