一一 フィリッピン周辺の戦闘
昭和一九年九月にはいると米海軍機動部隊はフィリピン群島の各地に奇襲攻撃をかけて来た。当時、現地には、海軍の艦船、航空機が散開していたが、物量が豊富で練度の高い米国の海軍には勝つすべもなく、連戦連敗の状況であった。
こうした戦況のなかで大本営は、九月二一日捷一号作戦を準備するよう命じた。この作戦は、本土方面に配備していた航空戦力を台湾から南九州方面に展開し、状況によってはフィリピンに進出させようとするものであった。
一〇月にはいると米海軍機動部隊のフィリピン、台湾方面での動きはにわかに活発となり、米陸軍主力部隊がフィリピンを目ざしていることがほぼ明らかとなった。一〇月、米海軍機動部隊が沖縄、台湾方面に接近し、特に那覇市は艦載機約一、〇三〇機によって空襲を受けることになった。大本営海軍部は捷一号作戦警戒を指示した。つづいて連合艦隊司令長官は、北海道方面に展開していた七〇一空に「南九州方面に進出せよ」との命を出した。
北千島の筵莚島の基地に数機の爆撃機を残しただけで、あとはすべて千歳に結集した。本土決戦のために温存していたこの貴重な航空隊まで南方に向けなければならなくなっていた。
私も当然、同行するものと思って準備をしていたところ、副司令(副隊長)から「君はここに着任したばかりだからここに残れ。七〇一空が出動したあと、この基地に北東方面航空隊(北東空)が編成される。残留して準備にあたれLと言い渡された。ここでも、私は、大きな運命の転機に遭遇したのである。
さてここで、わが七〇一空のその後の様子をたどってみよう。南方進出の前日の一〇月一〇日の夜は基地全体があわただしかった。格納庫をはじめ、多くの野外に駐機している飛行機の整備のため徹夜の作業が行われた。
営舎では、壮途を祝う宴があった。全員士気高く、米軍の機動艦隊なにするものぞとの感が溢れていた。
この頃、そろそろ北海道は気候が変わりはじめる。この北辺の地は冬が約半年、春が約三か月、夏と秋はあっという間に過ぎ去ってしまう。一〇月のはじめ落葉樹におおわれたこの地一帯の木という木はいっせいにとりどりに色づきはじめる。
一〇月一一日、この季節にしては珍しくうす曇りの空模様であった。北海道をはじめ、千島諸島、南樺太から集結した彗星と九九式爆撃機と護衛の零式戦闘機、整備員のための輸送機合わせて一八五機は木田達彦司令(大佐)に率いられ勇壮な爆音を残して離陸し、やがて編隊を組んで南に向かった。
この中にはこの地ではからずも再会した緒方徹中尉、坂井長人上等飛行兵曹もはいっていたことは勿論である。
短い期間であったが、千歳基地で共に過ごした戦友達のその後の様子をいくつか書き留めておきたい。
香取基地(千葉県)にいったん着陸したあと、つづいて本州の南岸沿いに南九州の国分基地(鹿児島)に向かった。この頃、米機動艦隊は台湾、沖縄方面に陽動作戦を行い、日本軍の動きを牽制するなかで、マッカーサー・太平洋方面軍司令官の率いる約六万の米軍部隊が、レイテ島に上陸を開始した。
大本営海軍部はここに捷一号作戦を発動した。これによってフィリピン群島周辺での熾烈な死闘が陸海空域で展開された。
七〇一空は国分基地からさらに南進を命ぜられ、沖縄の小緑基地(現在の那覇空港)に着陸した。
米空軍の攻撃も急で台湾上空で彼我の戦闘が開始されたのでさらに南下して台湾の台東基地に集結した。
一七日、台湾沖航空戦が展開されたが、この日、七〇一空では池内大尉を長とする彗星部隊は全機撃墜され、長曽部大尉の部隊は指揮官機のみ帰還し、あとはすべて撃墜された。千歳を出てわずか六日後のことであった。わが方はまだ訓練中であったため、米軍機を圧倒するだけの充分な練度に達していなかったのだ。
一〇月二二日、七〇一空はマニラの北方にあるマバラカット基地に進出することになった。ここで第一航空艦隊(長官、大西滝治郎中将)に編入され、いよいよ本格的な決戦にはいることになった。
