七  富高航空基地

まず佐世保に集合し、そこで、専修する部門に区分けされて、各地に分かれることになる。
 
私の次の行さきは、鹿児島海軍航空隊であった。先日まで、学んでいた鹿児島にまた逆もどりして配属されることになった。ここで基礎的なところを約三ヶ月やらされた。
 
主なことは、これまでやった教練と、カッターといってボートを漕いだこと、あとの学習は、座学といって、要するに室内の授業である。
 
ふりかえってみると、一ヶ月もあれば充分に習得できる程度のものであった。
 
戦争も、日本に不利な状況になっているときに、なんでこんなのんびりした教育をやっていたのか不可解であった。
 
戦争やっている相手の米国でも、多くの青年達が学校から軍隊に入っていた。学生が戦いの帰すうを決めるとさえいわれていた。むこうでは、すぐに実戦訓練課程にはいって成績の良いものから戦場に送り込んでいた。人口も多く、戦略資源も豊富な国にこのやりかたで来られたのではとても対抗できなかったのは無理もない。
 
どうしてこんな拙劣な教育をやったのであろうか、と思う。
 
一般の社会から入ったら、まず徹底的に娑婆気をとって、ひとかどの軍人精神を体得させる必要があるというところからの発想であった。
 
それでも、海軍は、言葉をかえれば、大技術者集団といえるものであったから、ある程度の合理的なところはあった。それにしても国家危急の時に、無駄な時を浪費したものである。
 
初級訓練課程を改善し合理化しておけば、形勢を逆転させることはできなかったにしろ、もっとましな戦争をやって、有利な講和に持ち込むこともできたのではなかろうかと思う。現在のような人間の管理についての研究が始まったのは戦後のことで、当時は精神教育を繰り返してやっていた。
 
このあと、宮崎県の富高航空基地にかわった。現在の日向市の細島である。小さい漁業の町の海辺にあり、艦載機の訓練と休養のために作られた基地であった。
 
海岸に出ると、まさに白砂青松とはこのことかと思われる美しい海浜がつづいている。
 
海岸の砂を掘り下げてなにかとっている人がいる。下のほうに蛤の分厚い貝がらが層をなしてうまっている。
 
ここは有名な碁石の白の材料になる蛤の産地だということを知った。
 
砂浜を手でひっかき回すと、畳一枚くらいの広さのところから一〇個くらいの蛤がすぐにとれる。
 
松の木の下で、松の枯枝に枯葉をのせ、その上で焼くと、忽ち即製の蛤焼きが出来る。あの味のよさはいまでも忘れることは出来ない。風流なものであった。
 
ここからほど遠くないところにある歌人の若山牧水が生まれた坪谷村を訪ねたこともよい思い出となった。
 
日向灘に注ぐ耳川が、エメラルド色をして、鮮かに流れる途中で合流する坪谷川をさかのぼるところに、旅と酒を愛した牧水の生地がある。
 
私はこの人の歌にかねてからひかれるものがあったので、ゆかりの地を訪れる事ができ、望外の幸せを感じた。
 
坪谷村の地形がわが生まれた村と実に良く似ていたことも、つかの間のことであったとはいえ懐かしい思いがした。
 
“この村いでん日はいつと
  思いみだるる岡の上” の書き出しの”幾山河”のなかで

 ふるさとの 尾鈴の山の かなしさよ
   秋も霞の たなびきており

をつぶやきながらしばし瞑想にふけった。
 
後年、牧水の御子息で、牧水全集を編纂されていた旅人氏にお目にかかって、この時のことを話したらたいへん喜んでおられた。
 
サイパンが米軍の手に陥落したのは、この富高基地にいたときであった。
 
米国では、既に長距離爆撃機のB−29が量産体制にはいっていた。
 
サイパンからB−29が飛び立てば、日本の本土の重要部分が、爆撃の可能な範囲にはいることになる。
 
東条英機内閣はここに総辞職した。
 
サイパンの陥落によって、日本の戦略的立場は一層危機に直面することになった。
 
本土の各地で実戦訓練を終えた航空部隊が、富高基地にしばし着陸して南方各地に飛び立って行くのが多くなってきた。
 
戦局の主導権を米軍にとられてしまっていたので、どこに移動するかは、先方の出かたを待ってきめるほかはなかったのである。

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       富高にて

このなかに「天山」という艦上攻撃機の部隊が来たことがあった。
 
百里ケ原基地(茨城県)で訓練をしていたとのことであった。
 
「天山」を見るのははじめてであった。これまでの97式艦上攻撃機に比べて、たいへんスマートであった。97式は真珠湾攻撃のときは主力となって活躍したが、この時はもう、新型の「天山」が出来ていたのである。
 
この頃、わが航空母艦はほとんど撃沈されており、航空機は陸上から攻撃するためにしか使えなくなっていた。搭乗員の多くは訓練も充分にすまないうちに実戦に投入されることになってきたもののようで、搭乗員には少年たちも混っていた。
 
ここで時を待つあいだも離着陸訓練をやっていたが、目測を間違え、異常に低空で海のほうから入って来て、松の木スレスレで通過するものが何機かあった。
 
下から熟練の操縦士が大きな声で
 
「そんなに低く入ってきたら危ないぞ」
と上を向いて叫んでいた。
 
勿論、聞こえる筈はないのだが、こんなところで事故を起こさせたくない切実な気持ちだったのである。
 
戦後、昭和五〇年七月、私はここを再び訪れる機会があった。あのときからすでに三一年の歳月が流れていた。
 
鹿児島県警本部長のとき、大分で九州管内の本部長会議があった帰りであった。すでに日向市と名を変えたかつての富高に立ち寄った。
 
ここの警察署長の牧野千里警視(あと宮崎県警刑事部長)が出迎えてくれた。かつての富高基地を訪れたが、沖縄で戦斗が始まると、ここも特別攻撃隊の基地になり、そのため米軍の目標にされ、兵舎はほとんど焼きつくされたとのことであった。
 
敗戦後は、入植者が住み、農地となっていた。頑丈なコンクリート製の飛行機の掩たい壕がいくつか残って、むかしのことをわずかに思い出させてくれるだけであった。
 
私は、鹿児島に帰ってから、牧野署長に

 
富高の 濱辺の松に たたずみて
  
 亡き戦友(とも)を思い
         ひとり涙す

との一首を色紙に書いて送った。
 
地元の新聞記者が署長室を訪ねたとき、これを見て記事にしたといって切り抜きを送ってもらった。(下欄参照)
 
この頃は、大学に受験することも出来ない時だったので、ここから希望のところを書面で提出した。京都帝国大学の経済学部としていたのを、ここで入学許可の通知を受けた。今の人にはとても理解出来ないことであろう。復員後、郷里に近い九州大学に転学した。


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【さんしょの実】
二十八日午後、日向市駅に武蕨誠鹿児島県誓本部長が別府からの帰途下車、冨島中や櫛の山頂上、お倉ヶ浜の松林など見て回った。
 
かつて武藤さんは旧制七高在学中、学徒出陣による予備学生として、当時の富高海軍航空隊に動務したことがあり、30年ぶりの訪問
 
◆現在の富島中が宿舎で、れんが造りの門は今もそのまま。塩見川には飛行場への橋が架かっており、特訓の明け暮れだったという。松林に今も残るいくつかのコソクリート製えんたいごうをながめては追憶にひたっていたが、明日をもしれぬ青春の地だっただけに、感慨ひとしおだったことだろう。改めて平和の尊さを知らされる思いがした.