五 日米開戦
この頃の若い者は、どうも歴史の勉強が足りない。過去のことをよく知らずして、現在を判断することはできず、ましてや将来を正確に予測することはできない。
若い者のなかに、日本と米国がかつて戦争をしたことすら知らないのがいるのには驚かされるが、このことを教えてやると、ではどっちが勝ったのですかと質問されるのには、ガックリときて次のことばも出ないことがある。米国の子供でもそうらしい。
それほどにわが国の歴史教育はレベルが落ちている。これでは、国際人になれとか国際的視野を持てといってみてもだめだ。基礎がなっていなければ、浮草と同じだ。過去のことは客観的な偏見のない立ち場から観察する必要がある。
日本と米国が戦争に突入し、四年間にわたる大東亜戦争が始まった昭和一六年(1941)、私は一九歳、鹿児島の旧制高校の一年生だった。
長い夏休みが終って、第二学期が始まった九月、南国の鹿児島はまだ夏の日ざしが教室のなかに照りつけ眠気を誘われるものがあった。
ところが、間もなく鹿児島の上空に連日、海軍の飛行機が爆音を響かせて乱舞し眠気を覚ます日々がつづくことになった。
約三ケ月後に始まるハワイの米国海軍基地のパールハーバー(真珠湾)を空から奇襲する攻撃訓練が、鹿児島上空で始まっていたのである。ここの地形がパールハーバーとそっくりといってよいほどに似ているところからここで訓練が行われたのである。このことは、日米開戦のあとで知った。教室の窓ガラスがビリビリと音を立てるほどに低空で飛び交うものだから教壇の先生の声もよく聞えず、教壇から降りて生徒の机の列に入って大声で講義をするありさまであった。
戦後、このときの訓練に参加した後藤仁一海軍少佐は次のように回想している。
鹿児島に集まったのは、航空母艦の赤城・加賀・龍驤で、あと蒼龍、飛龍の各艦も来た。機種は艦上攻撃機などであった。(つまり、当時のわが国の海上航空戦力のほとんどがここに集まっていたことになる。)
各飛行機は桜島の東から山腹をはうようにしながら高度を下げて、錦江湾を横切り鹿児島市北方の台地に入ってから左に旋回して岩崎谷から市街の上空に出て海上のブイを目がけて爆撃訓練をする。
岩崎谷は西南戦争のとき、西郷軍が立てこもったところ。西郷隆盛たちが討死したところから丘を越えるとすぐ下に教室があった。岩崎谷あたりからさらに高度を下げるので、音響がさらに強くなる。時には搭乗員の姿が見えるほどに低空の時があった。
このあと、海上を南下して、左に旋回して同じようにもう一度ブイを攻撃する。
これでやれば、同じ飛行機に我々の教室の上空を低空で二度も通過されることになるわけでいかに騒音に悩まされたかが分かるであろう。
この頃わが校には外人教授が二人おられた。英語はエングラー先生、ドイツ語はプッチェル先生であった。
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鹿児島吹上浜にて
この頃、ドイツはヨーロツパを席巻していた。イギリスは島国なので流石のヒトラーの軍も攻略できずにいた。この年の六月には、ドイツは遂にソ連(ロシヤ)に宣戦した。はじめはドイツ側は連戦連勝で、この年の九月頃まではまだ旗色はよかったので、プッチェル先生はいつも御満悦であった。
いっぽう、英語のエングラー先生はスイス人で、キングスイングリッシュの発音であった。いまでも、イギリス人と話をすると実によく通じるが、米国人だと仲々通じないのはこのためである。
エングラー先生は酒が好きで夜になるとよく天文館のバーに日本人の教授とくり出していた。
ところが、この飛行機の訓練が始まるとエングラー先生は急に不機嫌になってこられたのである。教室でも「ケンペイ」に尾行されていることなど言ってあからさまに不快の言菓を口にされるのである。心中を察するにあまりあるものがあった。
しかし、日本のほうでは、この極秘中の極秘ともいえる訓練の状況を真下から眺めるところにいるイギリス人の動きに重大な関心を持つことは当然であつただろうし、エングラー先生としても個人の権利意識については、世界のさきがけとなった国でもあり、あとで考えてさぞ不愉快な日々を送られたことであろうと思っている。当時、イキリスは米国と共に敵性国家とされていた。
これから、約三ヶ月後に日本と米国・英国等との間に戦争が始まった。私はまだ学生ではあったがえらいことになったなと感じた。早速、世界地図を広げてみてこんな広い範囲で戦うのはたいへんだなと思った。
鉄鋼、石油などの資源の国別の状況を書いた図表も見たが、米英と比べものにならないほど重要な軍需資源が少ないわが国が果してやってゆけるのだろうかとも思った。
私は校庭の草のうえに寝ころがって桜島から吹き上る煙を眺めては、それでも我々が懸命に各分野で努力しておればなんとかなるだろう、そして、いずれはよい講和の機会がやってくるかもしれないと思った。
戦後、私は当時開戦の決意をしたわが国の最高指導者がどんな見通しをもって、こんな大戦争をはじめる決断を下したかについて調べてみたことがある。
ところが多くの指導者は、日本が追いつめられてしまってどうにもならなくなり、やむなく戦争を決意したもののやっているうちになんとか局面の打開ができる機会も来るだろうといった程度の判断で、明確な戦略構想なく開戦の決意をしたということを知って驚いた。
即ち、九州の南端で一九歳の私が考えていたことと、東京の政治の中枢にあった人たちとの間に将来の見通しについての判断がそれほど違いがなかったということである。国家の危急のとき卓越した政治家がいなかったということである。
エングラー先生は開戦と同時に家族の方と箱根の富士屋ホテルに軟禁されることになった。
このあと、日本人の英語の先生が教室で「諸君は米英と戦争になったからといって、決して英語をおろそかにしてはならない。将来世界の地図がどう変わろうとも英語が国際語として不用になるようなことはない。教養を深めるためにも英語は必要になってくる」とはっきりした口調でいわれたことが印象にのこる。
こうした発言は、公けになったら相当な処分をされることが予想されたのにもかかわらず言ってのけたのは、まだ学問の自由の気風がのこっていたからであろう。
ドイツ語の先生の思い出にもふれておくと、欧州戦線でドイツ軍が破竹の勢いのときのことである。ドイツに留学されたことのある若い先生が「ドイツ人はバカだよ。ユダヤ人の排斥をやっているが、あとでひどいことになるよ」と講義中に教壇から堂々と話された。こちらは、田舎から出て来たばかりでこうしたことは知らなかったので驚いた。当時、自分の信念を話してくれる先生がいたことが印象に残っている。敗戦と同時に、こんどは、ドイツ人のプッチェル先生が富士屋ホテル入りとなられ、本国に強制送還されることになったものの、故郷は、東ドイツのソ連の占領地だったため苦労されたようだ。
私は、鹿児島での英語の会話の習得のおかげで通訳要員として、戦後しばらく残留することになった。エングラー先生は、その後御長命で、長く神戸に住んでおられたが、時おりあの海軍機の猛訓練の下での授業のことが思い出される。