この頃、レイテ島では米軍の圧倒的な勢力に押され後退をつづけていた。海上でも、海軍部隊は死力を尽くして戦っていた。第二艦隊(司令長官栗田健男中将)は同じく二二日ボルネオから出撃し、レイテ沖を目ざしたが翌日パラワン島沖で重巡洋艦愛宕、同じく摩耶を撃沈された。それでも目的地のレイテ湾の入口付近まで接近した。
その頃、小沢治三郎中将の率いる機動艦隊はおとりとなって航空部隊と協力し、レイテ周辺の米海軍機動部隊を北方海上におびき出し栗田艦隊のレイテ湾突入を容易にしようとしたが、どうしたことか反転してボルネオに向かった。この海戦で日本側は戦艦三隻、空母四隻など三〇隻を失った。
陸上競技部の先輩の緒方徹中尉も彗星五機と共に艦隊の護街の任務を命ぜられて出撃したが、二五日ミンドロ島上空で撃墜され戦死した。千歳で別れてわずか二週間後のことであった。この島の周辺の海と空では死闘が展開され、前日には、ミンドロ島沖で巨大戦艦武蔵が沈没している。このとき出撃した米軍機は二五九機であったと米側の資料にある。
もうひとりの中学の友人、坂井長人上等飛行兵曹もこの頃、フィリピン近海の空中戦で撃墜されてしまった。
この数日間の空中戦で七〇一空は約半数の飛行機を失うという損害を受けた。
戦果もあがっている。千歳に居たとき、執務室に黒木という飛行兵長がよく来ていた。翌日の訓練計画の打合せのためである。霞が浦の練習部隊を出たばかりで年齢も一八か一九歳くらいの可愛い紅顔の若者であった。私がこの前にいた、富高の出身だとのことで懐かしく思っていた。彼は、レイテ湾付近の米軍機動艦隊を攻撃するため出動し上空から大型の航空母艦を発見するや、機体に爆弾をつけたまま中央甲板を目掛けて体当たりを行った。空母は瞬時にして真っ二つに割れて沈没したとのことである。
このあと劣勢を挽回するための最後の方法として神風特別攻撃隊が編成されることになる。
フィリピンのレイテ島に奇襲攻撃をかけてきた米軍は、これを迎撃する日本軍を圧倒して、着実に優勢な地位を保っていた。
米軍は、陸海空の三軍が緊密な連携を保ち一体となって動いているのに対して、日本側では、米軍のレイテ島上陸の直前になって、陸軍部隊の司令官に山下奉文大将を任命した。同大将は、はるか満州の奥地からフィリピンにかけつけるという有様で、レイテ島がどこにあるのかすらも知らなかった。
そのうえ、現地では陸海軍は連絡不充分のため一体となった作戦がとれず無駄な作戦行動をとっていた。どれほど大きなマイナスの要因となったか分からない。圧倒的な生産力を持つ米国に対して、日本側では補給が続かず、日に日に劣勢に追い込まれてゆく状況にあつた。
優勢な米軍航空機は、わが方の基地に先制攻撃を加えはじめ、飛び立っ前に破壊される航空機も多くなってきた。
一〇月一一日、北海道の千歳基地から勇躍して沖縄、台湾を経てフィリピンに到着したわが七〇一空の精鋭も一〇月下旬頃には、相当数が撃墜又は破壊され、戦闘能力があるのは半数以下になってしまった。
フィリピン方面の海軍航空部隊の指揮をとっていたのは第一航空艦隊司令長官・大西滝治郎中将であった。大西中将は山本五十六大将と共に海軍航空隊の育ての親といわれていた人物であった。大西中将も激戦が展開されていた台湾の新竹航空基地に数日足どめされてようやく着任したばかりであった。
雲霞のように来襲してくる米軍機に対して、消耗するわが航空機を充分に補充することはもう不可能となっていた。さらに、わが方の飛行機の搭乗員が練度不充分のままで空中戦を重ね、そのたびに損害が続出する状況にあった。ここでなんとか起死回生の策を講ずる必要に迫られることになった。
大西長官は特別攻撃隊を編成して米海軍を攻撃させる計画には消極的であった。なにしろ、二五〇キロの爆弾を着装したままで体あたり攻撃をかけようとするのである。生還の可能性が全くない戦法は古来、統率の邪道とされている。
しかし、わが方の劣勢がはっきりしてきている厳しい戦況のもとにあって、なんとかして部下に意義のある死にかた、即ち撃墜されてしまうより、必中の体当たり攻撃をさせるのもやむなしとの気持ちになっていった。
