一八  千島列島

千島列島の状況について書いておきたい。この帯状に長い列島も、ロシア領のカムチャツカ半島の南端からわが領土の占守島までの間、わずか一、三〇〇メートルの海峡で隔てられている。この海峡を通り、米国の西海岸からシベリアに向け軍需物資を満載したソ連の輸送船が頻繁に往来していたが、まだ参戦していなかったので、こちらから手を出すことはできなかった。
 
ウラジオストクからシベリア鉄道で、ドイツを攻撃するための軍需物資であった。しかし、ドイツの敗北が決定的となるにつれて、このルートからの軍需物資は極東方面に備蓄され、対日戦用に使われることになった。
 
この占守島から北海道の根室までの距離は、約一、二〇〇キロ、東京から博多までとほぼ同じ、この間に大小三〇の島がある。特徴は、どの島からも隣の島が肉眼で見ることが出来ることで、わが方の船舶も島に沿って航行するようになっていた。
 
敗戦の一年くらい前から、連絡に往来するわが方の船が、米国の潜水艦によって撃沈されることがあったが、すぐに島の監視哨が発見して、救助にかけつける事が出来るようになっていた。撃沈されて助かった部隊員と話したことがあるが、海に飛び込んで、立ち泳ぎをしながら、みんなで固まって体の消耗を防いで待っていたら、島から船を出して救助に来てくれたので、助かったとのことであった。
 
各島共、住民は少なく、春から夏にかけて高山植物が咲き乱れ、川と近くの海では、いろんな魚がとれた。千歳基地に帰ってきた者の話では、どの島も極楽もかくやと思うばかりだったと言っていた。
 
ところで、主な戦場は南方であったのにもかかわらず、陸海軍共に各島の守備には万全の態勢をとっていたといってよい。これには次のような理由があった。
 
開戦の後、わが方が優勢の頃、米国の領土であったアリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領していたが、間もなく反撃されて、アッツ島は玉砕、キスカ島の守備部隊は、霧のなかを撤退して、千島まで引き揚げて来た。アリューシャンと千島は、いずれも孤状になった列島で近い位置にある。
 
米国は、アッツ、キスカを占領した日本に仕返しをするため、今度は千島に攻めてくることが予想されたこと、また択捉島の単冠湾は、ハワイの真珠湾を、日本海軍の連合艦隊が攻撃に出た時、ひそかに集結して出撃したところでもあった。アッツ島に米軍が反撃して来たとき、幌筵基地から海軍の爆撃機を飛ばして上空から援護したこともあった。
 
千島周辺の漁業資源の確保のためでもあった。この近海は、現在もそうであるが、寒い海で育つ魚をはじめ、コンブ、ワカメなど海辺に育つ資源の宝庫である。農業のように耕作したり、種を播いたりする必要はなく、正に無尽蔵に育ち、手に入るのであるから、食糧難で困っていた当時は大事な地域であった。
 
敗戦後、東京で旧北東空の会合があった。この時、幌筵基地にいた予備学生出身の士官が来ていた。この人は、ソ連(ロシア)軍と戦ったあと降伏し、シベリアに連行されて抑留されて帰って来たばかりだった。強制労働をさせられたせいか、大分やつれていて、同情の念を禁じ得なかった。


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     北部方面、ソ連軍侵攻状況

大橋恭三元司令も、抑留の状況を聞いて「いま何処に居るか。生活は大丈夫か。就職の世話をしようか」と、懇切に聞いておられるのを見て、敗軍の将とはいえ、旧部下の面倒をここまで見るのかと思って、感心させられるものがあった。
 
北千島には得撫島に独立混成第一二九旅団、松輪島に陸軍約三、〇〇〇人、海軍は警備隊約三〇〇名、南千島には、択捉島に第八九師団、海軍は同島の天寧基地に兵員を配置していた。
 
千島方面の戦闘は、昭和二〇年八月一八日未明、即ち昭和天皇が終戦の御詔勅を全国に向けてラジオで放送された三日あとから始まった。
 
それにしても、こちらは天皇が降伏の意志を内外に明らかにされてから、三日あとになって攻め込んで来るとは、全く言語道断のことである。今日でも、日本人でありながら、旧日本軍によるとされる些細なことを大きく取り上げて批判する者がいるが、どうして、こんな大悪には口を出せないのか不思議で仕方がない。
 
