二 五.一五と二.二六
五.一五
いまどきの若いものの中には、表題を見てもなんだか分からないのがいるだろう。
昭和のはじめにテロが起きた日付けのことでこの下に“事件”という名称をつけて呼ぶのである。
五・一五事作が発生したのは昭和七年で満州事変の翠のこと、私は小学校四年生であった。この頃、テレビは勿論なく、ラジオも、わが家につけたのは、これからしばらくたったあとのことで、村の人が珍しがってわざわざ聞きにきて、人の声のする音の出る機械を不思議そうに見ていたのを覚えている。
折角つけては見たものの、雑音が入って音声が聞き取りにくく、遠いところからの話声のような感じがしたものであった。
当時の唯一の情報源は、村のなかで数軒しかとっていない、福岡日日新聞という、福岡市に本社を持つ朝刊だけの新聞であった。
ある朝のこと、いま考えると事件の翌日の五月一六日になるが、配達されて来た新聞のところに、家人が集まってなにかけわしい顔をしているので、私もそばによって肩ごしに見ると、大きな活字で「首相官邸で、総理が軍人に殺された」といった見出しがあったことを覚えている。
小学生にも首相といえば、大臣のなかでも、たいへんに偉い人だということぐらいは分かっているので、その意味は分からなかったが、なにかたいへんなことが起きた、という印象を持った。
学校に登校する途中でもこの事件について、上級生の話題になるようなことはなかった。問題が大きくて、複雑なので、小学生程度では理解できなかったのだ。
だがこの事件は、これからあとの日本の運命を決める要因のひとつとなった。
事件は、五月一五日の白昼、永田町の首相官邸などで発生している。犯人は、当時の海軍の中・少尉と陸軍の士官侯補生達であった。
首相の遭難では、この二年前にも浜口雄幸という人が、民間人のテロリストに東京駅で狙撃され、重傷(のち死亡)を負ったことがある。集団で政治のトツプの人を襲ったものでは、幕末の万延元年(一八六〇)、江戸城、桜田門外で、大老(首相)の井伊直弼が水戸と薩摩の武士の襲撃を受けて落命して以来のことである。
五・一五事件の発生の原因にはいろんなものがあるが、急激に国際情勢が変わっているのに、政治のほうが、これに追い付いてゆけなかったことへのいらだちがあったことは否定できない。当時の政党政治では、対応できなかったのである。
昭和時代の大事件のひとつである。
昭和一一年(1936年)の二月二六日未明、陸軍の若い将校達が中心になり、下士官、兵卒(約一四〇〇名)を動員して、東京を舞台にして反乱を起こしたものである。
襲撃の対象は総理官邸の岡田啓介首相をはじめ、元老、天皇の側近の内大臣、侍従武官長、大蔵大臣といった、当時の最高の指導者達であった。
このうち何人かは現場で殺害され、当時の内外を震撼させたものである。
私は中学の一年生から二年生になろうとするときであった。事件発生の朝、登校すると、クラスでもう東京で大変事が勃発したことを話していた。事件後、わずか三時間くらいしかたっていないときである。
当時は報道を差し止めることができたため、ラジオは勿論、号外でも、いっさい報じられていなかった。
政府(陸軍省)から公式発表があったのは、このあとのことだったのであるから、特別のルートでいち早くはるか九州の福岡まで口コミで伝わったのであろう。
学校の先生のなかには授業時間にこの事件にもふれて、感想をいれながら解説してくれる方もおられたが、ほとんどが批判的で、なかには国法に反して、国家の重要人物を軍隊を使って襲撃したことについて口をきわめて批判しておられた。
「やった者の気持ちも分かる」などといって生徒を煽るような発言をしたのは、教練の先生(陸軍軍人)くらいのものであった。
この事件は四日目に鎮圧されたが、はじめ陸軍首脳部は反乱軍に同調し、あたかも世直しのために決起した義軍のような評価をしていた。法治国家にあるまじきこうした画策を粉砕して、断固として鎮定すべきとの断を下されたのは当時三四歳の昭和天皇であった。
天皇の、毅然とした態度によって、陸軍軍人がこの事件を機会に政治の主導権を掌握しようとすることができなくなった。
事件を引き起こした、陸軍の将校達にはしばらくして、死刑を含む厳正な判決が下った。
世人の反響について、私は、身近な人達が話をしているのを、そばで聞いたことがある。あんな大それたことをやったのであるから、極刑を受けるのは当然だ、とするのが大勢であった。
近衛師団という皇居の守りを固める任務を持つ軍の将校まで、事件に加わっていたが、私の田舎のある中年の婦人は、
「近衛師団までこんなことをするようになったら世の中はもう末だ」
といって嘆いていた。
この地方でのある会合のとき、一座のなかに元陸軍の将校が参加していたので、ほかの人達が、「陸軍はあんなことをするとはなんとしたことか。あんたとは同席したくないので帰ってくれ」と、追い立てられて、ホウホウの体で退散したということも聞いたことがある。
地方で、普通の生活をしている人達の気持ちは、こんなものであって、なにも急激な政治の変革を求めてはいなかった。
ところが、外部の情勢は、こうしたこととは別に、大変革がはじまり、国民もこの大きな渦のなかに巻きこまれてゆくことになる。
ここで主導権を握ったのは、事件を起こしたグループとは別の統制派といわれる中堅将校たちで、彼等がやがて日本を破滅に導くことになった。