八  南方に行くはずが北に変わる

厳しい訓練の日々ではあったが、富高航空基地での六ヶ月は、いまでも思い出として、印象にのこっている。
 
青い海と緑の山、澄みきった水がくねって流れる耳川があった。私が生れ育った故郷の風景に似たものがあった。これが、私の心を和ませてくれたのである。
 
昭和一九年九月末、六ヶ月にわたる実戦教習を終えて、いよいよ前線の戦闘部隊に配属されることになった。
 
その前に、配属希望先を書いて出さされることになった。私はためらうことなく、航空母艦もしくは最前線の航空部隊への配属を熱望すると書いて真っ先に提出した。
 
これは、東京の霞が関の海軍省人事局に送られ、そこで行き先が決まることになる。
 
やがて、通知が来た。
 
「武藤は七〇一空だ」と伝達された。
 
七〇一空とは第七〇一海軍航空隊という部内では名の知れ渡った精鋭部隊である(以下、七〇一空)。
 
いまどのあたりで米軍の航空部隊との戦闘をやっているのかわからなかったので、
 
「七〇一空はいまどこにいるんですか」
 
と質問すると、くだんの人事担当の士官は、
 
「たしか、ラバウルかブーゲンビル島のどこかの基地だと思うが、海軍省によく聞いてやる。鹿屋あたりから、輸送機で沖縄、台湾に飛びそこからフィリピンのマニラに行って、そこから便をさがすんだな。まだ暑いので夏の軍装を着けて行け」
とのことだった。
 
ラバウル方面では、既に日米の空軍のあいだで、南太平洋の制空権をめぐって、熾烈な航空戦が展開されている地域であった。しかし、当時、米国の生産力は圧倒的に日本にまさっていたので、この地域のわが空軍の戦力は低下をつづけていた。
 
しばらくして、くだんの士官にまた呼ばれた。
 
「おい、あのな、七〇一空はいま北海道の千歳にいるぞ。冬の軍装に着替えて出発するように」
とのことである。
 
荷物のなかにしまっていた、冬の下着をはじめ冬服一式に急いで着替えた。
 
当時は、南方地域が主戦場だったので、この方面に行くのは当然だと思っていたので、全く意外な通知であった。
 
内地でも、全く無風状態にあった北海道に配属されたのは、私だけであったので皆からどうしてあんなところに行くのだろうと話題にされたほどであった。
 
七〇一空はラバウル方面での日米間の制空権の争奪戦でよく戦ったが消耗も多かったので、内地に帰還させ北辺の大地で要員を補充し再起を目指した訓練に入っていたのである。
 
富高から各地の新しい任地に向かった者にはいろんな運命が待っていた。なかには、フィリピンで現地人への虐待行為があったとして、戦後に戦犯の容疑で逮捕され軍事法廷で死刑の判決を受け、例のモンテンルパ刑務所に収容され、絞首刑の執行を待つこと約一〇年間、フィリピンとの講和条約が発効したのを機会に、大統領の恩赦で釈放され、昭和二九年にやっと帰国できたという人もいた。
 
出発の前、「武藤、千歳に赴任するそうだな。札幌に行くことがあるだろうから、その時は、市内のここに俺の兄の一家が住んでいるので立ち寄ってくれ」と、住所を紙に書いたものを持ってきた友人がいた。私は、北海道のことについて予備知識が全くないので、ついでに尋ねると、「いいところだぞ、お前はよかったな」と羨ましそうであった。この友は、これから約半年あと、沖縄方面に展開していた米軍艦に体あたり攻撃をかけて戦死した。真っ先に志願したとのことであった。
 
この友の肉親を訪ねたとき、彼はまだ生存中だったので、私はつらい思いをしてことづけを伝えることもなくすんだのである。
 
九州から北海道まで、現在なら飛行機ですぐであるが、当時はそれは長い道程であった。富高から門司に出て、山陽本線を通り、ひとまず東京に着く。ここから、日本海側にそって青森から、青函連絡船で函館に着いた。
 
太平洋の沿岸を苫小牧に向う途中の風景は、私がこれまで生れ住んだ九州とは全く違っていた。目にはいる草木は、九州では見かけないものであった。
 
岸に打ち寄せる波の音は、乾いた寒風と共に汽車のなかまで聞こえてくる。組み合わせた木のうえに、海からあげた昆布がつるされてゆれ動いている。別世界に入ったかのように思えた。随分と遥けくも来たものだなと思っているうちに、千歳駅に到着した。汽車と船中で四泊していた。