一七 敗戦
戦後の日本の幕あけとなる昭和二〇年八月一五日の、昭和天皇のポツダ宣言受諾の御詔勅は、基地で最も大きい格納庫のなかで拝聴した。初めて天皇の御声を聞くことになるので、第一二航空艦隊司令長官、北東空司令をはじめ、士官は第一種軍装に威儀を正して、直立不動の姿勢で待機した。先にも述べたように、海軍兵学校を卒業して霞が浦で飛行訓練中に千歳にやって来た士官候補生達も多かったため、下士官と兵は入りきれず、拡声器で中継して放送することになった。
この日は、好天で風もないおだやかな日和、秋の気配が早くも肌で感じられた。一段高い壇上に置かれた、ラジオから流れてくる昭和天皇の声は、雑音が入って聞きとりにくいところが多かった。
ただ、「ポツダム宣言を受諾するに決せり」「万世のために泰平の基を開かんと欲す」というくだりは、はっきりと聞こえた。
わが国が、連合軍に降伏するという情報は、さきに述べた千歳基地に設置されていた海軍軍令部の特別通信室で、米国の放送を、既に数日前に傍受し、分かっていたのでそれほど驚かなかった。八月六日、広島に原子爆弾が投下されたことも、その直後、米国がビッグニュースとして放送したのをキャッチしていた。政府は、これを特殊爆弾と発表したが、我々はこれが原子爆弾で、どうして製造されるのかということまですぐに分かった。もう来るものが来たということと、この種の原爆を米国が何個持っているか分からないところが不気味で、立て続けにこれを各地に投下されたらどうなるだろうという思いがした。工学部系の科学担当の十官が、日本の原爆開発研究が米国に先を越されたために、どうにもならんと言っていたのが印象に残っている。日本でも京都帝国大学の理学部で、相当なところまで研究が進んでいたようであるが、米国に及ばなかったのである。敗戦後、ここの研究室のサイクロトロン設備は米軍にすぐに破壊され、研究資料はすべて押収されてしまった。
ところで、千歳は敗戦の翌日の八月一六日から、米軍を応接することでにわかに多忙となり始めた。サイパンから飛来した長距離爆撃機のBー29が翌日早くも着陸した。爆弾を全く積み込む必要がなくなったので、航続距離が伸びて北海道まで飛来することが出来るようになったのである。目的はソ連(ロシア)の動向の偵察のためであった。ソ連は八月九日、長崎に第二発目の原爆が投下された日、まだ有効であった日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州(中国東北部)、樺太、北千島方面から進撃を開始していた。相手が弱いと見たら平気で国際法を無視して領土の拡張に乗り出すのが当時の国際情勢であった。樺太(サハリン)では国境線の北緯五〇度線を突破して南侵を始め、千島列島の最北端の占守島にも上陸し始めた。いずれも北東空の所管である。この頃、米国とソ連の間には、既に四月に降伏していたドイツの旧勢力地域の分け前をめぐって早くも冷戦が始まっていた。こんどは日本が持っていた勢力圏の線引をめぐって、極東方面で争いが起きようとしていた。
かくして、この地方での米ソの緊張がにわかに高まって来たというわけである。第三次大戦への序曲は早くも始まっていた。私はその現実を身近に体験することになった。
千歳基地でもポツダム宣言の内容は既に分かっていた。その中でわが国の領土は降伏後、本州、北海道、四国、九州とするとなっていたので、私達は、南樺太はソ連がとることになるだろうと思ったが、千島列島は米国か、ソ連のいずれがとることになるのかまだ分からなかった。
ソ連軍が、樺太(サハリン)の日本との国境線の、北緯五〇度の線を越えて南下しはじめたのは、八月九日のことであった。この日は細雨で視界は五〇メートルくらいしかなかった。日本側の主戦力は当然陸軍であるが、ソ連軍は、狙撃師団を中心に約三万、わが方はわずか三千人程度であった。それでも善戦して戦車四九両を擱坐させた。当時、北東空では敷香(シスカ、国境線に近い町)に基地があった。飛行機は配置していなかった。飛行機のない航空隊では何も出来ないので、北海道まで引きあげさせることになった。八月一五日に、わが国はポツダム亘言を受諾して連合国に降伏する旨を通告したが、ソ連は容赦なく攻撃の手をゆるめなかった。米国との間に約束した以上の領土を、軍事力で確保するためである。
日本が降伏して既に五日目に入った八月二〇日、ソ連軍は樺太の真岡に海上から船舶で接近して上陸を始めた。この状況は、千歳基地にあった大本営海軍部の特別通信室が現地からの通信を受けて知った。こちらは矛をおさめたのに、先方は一方的に攻めて来た。
この日、真岡郵便局の電話交換台にあって勤務していた九名の日本女性が自決した。私はこの電文を読んで、暗澹とした気持ちになった。現在、北海道の北端にある宗谷海峡に面した稚内公園に「殉職九人の乙女」の碑がある。彼女達はこの時、電話による住民からの相談、避難経路の指示、誘導の任務についていた。しかし、侵攻するソ連軍によって郵便局も危なくなったので、最早、これまでと、班長の高石キミさんが、一本だけ使用可能の回線で「皆さん、これが最後です。さようなら。さようなら」と叫び、プラグを抜いて、かねて用意の青酸カリを飲み、他の八人もこれにならって集団で白決したものである。私はこの電文を何回も繰り返して読んで、敗戦の悲哀を思い知らされた。九人は靖国神社に祭られている。この物語は、あとで東映が「氷雪の門」との題で映画化した。文部省選定となり、各方面の推薦にもなった。しかし、旧ソ連から抗議を受けたため、上映が中止になったということも付け加えておきたい。
昭和五五年、敗戦三〇年目に、当時、樺太庁の警察官で殉職、殉難された方々の慰霊祭が旧樺太庁警察官の会の主催で靖国神杜の正殿でとり行なわれた。私は、警察を代表して、参列した。
あとの会合の席で、皆さんに、南樺太について私は関係があるのですよと話をしたところ、たいへん懐かしがられた。それと共に、あの時のソ連のやり方は本当にえげつないものであったと異口同音に怒っておられた。要するに、ソ連側はこちらをダマして捕らえてシベリアに送ったということである。南樺太は日本の領土そのもので、満州のように外地ではなかった。日本の領土に勤務していた者をシベリアに連行して強制労働をさせるとは何たる事だというのである。当時、樺太庁警察部長で、降伏後シベリアに連行され、全樺太連盟常務理事をされていた尾形雅邦氏は次のように話された。
「軍の代表と停戦交渉に行ったところをだまされて、装備品を全部取り上げられた上、鉄道の無蓋車に乗せられて、まず刑務所に収容されたあと、シベリアに送られた」。
昭和三五年、私は外務省に出向して、ユーゴスラビアで日本大使館一等書記官として勤務していた。ここにあった旧ソ連(ロシア)大使館の外交官ともよく付き合っていた。あるとき、ひとりの書記官が、
「日本人はわが国についてどんな感情を持っているだろうか」
と質問した。私はこの時とばかり、ソ連軍が南樺太、千島に侵攻して来た時のキタナいやりかたについて、詳細に説明したうえ、
「日本人は貴国に対して極めて悪い感情を持っている」
と言ってやった。ところが相手もさるもので、やおら、
「貴国も第一次大戦の時、シベリアに出兵して数年間駐屯していたではないか。そのあと、満州の関東軍(カントウクンと言っていた)は、わが国に脅威を与えていた」
と言い返して来た。泥棒にも三分の理とは言え、いろんな理屈があるものだと思った。