四  ノモンハン事件  昭和一四(1939)年

昭和一二年に北京郊外で始まった北京駐屯の日本軍守備隊と国民党軍とのあいだの武力衝突は、遂に全中国大陸に波及した。
 
揚子江では、漢口まで攻めのぼったものの、蒋介石の国民党政府は重慶に拠点を移し、南部では廣東まで占領したが、奥地に撤退されてしまう有様、まさにノレンに腕押しの状態となった。
 
これでは、いくら兵力を投入しても効果はあがらず、国力は疲弊するばかりという事態となった。
 
当時、わが国は、満州(東北部)に強力な軍事力を維持して、ソビエト連邦(ロシア)と対立していた。
 
ところが、中国での戦況が拡大するにつれて、満州に展開していた兵力をこちらに割かねばならないことになり、ソ連の正面の守備は手薄になっていた。
 
こうした状況のさなかに起きたのが、昭和一四年夏のノモンハン事件であった。
 
私は、その頃、久留米市(福岡県)の中学明善校(現在の明善高校)に在学していた。
 
ここは、当時の陸軍の精鋭といわれた、第十二師団の司令部のあるところである。
 
陸軍の関係者の子弟も多く在学していたので、彼等の話から戦争の実態は手にとるように分かつていた。
 
その内容は、新聞に出ているのとはおよそかけはなれたもので、どこの戦線でも、わが方が苦戦していたのである。ソ連は、わが軍が中国の戦場で苦戦しているのを見抜いたうえで、手を出してきたのだ。ノモンハンは満州の北部の外蒙古と国境を接するところにある。この地域は、見渡す限りの草原と砂漠地帯で、そのあいだをハルハ河が曲折しながら流れ、遊牧民が移動しながら生活している。
 
こうしたことから、双方の国境線が明確でなく、しばしば衝突が発生していた。
 
ソ連側は、日本軍が手薄になっているところを見すかしてこちらの力のほどを試してみようとの意図で、大兵力を投入してきた。
 
双方は、昭和一四年の夏期四ケ月に亘って衝突し、わが方の惨敗に終わった。この間の戦死傷者は約一万八千人、連隊長で戦死又は自決した人が一〇名、ある師団の死傷率は七四%、これは軍としての組織が解体して全滅したことを意味する数字である。
 
はじめは勝った、勝ったと書いていた新聞も、戦況が不利になってゆくにつれて、ノモンハンの記事は小さく報道するようになっていた。
 
まだ、中学生であった私も、どうも、これはおかしいぞと思っていた。陸軍の将校の子弟の学友の話で、真相がだんだん分かってきて、敗北をしていることを知ることができた。
 
体育の時間に、先生が「ノモンハンの戦争で大負けしたのは、こちらの体力が劣っていたからだ。あそこは砂漠と草原なので、塹壕戦になる。これは手榴弾の投げ合いだ。こちらは二〇メートル位までしか届かないのに、ロ助(ソ連兵)は三〇メートル以上も投げる。これから、体育の時間には、遠くの方に投げられるような訓練をする」ということになった。
 
そういっても、鉄の固まりのような手榴弾が、ちょっとやそこらの訓練で、いきなり遠くまで飛ばせるようになるわけがない。このとき、私は次のように考えた。
 
日本人とソ連(ロシア)人との飛距離の差は、両民族が長い間かかつて作り上げた体力の差から来ている。この差は、食物が原因である。即ち、われわれがザルソバを食べているとき、むこうは、ごってりした肉食、あと、こちらがタクワンのときチーズを食っている。こうしたところから手をつけなければ、いくら体育の時間に鍛えても限界がある。我々がロシア人と同じくらいの体力になれるのには、何世代もかかって、食生活から改めなければだめだ。
 
私は、運動では陸上競技部に入っていた。わが部は、全国の中学でもいつも上位にランクされるほどの有力な選手がそろっていた。いうまでもなく、ランニングシャツ、短いパンツに、釘のついた革靴をはいてやるのである。
 
ところが、この頃から、戦争にすぐ役に立つ運動に切り替えろということになった。
 
そこで、軍事教練用の服装で、足にキャハンを巻き、銃を担いで走り、高い障害物を乗り越え、網をくぐって四つばいで前進する団体競技が開発された。
 
この競技は全く面白くないもので、皆、鼻白んだ気持ちでやっていた。陸上競技とはタイムとか距離などを競い、何秒分の一、何センチの差を競うものである。
 
この全国大会が神宮競技場であり、わが部の代表も出場した。もう昭和一五年になっていた。
 
東条英機陸軍大臣(当時)が出席して激励演説をやった。この頃、文部省は既に、陸軍省の意のままに動くような官庁になり下り、陸軍省文部局といわれていた。この面白くもない競技は、結局ながつづきせずすぐにすたれることになった。
 
この頃、学校から私の下宿に歩いて帰る途中に大きな料亭があり、日暮れどきともなると、弦歌のさざめきがはじまる。ここのお客は、当時の軍需景気、今でいえばバブルで大もうけをした者や、陸軍の将校達であったことはいうまでもない。
 
夕方、運動競技に疲れて、空き腹に足をひきずって帰るとき、厚化粧に日本髪を結い上げた、色気いっぱいの芸者衆が香水の匂いをあたりにふりまいて、人力車でかの料亭に乗りつけるのとすれ違うことになるのである。私は、彼女達のあで姿をチラリと見上げながら、”オレもそのうち、あんな芸者をあげて…”という思いにかられた。こうした思いが、私の勉学への刺激のひとつになったことは否定できない。