六 学徒出陣
昭和一六年一二月に始まった、大東亜戦争。真珠湾を奇襲攻撃し、米国太平洋艦隊に潰滅的打撃を与え、マレー半島では、英国極東艦隊の旗艦、プリンス・オブ・ウエルズと僚艦レパルスを撃沈し、フィリピン、マレー半島をはじめ、東南アジアの略全域を占領した。
しかし、これが限度で約半年後の昭和一七年夏にはミッドウェー島沖で日本の連合艦隊は、敗北を蒙り、有力な航空母艦の大半を失った。このあと、戦争の主導権は米国側に握られることになった。
日米両国は、南太平洋の各地で熾烈な戦闘を展開したが、資源の豊富な米国に日本側は対抗することはできなかった。
昭和一八年はじめ、夏休みで帰郷して小学校の先生宅に挨拶に行ったとき、同級生の吉岡学君と一緒になった。彼は海軍航空隊を志願して二等飛行兵曹になって、爆撃機の通信士をしているとのことで休暇でしばらく帰ってきたとのことだった。この頃、軍隊で休暇を出すというのは近く激戦地に派遣するので、そのつもりで行って来いということである。
まさにその通りになり、まもなく、南太平洋のラバウル上空の空中戦で撃墜されてしまった。
ところで、私達は大正一一年の生れで、昭和一〇年(1935年)小学校を卒業したときの男子生徒は三六名であった。このうち、九名が戦死している。四人に一人が戦死したことになる。
わが村は、あまり豊かな村ではなかったので、戦争が拡大していっていた頃、陸海軍に志願した者が多かったからである。
戦死の場所も、沖縄、南洋諸島、ピアク島、サイパン島、ニューギニア、ビルマとアジア全域に亘っている。
上級の学校に入っていた者には、徴兵猶予制度といって、卒業するまで、軍隊に入ることを勘弁してくれていた。
ところが、旗色が悪くなってくるとそんなことなどいってはおれない。在学中でも軍隊に入らせるようになってきた。これが学徒出陣といわれるものである。
昭和一八年も末のこと、徴兵官の前で、陸軍と海軍のどちらを選ぶかと聞かれた。海軍に入りたいと希望を述べると鼻髭の陸軍大佐殿に嫌な顔をされた。軍艦か航空機に乗ったほうが良さそうで、歩き廻る陸軍の戦争にはあまり気が向かなかったのである。
昭和一八年一一月二〇日、鹿児島日報(現南日本新聞)に、私が旧制七高の代表で、照国神社に玉串を奉献した記事があった。(鹿児島市は、その後空襲で九〇%以上を焼失し、新聞社も焼け資料もなくなったそうだ。あとで、保存していた人から寄贈してもらって整えたとのことで、活字も鮮明ではない。友人の市坪弘、元同新聞編集局長が、ようやく探し出してくれてコピーを送ってくれたものである。)
田舎のわが家で、出征の宴をはってもらった。家でははじめて長男が軍隊に入ることになるのだからと、父も、アレコレと手を回して、当時は仲々手に入らなかったヤミの酒を、どこからか大量に集めてきて来客に振る舞っていた。その頃になると、酒は貴重品というより、希少品になり、余ほどに顔をきかさないとなかった。
そのためか、連日の祝宴はおお賑わいとなって、お客さんのほうは、私のことなどそっちのけで日頃のアルコール欠乏症の解消に懸命の様子だった。私も、これが最後のチャンスとガブ呑みの毎日で、いささかくたびれてしまう始末であった。
親戚に、七〇歳すぎた酒好きの人がいたが、なみなみと注いだ盃から酒がしたたり落ちて手のひらに流れると、
「オットットットト………勿体ない」
と、さもうまそうに舐めあげていたのがいまでも印象にのこっている。
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いざ入隊の朝・自宅前にて
昭和一八年暮、わが一ノ瀬の郷社、離石神社に参拝し、武運長久を祈願し、お神酒を頂き、村の長老たちの見送りをうけ、長崎県の佐世保鎮守府に向かった。
境内まで、小学生だったノブ子(妹)と守(弟)が見送りに来ていてくれた。もう登校時間は過ぎていたのに、両親に言われて、何百年もたった老木のかげで、待っていてくれたのである。
ここで幼い妹弟に別れるときには流石にジーンと来るものがあった。
神社から、白転車で約20キロくらいのところにある九州本線の鉄道の駅まで行くのである。途中で、また、わが家の見える道路にさしかかつた。わが家から道路まで五〇〇メートルくらいはあるが。
その座敷の縁側から両親はじめ、身内の者が私のほうに向かって大声で見えなくなるまで別れのことばを言っているのである。
このとき、遠縁の武藤和男さんという方が白転車で同行してくれ、
「皆さんが、お家から送っておられますよ」
とこちらから手でも振って別れたらといってくれた。
こちらは、お神酒の勢いもあって形だけ手を振って全速力で白転車を飛ばして去ったが、いまになってみると、あのときの親の気持ちがよく分かる思いがする。
和男さんは、30をだいぶ過ぎた人で、たいへん好い人柄で、わが家にもなにかあると相談役のようになって良く来てくれていたので親しくしていた。
羽犬塚という駅(現在の筑後市)で白転車を降り、ここで汽車に乗り換えることになる。
私はもうここでよいからというのを、どうしてもと、鳥栖まで同乗して来てくれた。ここに来ても、佐世保まで送りますといつてきかなかったが、なんとかここで降りてもらった。私の座席は線路側にあった。和男さんは駅員が止めるのを振り切って線路のほうに降りてきて、汽車が出発するまで、名残り惜しそうに私の手を握って私の姿が見えなくなるまで送ってくれた。おそらく、このあと汽車が見えなくなったあとも、見送ってくれたことだろうと思う。そんな人柄を備えた人だった。
これは後日談ではあるが、この和男さんには、昭和一九年半ばすぎになってようやく召集令状が来たそうだ。一人息子だから、もう召集はないだろうといっていたところに来たとのことである。
すぐにフィリピンに送られ戦死したことを私は帰還して知った。
私は、あと、フィリピンに公務で出張する機会があったが、マニラ郊外で戦死したということだったので、車で郊外をあてどもなく廻ってもらいながら、この地のどことも分からない場所で亡くなった和男さんの人柄を偲んで、あの時の別れの場面を思い出し、冥福を祈ってマニラの夜を過ごしたのである。