一  満州事変(昭和六年 1931年)

あの長く続いたアジアでの戦争のことについてはじめて耳にしたのは、小学校三年生の頃のことである。
福岡県の田舎の村の小学校は、家から歩いて約一時間はたっぷりかかる。途中、橋が三つあり、川は清流が静かにゆれ小魚が泳ぐのが見える。そのうち二つはいずれも木製で荷馬車が通るとグラグラと揺れ、手すりに手をかけると、いまにも崩れて二〇メートル位下の川に落ちそうなものだった。坂もいくつか越えなければならない。
 
各集落ごとにまします神社の前に集まって上級生の引率で出発するのだ。
 
登校の途中、最上級の高等科二年生(いまの中学二年生)たちが話す内容が下級生にとっての唯一の情報源になる。
 
川のほとりの稲の実った田のそばを通るとき、
「マンシュウのいくさは………」
とか、
「フケーキだ」
といっていたことが印象にのこっている。
 
まだ、一〇歳だった田舎育ちのことだ、何のことかさっぱり分からなかった。あとで(満州(中国東北部)というところで、日本軍と、この地方を支配していた張学良の東北軍との間に衝突が起きていること、このころ日本の北のほうが天候不順で不作になり、景気が下落していることをさしていることであった。この事変はあとで、この地に駐屯していた日本陸軍の関東軍の謀略によるもので、奉天(藩陽)郊外の鉄道の線路を自ら爆破して、これを張学良軍によるものとして攻撃したことが判明した。この背景には中国における民族運動の高まりと現地の日本の権益を守ろうとする関東軍の対立があった。
 この事変をきっかけに、日本軍は全満州を支配することになり、大東亜戦争の遠因となった。

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やがて、事変の影響は、この田舎の村にまででて来た。当時は徴兵制度があって、男は二十歳になると軍隊に約二年入って訓練を受け、あと、予備役に編入されて、また農業をやるのであるが、そのなかのひとりに召集令状が来たのである。私の家からずっと離れた小学校より奥のほうの人だったが、このニュースはたちまち村じゅうをかけめぐった。
 
屋敷には、裏の山から切った特別に大きい孟宗竹か何本も杭に固定され、“祝陛軍上等兵○○○○君之出征”という幟が墨痕も鮮やかに書いたのが、いくつもの横紐で固定されている。
 
家では、親族はもちろんのこと、近所の人や、村の顔役が集まっての祝宴が連日連夜つづくのである。酒好きのなかには、この機に乗じて、日ごろのアルコール不足を解消しようとする御仁もあったようだ。
 
さて、数日後、いよいよ入隊の朝、村では各集落ごとに、それぞれの神社の前で見送る。村の生活の中心は、氏神様の鎮まる神社である。やがて、○○上等兵は、村長、村会議長といった村の有力者と同乗した車で私達の前に現れた。その頃村では白動車は珍しかった。車から降りて挨拶があり、神前に供えた冷酒で、壮途を祝うのであるが、ここまですでに各神社で飲んだ冷酒が、そろそろきいてきたのか、御本人は勿論のこと同乗の有力者も真っ赤な顔で足元もふらふら、謝辞を言っているようだが呂律が回らないので、何を言っているのか分からない状態であった。それでも、また、ここでコップに並々と注がれた御神酒をあほって出発した。
 
やがて事変が拡人してゆくにつれて、上級生の掛け声で小学生もなにかやろうということになり、そこで始まったのが水垢離(みずごり)をとっての必勝祈願である。
 
夜も更けた頃、いったん神社に集まり、さるまたひとつになって、二〇分くらいもかかる川まで、提灯先頭にして駆け足で飛ばし、急流のなかに身をおどらせて浸かり、体を清めてみそぎをやって、濡れたままのさるまたをつけたままで、神社に引き返して祈願をする。
 
同じみそぎでも、いまごろの政治家のみそぎとはちがう、ほんもののみそぎだ。なにしろ、頃はすでに一一月も末にはいってから始まったと思うが、山あいの村のこととて、この寒さには相当身にしみてこたえたのを思い起こす。
 
よくできているもので、社前での祈願がすむころ、そこには婦人会の人達が交替で炊きだした出来たてのあたたかい赤飯にゴマ塩をふりかけた握り飯が待っている。
 
こちらは冷えや疲れも忘れて、このお握りにからだをあたためて寒い星空の下を家にかえるのである。これをしばらく続けていると寒さ、冷たさにはすっかりなれてしまって、あとで食べられる握り飯にありつけるのを楽しみに出掛けるようになってしまった。