一二 宇垣中将の酒
千歳基地から勇躍して飛び立った七〇一空が、南西太平洋方面で転戦し、全滅するほどの打撃を受けたことについて述べたが、あとに残された我々のことについて述べることにしよう。
活気と若さにあふれる雰囲気に満ちていた基地は、主力が去ったあと、ひっそりとした静寂に包まれてしまった。
南方各地から伝えられてくる戦況も、日が経つにつれて、わが軍の劣勢の様子は日に日に明らかとなっていった。
あの人も戦死、この人も行方不明と、もたらされるのは悲報ばかりであった。毎日、お通夜をやっているようなものであった。
東条英機首相は、サイパン陥落のあと既に辞任し、小磯国昭陸軍大将が、朝鮮総督から首相になっていた。
海軍では、このフィリピン、特にレイテ島の争奪をめぐる海と空の戦場に、当時の精鋭を注ぎ込んで決戦を挑んだといってよかった。
もし、レイテ島を米軍に占領されたら、フィリピン全土を制圧されることになり、ここを起点にして北上を続け、遠からずして本土が戦場になるものと思われた。
そうなると、米軍がまず上陸するのは、南九州か四国の南岸、それに関東地方の南部になるだろうと予測された。日本側でも、水際作戦といって上陸したところで迎撃する計画を立て始め、満州方面の精鋭部隊をこの地域に移動させて、陣地構築と訓練を始めた。
戦後、アメリカ側で発表されたところでは、本土侵攻計画はオリンピック作戦の名で、南九州と東京のそばの相模湾から南関東に上陸することになっていたそうである。
はしなくも、双方の作戦計画にあたった者の思惑は一致したわけだ。
さてそうなると、我々のいる北方方面は、主戦場から遠ざかってゆくばかりであった。当時、千歳には第一二航空艦隊司令部があり、その直属部隊として、私が所属していた北東空があった。両者共に同じビルに入っており、司令部は二階、私達は一階に入っていた。さきに述べたようにこのビルは、堅牢そのものの半永久的建物で、いまでも、航空自衛隊の北方方面航空群司令部として使われており、私の居室、仕事部屋も、現在もそのままで使われている。
第一二航空艦隊の司令長官は、宇垣完爾中将であった。同中将は、米英との提携を主張したために失意の境遇にあった陸軍の長老、宇垣一成陸軍大将の甥にあたる人であった。
宇垣中将も、米英との戦争には反対の姿勢を貫いていた。海軍部内では、米内光政大将、山本五十六大将(戦死後元帥)、井上成美中将といった米英協調派に入っていたため、米英と開戦のあとは中央から遠ざけられ、北海道に無柳をかこっていた。
七〇一空が南方に飛び去ったあとは、特になすこともない日々を送っていた。戦況は不利になるばかりであった。夜になると参謀長、副官等の取り巻きを引き連れ、千歳には一軒しかない料亭に憂さ晴らしにと出かけるのである。
宇垣長官は、こと志とちがい中央から遠ざけられ、戦局は日に日に悪化してゆくことが余程腹に据え兼ねていたようであった。前夜から飲みつづけて、深夜に酔い潰れ、午前様どころか翌朝に帰るということもしばしばであった。飲み始めて酔いが回りはじめると、本音が出て、開戦したとき最高の権力を持っていた、東条英機大将(前首相)の批判が始まる。
「東条(英機元首相)のバカヤロー」
と、日頃の憤懣が大声で出る。そのやるせない心境は察するにあまりがある。折悪しくこの料亭から近いところに、憲兵隊の千歳分遣隊があった。親米英派の宇垣長官の言動には常に目を光らせていることが分かっていた。そこでお伴の参謀長や副官達は、長官の、
「東条が…」が始まると、外に声が漏れないように大声を張り上げてほかの話をしたり、軍歌をうなるやらで、憲兵の耳目を胡麻化すのに大変苦労していた。当時は海軍の将官といえども、憲兵の目が光っていたのである。
宇垣中将は堂々としたなかにもスマートなスタイルで、そばで見ているだけで引きつけられるような魅力のある重厚な人物であった。戦後は、岡山県出身のよしみで、旧藩主にあたる池田家の顧問を長くされていた。
さて、長官と憲兵のことでとばっちりを受けることになったのが、我々下級の士官である。千歳の料亭で飲んでいて、長官御一行の将官、佐官クラスとばったりと鉢合わせでもしたら折角の酒の味もうまくないし、それにこちらも親米英派と見られて憲兵に尾行でもされたら一大事である。君子は危うきに近寄らずと、他に転進することにした。
ここから二時間もすれば登別温泉や苫小牧まで行くことが出来る。また、すぐ近くに小さい温泉があるので、こうしたところで飲むことになった。すでに珍しくなっていた、上級の日本酒や缶詰類を持って行ったので結構もてたものである。
飲むほうの話が出たので、食べるほうをひとつ。これはまだあとになって、昭和二〇年に入り、戦争はいよいよ不利となり、各都市への爆撃が始まり、焼夷弾で焼き払われていた頃の話である。緊張状態にはあったものの北海道だけは、ひとり圏外にあって静かであった。口コミで伝えられてくる本土の食糧難の話を聞いても、あまりピンと来ないほどに恵まれた状態であった。
海軍は、当然のことながら、船が主力とされており、必要な弾薬と共に、ひと航海に消費する食糧もたっぷりと持っていることが原則とされていた。腹を減らしながら戦争するといったことは考えられなかったので、幸いにしてこの方で不白由な思いをしたことはあまりなかった。それに北海道というところは、肥沃な土地と魚類の豊富なところである。九州育ちの私には、珍しいものばかりであった。
栗カボチャというのがあった。カボチャといえば水分が多く味もないものとばかり思っていたら、ここのは甘くて水気の少ないカラッとした、カステラに似た味のするものだった。この味は忘れることが出来ない。
この頃、隊の幹部で気のきく人がいて、本土では食糧難でたいへんのようだから、幸い当地特産の塩鮭を一本ずつ実家に送ることにしようときめ、士官クラスに連絡があった。私は、本土では北は仙台から九州の博多、久留米までの大都市がおおかた焼き払われ、鉄道線路も爆撃されて混乱状態にあるとき、全くお目にかかることができなくなっている塩鮭を、九州の田舎まで送って貰ったところで、とても着くことはあるまい、しかし、食べ物だから送っている途中で、誰かひもじい思いをしている人の腹に入って満足してもらったら、ささやかな人助けになるだろうくらいに思って、配達先を書いて出した。
ところが、あとで敗戦後に家に帰って聞かされたところによれば、いささかも損傷することなく、こも包みされたままの状態で近くの鉄道の駅に着き、家人が受け取って帰ったそうである。この塩鮭は、わが家ではたいへん珍重され、喜ばれたとのことだった。
この塩鮭一本は、わが家の台所の天井の梁に吊るされて、しばらくの間、毎日、私のことを偲んでは少しずつ切って食べたということである。久し振りに手に入った珍味は、わが家族の食欲を刺激することになり、米が早く減って困るほどだったといって嬉しい笑い話にされた。
私が驚き感心したのは、あの混乱の世情のなかにもかかわらず、当時貴重品であった塩鮭が、正確に九州まで届き、家族が手にすることが出来たということである。私は改めて当時の国鉄(現在のJR)の規律の高さと、仕事の正確さに敬意を表した。