苦闘を続ける状況を見過ごすことが出来ず、ようやく特攻による攻撃をとることになった。この特攻隊は神風特別攻撃隊といわれ、夫々の編成ごとに固有の名称がつけられることになっていた。
第一回の攻撃は昭和一九年一〇月二五日、戦闘第三〇一航空隊の関行男大尉を隊長とする零式戦闘機五機による攻撃で敷島隊と命名された。
ルソン島のマニラに近いマバラカット基地を未明に飛び立ち、やがて、レイテ島の北、マール島のタクロバンの沖合で米軍の空母セント・ローとカリニン・ベイ、ホワイト・プレーンズを発見し、体当たりして撃沈する戦果をあげた。
このような戦果をあげたすぐあと、現地に到着して間もない七〇一空でも特別攻撃隊への熱烈な志望が高まり、直ちに編成された。関大尉の敷島隊の出撃のわずか二日後のことであった。北海道の千歳を出て一七日後のことであった。
七〇一空で神風特別攻撃隊となって散った人々は次のようになっている。
純忠隊(隊長・深堀直治大尉)
誠忠隊(隊長・五島智勇喜中尉)
至誠隊(隊長・団野功雄中尉)
神兵隊(隊長・藤本勇中尉)
神武隊(隊長・坂田馨上等飛行兵曹)
天兵隊(隊長・土屋和夫中尉)
鹿島隊(隊長・吉田正毅飛行兵曹長)
神崎隊(隊長・和久田道雄上等飛行兵曹)
神武隊(吉村正二等飛行兵曹)
であった。いずれも懐かしい人達である。
北海道でわずかの期間ではあったが、共に過ごしたことがいまでも、つい昨日のことであったかのように鮮やかに想い出されてくる。
この頃、神風特別攻撃隊について、皇太后陛下(貞明皇后、昭和天皇の御生母)は、
東雲(しののめ)の 大空かける 鳥船に
乗る人心(ひとこころ) 思いてぞ泣く
と詠まれた。
このようにして始まった体当たり戦法による攻撃は、これから一〇ケ月後の昭和二〇年八月の敗戦まで続いたのである。
わが国が連合国のポツダム宣言を受諾して降伏したとき、大西滝治郎中将は軍令部次長であったが、その翌日の未明、日本刀で割腹白決をされた。
遺書のなかに次のようなところがある。
「特攻隊の英霊に曰す、善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども、その信念は遂に達成せざるに到れり。吾れ死をもって、旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」
フィリピン方面での七〇一空の最後の様子は、特攻隊に編入されながら、かろうじて生存して帰国することができた、木船真治上等飛行兵曹によれば次のようになっている。
「七〇一空の中心拠点であったマニラ北方のマバラカット基地も数回に亘る米軍の空襲のため、特別攻撃隊用の航空機も地上で爆破されてゆくようになつた。フィリピンに進出して二〇日目頃になると遂に一機もなくなり、新しく補充されるのを待つようになった。
東京の大本営海軍部では、生き残った七〇一空の数名の特攻隊員のために、飛行機を新たに補充してまで飛び立たせるのは、あまりにもしのびないと思ったのであろう、一一月一五日に、内地に引き揚げの命が出た」
千歳基地を飛び立ってわずか三五日目のことであった。
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天兵隊の出撃
土屋中尉の天兵隊の出撃前の打ち合わせ。3機出撃し、3機ともレイテ湾の米艦に体当たりした。(「大いなる戦場」潮書房)
こうして、七〇一空は、沖縄、台湾、フィリピンの各地で死闘を展開し全滅に瀕したのである。特別攻撃隊はこのあとも敗戦まで一〇ケ月間米軍進攻の前に立ちはだかり続けた。
攻撃基地もフィリピンから台湾、沖縄から本土へと追い上げられながらも、敵を恐れさせ、悩まし続けた。
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米空母に突入前の特攻機(米軍側から撮影)
(「太平洋戦争に死す〜海軍飛行予備将校の生と死〜」 蝦名賢造著 西田書店)