九  千歳基地

千歳。北海道の中心の札幌と、太平洋岸の要衝苫小牧を結ぶJR千歳線のほぼ中間にある。支笏湖を水源とする千歳川の精冽な水が町の中央を流れている。今では、人口約七万人。自衛隊の北辺の一大拠点となっている。
 
私が、千歳駅に降り立った五七年前は木造平屋建の粗木な駅舎に駅員はわずかに数人。駅を出ると、幅10メートルほどもある立派なコンクリートで舗装された道路が直線で延びている。通行人はほとんどいない。両側は一面の原野だ。これを三キロほど行くと直角に左に折れる。この間家屋は一軒もない。小屋のような粗末な建物がポツンとある。どうも道路修理の機材を入れる設備のようである。左に曲がり千歳川にかかる小さな橋を渡る。ここから道はやや上り坂となり、かなたに基地の大きな正門が見える。道路の両側に旅館、商店、巡査部長派出所といった建物がポツポツと見える。まるで西部劇の舞台に出てくるところのようだ。衛兵に着任したことを告げて、正面の入り口を聞き、左手の道を二キロほど歩いてようやく入り口に到着した。見渡す限りの原始林を切り開いて作られた広大な航空基地が見渡せた。なにもかも、スケールが大きい。原野のなかに巨大な基地が存在している。
 
これまで、内地のどこでも見ることができなかったものだ。玄関前の広い芝生には三本の白く塗られた柱が立ち、国旗、旭日の海軍旗、それに第十二航空艦隊の司令長官がいることを示す長官旗が翩翻とはためいている。建物も本建築で、戦前では丸ノ内あたりでしか見かけることができないような鉄筋コンクリートの壮麗なものである。九州各地の海軍の木造の施設にいたときは、耐用年数七年の計画で作られているとのことであった。つまり、七年で戦争は終わる予定で建てていたものである。そうしたところは、二年もたたないうちに灰燼となるか罹災者の臨時住宅となってしまう運命となった。
 
この建物は昭和一二年に完成したものだとのことであったが、応急的なものとはすっかり違っていた。いまでも、航空自衛隊の北部方面航空群司令部の建物として使われ、北海道の玄関千歳空港と共有している。戦後北海道に行く機会があったとき二回訪ねたが、私が住んでいた部屋でもまだそのままで残っている。懐かしいところだ。
 
着任した日に珍しいものを見ることができた。兵舎のわきの広い運動場でなにかお祭りがあった。しばらく眺めて通りすぎたがこれは付近に住むアイヌのイオマンテ(イヨマンテとも言う)であった。
 
熊祭である。狩猟で生けどった仔熊をいけにえとして、神に捧げ魂を生まれた山に返し、肉、毛皮は改めて神から人間がいただくという神聖な行事である。戦勝祈願を併せてやっているとのことであった。
 
四角に張った縄のなかにアイヌ民族の長老らしい長い髭の老人が何人かで呪文を唱え、女の人がこれに和して踊っている最中であった。着任したはじめの夜、神にいけにえとして捧げられた熊の肉のお下がりを頂いた。あまりうまいものではなかった。この付近にはいまでもアイヌの人たちの集落がある。その一角に明治天皇御幸記念碑があった。碑には、年代は忘れたが明治天皇が陸軍大演習がこの地であった折にここに御幸され、金一封を下賜されたのでアイヌ一同はこれを記念して建立したとあった。高さが五メートル以上もあるものだった。
 
石森延男の「コタンの口笛」の舞台となったのはこの地のことである。物語では差別されたようなことが出て来るがこのころはそんなことはなかった。戦後、心ない不届き者達が千歳に集まってきて住むようになってから、共存の秩序が乱れてしまってそうなったのではないかと思う。当時は皆一緒になって和気あいあいとしてお互いに共存していた。私も子供たちと友達になって仲よくしたものだ。
 
小人はひまになるとつまらないことをやって秩序を乱すようになる。この地はかつてアイヌ語でシコツといわれていた。発音が死骨に通ずるのでよくないと地名を変えることになった。この地に鶴が飛んで来るので千歳としたとのことだ。この地を流れる千歳川の水源は支笏湖である。川沿いに湖を目ざしてひとりで訪ねたことがあった。途中、密林のなかを歩いたが数時間人とは誰とも会わず静まりかえっていた。こんなところで熊が出てきたらどうしようかなと思いながら歩いた。