一四  千歳基地の秘密

昭和二〇年(1945)の初夏、広大な地域に生い茂る亜寒帯の落葉樹林は、一斉に柔らかな若葉をつけはじめた。ここは梅雨がないので、そよ風に揺れる草原は太陽の恵みを一杯に受けて、むせかえるような香りを吹き寄せてくれる。この頃になると、関東地方まで敵の襲来にさらされることになり、本州では飛行機の訓練もままにならなくなってきたので、千歳を訓練基地に使うようにまでなり、この応接で多忙であった。
 
この頃、私は飛行士という任務についていた。飛行士の任務は、ここに往来する航空機が無事に離着陸できるように誘導し、乗務員の要望にこたえて機体の整備、燃料の補給、宿舎の世話といろいろある。空襲にさらされる本土などの地域からやってくると、いずれもホッとした気分になるようであった。敵の攻撃にさらされることがなかったことと共に、美しい自然の環境が心をなごやかにさせてくれることからきているようであった。なかには思いもかけずに友人と再会をすることもあった。しかし、やがてまた、ここから飛び去ってしまうのである。このなかの何人かと戦後また再会することが出来て、あの時のつかの間の安らぎの何日かを語り合ったこともあった。
 
訓練のため中部地方の基地からやって来た「月光」という名称の迎撃用戦闘機を主力とする隊があった。夜間に敵機と交戦するために制作された珍しい戦闘機である。昭和一七・八年に、南太平洋のラバウルにある日本軍の要塞が、米軍航空部隊の、昼夜に亘っての激しい空襲にさらされていたとき、夜戦での迎撃用に使って、大きな成果をあげて一躍有名になった。通常の戦闘機の場合、機関銃は前部に装備されており、プロペラの合間から銃弾が発射されることになっている。ところが、ラバウル海軍航空隊の搭乗員の、ある海軍中尉が、機関銃を座席の後部に装置して、銃口を斜め後に向けて発射することを考案した。敵機と遭遇したら、正面から打ち合いをするのではなく、下からもぐって擦れ違う瞬間に、下腹を目がけて弾丸を打ち込むというものである。昔の剣客の果たし合いで、いったん刃をかわして相討ちと見せ掛けながら、うしろに回り込んで切り付ける。あの戦法である。
 
ラバウル上空の夜戦で、この方法でやったところ、まるでフマキラーで蚊を落とすように、一夜で二十数機の敵機を撃墜して、一躍して名を上げることになった。
 
しかし、この新鋭機「月光」を大量生産して、日本本土に来襲する大型長距離爆撃機のBー29を迎撃する体制を整備するには、時すでに遅すぎていた。組立工場を破壊され、搭乗員の訓練もまだ充分ではなかった。訓練中の事故が多く、未完成の練度で実戦に参加するため本州に飛び去ったものの、あまり成果をあげることが出来なかったのは残念なことであった。

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昭和19年当時の筆者(千歳基地にて)

昭和二〇年五月には、ドイツが連合国軍に無条件降伏した。その前、ヒトラー総統はベルリンの総統官邸の地下壕で、結婚式をあげたばかりのエヴァ・ブラウン夫人と共に白殺した。
 
かくして、日本だけが窮地に追い込まれ、孤軍奮闘の状態にあった。しかも、形勢は日増しに悪化し、六月には沖縄の戦闘も終った。このような悲観的な環境に追い込まれていっていたなかで後退を続けてばかりいたのではない。北海道のこの地には、米軍にひと泡ふかせるための作戦準備が、ひそかに、進められていた。ひとつは、千歳基地から長距離爆撃機を飛び立たせて、米本土の西海岸の都市と軍事基地を爆撃しようとする計画である。
 
北海道から、サンフランシスコなどの爆撃を目ざすとしても、目的を果たしたあと、またここまで帰還することは出来ない。行くだけで、爆撃が終ったら米本土で白爆しようとするものである。この長距離爆撃のための離陸用に、既にあった滑走路から約五キロほど離れた原始林のなかに、長さ三、〇〇〇メートル、幅一〇〇メートル、厚さ三メートル(鉄筋入り)の新滑走路を急いで作り始め、春になって出来上がった。この基地は第二千歳基地と呼ばれていた。この工事には優秀な技術者が集められ、工事には膨大な労働力が結集されていた。
 
