一三  北海道の自然

ここでしばらく、当時の北海道の自然について紹介しておきたい。なにしろ不思議なめぐり合わせで九州の果てから北辺の地に行ったのであるから、なんでも珍しいことばかりであった。青函連絡船で函館に着くと、自然の風景が一変して別の世界に来たような感じになる。九州から、ここまでの距離をざっと測ってみると、南に行けば台湾の南までと同じという遠さである。わが国も、面積はあまりひろくないとしても、長いものだなあと思った。
 
夏に泳げるのはせいぜい二週間で、八月も下旬になると、もう晩秋に入った感じで、水からあがると鳥肌が立つほどである。軍事施設には珍しく二五メートルのプールがあって、水は豊富にあっていつも入れ替えていた。支笏湖を水源とする千歳川の清水をふんだんに入れるので、気持ちがよく、体力を作るのには大変に良いものであった。
 
九月に入ると、落葉樹の多いこの原始林がいっせいに色づいて葉を落としはじめる。”音を立てて葉が落ちるような”という表現がぴったりとするくらいである。
 
この頃になると、野生のリスが木の実を取りに大木をかけ上ってゆくのをよく目にすることがあるが、実に動作が機敏で、逃げ足が早くてどこにもぐったのか判らなくなる。
 
しかし、見るからに可愛いもので、童話の材料に登場するわけがよく理解できた。一〇月になろうとする頃、千歳川は、海から遡上してくる鮭の大群によっていっぱいになる。九州の川では小魚が泳ぐくらいしか知らなかった私は、その壮観さに圧倒されてしまった。産卵の場所を求めて上ってゆくのである。海では銀白色で回遊しているそうだが、いったん川に入ると黒ずんだ色になり、紫、黄色も混じっている。
 
航空基地の近くの川の幅は一〇メートル幅もなく、深さは二メートルそこそこであるが、それが、競って上流に向かう鮭の群れでいっぱいで、最盛の時間には水面からはみ出して、飛び上がらんばかりに急いでゆくのが見られる。
 
ここからずっと上流の浅瀬に辿り着くと、ゆっくり産卵場所さがしを始める。一生にただ一度しかない産卵の機会である。
 
まず雌が、小石と砂のかげの場所に近付き、慎重な動作で、条件に合っているかどうかを確かめて、卵を産み落とす。すると、近くで待機している一匹の雄が、すかさず、卵にふりかかるように精子を出す。ここで一対の、雌雄の鮭の使命は終ることになる。体力を消耗してしまった雌のほうは、白い腹を上に向けて、口をゆっくりとうごかしながら死に絶えて、下のほうに流れ去る。雄のほうも、数日後には、同じ運命を辿ることになる。まことに、劇的なる一生である。
 
艀化した稚魚は、翌年の春頃まで川で過ごしたあと、海に向かってゆく。海で三〜四年ほど過ごしたあと、成魚になって、再びもとの母なる川にかえって産卵するという、不可思議な習性をくりかえしている。大海を数年も泳ぎまわったあとで、確実にまた、いったんあとにしたもとの川にもどってくることは、科学的に実証されている。
 
稚魚の頃に覚えた川の水の、特殊な匂いを嗅ぎ分けて来るとされており、稚魚のときに別の川で育った場合には、一番あとの川に向かって上ってくることが実証されている。
 
このような回帰性本能をどうして持っているかについては、海流の方向と水温との関連、太陽の位置と、鮭の体のなかにある磁気コンパスの関係、水の温度と、餌との関係といったいろんな説があるが、まだ、このうちのどれが本当の理由なのかは、分かっていないそうである。
 
大群をなして上って行ってから数日たつと、濃い青色であった水の色が、にわかに白い色に変色する。これは、雄が卵に精液を噴射したのがまとまって流れて、乳白色になるのだとのことであった。いやはや、まことにすさまじいばかりの生命の誕生の動きが、この原始林の間をぬって流れる、川の上流で展開されていたのである。
 
一〇月もそろそろ終わろうとする頃、初雪が降り、近くに見える恵庭岳の頂上は、白色でおおわれる。
 
雪というのは、二〜三日で融けて水になるものとばかり思っていたが、ここはいったん降ったら、もう翌年の五月頃まで融けることはない。融け始めたら、一斉に、水になるのであるからたまらない。水は、低い方に向かって流れ出し、道路が川のようになってしまうことになる。
 
水が流れ終わると、こんどは新芽とあらゆる花が一緒に咲き乱れる。その美しさは本当に印象に残るものがある。梅から桜、つつじと順々に咲いてゆく本土の場合と違って、こうしたのが草花と共にいちどに花を開くのである。さて、話をまた冬のところに戻すと、一一月になると、スキーが出来るようになる。基地には、スキー用具が戦闘用として装備されていた。北方からソ連が攻め込んで来たときの雪上戦のための備品である。滑走路に雪が降ったときに備えて除雪隊という珍しい部隊もあり、当時としては最新の除雪車が三〇台ぐらいもあった。
 
冬になると本土から飛来する航空機も少なくなり、あまりなすこともなくなり、スキーの練習を始めた。初めて覚えたわけであるが、雪の上を下駄ばきで歩くようなものであるから、すぐに覚えるだろうくらいのつもりでやってみたが、平面をたどることに慣れるようになるだけでもたいへんで、また、いつも使っていない筋肉を動かすのであるから、翌日は体の節々が痛んでベッドから起き上がれないくらいであった。
 
基地から四キロほど離れた傾斜面に専用のスキー訓練場があった。そこに行くには原始林のなかを通ってゆくことになるが、雪の上にいろんな動物の足跡が残っている。足の跡の雪の上についたその歩幅から、どの動物のものか判るのである。北国生れの人が、これは狐、あれは鹿、リスと説明してくれたが、実物にお目にかかったことはなかった。人の足音、話し声ですぐに逃げてしまうのだそうである。幸いにして熊は冬眠の季節でお目にかかれなかった。
 
このスキー場に、近くの小学校から子供達が、先生に引率されてやって来ていた事があった。見ると、足につけ、手に持っている用具といえば、恐らく手製のものと思われる、平たい板に素末な紐を通したもので杖は持っていない子もいる。
 
ところが、まるで、下駄でも扱うように巧みにあやつって飛んだり、急斜面をスイスイと急滑降するのだが、ひとりも転がる者はいない。こちらは、立派な用具で装備しているのに、すこし斜面を通ると尻もちをついたり、転げたりする有様である。
 
現在、スキーの舞台で活躍している有名選手のほとんどが、北国の出身であるが、この人達も幼少の頃からこうして雪のなかで生活しながら成長したのだろうと思う。スキーというのは年がいってからやっても、伸びるのには限度があると思う。
 
あとで、仙台、盛岡で勤務していたことがあったが、スキーをやることが出来たために大変この地の冬を楽しく過ごすことが出来た。兵庫県(神戸)に居たときも、日本海側は雪の多い地帯で「氷ノ山(ひよのせん)」のスキー場では、全国高校の選手権大会もあったほどのところで、ここでもやった。ユーゴスラビアに居た時も、冬場は豪雪に見舞われるので、庭や家の近くの坂道で楽しむことが出来た。何でも一応の事は知ってやっておくことは大事なことだ。
 
雪のことで、もうひとつ思い出すのは野菜、肉類の保存のために、雪を利用するのを見た。はじめに降ったのが積もってゆくのであるから、白菜のようなのを雪のなかに入れておくと、これが冷凍庫のような作用をして、保存出来るので、冬場でもパリパリとした新鮮なものを食べることが出来るというわけである。生活の知恵とは、こんなものであろう。