一〇 運命の前夜
どこまでも見渡す限りひろがった北海道の大原始林のなかにある豪壮な千歳基地で、私ははからずも旧友二人と再会をすることになった。だが、それもつかの間のこと、共にかつての学園の思い出を語り合うこともできず、わずか一〇日ほどでこんどは永遠の別れとなってしまった。
着任当夜のこと、士官室食堂に入ったところで「オイ」と呼びかける中尉がいる。なんと緒方徹先輩ではないか。
緒方徹先輩は、鹿児島の旧制七高の陸上競技部の三年先輩で、中距離を得意にしていた。
私が入学した前の年に卒業して、京都帝国大学法学部に入った。
日米戦争が勃発した翌年の昭和一七年、海軍予備学生を志願して霞が浦の航空隊に入った。
大阪の北野中学(現北野高校)の出身、色白く、中肉中背で、流石に加茂川の水で育ったことを思わせ、平安時代の若いお公卿さんを連想させるような風格を持っていた。
ご両親も気をきかせて、入隊前に京都のご令嬢と結婚させたものの、短い新婚生活を過ごしただけで、離ればなれで過ごすことになったのである。
緒方先輩は入隊を前にして、別れに鹿児島を訪ねて来た。我々陸上部員は安ものの焼酎を酌み交わし別離の会を催した。鹿児島で別れてから二年数か月、奇しくも北海道で再会することになった。
緒方先輩は当時、海軍航空隊では最新鋭の艦上攻撃機”彗星”に乗り組んでいた。
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千歳基地にて
もうひとりは、久留米の明善中学(現明善高校)で、同じく、陸上競技部で中距離を走っていた坂井長人君である。
この頃の明善中学陸上競技部といえば、全国でもトップの座を長く保持していたほど有名選手を擁していた。
坂井君は、浮羽郡田主丸から汽車で通学していた。温和ながら我慢強い性格で、黙々と練習に励んでいた。
中学を卒業したあと甲種飛行予科練習生を志願し、南太平洋のソロモン群島方面での日米の航空決戦に参加したあと、ここに来ていたのである。坂井君との再会は四年振りのことであった。
だが、我々はお互いにゆっくりと語り合う時間もなかった。また、運命的な別れが目前に迫っていたのである。
七〇一空の飛行隊長は、海軍兵学校出の江間保少佐であった。同少佐は、南太平洋のソロモン群島方面の上空で、戦闘機で米国の戦闘機と遭遇し、翼を打ち抜かれてキリもみ状態となったことがあった。
絶体絶命となった同少佐は、最後の力をふりしぼって、操縦桿を力いっぱい引きしぼったところ、不思議にも水平状態にもどって奇跡的に生還したという伝説的な体験を持つ人である。人間も、いったんこうした境地にいたことがあると、立派な風格が備わってくるようになるものだと思った。
これはあとの話になるが、江間少佐はこのあと、台湾沖、レイテ沖等の航空戦で米空軍と戦った。我が方は、全滅に近い状態になったが、遂に生き残り、敗戦を迎えたあと浜松に帰り、親戚の方が経営して居られる河合楽器の監査役をやられ、数年前に他界された。
さて、千歳基地を本拠とする七〇一空は、美幌基地(現在の網走の女満別飛行場)南樺太の敷香基地、千島列島の択捉島の天寧基地、さらに、カムチャツカ半島を望む幌筵(ホロムシロ)島を拠点にして、北辺の守りを固めていた。千歳を中心に展開していたのは攻撃一〇二飛行隊、美幌のは攻撃一〇三飛行隊と呼ばれていた。
既に制海、制空権を失ったわが海軍は、どこから攻撃をかけられるか分からず、この広人な地域を守備範囲とする七〇一空の任務もたいへんであった。
いっぽう、相次ぐ太平洋上での決戦で搭乗員の消耗も多く、補充が間に合わない状態であった。新任の隊員の練度も充分ではなかった。九七式艦上攻撃機と彗星を千歳と美幌基地に集め、この地に展開した昭和一九年中頃から急降下爆撃の実戦訓練が始まっていた。基地のなかに仮装目標を設置して約二、〇〇〇メートルの上空から急降下にはいり、目標に爆弾を投下する訓練をくりかえすのである。
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陸上攻撃機の編隊
この過程を修了した者は、小樽沖に小型の船を仮装敵艦に見たてて、これを目がけて模擬爆弾を投下する練習に入る。この急降下爆撃は、約四五度の角度から入ってきて、地表近くまで急降下したところで水平にかわり移動するというものである。ほんの一瞬の操縦桿の操作を誤ると機体もろともバラバラになってしまう。筆者が着任した前後一週間で二機が原始林と海面に激突して乗務員が殉職した。
捲土重来を期して北海道でこのような激しい訓練に励んでいた頃、米国では史上最大の機動力を持つ戦闘体制が強化されていた。