八月一八日未明、北千島に攻め込んで来たのは、カムチャツカ半島の南、ペトロパウロフスクを出た、ソ連軍の第二極東正面軍の部隊であった。
 
午前二時頃、異常な物音を聞いた占守島北端の見張りが、国籍不明の軍隊が上陸用舟艇で侵入して来るのに気がついた。やがて、夜が明けて来るにつれて、服装、兵器からみてソ連軍であることがようやくわかった。
 
しかし、既にこちらは全戦線にわたって停戦命令が出ており、武器等の引渡しの準備も進めているところもあった。それにもかかわらず、何の警告もなしに攻撃をしかけてくるのであるから、こちらとしても自衛のために戦わざるを得なくなったということである。
 
ソ連軍にも大きな誤算があった。攻撃して脅かせば、簡単に降伏するだろうくらいに思って、国際法や戦時法規をろくに知らない辺境の質の悪いソ連軍が、入って来たものの、反撃を受けてたじたじとなってしまった。しかし、当方も既に降伏することを宣明したあとでもあり、軍使を派遣して八月二〇日に停戦ということになった。この間の、わが方の戦死傷者は約五〇〇名、ソ連軍は正確には数は不明だが、一、〇〇〇名以上という、どちらが戦勝国か分からない結果となった。なにしろ、こちらは、戦車八五両あるのに、ソ連側は一両、大砲は二〇〇門あるのに、向こうはゼロであるから、勝負にならないのである。ソ連側は、この北千島の戦闘を、第二次大戦中の最大の悲劇で、最悪のものであったとしている。
 
千島方面の状況については、当時幌筵島の第九一師団の作戦参謀の水津満少佐が、停戦後にソ連の駆逐艦に乗せられて、この方面の日本軍の降伏と武器の引渡しに立ち会った時のことを書いているので、それによって述べることにする。
 
ソ連軍も北千島では強引な作戦をやったものの、手痛い反撃に出られた為にコリて、柔軟な方法に変更した。
 
なお、水津少佐は、あとでシベリアに送られて、五年後にようやく帰国することが出来た。
 
八月二四日、ソ連の駆逐艦に乗せられて、南下した。先ず、松輪(マツワ)島に上陸した。ここには、第四一連隊の約三、〇〇O人と、海軍警備部隊もいた。既に連絡がしてあったので、武器、弾薬を整然と並べて引渡した。
 
聯隊長は、
 
「我々は、決して降伏したのではなく、天皇の命によって、武器を引き渡すものだ」
と、堂々と言った。
 
ソ連(ロシア)側も、日本軍の秩序正しいのに感心したとのことである。
 
松輪島の海軍の守備隊、約三〇〇名は、約半年前に千歳を出発して行ったばかりであった。孤島であるから、交代して勤務につくことになったのである。私は隊長以下よく知っている者がそろっていた。松輪島からソ連艦が望見された時、
 
「秘密書類はすべて焼却し終わった。これから無線機を破壊する」
との、千歳基地あての無線を最後に通信を終わった。
 
彼等もシベリアに送られ、内地に帰るのはあとのことになる。本土からシベリアに連行して、労役に使うとはけしからんことである。
 
このあと、水津少佐を乗せたソ連の駆逐艦は、更に南下して得撫島(ウルップ)に接近した。このとき米軍機が上空に現れた。すると、この駆逐艦は高射機関銃でこの米軍機を狙って射ち始めた。水津少佐はこれを見て、標的になっているのは明らかに米軍機なのに、どうして同じ連合国のソ連が射つのか理解出来なかった。しかし、この背景には米国とソ連の関係が急速に悪化しており、その象徴というべきものが、米軍機とソ連軍艦との戦闘行為だった。その背景はあとで説明するとして、この米軍機は、千歳基地から発進した米軍の新鋭のグラマン型戦闘機だったのである。
 
当時、北千島方面の海軍部隊指揮官であった伊藤春樹氏が、産経新聞(平成二年八月五日付)に書かれたものがあるので紹介する。

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米軍の太平洋方面司令官であったマッカーサー元帥が、日本占領軍総司令官としてフィリピンのマニラから厚木飛行場に飛来したのは、昭和二〇年八月三〇日のことで、米海軍の戦艦ミゾリー号上で、降伏文書に日本側が署名したのは、九月二日であった。
 
沖縄にいた米戦闘機隊は、その前に厚木に到着しすぐ千歳基地に飛来して来た。私はその世話を担当することになったが、なんで北海道までこんなに早くやって来たのか知るよしもなかった。頻繁に離着陸を繰り返すので、何の目的でこんなことをやっているのか分からなかったが、常に北方を目指して飛んで行くのである。どうやら、千島の方向を目ざしていることが分かった。
 