さて、その任務を持つ爆撃機であるが、「連山」と命名され、三菱重工業の名古屋工場で組立が進んでいた。ところが、完成間近にして名古屋工場が、サイパンから来襲する長距離爆撃機Bー29によって、生産設備と共に爆破され、この壮大な構想も遂に実現することは出来なかった。いまではあまり知る人もないけれども、当時の悲観的な戦況のなかで、これほどの大きなプロジェクト(計画)を描いて、完成寸前までにこぎつけていたのである。
 
米軍側も、こんな計画を着々と実行しようとしていたとは知らなかったようで、日本に進駐してきたあとこのことを知り、GHQ(連合国軍総司令部)の参謀部から、長距離爆撃機の専門の将官が、あわてて調査にやってきた。この高官は、滑走路と芝生の間を掘り起こして、厚さをはかったり、叩いて丹念に強度を調べたりしたあと、
 
「日本人が、よくこんなものを作れた。ベリーグッドだ」
と、感心していた。
 
戦後すぐに始まった米とソ連(ロシア)との冷戦のなかで、北方の戦略的な重要性が高まり、この滑走路はこんどは米軍の戦略爆撃機の基地として対ソ連作戦用に使われることになった。しかし、その任務は極めて機密性の高いものであったので、長らく外部から実態を知ることは出来ないままであった。
 
千歳基地では、もうひとつ米軍の心胆を寒からしめるような作戦計画が、ひそかに進められていた。本州、四国、九州各地の都市、工場、軍事施設が米軍の長距離爆撃機Bー29によって焼き尽くされようとしているのに、一矢報いてやろうというものである。
 
米軍側の基地は、南太平洋のサイパン、テニヤン、グアムの各地にあって、そこにBー29を約二、〇〇〇機駐機させていた。ここに決死隊を乗せた飛行機で接近して強行着陸し、米軍機を手榴弾で攻撃して焼討ちにして、本土空襲を出来ないようにしようというものである。燃料は、日本に攻撃に来る長距離爆撃機の半分でよいわけだ。焼討ちしたあと、日本に引き上げてくる計画などなく、全員現地で討死の覚悟で出かけるのである。万にひとつの生還の機会もない。この部隊は剣(つるぎ)部隊と呼ばれていた。隊員はいずれも、全国の海軍から選抜されて集って来ており、柔剣道、空手の有段者ばかりで編成された秘密の特殊部隊であった。みな長髪にして、服装も米兵と似たのを着け、武装したままでの水泳訓練、木登りのようなゲリラ戦をやるといった、これまでの戦法とは全く異なっていた。
 
集結していたのは、第三千歳基地といわれる原始林のなかで、滑走路も上空から見えないように迷彩を施されていた。さきの米本土爆撃用の連山を飛ばすための第二千歳基地のさらに西の方にあった。宿舎は、一棟に約二〇人くらい入れるもので、直径一〇メートルほどの円形の建物で、上空からは分からぬように地形に合わせて散在して建てられていた。いまでもリゾート風の高原の別荘として、立派に通用しそうな建物であった。
 
乗り組んで行く予定の飛行機は、一式陸上攻撃機が予定されていた。山本五十六元帥が、南太平洋のブーゲンビル島上空で、米軍のP38機に待ち伏せされて、撃墜され戦死した時に搭乗していたのと同型機である。燃料も、付近の原始林のなかに分散して貯蔵してあった。ところが、必要な数の飛行機が集まらず、遂に決行しないままで敗戦となってしまった。全国から集まった決死の者達であるから、なにしろ、みな血気にはやり、日本刀を振り回しては建物に傷つけたり、暴れ回る有様で、上官はこの取り扱いに苦労していた。敗戦後、まず、彼等の武器をとりあげて解散させて、早く夫々の故郷に帰せということになり、復員の順序の第一番の組になった。進駐してくる米軍に切り込みでもやられたら大変だというのである。あの元気のよかった若者達は、いまどうしているのであろうか。