一五  北方方面の情勢

沖縄での地上戦は六月末(昭和二〇年1945年)に終わった。沖縄本島南端の摩文仁(マブニ)に追い詰められた軍司令官の牛島満中将は長勇参謀長と共に洞窟のなかで古式にのっとり割腹白決した。
 
これで日本軍の組織的な抵抗はなくなった。
 
米軍は、那覇周辺に長距離爆撃機、Bー29の航空基地を急造して本土爆撃を始めた。これまでのサイパンから飛来するのに比べると、飛行時間、燃料も節減できるので、より効果的な打撃を与えることが出来ることになった。
 
わが方から沖縄の周辺の米軍を攻撃する手段は航空力によるほかなくなっていた。
 
ここに、九州方面の飛行場の重要性が浮上することになった。
 
しかし、それでも頽勢を挽回することは出来ず優劣の差は広がってゆくばかりであった。
 
その頃本土で空襲にさらされないでいたのは、東北地方の北辺の一部と北海道、樺太くらいになっていた。
 
茨城県の霞が浦で訓練をしていた海軍兵学校卒の士官候補生たち約三〇〇名が、千歳で訓練するために到着した。関東地方はもう絶えず空襲にさらされていて安全ではなくなっていたのである。教官達約五〇人を見て驚いた。その多くは片手、片足がなかったり、目が片方つぶれたりと、五体完全なのはいないのである。いずれも、空中戦で負傷したり、航空母艦が撃沈されてかろうじて助かったのである。それでも意気軒昂としているのには感銘を覚えた。
 
山口県三田尻沖に碇泊していた巨大戦艦「大和」は沖縄に向かって洋上特攻をかけたものの、雲霞のような米軍機に迎撃され奄美諸島の徳之島沖で撃沈されてしまっていた。
 
これで、本格的な日本艦隊の攻撃はないと判断した米海軍は大胆にも、長距離爆撃機が行けない北海道方面を、空母と艦砲射撃によって攻撃する作戦を計画した。
 
この頃になると、私のいた北海道や、樺太、千島列島の戦略的地位がにわかに高まっていた。
 
同盟国であったドイツは、既に五月七日に無条件降伏していた。ここでソ連の独裁者であったスターリンは、対独戦に向けてヨーロッパに集中していた兵力を反転して極東方面に大移動をするよう指示していた。
 
既に昭和二〇年(一九四五年)はじめ、クリミア半島のヤルタにルーズベルト(米国)、スターリン(ソ連)、チャーチル(英国)が集まって戦後処理についての会談を行なった。
 
この結果、日本に関連するものでは、日露戦争で失った利権をソ連が取り戻すこと、南樺太と千島列島をソ連に引き渡すことなどについての密約が合意されていた。
 
日本側ではそんな密約がとり交わされているとはつゆ知らず、ソ連に米国との戦争終結についての斡旋を頼むため、近衛文麿元首相を特使として派遣する計画をたて、ソ連側に働き掛けていたのであるから、外交感覚のないことはひどいものであった。ソ連側は言を左右にして返事をしぶっていたのであるから、これはおかしいと気がついてもよさそうなものであるが、気がつかないままであった。
 
しかし、南樺太と千島列島とを管轄していた千歳の北東空では、ソ連の動きが目に見えて活発になって来たことに注目していた。ソ連国旗を翻した船舶がオホーツク海の北海道よりの海上で出没する回数が多くなっていた。北海道と樺太の間の宗谷海峡を往来するソ連船も目撃されるようになってきた。このような兆候にいち早く気がついて、注目を深めていたのである。
 
陸軍は、札幌に北部方面軍司令部があり、司令官は樋口季一郎中将であった。同中将はかつてポーランド駐在武官もしており、陸軍では有数のソ連通として知られていた。千歳までお出でになった時にお目にかかったことがあったが、長身で武人らしい魅力のある人物であった。戦後ソ連側から戦犯に指名された。ソ連のことを知りすぎていたからであろう。
 
このあと北東空の大橋恭三司令は、管下の各部隊を視察して、ソ連が参戦した場合の対応策を指示していたが、こちらは航空戦用に編成された部隊が主力で、ほかに、基地防衛隊、千島方面の各島の防衛隊、海難救助用の小型船舶部隊といった程度で、有効な戦力にはとてもなり得なかった。
 
結局、陸上部隊としての総合力を備えた陸軍に頼るほかはなかったのである。陸軍から連絡将校が北東空に常駐することになった。
 
北のほうで、ソ連の圧力が加わって来ていることを、我々は肌で感じて真剣に対応していたのにもかかわらず、中央では、悠長にもソ連を仲介にして米国との講和に持ち込もうなどといった現実から離れた政策にうつつを抜かしていた人達の感覚が疑われてならない。
 
満州では八月九日にソ連軍に急襲されてあのような悲惨な結果となったが、関東軍では、ソ連軍の侵攻が近いことは分かっていたとのことである。
 
関東軍司令部の対応がまずかった為に、在留邦人が苦難の境遇におかれることになってしまった。中央でも相次ぐ空襲で国家の機能が麻痒して、ソ連から攻め込まれることを考える余裕もなかったのかもしれない。
 
しかし、米国側はこのようなソ連の動向に注目し始めていたようである。親ソ的立場をとっていたルーズベルト大統領は既に四月に急死しており、代わって就任したトルーマンはソ連の動きに警戒を強め始めていた。
 
特に、ドイツの降伏後は、戦後処理をめぐってソ連と米、英との対立は顕著になっていた。ソ連が極東方面に急速に兵力を集結し始めていることに疑念を持ち始めたようであった。
 
ヤルタ会談で合意なったものより多くの見返りを求めて、北方から攻め込んで来ることが米側で予想されるようになったようだ。
 
米海軍の機動艦隊が北方を目ざして攻撃をかけて来たのには、このような戦略目標があっての行動であったのかもしれない。
 
かくして、久しく静穏であった北方方面も、米国とソ連の戦略体制のなかにはさまれることになり、にわかにあわただしくなって来た。