私は、搭乗員のうちのひとりの若い中尉と知り合いになった。私を見付けると、話し掛けてくる。私と同じ学生出身の将校のようだったので、打ち解けて雑談を交わすようになった。私が、
 
「ここには、しばらくは居るようになるのか」
と聞いたら、
 
「そういうことになるだろう。May be
と答えた。話の通り、しばらくいたあと、再び本州方面に去って行った。
 
米ソ間での外交のかけ引きが終わって、戦闘機隊の任務は終わったのである。このあと、今度は陸軍部隊がやって来て、北海道の要地に展開した。これもあとで説明するが、米国は、ソ連の北海道上陸だけは阻止する計画だったようであり、その兆候がなくなったので、急派した航空兵力をいったん内地に帰したという事である。
 
さきの水津満少佐の回想によれば、さらに次のようなところがある。
 
中部千島の南端の得撫島で、日本軍の武装解除を終わつたあと、乗艦していたソ連の駆逐艦は、反転して北上し始めた。水津少佐は不思議に思って、
 
「もう帰るのか」
と聞くと、ソ連の将校は、
 
「択捉、国後には米軍が来る筈だから、ここから帰るのだ」
と、はっきり説明した。米国立公文書館の資料にポツダムでの会談の議事録がある。このなかに米ソの軍幹部間での秘密会談の記録がある。そのなかで千島列島にっいては、ソ連軍の作戦範囲は北千島といわれる占守島を含めた四島で中・南千島は米軍の作戦範囲と定めてあり、南千島は北方領土のことをさしている。ソ連軍の進出が急で、米軍がおくれをとったためにポツダムでのとりきめが破られたということである。
 
要するに、ソ連の概念では、千島といえば中千島の南端の得撫島まで、その南に北海道まで連なっている択捉・国後から歯舞・色丹諸島は、日本の固有の領土であることを知つていたから、ここは米島軍が占領する島であるとして引き返したのである。米軍機が、この線を越えて中千島の得撫島の上空に現れたので、ソ連は射撃をしたということになる。
 
幕末の安政元年(1854年)、下田で日ロ(ソ連)修好条約が締結された時、両国の境界線は択捉島と、得撫島の中間の海域とすることが明記されている。なお樺太は、日口(ソ連)両国民の雑居地、即ち両国が同等の権利を持つとされた。
 
ついで、明治八年(1875)の千島、樺太交換条約で、日本は樺太の権利を放棄するかわりに、ロシア(ソ連)は千島を日本に譲渡することになった。この場合も、ロシアが譲渡する千島の範囲は、中千島の得撫島以北を指し、択捉、国後は入つていない。こうした、明確な根拠があるのに、ソ連(ロシア)は北方領土まで取ってしまった。
 
中千島の南端にあたる得撫島まで来て、ここから反転して帰途についたソ連(ロシア)駆逐艦に代わって、二日後の八月二九日にソ連軍は早くも北方領土の択捉島に、その三日後の九月一日に国後島に上陸した。ここにやって来たのは、カムチャツカ半島から南下して来た連中ではなく、南樺太からやって来た軍隊であった。
 
この頃、ワシントンのトルーマン大統領とモスクワのスターリン元帥との間には、ソ連(ロシア)による北海道の占領をめぐっての外交交渉が行なわれていた。これは、戦後しばらく経ってから明らかになつたことであるが、スターリンは、北海道北部の留萌から釧路までの線以北にソ連軍が進駐したいとの要求を出していた。この面積は、日露戦争までロシアが当時、清(中国)から租借していた遼東半島(大連、旅順方面)の面積に相当する広さである。
 
ソ連軍は、既に満州に侵入して、この地方を占領して日露戦争の失地を回復していたのであり、その上に、さらに固有の日本領土のなかに、遼東半島に相当する面積を獲得しようとするのである。コソ泥の二重取りというところで、アツカマシさには呆れるほどである。
 
この要求は、米国側が拒否したことによって断念することになった。その交渉に圧力をかける目的であるかのように、固有のわが領土である南千島の択捉、国後方面に上陸して来たというわけである。
 
ここのところを、あとで判明した資料で述べると、次のようになる。
 
日本がポツダム宣言を受諾することを、昭和天皇が宣言されたことに伴って、トルーマン米人統領は、昭和二〇年八月一五日、マッカーサー元帥にあてて日本の武装兵力の処置についての「一般命令第一号」を発した。
 
