三  支那事変(日中戦争)

現在は日中戦争といわれるが、日本側は宣戦布告をしていないのであるから、これを戦争というのは国際法上は疑問がある。
 
昭和一二年(1937年)七月七日の七夕の夜、北京市の南の永定河にかかる盧溝橋付近で、日本駐屯軍と国民党系の軍が衝突したことから始まった。
 
欧米の列強、並びに日本は、明治三三年(1900年)の清国(当時の中国の王朝)で発生した義和団の騒乱以来、この地域に駐兵権をもっていた。その夜、現地の豊台に駐屯していた日本軍の一ケ中隊が近く行われる予定の検閲に備えて橋の近くの平地で夜間演習をやっていた。午後一〇時すぎに堤防のほうから発砲があった。
 
盧溝橋は、イタリアの旅行者で元の時代にフビライ汗に仕えた、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にもでてくる、旧い橋である。
 
この衝突は夜間、日本軍の方に向けて銃弾が発射されたことから始まった。国民党軍側は白分のほうがやったものではないといい、日本軍も否定し続けるという、原因がはっきりしないままではじまった事件であった。日本軍は演習であるから実弾は持っていなかった。
 
戦後になって、これは日本軍と国民党軍(蒋介石軍)を戦わせて両方を共倒れにさせ、漁夫の利を占めるため、中国共産党が仕組んだ謀略で、両軍の中間から発砲し、双方を衝突させるためにやったものであるとの説まで出てきて世界中をあっと驚かせた。東京裁判でも、日本軍がやったのではないかとして、連合国側に当時の現地の責任者たちが取調べられたがすべて釈放された。昭和六一年(1986)当時、国民党軍の現場の大隊長であった金振中の手記が発表された。そのなかで、金大隊長は当夜永定河の堤防に中国兵を配置し、日本兵が近づいたら発砲してもよいと命じていたことを明らかにした。これによって事件の責任が国民党側にあることが明らかになった。
 
当時、現地で発生した両国軍の衝突は拡大するばかりで遂には上海にまで飛び火してしまった。
 
その頃わが村の出身者で、私にとって小学校の時に知っている人たちの戦場での消息が、むら人達の話題をしめていた。
 
このなかで、私にとっていまでも忘れない友二人の戦死のことについて書いておこう。
 
ひとりは、私の家からよく見えるところに住んでいた友である。農家で姉が何人かいるなかのいちばん下のひとり息了で、私より五歳か六歳上であった。
 
私が小学校の下級生のとき、学校で上級生の悪ガキにいじめられているとすぐにどこからともなく現われて、こっぴどくやっつけてくれたうえ、ついでにこれから私に手を出したらタダではおかんぞと言ってくれるものであるから、皆、怖れをなして退散したものであった。
 
どういうわけか、たいへんウマが合う上級生で、私も大好きな人であった。
 
微兵検査では甲種合格になったものの、軍のほうでは、彼がひとり息子ということを考慮してか、久留米の野戦重砲隊に配属となった。
 
重砲兵なら、歩兵や騎兵のように直接タマの飛んでくるところではなく、うしろのほうの比較的安全なところにおれるからである。
 
この部隊にも動員令が下り、まず天津に上陸し、連戦連勝の勢いで一路南下していった。
 
ところが、河北省の保定市郊外の戦いではやくも戦死してしまったのである。夜間に、側面にまわった敵の射った流れダマが頭にあたったものだったそうである。
 
夜間の混戦状態のなかでは、砲兵でも安全ではなかったのだ。
 
人の運命というものは全くわからないものである。これは、私もあとで海軍に入って、危地に面したこともあり、そのときに感じたことだが、戦争では一寸さきのことなど分からないのである。
 
陸軍のほうでも好意的に安全な砲兵隊に配属したのであろうが、皮肉にもウラ目に出てしまったのだ。
 
まだ、事変もはじめのうちだったので、軍から相当な弔慰金がでたようだが、両親はこの金で田畑を求め、ひとり息子を偲ぶ記念にしたとのことであった。ふた親ともこのあと愚痴ひとつこぼさず、ひっそりと暮らしていたが、その心のなかは想像するにあまりあるものがあった。
 
もうひとりは、私の家から少しはなれたところの生まれで、学校でも頭もよく指導力もあって、いつもグループのリーダーだったので良く知っていた。
 
この人は志願して海軍に入り、上海の陸戦隊にいた。北支に始まった事変はここにも飛び火した。
 
管内をオートバイで巡視していた陸戦隊の海軍士官と水兵が、国民党軍に取り囲まれ無抵抗の状態のまま虐殺されたことから、戦端がひらかれた。
 
後世、わが方が戦争をはじめたかのように解説する者がいるがこれは間違いだ。北京、上海、いづれの衝突も、日本側がはじめたものではない。こんなにはっきりしていることを全く逆の解説をする者がいるが、これは勉強不足か、なにかためにするための意図的な見解にすぎない。
 
わが陸戦隊は、敵の重囲のなかで孤軍奮闘したが、苦戦を余儀なくされた。このいくさで、わが友も戦死してしまったのである。戦死の報が来たとき、両親も弔意を表しに連日つめかけて世話をしていた。いま思い出しても私の心はいたむ思いがする。いづれも惜しい人物であった。