その中で、ソ連軍に関する部分として、
 
「満州、北朝鮮、樺太にある日本軍は、ソ連軍指揮官に降伏すべし」
とある。千島は米軍が占領するつもりだったようだ。ポツダムでの密約で、北千島は渡すと言っていたものの、トルーマンは、ソ連に渡せば、米国のこれからの戦略に不利となるので外したのである。
 
これに対して、スターリンは、直ちに異議を申し入れ、ソ連軍の進出区域を
 
1、千島列島全部を含めること
 
2、北海道の北半分(留萌市と釧路市の線の北側)
とした。
 
この頃は、米国とソ連の対立が顕著となって来ており、さらに、米国は原子爆弾という新型兵器を保有する唯一の超大国となった自負から、太平洋に面する千島列島は、ソ連の勢力下に入れたくないという方針に変わっていたのである。
 
そこをスターリンは、武力で侵攻することを決め、日本が、降伏することを伝えたあとも、強引に攻め込んで来た。結局、ソ連(ロシア)は、日本の固有の領土である南千島まで侵略したというわけである。米国も、ソ連を制圧する姿勢はとったものの、実力で追い帰すことまではしなかった。米国も、何も、日本のことを考えてこのような政策に転換したのではなく、あくまでも、白国の戦略上の利益を図ってやったものであることは、言うまでもない。わが国としては、北海道の北部まで占領されなかったことは、不幸中の幸いといってもよいところであろう。
 
この頃、米ソ間でこうした緊迫した駆け引きが行なわれていたことを、我々は現場に居合わせながら、かすかに感じる程度で、実態は全く分からなかった。既に、この時、北海道、樺太、千島列島の命運は、我々の手を離れて、ワシントンとモスクワにある、米ソ両国の首脳の手中に握られていたのである。
 
この頃が、北部方面で米ソの対立が最も緊迫していたときで、米軍機が厚木からいち早く千歳に進駐して来たのも、こうしたことによるものであった。こうした際どい外交の駆け引きが、米ソ間に展開されていたことは、当時、現地にいた我々は、うすうす感付いてはいたものの、具体的なことを知ることは出来なかった。
 
千歳基地にあった海軍軍令部の特別暗号班は、この頃、ワシントンから、日本に進駐して来た米軍あての通信を傍受した。その内容を、この班の学生出身の士官が見せてくれた。それには、ソ連が、空挺部隊を北海道に降下させる作戦計画を準備しているというものであった。これを実行されたら、千歳基地は、忽ち、ソ連軍に掌握され、こちらもシベリア送りとなっていたであろう。
 
九月一日、国後島にソ連が上陸して来た状況を、この島の郵便局の局長、奥野氏があとで語ったところでは、やって来たソ連軍の将校が、郵便局の時計を見付けて、時刻が既に午前一〇時三〇分を指していたのを、時計の針を逆もどりさせた上、その時刻を確認せよとのしぐさをした。
 
奥野氏があとで気がついたが、この将校は、この日の午前に、東京湾上の米軍艦のミゾリー号上で、日本側の代表が連合諸国代表の前で、降伏文書に調印することになっていると思って、その時刻前に、この島を占領したぞという事を確認させる為に、針を逆もどりさせて、これでよしと思ったようだ。
 
しかし、実際、調印が行なわれたのは、九月二日のことで、この将校は、余程間抜けた男で一日間違えていたのである。
 
九月二日の降伏文書への調印は、国際法上はあくまで形式的なことであって、その前の八月一五日に、日本側は降伏することを連合国側に伝え、停戦命令を出しているのであるから、この日から、軍事的行動は停止するのが当然のことである。このあと、スターリンは、対日戦勝祝賀会で、
 
「これで、我々は、日露戦争の時の仇をとった」
と演説した。これが本音だったのである。
 
このあと、日本と、ソ連との対立がつづくことになるが、これを、資本主義と共産主義の争いであるなどと説く、愚かな学者がいたが、こうしたものは、表面だけしか見ていないところから来ているものである。本質は、幕末以来、ロシア人が暖かい出口を求めて南下して来るのを、アジアの先覚者である日本が防禦しているという構図から出て来ている。日本占領軍総司令官のマッカーサー元帥も、これから六年後に発生した朝鮮戦争で、ソ連、中国、北朝鮮軍の攻撃によって厳しい試練にさらされて、ようやくこのことを身にしみて知ることになる。

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  戦後のつかの間、友人と千歳川
(アイヌの親子が船で来たので、乗せてもらった。船は丸木舟で、たいへん珍しいものである。)